理系おじさんの社会学
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タイの爆発テロは何を意味するのか?
タイの連続爆発テロの容疑者が逮捕された。国籍は不明であるが外国人(タイ国籍以外)とのことで、複数のトルコ偽造パスポートや爆弾の材料などが押収された。報道によると、今年7月に新彊ウイグル族(イスラム系)約100名を偽造パスポートでトルコへ移送しようとして失敗し、彼らが中国に強制送還されたとのこと。トルコ本国でもタイに反発する動きがあったとのことだが、そうしたタイ政府への反発としてのテロだったとの報道がなされている。

以前アメリカのボストンマラソンの爆発テロのときもトルコ系住民だった。今回のタイでのテロもトルコ系であると推定されている。もちろん政治的なメッセージもあるだろうが、テロ現場ではいずれも中国人、あるいは中国系が殺害されている。つまり、ISILと同様に標的は中国、あるいは中国人(中国系含む)、そして中国に媚を売る勢力(タイも多い)と考えるのが妥当だろう。

残念ながら、このようなテロは今後も続くだろう。昨日、私のブログでは「毒を持って毒を制す」と題して、各種テロ防止法案やマイナンバー制度はテロ対策に効果的としながらも、「毒を持って毒を制する」ような手法も国際的にはまだまだ重要な手段となっていると述べた。そもそもパスポートに偽造は一般人には困難になっている。しかし国家ぐるみの場合は可能だ。

今回の事件を単なるテロと判断するか、ISILを含む反中国勢力が一気に国際的な攻撃を始めるか?もし、そうであれば「人民元切り下げ」どころの話ではない。そういえば欧州では、イスラム系移民の大量流入で大混乱が続いている。従来は先住民である欧州人とイスラム系移民との対立が多かったが、一部では中国系移民とイスラム系移民の対立に発展しているところもある。それはまるで、かつてのマレーシアのようにイギリス人の支配下のもとで華僑系(中国系)とマレー系(ムスリム系)の対立したことに似ている。そしてアメリカでも同様の問題が発生している。つまり移民同士の対立だ。

これらは欧州人(キリスト教徒)から見れば、「毒を持って毒を制する」ような感覚が確実に存在することに注目すべきである。欧州人がこうした中国系とイスラム系の対立を煽ることによって「漁夫の利」を得るような戦略をすることは十分考えられる。そうなると日本、および日本人としては可能な限り関わらない方がよいだろう。すでにISILの標的はイスラエルではない。ムスリムの敵が中国であることは間違いない。そうなると今後の世界情勢は大きく変わることが予想される。


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毒をもって毒を制す
「毒をもって毒を制する」という諺(ことわざ)がある。もともとは医学的に毒にあたったヒトが別の毒で解毒することを意味している。しかし、もっぱら別の喩えに当て嵌めることが多い。例えば、軍事的に鉄砲を使えば鉄砲で対抗し、槍を使えば槍で対抗するといった考え方もある。以前、テレビで「必殺仕事人」という人気番組があった。カネで雇われた仕事人(殺し屋)が悪人を殺害するというもの。もちろん「雇われ殺人」というのは現代も江戸時代であっても罪であるが、「毒をもって毒を制する」で社会が平和になるなら庶民は多いに歓迎するというのは世の常である。

合法、違法を問わず、何かに対抗するために同じような方法で対抗することは生物学的には極めて普通のことである。集団的自衛権の議論も軍事行動として、何か(基本は仮想敵国)に対抗することは当然のことだ。しかし、現代社会での戦争は離島や国境沿いのドンパチ(小競り合い)か、超飛び道具であるミサイル攻撃が戦争の主流になっている。従って、周辺事態法の議論や日本の核武装論が盛んになるのも当然のことと言える。

しかし問題は、そうした直接的な戦争よりも、「各種テロ行為」「諜報活動」「プロパガンダ」、そうした活動の資金の流れが大きな問題になる。マイナンバー制度の目的は「年金」よりも、「テロ資金提供処罰法改正案」につなげることが主目的と言える。国際送金はもちろんのこと、口座の管理、クレジットカードの発行(日本は諸外国に比べて緩い)に対する規制も強化される。これはアメリカの強い要請があったとも言われているが、国内的にもそうしたテロに対する安全保障として重要な議論であることは間違いない。

もちろん法整備をすることが立法府や政治の仕事である。こうした法整備を進めることは重要であり、安心した社会を構築するなら推進すべきだろう。しかし法やシステムの整備はいつの世も完璧ではなく、抜け道が存在する。一方で無法地帯になるとISILのような組織が発生する。日本でも、かつて戦後の混乱期には、いわゆる三国人が各地で暴動を起こした。それを当時の山口組が対抗していたことは実に有名な話だ。当時、「必殺仕事人」同様に民衆は「心な中で」山口組を歓迎していた。しかし現代では暴力団の存在に反発する動きが非常に強い。

つまり無法地帯では「毒も持って毒を制する」とは重要な役割を果たす。また法の不整備や犯罪者の懲罰が甘い場合、あるいは賄賂や談合などのような民衆の恨みや妬みを買えば、抗議デモにも発展することもある。たとえば在特会のような所謂ヘイトスピーチは表向き多くの国民は否定しても、実質は多くの共感を集めることも事実である。もちろん、それに対抗したカウンターデモも盛んになる。しかし、そもそも原因である法整備について改正や刑の厳罰化などの改善によって、そういういずれの団体も自然に消滅していく運命にある。つまり、一時的にせよ何らかの特権や特例、または優遇政策というのは社会的に「もろ刃の剣」になることを意味している。

しかし現代の対策は法整備そのものというより、技術的なシステム制度がより重要な意味を持っている。特に金融ネットワーク、そして個人情報のネットワーク・・・こうした情報がセキュリティーが向上していることは間違いない。よく法整備は「イタチごっこ」とも云われるが、情報システムが高度な技術を活用した場合、一般人による「イタチごっこ」は不可能に近くなる。まあ、そもそも「国家は悪」と考えている勢力は、どんな法整備にも反対するから無視した方がいいだろう。

たしかに従来のシステムでは情報流出だとか、コンピュータウイルスとか多くの問題があった。しかし、そうした経験を活かせないようなレベルの低い技術者ばかりではない。「経験に学ぶ」というのは、社会学的にはそうかもしれないが「必ずしも同じパターンにならない」ということが「技術者の能力の証」であり、それこそが「歴史に学ぶ」ということだろう。従って、こうしたシステム開発とそれに見合った法整備というのが重要になる。知能犯罪者なら、1億円かけて数百万円の利益を得ようと思わない。そして刑罰が重ければなおさらということだ。

さて最近、山口組が分裂するのでは?というニュースが流れている。これもカネの流れ、つまり各種法整備によって暴力団の運営が厳しくなっているとも解釈できる。もちろん法整備やシステム導入は必要なことだろう。しかし、そもそも山口組は先に述べたように合法不法は問わず社会正義として立ち上がった経緯がある。一般社会に影響がないのであれば「毒を持って毒を制する」ことを大いに実施してほしいものだ。たとえば現代社会において、山口組があの「必殺仕事人」のように、反社会組織や凶悪犯罪者(イジメ問題含む)に復習すれば、民衆の支持を集めて継続することは十分可能だ。もちろんリスクは非常に大きいが・・・。

たとえば多くの著名人や有識者は公には発言しないにせよ、このような考え方を持っている。「朝鮮半島は分断のままでよい」、または「中国共産党は混乱したままでよい」・・・など。もちろん公にこんなことを発言すれば非難を浴びることになる。それは暴力団を肯定するのと同じになる。しかし国際関係においては、まだまだ「毒を持って毒を制する」考え方は正しいとも言える。そして日本国内で法整備やシステム化が進んでも、どこかに「毒を持って毒を制する」組織が必要かもしれない。それが財務省なのか防衛省なのか?はたまた地方では自警団でもよい。しかし、いずれの組織や団体も民衆(国民)の支持(歓迎)を受けなければ継続できない。「正義漢」を持っている国民であれば、それは時代が変わっても普遍のことであると思える。

「大衆迎合は悪」という考えも根強い。もちろん小泉旋風とかマドンナブームなど不思議な空気に惑わされてはいけない。また「嫉妬心」を基軸としたマスコミ報道やプロレス観戦のような大衆迎合を政治や行政で持ちこむ必要はない。しかし、犯罪率が低下して社会が安定すれば「大衆迎合」は必ずしも悪ではない。本当に社会が安定し、国民(民衆)が喜ぶのであれば「毒を持って毒を制する」は重要な考え方の一つであると明言したい。



兄弟は他人の始まり
「兄弟は他人の始まり」という諺(ことわざ)がある。なるほど我が一族もそうだ。私には二人の姉がいるが、その二人が結婚して実家を離れ、私も結婚して、そして私の父親が亡くなって・・・それから姉とは、ほとんど疎遠になった。もともと仲が良いほうではなかったが、そんなことより現在の私と私の家族がすべて優先になる。何となく今更ながら兄弟と会ってもトラブルが発生しそうである。何故なら姉の性格として、弟である私は「永遠に格下」という認識が強いからだ。もちろんケンカをするつもりはないが、ある程度の距離を保つことを常に心がけている。はっきりいって私の妻もその方が楽なようだし、それは妻の両親兄弟に対しても全く同じだ。それが我々夫婦および家族円満の秘訣だと私は勝手に思っている。

そもそも「核家族」いうのは「Nuclear Family」の直訳である外来語である。しかし、すでに日本では一般化している。というよりも大正時代にはすでに半数以上の世帯が核家族だったというデータもある。もっと昔の日本になると、大名や大地主など一部の富裕層は大家族も多かったが、一般庶民(農民)は核家族も多かったようだ。江戸時代では村人百姓が人口の7-8割を超えていた。武家や大富豪は当時の日本としては少数派だったことは間違いない。しかし、その少数派が当時の日本文化として代表格と勘違いされることが大きな誤解の元である。

現代でも少子高齢化にも関わらず、若い世代は旧家屋を継ぐことはなく、新築マイホームやマンション購入して核家族となることが一般的だ。それは人口推移と新築物件数のデータを確認するとすぐ判る。それは家屋に付帯する設備が新しく、旧家屋が不便になっているからともいえる。また古い日本家屋だけでなく、70年代頃の格安住宅は耐震性も悪く、耐熱性も悪い。そのため古い家には、不安感や心地悪さを感じることも多いという。もちろんデザインとして、若い世代の好みの変化も影響しているだろう。そうなると「若い世代は無責任だ」という長老の意見も出るだろう。しかし若い世代は若い世代の事情もあるだろうし、何よりも次世代のために必死で頑張っている人も多い。一部の高齢者もそれを認めている場合もある。つまり、その繰り返しを重視しているということだ。

さて、今年「ドイツ帝国が世界を破滅させる」という著書でも話題になっているフランスの学者エマニエル・トッドという人物がいる。彼は1980年代に「世界の多様性」という有名な著書を世に出している。そこで彼は日本人の家族形態について「.直系家族」が基本であり、子供のうち一人(一般に長男)は親元に残る。親は子に対し権威的であり、兄弟は不平等であるとしている。また、子供の教育に熱心であり、女性の地位は比較的高い・・・(Wikipediaより抜粋)とある。しかし現代日本においては、長男が必ずしも家元に残るとは限らない。また、親が子に対して権威的とは思えない。少なくとも我が家ではそうだ(私は父親として大した権威はない)。また私の場合、子供の教育(いわゆる学校教育)にはあまり熱心ではない。でも女性の地位は高いかもしれない?

エマニュエル・ドットの主張のように、仮に長男が親元に残って遺産は優先される・・・という一見して兄弟不平等はあるかもしれない。しかし同時に親の介護や家の維持管理という「権利」以上の「責任」を負わされるわけだから、やはり兄弟姉妹は平等といえると私は解釈している。むしろ親の負債や借金があれば、すべて長男は負担しなければならない。ならば、それぞれが核家族となって、それぞれの責任において、それぞれの権利を行使すれば良いということになる。つまり核家族化こそが兄弟姉妹が平等であるといえる。いわゆる「移動の自由」が常識である現代社会では、それは適切な考え方と言えるだろう。

問題は残された老人であるが、この問題が「核家族化」を否定する大きな要因となっている。それは儒教思想だけでなく社会保障費の増大を懸念する行政の意向もあるといえる。それでも現代社会では、老人ホームも多数ある。在宅介護やサービスも多くある。子供に面倒掛けたくないという老人も結構多い。もちろん、高齢者の孤独死や老老介護の問題もある。しかし、それは若年、中高年層でも一人暮らしでの孤独死は多いので単純な老人問題ではない。一部の儒教思想や社会保障費抑制論者が大家族を推進しているように思える。ちなみに私は多大な国費を投じてでも社会保障費は充実させるべきと考えている。

そもそも昔の日本では、高齢者は「姥捨」と呼ばれた「山」はなくても、見殺しにされることは多かったようだ。それは乳幼児の「間引き」と同様の考え方だ。つまり日本社会では伝統的に核家族を重視していたと私は考えている。それが一般的に表向きにはならなかっただけの話だ。もちろん儒教思想の強い中韓でも、親殺し子殺しは存在した。それでも面子を重視するあまりに、そういうことを闇に葬り去り表向きは「儒教思想」を強調したと考えられる。

ちなみに現代でも「兄弟は他人の始まり」なんて諺は中韓には存在しない。むしろ親兄弟をないがしろにして、高齢者を「姥捨」するなんて信じられない・・・というのが彼らの基本的な考え方だ。彼らは生物学でいう血縁選択性であり、親族以外の他人を常に警戒する傾向がある。それは長い大陸の歴史がそうさせている背景がある。また、先に述べたように現代の中国では「移動の自由」が常識ではないことが家族社会に大きな影響を及ぼしているとも考えられる。

エマニュエル・トッドは日本はアジア的ではなく欧州的だと論じた。確かにそれはそうかもしれない。私個人的にも「兄弟は他人の始まり」であるべきだと思っている。そうでないと自己成長や妻や子供を守ることは難しい。一方で私自身の兄弟や親戚を私の妻や子供より大事にしたからといって得られるメリットは決して大きくない。過去を引きずるよりも、現代と未来を重視するならば当然の考え方だろう。一方で「未来志向」と言いながら、過去に拘る中韓の思想矛盾はこうした社会背景があるといえる。

もちろん私は大家族をすべて否定するつもりはない。兄弟姉妹が永続的に親族としてつながりを持っても構わない。しかし歴史上、あの藤原家や平家や源氏であっても同族だからこその醜い骨肉の争いは絶えなかった。先祖崇拝なんて、どこまで遡り、誰を崇拝するなんて、それぞれが勝手に決めているものだ。一般社会が万世一系でないこと、戦国時代の大名ですら一系ではなく臣籍降下や養子縁組も非常に多かった。権力者(男性)は多くの妾を抱え、遺伝子的に女系の一貫性は全くない。また現代の日本を含む先進国では子供のいない家庭に養子とか孤児院の子供を養子にするなども増えている。

つまり日本の皇室や歌舞伎の世界といった特殊な存在以外、通常の一般社会では「血統」はあまり関係ないということだ。血統遺伝的な要因による社会の適応性という議論は、日本国内だけで考えれば大した違いはない。むしろ権力闘争としての骨肉の争いが日本国内では主流である。遺伝的、あるいは血統的な「淘汰」ではなく社会としての「淘汰」されることは必要なことかもしれない。あるいは、それぞれの違った性格の兄弟がそれぞれの違った人生を歩むこともごく自然のことだろう。むしろ強引に「兄弟仲良く」とか「大家族が絶対良い」と一方的な解釈、そしてその強制は余計な歪(対立)を生むだけだ。


お笑い「抗日戦勝70年記念?」
記念日というのは古今東西様々なものがある。国の行事としては建国記念とか元首の誕生日が多いが、宗教的なクリスマスやハリラヤ、インドではディパーバリというのがある。その他、日本では「秋分の日」とか「春分の日」とかある。さらには会社や学校では創立記念日とか個人では誕生日とか結婚記念日などがある。まあ、何かこじつけてパーティーしたり休暇をとることも日常生活としてはメリハリを付けるために重要な事かもしれない。ちょっと古い話だが、俵マチさんの「サラダ記念日」という詩集?(俳句)も話題になったことがあった。

過去のことを祝う日、現在のことを祝う日、自然や神を祝う日・・・実に様々だ。しかし、中国で行われる予定の「抗日戦勝70周年」ほど不思議な記念日はない。そもそも日本は中国共産党とは全面戦争していない。大陸の一部で小さなゲリラ紛争はあったかもしれないが日本が戦ったのは国民党政府だ。しかも日本は国民党政府軍に実質は敗北していない。先の大戦では日本はアメリカに敗北したのが歴史的かつ明確な事実だ。形式上、当時の国民党政府も連合国に含まれていたので「連合国」として勝利側と言えるかもしれないが、共産党(中華人民共和国)は全く関係ない。国家レベルで「こじつけ記念日」にするのは非常に滑稽だ。

しかも、その戦勝国であるアメリカも対日戦勝パレードなど一切実施しない。安倍首相がアメリカで演説したときに「硫黄島の戦い」での退役アメリカ軍人スノーデン氏について、「彼のその後の硫黄島訪問は、アメリカ戦勝を祝うものではない。日米ともに戦死者を追悼するためのものだった・・・感謝に意を表する・・・」 そして栗林中将の孫である新藤総務大臣と堅い握手をする・・・うまい演出という見方もあるだろうが、それが戦後の処理というものだ。戦後70年の月日というのは、そういうことを意味している。

サッカーの試合だって、試合が終われば「ノーサイド」という。本当に国のためとはいえ戦った相手同士だからこそ分かり合えることがある。敵であろうと敬意を表する、そして敗者であろうが敬意を表する・・・これが武士道、騎士道の心構えであることは云うまでも無い。こういう発想は、アメリカを含む欧米人と日本人とで「価値観」をある程度共有することができる。しかし、中国や朝鮮半島の人々とはどうしてもこうした価値観が共有できないようだ。それは文化の違いとして仕方の無いことだと私は考えている。

このように文化の違いとして理解できると述べたが、それでもよく解らないことがある。それは現中国共産党が70年前の、しかも国民党軍のこと、さらにはアメリカの勝利について「記念日」とすること。実に滑稽極まりない。それはまるで清王朝が明王朝の「たなぼた勝利」を祝うようなものだ。シナ朝鮮の歴史では前王朝や前政権は絶対悪のはずである。にもかかわらず、こうしたこと記念日として軍事パレードする。ホントに「お笑い!抗日戦勝70周年記念」であることは間違いない。

まあ百歩譲って「勝手にやれば」とも言えるだろうが、日本の安部首相も含め各国の首脳を招待するというのだからマヌケである。それに乗っかる韓国パククネも極めてマヌケだ(韓国も戦勝国ではない)。また同じく正式な参加表明しているロシアのプーチンは「大戦での勝者は旧ソ連」という認識があるから少し複雑だ。そういえばロシアの外相だったか、大戦を終結させたのはソ連の参戦・・・との認識発言があったが、これも滑稽だ。日ソ不可侵条約を破り「だまし討ち」したソ連の勝手な認識をロシアが継承する・・・? 美味しいところだけ自分たちの手柄にして、美味しくない部分は旧政権のせいにする・・・。やはり大陸の人々の発想は何か違う! 


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日本は農業大国
農水省、および日本のマスコミは日本の食糧自給率40%以下であり、非常に低いことを常に世間にアピールしてきた。私もそれが事実だと長い間考えていた。しかし計算方法がカロリーベースであること(諸外国と計算方法が違う)。また国産の畜産物の飼料(エサ)が外国産が主流なので自給にカウントしないとか、スーパーや飲食店での食料廃棄物も消費にカウントされているなど、計算上の様々な問題点が指摘されている。実際に私の住む街でも外国産の食品はあまり見かけない(加工食品は別)。

国内の食料自給率はカロリーベースでなく生産高ベースでは66%であり、生産額では約8兆円にもなるという。日本の人口が1億2千万程度なので、これだけの人口をこれだけ食わせる潜在能力が日本に存在するといえる。農水省や環境省は政治的な判断として「地産池消」や「農業活性化」をアピールする。そうした方針の一環として「食料自給率は低い」を強調しているとも思われる。あるいは農水省の利権が絡んでいるとの一部の論説もある。最近では、こうした「食料自給率が低い」という主張は多くの有識者の意見を反映してか?マスコミも控えている印象がある。

経済学的に、需要があり利益を生むなら供給能力を拡大する。日本の場合でも、需要があり利益を生むなら必ず生産量は増える。理論上はまだまだ生産キャパはある。ただし農業従事者の不足はあるので、数年で生産量を倍にするようなことはできない。
また農業大国のアメリカやオーストラリアと違って大規模農業ができないためにスケールメリットは望めない。しかし日本は大規模農業でのハイリスクハイリターンはないにせよ、地道に持続性のある農業は可能である。私はこの「地道で継続性のある」が農業では最も重要なことであると考えている。

また、農業の場合は単純な経済ロジックだけでは説明できない部分も多い。生産者は、時には採算度外視の仕事によって「満足感」のようなものを得る行動することがある。これは畜産であっても一部の工業製品でも同じことが言える。それって、他人(経済効率主義者)がみたら「バカじゃないか?」と思うこともあるだろう。もちろん生産者が自身の生活そのものを犠牲にすることはできない。しかし、そうした「誇り」こそが満足感を生み、消費者の「信用」、そして生活向上を実現できる社会を構築している。こういう議論は単純な経済学では説明できない。

歴史上、文明の衰退は農業の衰退からスタートしている。古代エジプト、古代メソポタミア、古代ギリシャでも農業(特に穀物)の衰退が大きく影響している。大規模な気候変動や温暖化?による砂漠化も要因とも言われるが、長期持続可能な農業を考慮していなかったことが大きく影響しているように考えられる。日本の場合、台風や地震など自然災害による農業被害もあるが決して全滅することはない。それは大規模農業でなく分散型であること、持続可能な風土であること・・・など様々な理由がある。

日本は間違いなく農業大国である。しかし問題は生産者育成と国の農業政策だ。私は農耕民族の血を濃く引く我々日本人はその潜在能力は十分あると考えている。というより、実は日本人の商人気質という遺伝子は極めて少ない。そもそも、日本人は武士道精神や職人魂とともに農業と神道精神が基軸にあったのに、それを無理やりビジネスマンとしての人間改造をしたから多くの歪が生じるのだと考えている。

たとえば、サツマイモ栽培で水や肥料を与えすぎると収穫量が減る。逆にサトイモ栽培で乾燥させると出来が悪くなる。ネコにドックフード食わせたりしても喜ばないし、ウサギにキャットフードを与えると死んでしまう。頑張って「品種改良」したって成功率は10%以下だ。つまり私が何を言いたいかというと「農業大国である日本で農業を衰退させる政策なんてバカとしか言いようがない」ということだ。よく「得意分野を活かす」なんて言ったり、「不得意分野を克服する」という主張する人がいる。

確かに大規模農業ができないという日本の「不得意な戦法」もあるが、それを克服して「潜在能力(得意分野)」を活かせばいいだけだ。とにかく日本は農業大国なのだから、日本人自身の余計な品種改良(人間改造)する必要はない。まあ、私個人の意見としては農作物に愛着を持たない人間はサイボーグとして生まれ変わり、敵にボコボコにされる覚悟があれば何も言うことはない。


死に物狂いで行動するな!
勉強やスポーツの世界では「死に物狂いでやれー」なんてカツが入ることがある。たしかに人生にも何度か頑張り時というのは必ずある。しかし「死に物狂い」でホントに死んでしまったり、ホントに狂ってしまえば元も子もない。そして、時にはその「死に物狂い」のハチャメチャな行動が周りに勇気を与えるどころか、多大な迷惑になることもある。しかし最も大きな問題なのは、この「死に物狂い」の精神を絶対的な美徳とし、他人に強制強要することが多いことだ。たしかに教育や訓練では厳しさも必要だ。いわゆる「愛のムチ」はマゾヒストには快感かもしれないが、苦痛になるだけの人も結構多い。本当は「地道な努力の積み重ね」こそが重要であり、一発屋的な「死に物狂い」の行動で持続的な成功に繋がることはありえない。しかし残念ながら、こういう誤解を持つ日本人は非常に多い。

しかし近年の大企業は変わってきた。ブラック企業を除く多くの大企業は、そういう感覚は絶対に許されない。例えば「風邪をひいて熱が38℃以上なら絶対に休め!」という指示が会社側からある。一方で「這ってでも出て来い!」なんて正面から指示することはありえない。もちろん労基法もあるので管理者の責任問題にもなる。そして当然ながら長時間労働や深夜労働も制限される。しかし、長らく「死に物狂いでやれー」と教育された人たちにとっては何やら「物足りない?」ように感じることが多いようだ。もちろん企業の過度なパワハラ、モラハラ、セクハラ対策意識は、それはそれで問題でもある。しかし「死に物狂い」で仕事しても大した成果が上がらないことに多くのビジネスマンがようやく気付いたことも大きな背景にある。それでも一部の中小零細企業は、今でも「死に物狂い」の精神が残っている。まあ、ある意味そこまで追い詰められているという見解もある。一方で本当の職人さんは常に冷静だったりするのが実に面白い。

企業でも「楽(ラク)して効果的な仕事をする」というのが人件費を抑制するのに大きな効果があるのに、無理して苦しんで「私は頑張っている!」ということを必要以上に訴えたり、困ったことに管理者側も「何となくアイツは頑張っているなあ?」なんて安易な認識をすることも多々ある。しかし、本当に頑張っている人はむやみに「私は頑張っている」なんて決して主張しないものだ。おそらく歪んだ「被害者意識」と「同情されたいi欲」があるのかもしれない。特にオバサン?が「わたし、たいへんなのよー」、そうなの「かわいそーね」という同情を誘う行動とともに「楽(ラク)をして成功している人」への強烈な嫉妬心を抱いている。そういう社会の雰囲気こそが、今だに「表面的にも苦労しているように見せかけること」、そしてそれが更に「死に物狂い」を肯定する社会の温床になっていると思える。

以前、私が楽器の指導をしていた頃によく皆に伝えた事がある。それは特にピアノやギターの場合、「腱鞘炎になる直前で練習を止めろ!」という指導だ。おそらく楽器の経験者は理解して頂けるだろう。一度、指や腕の腱鞘炎になると最低でも数週間は回復しない。またギターやベースの場合、指にマメができて血だらけになったりする。一方で少しずつ練習を積み重ねれば腱鞘炎に抵抗できたり、指の皮も厚くなって上手く弾けるようになる。そうした練習において重要なことは、頑張るのは構わないが「超えてはいけない一線」を知ることが重要だ。しかし問題なのは、その「超えてはならない一線」が人それぞれ違うということだ。そして、それが本人自身が見極め出来ないこと。そして無茶な練習をする・・・それは「死に物狂い」の美徳精神が邪魔をしているようにも思える。

それは音楽以外でも何でもそうだ。知識や経験がなくひたすら「死に物狂い」で突っ走れば、それは非常に危険極まりない。「Zeal without knowledge is a Runaway Horse: 知識のない情熱は暴れ馬」という有名なことわざがある。こういうことに関しては西洋人の感覚を見習うべきだ。そして本当に疲れたら「休む」べきだ。休むというのは音楽でも「休符:ブレス」を上手く全体のリズムに取り込むことが音楽(特に管楽器)のコツであるように、人生の中で上手く「休み」を取り入れて、持続的な努力を積み重ねることこそ成功の秘訣だ。でも、それを社会が許さないのであれば、その社会から距離を置くことも一つの手段だ。それを「逃げ」と思われることを過度に恐れる必要はない。

もちろん、愛するスポーツ、愛する音楽、愛する会社、愛する家族、愛する国家・・・のために「死に物狂い」で行動する気持ちは十分理解できる。武士は死ぬことが重要な仕事だ。特攻隊も死ぬことが仕事だった。現代でも不発弾処理の自衛隊員もある程度の「覚悟」はしている。・・・しかし、共通して云えるのは彼らは至って「冷静」だということ。決して取り乱すこともなく、積み重ねた訓練をベースにして任務は果たす・・・そこには一般的に言われる「死に物狂い」の様相は見受けられない。

そう、愛することこそ常に冷静に日々積み重ねを重視するべきだ。そうでないと無意味な混乱、予期せぬ苦労、余計な嫉妬心の氾濫が生まれる。当然ながら、現代社会では誰もが誰かに「死を覚悟して行動せよ!」なんて命令はできない。そんな必要もない。

従って、現代社会において決して「死に物狂いで行動するな!」とあえて私は強く主張したい。


大気汚染の情報
産経新聞によると、「中国天津市で12日深夜に起きた大規模爆発で有害物質を含んだ汚染物質の放出が16日時点も続いているとして日本に微小粒子状物質(PM2・5)などの大気汚染物質として風に運ばれ、到達する可能性もあるとしている・・・」というニュースがあった。

たしかに現地で汚染物質は放出しているのだろうが、こういうニュース報道は極めて不正確であり、いつも疑問を感じる。先ず「可能性はゼロとはいえない」という表現は、「宇宙人の存在はゼロとはいえない」という表現と同じだ。あるいは「あなたは明日交通事故で死ぬ可能性はゼロとはいえない」という脅し文句と同じ。つまり、何らかの未然予防ができる話に繋げるなら、多少は意味もあるだろうが・・・まるでピクサー映画ファイティング・ニモのエンディング「・・・で、どうする?」というオチになる。

そもそも科学的に有害重金属物質が越境することはありえない。大陸の黄砂、また現在噴火している桜島の噴煙は超微粒子で軽いので越境する。もし大気汚染物質が越境するなら、70年代の公害である四日市喘息は全国規模になっていたはずだ。私はむしろ桜島の噴火による噴煙情報が重要だと考えている。現在、低気圧前線が日本列島に停滞しており、台風も近づいている。それが噴火の長期化により農作物への影響が懸念される。

もし噴火が長期化するようであれば、農作物の保護シートや早めの収穫など何らかの対応判断ができる。気象情報、および大気汚染情報はそうした情報展開がもっとできるようになると社会(特に農業関係者)にとって有益になるはずだ。


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天津の大爆発
8月13日夜に発生した天津での大爆発では相当深刻な状況になっているようだ。ニュースでは犠牲者は100人を超えたと伝えられるが、桁が違うとの意見が多い。「事故」と報じられているが実際は「事件」の可能性が強い。中国当局が情報を規制しているというが、多くの市民がスマートフォンなどで撮影した動画がYou Tubeなどでアップされている。 爆発の凄まじさを映像で見ることができる。今回、何の罪のない多数の人々が犠牲になっていることに先ず素直に哀悼の意を表したい。

ところで原因は何らかの火災の鎮火に対応した消防隊が放水したのが爆発のきっかけだったとのこと。放水して爆発するのは、マグネシウム系、あるいはナトリウム系(特に粉末金属)がよく知られているが、今回はシアン化ナトリウムが指摘されている。本当にシアン化ナトリウムなら重大問題だ。一部のネット報道でも伝えられているように猛毒だ。消防隊員が知らなかったという情報もあるが、「マジかよー」という印象だ。あるいは何か別の理由(そういう命令が出た?)で放水した可能性もある。

まあ、中国なのでどこまで正しい情報か解らない。しかし映像では、最初は火災が映っており、その後に爆発、さらに二回目の爆発は凄まじいものだった。つまり、何らかの火災が発生して、その後に何かと反応して大爆発したことは間違い。通常、倉庫では危険物は「危険物表示」なり、「置き場区分」も決められているのが普通だが、それが出来ていないのか?それともだれも気付かなかったのか?ここは大きな重要なポイントだろう。

今回、人的被害もさることながら、自動車など様々な製品や部品、そして材料が失われている。天津の港は、世界でも有数の貿易港だが(特に北京への物流の拠点)、化学物質の流出により回復のメドはたっていない。今後、経済に大きな影響があると言っても過言でないだろう。それは天津だけでない。他の中国の貿易港も大丈夫か?という不安が払しょくできないからだ。それは天津に限らず中国全土で化学素材や金属材料の扱いが業者によっては粗雑であることが今だに多いからだ。

先に述べたように今回はシアン化物が取り上げられている。これは軍事用の火薬として使われることはなく、むしろ工業用として使用されることが多い。一般的にシアン化カリウムやシアン化ナトリウムは電解鍍金に使用されることが多い。また、金や銅の剥離剤としても使われる。これらの化学物質のみならず鍍金工程というのは様々な薬液を使用する。日本では十数年前より自動車業界を中心に鉛フリー(鉛を使わない)鍍金に切り替わったり、鉛フリーのハンダに変更となった。また鍍金クロムも6価クロムから3価クロムへの移行を進めた。またシアン系物質も代替物質への移行が進んでいる。

世界的な環境基準が厳しなる中、当然ながら中国でも同様に規制は厳しくなっている。しかし相変わらず違法な業者も後を絶たないのが大きな問題だ。特に中国では最近の人件費高騰やインフレにより国際競争力も低下しており、そのしわ寄せが今まで以上に特定の人たちに及んでいる。もちろん、日系企業をはじめとして大手製造業本体は環境規制は厳しい。というか、そいういうイヤな仕事は下請や関連企業に丸投げしているのが実態だ。今回の事故(事件)とこうした背景がどこまで関連するかは現時点では不明だが、可能性はかなり高いと私は考えている。

つまり中国の大手製造業も二次、三次取引先は中小零細企業は多く、そうした企業は違法と知りながらも、危険物質を大量に使っていることが多い。すると、そうした物質を国内外に運搬する物流業者も存在する。当然ながら港の保管場所もある。ヒドい場合には物流業者は物品ラベルが違うことを知っていながら、知らないふりして運搬する。危険物保管ルールもあるだろうが、どこまで順守しているかは相当あやしい。

あのレアメタルの採掘もそうだし、電気基盤からの金や銅の剥離作業でもそうだが、今だに中国の地方において低階級層がそのような危険な作業をしているのは現実だ。以前に当ブログでも紹介したが上記の作業は別に中国でなくてもどこでもできる。特にレアアースはどこでも取れる。問題はその地域の「埋蔵量」ではなく、そうした大きな採掘場を確保できるか、そして環境対策ができるのか?という問題だ。つまり、中国では環境や苛酷な作業を地方や貧困層、あるいは他民族(特にウイグル人)にやらせていることが多い。

中国の国際貿易というのは為替も株価も当局の管理下で、現場では低賃金、危険労働を特定の地方や人々に強制させるという「統制経済+奴隷経済」で発展してきたと言える。本来、共産主義というのは統制経済は理念として既に存在していたが、労働に関しては平等なはずだった。それが実質は奴隷経済であることは明らかだ。

そして、このような重大な事件が発生すると市民は必ず「怒りの矛先」を求める。おそらく共産党も「生贄」として当事者らしき人物を拘束して処罰するだろう。そうしなければ共産党自体が「怒りの矛先」になる。中国や韓国朝鮮で「怒りの矛先」になることは即ち「死」を意味する。たしかに中国当局のやり方には問題があるだろう。テレビ報道やネット報道でも放映されている遺族や関係者も気持ちも解らないわけではない。しかし冷たい言い方すれば「そういう社会が生んだ悲劇ではないか?」と言いたくなる。

今回の事件(もう事件でいいだろう)は、ちょっとした戦争よりも被害は甚大だ。はっきりいって抗日戦線記念行事なんてやっている場合ではない。中国人は現実の目の前にある戦争よりも悲惨な状況をもっと直視すべきだろう。


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安倍談話と墓参り
昨日(8/14)に出された安倍談話が話題になっている。そもそも戦後談話を毎回表明する必要性があるのか?という大きな疑問もある。まあ、これで最後にしても良いかもしれない。特に今回の安倍談話の中で、以下の部分は印象的だった。この意見は従来より私も何度も主張していたし、世界中の多くの常識人は同様のコメントをしていた。

「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」・・・*安倍談話より抜粋(全文は他のブログ参照してください)

その他の長い文言は、公明党をはじめ、様々な関連団体への配慮はあっただろう。もちろん細かくは色々と論議を呼ぶだろう。私はあえて、ここで今回の談話すべてを細かく議論する気はない。それでも上記の内容が含まれていただけでも、現代を生きる我々として、また子や孫を持つ人として少しは安心したといえるのではないだろうか。はっきりいって、この内容を否定する人はそうはいない。私が、かつてあるブログの戦後論争で議論になったときに、同様の話をしてまともに反論できた人は誰一人いなかった。

おそらく、中韓だけが未来永劫の謝罪を肯定し、パククネは1000年といった・・・。ここでは中韓だけが人類として「異常」であると断言できるだろう。しかも、その追及内容は「虚構や不条理なもの」ばかり・・・。カネや名誉が欲しけりゃ真面目に働け!というのが私の基本思想だし、多くの人も同調する。しかし中韓は「働いたら負け」と本気で考えている・・・哀れでならない。まあ、お盆なので中韓の話はこれくらいにする。

さて、私も今朝早く起きて久しぶりに先祖の「墓参り」をした。自分の畑で収穫したスイカと線香を持参した。ちなみに最近の墓地では、終わったら「ロウソクは必ず消すこと」、「食べ物などのお供えは持ちかえる」、「花も控える(生ゴミとなる)」・・・というのが常識になっている。私も線香ををあげて、スイカは持ち帰った。それでも「墓参り」そのものは何も変わらない。なぜなら「墓参り」はモノやカネの問題ではない。人間と心の問題だ。

私がいつも墓前で伝えるのが、「今年もいい野菜ができたよ」、「皆、元気で生きてるよ」ということを伝える。当然ながら、神前ではないので「お願い事」など一切しない。しかし、そういう何気ない暮らしぶりを先祖は一番喜んでくれているように思う。私の先祖の墓には、先の大戦で若くして戦死した祖父もいる。とにかく、現代に生きる我々が幸せに生きていること。そして私にも子どもがいるが、この子たちが誰にも邪魔されずに成長する環境を整えることこそ、大人としての重要な役割だと思う。

先祖を思うとき、先祖の敵(かたき)だとか仇(あだ)などを考えることは決してない。我々現代人が今生きること。そして次世代のことを考えて生きること。そして先祖に対しても、現代社会で真面目に活躍する人々への「感謝の気持ち」を持つこと。これがとても重要なことだ。安倍総理は「感謝の気持ち」を談話に含めていた。・・・私は、それでいいと思っている。おそらく多くの日本人なら理解できるだろう。日本人として「次世代のこと」、「感謝の気持ち」を持っていれば立派に大人になれる。


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独学のススメ~ 医療と専門知識
独学のススメの第二段として「医療」をテーマにする。よく知られていることではあるが、現在の医療介護の現場では人手不足が深刻になっている。そこで一般の「診察」もレベルが低下しつつある。勤務医にせよ開業医にせよ大量に押し寄せる患者に対してキメ細かな対応ができない状況になっている。そうなると「診察」は雑になる。まあ、雑・・・というより聴診器、むくみの確認、簡単な問診・・・といった基本の診察だけ対応して次の患者を診察する・・・この繰り返しだ。この程度だったら「誰でもできる」内容だ。つまり医師免許を持っているか、いないかの違いだけとなる。またヒドい場合には、医師免許もなく「簡単な手術」といって不必要な手術を行うなどのペテン医師の存在もある。まあ、それは立派な犯罪なので今回のテーマとは別にする。

実際には難病の疑いのある患者たちは、一般医師の知識・経験不足のために見過ごされることが多い。ガン患者も通常の診察では発見できない。そりゃそうだ、一般診察なんて何も解らない。何でもそうだが精密検査が必要だ。そして更なる専門知識も必要であり、医者だって新人さんや不器用な人はいる。当然ながら誤診もある。あるいは「しばらく様子を見ましょう」というコメントしかなかったりする。ヒドいときには「うーんカゼかなー」なんて言って解熱剤だけ処方して終わることも多い。最近ではインターネットの普及で「何か体がヘン」というときは医者に聞くよりネットで調べた方が早くて正確だったりする。しかし、それを主治医に伝えると相当「気分を害する?」ようで、対応が更に悪くなったりする。

ここで大事なことは、医師だけに頼るのではなく「独学」することだ。たしかに個人で勝手な解釈は危険を伴う。しかし、自己の症状は自己が最も理解している。ネットで問診票に記載すれば様々なことが解る。もし、そのネットの情報が信頼できないのなら、他のホームページなども容易に検索できる。 実は医療分野ほどインターネットが情報収集源として有益である世界はない。そして医療に関する「独学のススメ」は別の大きな理由もある。それは、それぞれの一般医療関係者の法的な「立場」があるが故に患者が容易に事実を把握することが困難であるということ。

例えば「自閉症」という症状がある。一般の医師や役所の職員は決して誰それが「自閉症という判定」はしない。というか「そういう立場にない」ということ。役所の職員も医者でも何でもそうだが、「判定者」というのは与えられた権限がなければできないということ。それは「ガン告知」だってそうだ。それは法的、あるいは何らかの指針に基づいて判断することが正式な「判定」となるからだ。つまり、その判定とその後の「法的な援助」や「保険手続き」という問題が必ず関連するからだ。つまり医者も役所の職員もルールに基づいて行動するから、初期段階では「大したアドバイスなんて期待できない」ということだ。これは病気に苦しむ人にとっては大きな問題であり、時には精神的な苦痛を伴う。そして真面目な医療機関に対してまでも過剰な反発意識が生まれる。

もちろん法的問題がなければ、医者や役所の職員の責任追及はできない。勝手なことをして問題が発生すれば必ず彼らの「責任問題」が生じるからだ。何でもそうだが、仕事というのはルールに従って対応するのが仕事の基本だ。医療の分野において、好き勝手な判断や対応ができないことは十分理解できる。特に国の難病指定の病気でも様々な法的手続きが必要になる。そして難病指定のない希な病気はもっと困難な状況になる。そこで、インターネットなどの情報が重要となるわけだ。はっきりいって多くの難病患者がインターネットで救われている。この事実をインターネット嫌いなマスコミや医者、そして役所、更には厚生労働省が十分理解する必要があるだろう。

そして、最もやっかいなのは「医者のメンツ」や役所の「メンツ」も存在することだ。今も昔も傲慢な医者や役人は多い。医者にとって、あるいは役所にとって病人や患者は「面倒な客」という認識が非常に大きい。一般の商売のように「お・も・て・な・し」なんて皆無の医者や役所の職員は相変わらず多い。もちろんモンスター患者やモンスター家族も多いので彼らも苦労することは理解できる・・・そして、その結果がすべては「ルールに準じて」という対応になる。これはやむを得ない対応なのかもしれない。しかし現実はヒトの体は工業製品と違って千差万別だということ。すべてルールで制御できる世界ではない。

すでにインターネットの情報量は分野・内容によっては一部の専門家の上をいっている。または、立場上言えない内容がネットでは多く表現されている。当然ながら、それぞれの分野での医者としてのスペシャリストは存在する。しかし、そういうスぺシャリストは医者の中では「少数派」であるということを誰もが肝に銘じなければならない。特に難病といわれる分野はそうだ。「皆が何となく言っている」という世界は通用しない。医療の世界で「ウワサ話」ほど当てないならないモノはない。例えば、サルノコシカケ粉末飲んでもガンは治らない。テレビの見すぎと自閉症は関係ない。中国や韓国ではもっとヒドい医療の話(迷信)が今でも存在する・・・。

実は医者だけではない。ジャーナリストでも、様々な技術者でも、弁護士でも、「いーかげんな専門家は山ほどいる」。専門家というのは資格や免許をとるまでは頑張るが、それ以降はテキトーにやっているヤツが非常に多い。そりゃそうだ、彼らだって商売だ。カネ儲けは必要だ。もちろん、そうでない人もいるが、医者と同様に本当のスペシャリストは「少数派」であるということだ。この現実を私を含め一般庶民は十分理解する必要がある。何でもそうだが、専門の免許や資格をとってからがスペシャリストとしてのスタートであり、その後も継続して勉強を続けない専門家はペーパードライバーと同じになる。

一方で政治の世界、あるいは民主主義は多数派がモノを言う。何となく多数派が社会を制しているような錯覚に陥りやすいが、高度な医療、科学技術の世界では多数派は「参考」程度にすべきである。つまり、先端技術や本物の技術者は極めて少数派だということ。先ほど述べたように、よく「皆が何となく言っている!」といって納得する人が多いが、医療も含めサイエンスやアカデミックなことは多数派が事実ではない。結局、誰もが最終的には「独学」しなければならないということだ。何度もいうが、一般の専門家(普通の医師でも)はルールに従っているだけだ・・・ということ。しかし人間社会は生身の人間によって構成されている。

しかし法的、あるいは立場的な制限を超えてホンモノの専門家に出会ったときほど感動はない。そういう専門家も存在することは事実だ。もちろん私は基礎知識を無視しているわけではない。医者だって、弁護士だって、技術者だって・・・ペテン師以外はそれぞれの法的立場や業界での立場があって発言している。そして何度もコメントするように、彼らだって人手不足でキメ細かな対応が出来ない場合が多々あることも事実だ。従って、それぞれの担当医がいつも回答が不自然だったり、不完全だったりする・・・それは、それぞれの「立場」であり、それが実社会というものだ。 だ・か・ら・・・「独学」は必要だと私は主張したい。

特に我々40-50歳代のオジサン、オバサン世代は独学が必要だ。中高年以上の世代なんて誰も何も教えてくれない。まわりは貴方のカネだけに興味がある。そしてビジネス関係者(医者や役人も含む)が自己保身のためにルールに従う・・・。基本的に自分を守るのは自分だが、勉強すれば色々解る。そして世の中には必ずホンモノのスペシャリストが存在する。オジサン、オバサン世代は高齢者や障害者になる前に、インターネットや各種書籍を通じて「独学」することが、それが大きな転機になる。


韓国系企業の没落
ロッテのお家騒動が話題になっている。大塚家具のときもそうだが「お家騒動」そのものは、何処でもよくある話だ。しかしロッテのお家騒動は重要な意味がある。ロッテは日本以上に母国である韓国で「大財閥」としての影響力がある。ロッテといえば日本でもプロ野球球団や関連企業も多い。しかし日本の菓子業界では売上ランキング10位にも入らない。一方、韓国では現代(ヒュンダイ)や三星(サムスン)と並び大財閥である。韓国ロッテの規模は日本のロッテとはケタが違う。

韓国では、大韓航空のナッツリターン事件をはじめとして一般庶民の「大財閥」に対する根強い不満や不信感がある。ロッテは今年に韓国での経営者記者会見で日本語で答えるなどで反感を買っていた(それで反感を持つ民族もどうかしているが・・・)。そこで今回のお家騒動では改めて「ロッテは日本で得た収益を韓国に投資する」という基本方針を説明した。つまり韓国人の反財閥、反ロッテの意識を抑えるために反日を利用したことになる。そうなると当然ながら日本人の反発は必至である。まあ、いつものパターンである。そういう論法はインターネットの時代には逆効果である。多くの日本人はネットを通じて一部始終を把握している。

実際に「日本で得た収益を韓国に投資する」というのはロッテの創業以来一貫している。これは紛れもない事実だ。そもそも戦後、アメリカ進駐軍のガムの影響を受けて下品なチューインガムを日本人に売りさばいた。そして日韓基本条約に基づき、政府および民間の出資(経済協力)によって韓国が発展した。当時、日本で得た収益を韓国に投資したのはロッテだけではない。当時の新日鐵も資本、技術ともに協力して設立したのがあのPOSCO(浦項スチール)だ。そして家電メーカも同様だった。サムソンもLG電子も当初は日本の援助を受けている。しかし彼らは恩を仇で返し「自分たちの力で成功した」とほぼ全韓国人が信じている。

その中で日本国内企業より韓国に桁違いの投資をしたのはロッテだった。しかし周知の通り、最近では韓国全体の景気減速により苦境に立たされている。あのロッテワールドもロッテホテルもそうだ。こういう会社はもともとオリジナリティーは低く、サービスの質も悪い。しかし韓国は箱物を作ったり、他国の真似(パクリ)をするのは上手だ。グリコのポッキーを真似てペペロを販売したり、森永のエンゼルパイを真似てチョコパイを販売したことはあまりにも有名。ちなみに、ちょうどその頃に「グリコ・森永事件」が発生している。

また、日本のパチンコ収益金は北朝鮮へ流れているというのは有名な話であり、疑いの無い事実だ。そして個別の闇企業や闇金融の収益も半島に流れているとされる。つまり公的(日本政府)、民間大企業(新日鐵など)、韓国系企業(ロッテ)・・・そして闇金融、パチンコなど・・・戦後70年間、様々な形で日本のカネや技術が半島に流れたことを意味している。公式に発表されている経済協力金は計11億ドル(当時1ドル360円)とされているが、実際にはもっと多くのカネが半島に流れている。

まあ莫大な日本のカネが流れているわけだから、当然ながら韓国は経済発展した。これで発展しない国なんて存在しない。韓国の発展は、軍事的にはアメリカ、そして経済的には日本の影響が大きかったことは間違いない。しかし戦後70年経って日本は条約をすべて忠実に履行し、日韓との戦後は完全かつ最終的に終了した。あとは自分たちで頑張ってね!というのが普通の国際関係だ。しかも日本国内で高まる嫌韓ムード・・・民間レベルでの善意的な投資や援助を期待することはできない。

常に他国の栄養剤だけを頼りした韓国は、麻薬漬けになった病人のようになっている。自助努力もなく他力本願である国民性がそれに拍車を掛けている。そして、さらに追い打ちを掛けるニュースがあった、それは最近二日連続での中国の人民元切り下げによる世界同時株安となっていること。秋に金利引上げを予定している米ドルも上昇している。日本円は米ドルの影響で更なる円安となっている。中国と貿易が盛んな新興国は通貨安戦争になる可能性もある。また資源国であるカナダやオーストラリアは大きな影響を受ける。

しかし国家として大きなダメージを受けるのは韓国だ。韓国はここ数年において欧米や日本との貿易よりも中国との貿易を重視する政策を実施してきた。彼ら韓国朝鮮人は二元外交とか振り子外交が大好きのようだが、「どっちの転んでもダメ」という結果になりつつある。韓国を見ていると「他力本願では国家は滅びる」ということを確信する。これは日本にとって反面教師としなければならない。

今後、再び韓国は日本に擦り寄ってくる可能性は非常に高い。しかし日本人は決して騙されてはならない。トモダチのふりをして他人の冷蔵庫の中をあさるのが韓国朝鮮人だ。トモダチのふりをしてカネを返さないのが韓国朝鮮人だ。それは韓国政府のことだけではない。彼らの根本的、かつ日常的な文化がそうであるからだ。そういう文化は半島を含むシナ大陸では常識だ。それを知らない日本人は必ず騙される。それを理解しないとアジアの国際関係では日本から甘い蜜を吸われるだけだ。こういう私の論説は差別でも偏見でもない。戦後の歴史的事実、そして現在までのカネの流れをみれば明らかだ。

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スポーツ偏重の教育を見直せ!
夏休みになると恒例の甲子園での高校野球、その他各種スポーツ大会が盛りだくさんになる。2020年には東京五輪をひかえ、日本国内ではスポーツ振興の機運が高い。しかし今回の当ブログでは、あえてこの雰囲気に水をさす記事を書いてみる。一部のスポーツ関係者やスポーツ大好きの方々には不快に感じるかもしれないが、何卒ご了承を・・・。

もちろん私はスポーツそのものを否定する気はない。テレビなどで錦織選手のテニスを見たり、なでしこジャパンのサッカーを見ることもある。当然ながら日本人選手が世界で活躍していれば応援する。しかし、歴史を紐解けば古代ギリシャや古代ローマでもスポーツは一種の「見世物」だった。現代でも大なり小なりそういう側面は間違いなく存在する。

当然ながら誰もがヒーローに憧れる。そして大衆文化としてスポーツ観戦することが娯楽となるとともにポピュリズムを煽る結果にもなる。そして一般の中学校や高等学校でも国の方針に従ってスポーツを振興する。しかし、そうした中学、高校でのスポーツ推進活動は、一種のスポーツ偏重主義のように感じることが多々ある。時には学力偏重主義と並んで強い違和感を感じる。

とは言いながらも、私自身も中学と高校ではバリバリの体育会系だった。自慢ではないが中学高校ともに主将をつとめ地区大会の優勝も経験している。当時も今も男子生徒で、ある程度体格が良ければスポーツをするのが当然だった。そこには、何となく「学校の威信」、「国家、自治体の威信」、そして個人では「男子生徒としてのメンツ」のようなもの存在した。当時の私もそれが当然と考えていた。しかし、その影で三年生であっても、どれだけ努力していてもレギュラーになれず悔しい思いをした生徒も非常に多かったのも事実だ。

一方、甲子園高校野球などで大人の事情による大きな問題が発生する。それは、やはりおカネの問題だ。生徒たちは真面目に練習しているが、全国大会となると学校関係者や父兄、さらにはOBにも金銭的、時間的な負担が大きくなる。従って、意図的に全国大会に出場できないような操作が入ることもあるという。この問題は今に始まったことではない。私が中学高生のときも、そうした話をよく聞いたことがある。また90年代以降バブルが崩壊し地方が疲弊する中で同様の問題は後を絶たないとのこと。やはり、どこか「メンツ」とか「カネ」という問題が付きまとう。

以前も「体育会系の悲劇」という記事を書いた。スポーツというのは残酷なものだ。当然プロになって稼げるのはごく一部である。はっきりいって宝くじの確率と大して変わらない。しかもプロ生命は短い。長くて20年、短くて数カ月というのが多い。引退後、運が良ければコーチや監督、ニュース解説者や評論家になることもできるが、それもごく僅かだ。当然ながらスポーツというのは本人の努力も重要だが、体力、素質というのが大きく影響する。

確かに、一流になれなくともスポーツを通じて体力、精神力、協調性は養える。しかしスポーツでなくても、例えば「部屋の掃除」や「畑作業」をすれば十分汗をかけるし運動になる。精神力だってスポーツ以外の分野でも養うことは十分可能だ。また協調性もスポーツ以外でもいくらでもある。例えば、私は趣味で様々な楽器を演奏するが、楽器をマスターするというのは相当な根性が必要だし、アンサンブルは協調性が重要だ。しかしスポーツと違って地道に継続すれば誰でもマスターすることは可能だ(これを理解していない音楽ビギナーは非常に多いのが残念)。

つまりスポーツで勝ち負け以外の目的とされる内容はどんな分野でも可能なわけだ。例えば、高校生が医療介護の現場で作業を体験したり、土木建築の現場で体験したり、実際に自分たちで小さなプロジェクト(クリエイティブな)を推進したり・・・むしろ、こういう活動の方が社会人になってから役に立つ(この話は当ブログ「教育問題」で何度も主張している)。つまりスポーツでは直接的な勝利や名誉を得るための一種の覚醒作用が働いており、現実の泥臭い社会で生き抜く力が弱まることがある。その最も大きな要因はプライドである。スポーツ能力が高かった人物ほどそういう傾向にある。

夢を追い続けることはダメとは言わない。でも、それだったらスポーツ以外でいくらでもある。例えば、体格の良い男子生徒がスポーツ系でなく吹奏楽部でウッドベース弾いたっていいと思う。手先が器用な女性が機械工作部に入部したっていい。かよわい女子生徒がパワーショベルを運転練習してもいい(パワーショベルは体力はあまり関係ない)。綺麗な女子高生が医療介護をやってもいい。・・・そうした社会と関連するようなトレーニングこそ人間力を養うことができる。

おそらく教育委員会やPTAは子どもに「仕事をさせるのはけしからん」という発想をする・・・まるで「こどもにポルノは見せてはいけない」というような「仕事=俗悪」なものというイメージを教育委員会やPTAは持っているのだろうか? 子供って、昔は家の手伝いしたり、丁稚奉公したり、職人の弟子入りするのは当然だった。たしかに「強制」は伴うものだったかもも知れないが、現在の義務教育だって子どもへの「強制」そのものだ。中学生から社会(仕事)を知ることは重要だ。短期の中国人研修生受け入れるくらいなら、継続的に中学、高校生にトレーニングさせる方が有意義だ。

しかし残念なことに一般的な中学校や高校では、7-9割が体育会系だ。大学になるとようやく意味不明のサークルも含めて多様化する。韓国の学校だと「独島部」という日本人からすれば意味不明な政治的サークルも存在するが、そんなことにパワーを浪費する生徒が哀れだ。せめて日本の義務教育である中学校や公立高校では、半数がスポーツ以外の活動であることを望ましい。特に文化、技術、福祉・・・本当の日本社会はそういう人材を求めている。つまりスポーツ偏重の教育を見直せ!ということをここで私は強く主張したい。


マレーシアのイスカンダル計画
シンガポールが独立して50年、現在様々な式典が行われている。ここ数年経済に陰りの見えてきたシンガポールだが、対象的にマレーシアも大きな転機を迎えている。二度の飛行機事故(事件)にナジブ首相の収賄疑惑・・・あまり好ましくないニュースが多い中、何とかマレーシアを盛り上げようとする動きがある。

先日テレビでマレーシアのイスカンダル計画について特集番組があった。「イスカンダル」といえば宇宙戦艦ヤマトで登場する地球に似た惑星・・・まあ、テレビ嫌いの私だが珍しくこの特番には注目した。この計画はマレーシア政府、そして日本の三井物産が中心となってマレーシア南部のジョホール州で計画されている。すでに土地の買収やビル建設も進んでいる。要するに対岸のシンガポールに対抗?して近代的な街作りをしようとするものだ。ショッピングモール、コンドミニアム(日本でいうマンション)、巨大レジャー施設など大規模な「ハコモノ」を作るというものだ。 

今回のテレビ報道でも日本人への「投資の呼び込み」あるいは「定年後の移住」をも強く宣伝しているのが大きな特徴だ。まあ、それが目的の番組であることは間違いない。三井物産としては香港やシンガポールの住宅事情に限界があるとして(中国人の不動産投機買いが多い)、マレーシアに目を向けているようだ。以前、日本の製造業もマレーシアに注目した時期もあったが、現在はタイ、インドネシア、そして最近はベトナムやミャンマーの方が製造業の中心として注目されている。マレーシアはむしろサービス産業として、日本のイオンをはじめ海外の様々な企業から注目されている。

しかしマレーシアは他の東南アジア諸国に比べて人件費が決して安くない事、物価も高い。ムスリム国家として政府の規制も厳しい。つまりマレーシアはすでに製造拠点ではなくシンガポールのような総合近代都市を推し進める方向になっているということ。以前、マハティール元首相は「ルックイースト」を掲げ日本を見習い、2020年までにマレーシアを先進国にすることを目標としていた。その延長線上にこのイスカンダル計画がある。

上記はあくまでもマクロな政策だ。ここで少し細かな現地の話を紹介する。もともとマレーシアのジョホール州ではパームツリーが非常に多く(水田や穀物栽培はほとんど無い)、パームオイルはマレーシアの石油とともに重要な外貨獲得資源だった。パームツリーは特別な手入れも要らずカネになる重要な木であった。これらを政府がほぼ独占するな形で経営されていた。パームツリーという木は、南国では非常に大きな木である。しかしパームツリーには寿命がある。近年、いわゆるプランテーションによって栽培された多くのパームツリーが寿命を迎えようとしているのだ。

パームツリーは手間いらずと述べたが大きな問題がある。それは寿命の後に新たなパームツリーは栽培することができないということ。パームツリーは肥沃な大地の栄養はすべて吸収して、豊かな太陽光、雨季の豊富な水で育つ。そのため跡地では「連作」ができないのである。それどころか他の農作物への転用も困難である。従って、これらの古いパームツリーの跡地を他の目的で何とかしなければならない・・・ということだ。大抵は住宅地に転用されるが、大規模な跡地なので「イスカンダル計画」が立案されたわけだ。

さらに細かな話題をするが、パームツリーの跡地というのは非常に地盤が悪い。先に述べたように養分は吸いつくされて土壌が変質している。またパームツリーの根はなかなか分解せず、シロアリの天国となる(長期にわたる)。日本のように地震がなく「地盤改良」という概念がないため建設してから地盤の管理が必要になる。これは大きなリスクだ。このパームツリー跡地とシロアリ、そして水を吸収しない大地へと変貌することがどういうことになるか科学的な研究も当然ながら必要になるだろう。

現在のシンガポールを見ても解るように、あのようなマレーシアの発展の仕方で将来はどうなるか?マレーシアの将来の運命はシンガポールを見るとよく解る。従って日本人のイスカンダル計画への投資、あるいは定年移住することは長期的にはリスクがあることは否定できない。特に10年以上、あるいは世代を超えた生活の場としては、あまり期待しない方がいいだろう。(ちなみに20年前の素朴なマレーシアの方が私個人的には好きであるが・・・。)

私は歴史上で連作できない土地、水を失った国家がどういう運命になるかが何となく想像できる。日本はむしろ、連作、輪作できる大地と豊富な水資持っていることの意義をもっと考えるべきだろう。日本にも大都市はあるが、地方との連携によって国家が成り立っている。特区にすれば地方は疲弊する。そして「ハコモノ」に対する考え方もそうだ。各種公的インフラ整備することは決して否定はしない。むしろ日本もマレーシアも公的インフラはもっと整えるべきだろう。

しかし日本の地方創生でもそうだが、ハード面だけではなくソフトとしての文化育成できる土壌でなければならない。マレーシアでもシンガポールでも語学教育や投資教育?には熱心だが、本当の意味での科学技術や文化が成長するかは甚だ疑問である。特にムスリム国家であるマレーシアが日本のような高度というべきか?あるいは低俗というべきか?アニメ文化や音楽などサブカルチャーが栄える土壌は極めて少ない。私個人的な意見だが、豚肉ベーコン入りのピザが食べられないことすら大きな不満になる。

もちろんマレーシアにはマレーシアの事情があり、近代化への道を後戻りできないという感覚はあるだろう。しかし、こういう事例を見て日本人がどう考えるか? もちろん魅力を感じて投資や移住しても構わないが、改めて日本というのがどういう国なのかを考える絶好の機会であることが言える。 それは生活して仕事をすれば嫌と云うほど解るのだが・・・。

例えばシンガポールは人種民族的には明らかにチャイニーズの都市国家である。一方で対岸のマレーシア・ジョホールバルを日本人の都市国家にするくらいの侵略的野心があれば成功するかもしれない。しかし他民族共生の理念の強い日本人にはそれは不可能だろう。またメイド(家政婦)に対する人権意識のある日本人にはシンガポール人になることも難しいだろう。 

まあ、移住を憧れている方々には失礼だが長期的には、このイスカンダル計画は失敗すると私は推測している。 それは日本人が日本人である限りは、あるいは現地に完全に溶け込めば成功するかもしれない。それが移住、移民というものだろう。 

違った発想でいえば、イスカンダル計画には放射能除装置はない。あってもそんなものいらない。隣にガミラス星のようなシンガポールが存在する。そして世界各地の不動産を狙う中国人がいる。ヤマト(日本)はワープを繰り返したり、波動砲を使うことはできない。(・・・宇宙戦艦ヤマトを知らない方は失礼!)

さてマレーシアに滞在経験のある私としては、非常に複雑な気持ちだ。かつてあの素朴な屋台や市場が好きだった・・・。近代化をすべて否定する気はないが、継続性のある社会や文化がベースになければ発展は難しい。農業にしても文化にしても、そのベースとしての土壌を失えば再生することは極めて困難だ。そしてその国の魅力や個性がなければ面白くない。よーく考える必要がある。 


野蛮な国とは?
日本人はクジラを食べるから野蛮な国だとか・・・欧米人は好き勝手な「野蛮」の定義をもっているようだ。そもそも野蛮(英語でBarbarian)はWikipediaによると「文化の開けていない状態あるいは乱暴で礼節を知らないことを言う。」とある。しかし、この「文明が開けていない」というのは西欧人の概念であることを忘れてはならない。しかし「乱暴で礼節を知らないこと」 これは人類として共有できる概念と言えるだろう。

先ず「高い犯罪率」の国は野蛮な国と断言できる。また犯罪とまで言わなくとも「約束を守らない」、「嘘を吐く」は立派な「野蛮国家」だ。そうなるとアジアの近隣国では韓国は間違いなく野蛮な国である。犯罪率(特に性犯罪)は高く、約束守らない、嘘を吐く・・・すべて野蛮に当てはまる。一方でテロのイメージの強いイスラム諸国だが、イスラムの戒律を守っている人たちは当然ながら犯罪率も低い。また嘘も吐かないし約束は守る。決して彼らは野蛮ではない。

西欧人もキリスト教の影響で「犯罪は許されない」とされたが、人間扱いされなかった有色人種、異教徒、魔女(都合の悪い人間をこう呼んだ)に対しては容赦なかった。世界史で最も野蛮な民族は欧州人であることは言うまでもないが、その根底には異民族を人間扱いしない思想が根底にあった。かつて日本はこうした有色人種を人間扱いしない欧州人を野蛮人として鬼畜米英という表現を使用した。当時としては、ある意味正しい解釈だった。

一方で戦前のアメリカも日本を野蛮な国と信じ切っており、それはアメリカのマスメディアの世論操作と人種差別の思想がベースに存在していた。またコミンテルンのスパイの工作活動もあったと云われている。現在でも韓国系アメリカ人によるいわゆる従軍婦問題で「日本人は野蛮」と訴えて、それに乗じる国会議員がいることがアメリカとしても情けない限りだ。戦前の民主主義で選出された議員はマヌケな勘違いにより無意味な日米開戦となった。以下の記事はそれを明確に表している。

ケントギルバート氏の記事

国際外交は本当の野蛮な国とそうでない国を明確に区別できる能力が必要だ。そしてどの国がどのような工作活動をしているか知る必要がある。また安易な世論操作に乗らないこと。こういう問題は現代も続いている。そこで重要な目安となるのが、その国の犯罪率、偽証罪、条約協定などの不履行・・・これらのデータで大凡は判断できる。そこで国家以外で問題となるのは、やはり共産党だ。特に中国共産党は様々な日本に対する工作活動を実施しているようだ。先ほど少しコミンテルンの話をしたが、共産党と犯罪率や治安の関連は間違いなくあるようだ。以下の記事もそれをするどく指摘した優れた記事です。

産まれたときから 波乱万丈、本質を知れば真実が見えてくる

戦後70年、二度とあのような悲劇を繰り返さないためにはこうしたデータより事実を認識することが何よりも重要だ。


独学のススメ~法律と保証は違う! 
マスコミのニュースでは安倍総理の戦後70年談話はどうこうとの話題になっている。どこぞの新聞では有識者?談話報告(原案?)について「若い世代に教えたい」なんてコメントもあったようだ。まあ確かに教育基本法は改正した方がいいだろうが、公式、非公式問わず多くの子どもや大学教授、そして学者も含むすべての日本国民がそれぞれで改めて「独学」することが最も重要だとつくづく思う。それは今まで「教える側」から惑わされることが極めて多かったからだ。

特に歴史や憲法なんてのは解釈が皆違う。アメリカのように現在でも「原爆投下は正当」なんて信じているアメリカ国民が結構多い。それは一方的なアメリカ公式教育によるものだろう。また韓国のように強烈な反日教育を公式に実施すれば、学校成績が優秀の人ほど反日な人間になるのは当然のことだ。従って学校成績が悪い人の方が実社会で「真人間」なるケースも多いと言える。あるいは学校卒業してから事実を知って愕然とする若者も増えていること。「公式な教育」とは国民の価値観を共有する意味では有効かもしれないが事実を一方的な視点から構築されるリスクは大いにある。だから「独学」は重要である。

全く別の視点から考えると、物理学においてモノゴトを単純化して考えることは非常に重要なことだ。複雑に見える微分方程式もモノゴトを単純化した結果である。またコンピュータプログラムの基本は0と1の二進法、あるいはYesかNoのフローチャートの積み重ねで成立している。特に二進法はミクロからマクロなシステム開発に有効だ。しかしマクロからミクロへの二進法はどうしても多くの矛盾が生じる。それが法律というものである。法律とはどこかに勝手に線引きしているに過ぎない。また何か全体のコンセプトを考えるときにミクロを意識したコンセプトでないと成功しない場合が多い。それは以前ブログで記事にした新国立競技場の奇抜な意匠設計が典型的な例である。

従って憲法学者が単純二元論を社会に適応するのには違和感を感じる。何となく共産主義的な匂いがする。三権分立とは、憲法が常に上位にあることを意味しているのではない。また憲法が政府を縛るものではない(護憲左翼の解釈は絶対に間違っている!)。法律とは紛争や損害が発生した場合に、ルールに基づいて判断するもの。論争は紛争ではない。論争を法律で解釈するのは不適切だ。例えば、日本の核保有論は非核三原則や核不核拡散条約に違反していない。なぜなら紛争ではなく論争だからだ。

「法律の整合性などどうでもよい?」のような意見が国会で出たようだが、これはある意味で的を得た良い発言だ(安倍総理は厳重注意したようだが)。例えば、私は長らく工業界で品質保証の業務をしてきた。私は会社で「関連法規や法令順守と品質保証は全く別次元の問題だ!」ということを強く主張してきている。なぜなら工業製品でルールを守ったからといって、その工業製品に品質不具合が発生しないとは限らないからだ。どれだけルールを守った製品を製造して、何らかの公的認証を得たとしても社会(顧客や市場)に多大なる迷惑をかければ責任を厳しく追求されるのは企業として当然のことだから。

例えば、過去の公害で「水銀」「カドミウム」・・・などの重金属汚染が問題になったことがあった。当初、企業側は因果関係が明確でないために(つまりはルールを守っていた)ため責任はないと主張していた。皮肉にも、それが実社会で問題が長期化した主な要因となった。最近ではエアバック問題で「硝酸アンモニウム」がどうこうとの議論が出ているが、過去の公害問題と同じパターンになるのが心配される。つまり本当の責任問題を考慮するなら社会的影響を優先すべきということ、しかし高齢者がトップにいると一時的な個人の責任や名誉を気にすることが多く、その弊害も少なからず存在しているかもしれない。

つまり私が何を言いたいかというと、大きな問題やリスクが想定される場合に「因果関係の解明」とか「法令との整合性」など後回しにしてでも応急措置や何らかの対応をすべきだということだ。それが社会的責任である。企業には社会的責任がある。当然ながら政府(国家)にも社会的な責任があるということだ。役所の一般職員や企業の一般社員は決められたことを粛々と行動する。しかし国家運営や会社運営は違う。法律を守っても守らなくても社会から責任追及されるなら、社会や個人の立場になって最終判断すべきということだ。

トップの役割とは何か?例えば金融政策は時の経済状況に合わせて政策金利を決定したり、金融緩和や引き締めを行う。政府も社会情勢に合わして財政出動したり、税のあり方を変更したりする。マクロ政策とは、そのご時世に合わせて対応する。当然のことである。憲法改正が容易にできないのが日本の悲劇でもあるが、少なくとも立法府がご時世(世界情勢も含む)に合わせて法整備することは当然のことだ。それに学術的に因果関係が明確になっており、財政経済的にも問題がなければ迷う必要などない。

特に最近話題の集団的自衛権は、安全保障の専門家や経済学者も学術的に「正しい」と判断している。特に経済学者の高橋洋一氏は、集団的自衛権によって戦争のリスクは40%低減し、予算も70%削減できるというのが研究結果があると発言している。つまり因果関係はすでに学術的にも明らかになっているということ。反論するのであれな同じく学術的に数字で表現すべきだ。むしろ私はそういう議論を期待しているが、反対派は憲法を振りかざすか、反米の精神論を振りかざすかがほとんどである。私も反米思想はあるが、ここでは憲法学以外の学術的な議論をそれぞれ「独学」することが有効だ。


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特別な日?
今日8月6日は広島原爆の日。すでに70年経った。日本人にとって、特に広島市民にとって特別な日であることは間違いない。特にアメリカが非戦闘員である市民を大量虐殺した犯罪(裁かれなかった史上最大の犯罪)を決して忘れるべきではないだろう。もちろん、だからといって今になってアメリカに復讐する必要もないが・・・。今日は日本の政府関係者、米国高官・・・様々な人々が参列するそうだ。それぞれが様々な思いで参列することだろう。

しかし、私は今日もいつものように仕事だ。よくよく考えてみたら今日は平日だし、広島に参列する人々よりも数桁違いの日本人が今日も様々な職場でいつものように働いている。小学生たちは夏休みの宿題や自由研究に最後のスパートをかけ、中学生や高校生は部活動に励む。また幼い子供を持つ母親は日々子育てに奮闘する。またある人は夏の余暇で旅行に出かける・・・こうした日々の暮らしや余暇を大切にしている日本人が大勢いることも忘れてはならない。

日々の生活を大切にする人にとっては毎日が「特別な日」だ。日々の暮らしと地道な努力を軽視して「欲」に走る人々は相変わらず多いが。人々の日々の暮らしを脅かす存在は左翼であろうが右翼であろうが、日本人であろうが外国人であろが、親戚であろうが他人であろうが決して許してはならない。我々の生活を脅かす存在は何か?意外にも身近に存在するのかもしれない。

来週くらいに私の畑に植えたスイカがようやく実る。これを食べるのが楽しみだ。それを邪魔しようとするカラスは絶対に許さない。なるほどそうか! 身近な脅威はカラスだった。蚊だった。我が畑ではカラスよけにネットをしいている。またノラネコよけに超音波も利用している。そして蚊よけでは伝統的な香取線香は使う。それらがなければムシや動物のやりたい放題だ。 

これって極めて普通のことだ。犯罪にはルールと取締り、不逞外国人には防護ネット、不法侵入者にはムシよけスプレー・・・。グローバルで自由化? TPPだー?大量移民受入だー?それはムシや動物に自由にさせるのと全く同じだ。 祈りを捧げること自体は否定しない。しかし「祈り」でカラスが逃げ出すことはない。やはり香取線香は必要だ! やはり防護ネットは必要だ。墓参りも行くけどムシよけスプレーも絶対に必要だ。 ・・・それが日々の生活を大切にすることではないだろうか?


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ともだちは少ない方がよい、
「ともだちは少ない方がよい」そして「プライベートな人付き合いは少ない方がよい」、これらは私の基本的な考え方だ。おそらく一般的な考え方ではないかもしれない。もちろん私の考え方を誰かに強制するつもりもない。ともだちが多いことや人付き合いの多いことを「生きがい」にしている人も多いだろうし、それを否定する気は全くない。でも何故に私がそう考えているか、ここで簡単に紹介したい。

私が子供の頃、「ともだちをたくさん作りましょう!」というのは学校や地域社会での大きなスローガンになっていた。もちろん今でもそうだ。先般、娘の中学校の保護者説明会でも「是非どもだちをつくってください」という学校側からの強い要請もあった。そして大人になっても「ともだちが少ない相手は恋愛パートナーにふさわしくない」なんて論調も多い。さらに「付き合い」を大事にしないヤツは社会人として失格なんて論調は今でも多い。しかし私が大人になって社会人(サラリーマン)になって、そして結婚して子供ができて・・・そして会社ではルーチンワークではなく重要な仕事を任されるようになった。そうなると「ともだち」、そして「プライベートな人付き合い」は間違いなく減ってきた。

そして現在、私が何を重視しているか? それは当然ながら「仕事」、そして「家庭」だ。たまに休みには趣味の農作業や読書、そして音楽を楽しんでいる。会社で難しい仕事や重要な仕事を任されると、当然ながら様々な勉強も必要になる。専門分野だけでなく経営学やマネージメントスキル、そして語学力・・・仕事でそういうスキルを必要とされているから仕方がない・・・というのがきっかけだったが、まあ結構それはそれで楽しい。おそらく「学生時代の私よりも勉強している」と我ながら思える。

そうなってくると当然ながら何かが疎かになる。それはプライベートなともだち付き合い、そしてその他の付き合いだ。かつて、私の父(すでに他界)は仕事も熱心だったが、仕事関連の人たちとの付き合い(そのほとんどが飲み会)も熱心だった。母も学校のPTAや町内会に熱心だった。また、お盆や正月になると必ず親戚が一同に会して食事会なども多かった。 おそらく必要か必要じゃないかというより、そういう時代だったのかなあ? って思う。そして当時は家庭を省みない父親というのが当たり前になっていたようにも思える。そして近所付き合いや親戚付き合いも大人の女性たちの「義務」だという意識も強かったのかもしれない。

私がこのようなコメントをすると「付き合い悪いヤツ」とか「友人を大切にしないヤツ」って思われるかもしれない。実際にそうおもわれたこともしばしばあった。でも近所付合いなんて挨拶する程度で十分だ「どーも、こんにちわ、ではまたー」なんて感じで・・・親戚付合いも葬式があれば「このたびはどうも・・・」なんて言えばよい。「どうも・・」ってホントに便利な言葉だ。それからPTAなんてどーでもいい。それよりも、もっとやるべきことはある・・・というのが私の考えだ。

もちろん私にだって親友はいる。かつての音楽仲間と再会すると当時が蘇る様に盛り上がる。そこでは社会のグチや不満を言い合うのではなく、お互いに社会人でとして成長していることを認め合うような雰囲気があった。 それこそ真の友人なのかなあって、つくづく思う。 もし私がいい加減な社会人になっていたら意気投合することはなかっただろう。今度、いつ会えるか解らない。彼とは「普段の付き合い」はないが、どこかでつながっているように思う。それがホントの友人だろうし、そういう人はそう多くはいない。

重要なことは常に個人のスキル向上に向けて勉強や訓練をすること。そして妻と家族を大切にすること。私にとってはそれが最も重要なことだ。したがって仕事以外での特定の団体には所属していない。「ともだちつくりましょー」って甘い言葉で怪しい宗教団体や政治団体に協力する若者も多いようなので・・・そういうことには注意が必要であることはここで強調したい。まあ、とにかく私の場合は仲間を増やすとかよりも身近なものを大切にする方に徹している。もちろん時々このようなブログ書いているのでブロ友つくることも悪くはない。しかし、それもネット上だけで十分だ。

ちょっと話題が飛躍するかもしれないが、国際関係だって「ともだちを多くつくること」が何よりも重要だとは決して思わない。集団的自衛権とか同盟国なんて言い方されるが、ともだち多く作ったからと云って自国が豊かになるとは限らない。もちろん無意味なケンカをする必要もない。近所付合いと同じように、「こんにちは、どーも、それではまたー」で十分だと思う。あるいは状況によっては仲間(同盟国)をつくってもいいかもしれない・・・でも決して他人(他国)のことに深入りするような付合いは決してしないこと・・・これは肝に銘じるべきだろう。

意外にも「ともだちは少ない方がよい」というのは色んな意味で当てはまると思う。自己を磨き、家族を大切にする・・・そうすれば真の友人はどこかで見守っている。これは私の哲学です。そういう発想もあってもいいとは思いませんか? 


テレビを見るとバカになる!?
昔、私が小学生の頃、学校の先生から「テレビを見るとバカになる」と言われたことがあった。当時、私はテレビが大好きで夏休みになるとよくアニメの「ど根性カエル」を楽しんで見ていた。だから「先生って酷いこと言うなあ」なんて思ったものだった。しかし結論から言うと当時の先生の言うことは正しかった。それは、むしろ現在のテレビに完璧に当てはまる。

私が子供の頃、ドリフの「8時だよ全員集合!」とか、「電線マン」とか実に低俗な番組が多かった。しかし、それなりに面白かった。また藤本義一のイレブンPMは、当時の小学6年生男子でも興味深深の番組だった。母親の目を盗んで1台しかなかったテレビを見たのを思い出す。現在では放送倫理委員会とか、何を基準に「倫理」を語るのかよく解らない規制が出来た。また、当時はヤクザが出てくる番組も多かったが最近ではそういうネタもめっきり減少した。

またサスペンスでも、あの「土曜ワイド劇場」はすでに長寿番組になった。当初は結構おもしろかった。しかし現在では観光地PRがメインになっており、ストーリー性の乏しい内容となっている。それどころか有名女優の入浴シーンがあると辛うじて視聴率が上がる程度だ。それはかつての「水戸黄門」の由美かおるの入浴シーンで視聴率が少し上がる現象と全く同じだ。

最近では「家政婦のミタ」とか「半沢直樹」とか比較的ヒットしたドラマもあるが、それらは原作や脚本の良さが大きな要因であって決してテレビの良さではない。テレビ局独自の製作で上手くいっている番組なんてほとんどない。その証拠に俳優さんや芸人さんもテレビ局に対する不信感は強まっているという。

まあ、今も昔もテレビが低俗であることは変わりない。私もドリフの「全員集合」は見ていた。当時、私は勉強も疎かになって多少バカになっていたかもしれない。でも、今は真面目に働いている。そして家族も養っている。当時のドリフの加藤茶や志村けんは真剣にバカを演じていた。そういう真剣さは子供にも伝わっていた。私は、あれはあれで非常に良かったと思っている。

がしかし・・・現在のテレビは違う。バカをやっちゃいけない風潮にある。それは放送倫理とか何とやらのせいもあるかもしれない。また1980年代頃から「報道番組」が増えた。そこでは一種の「世論操作」や歪んだ「人権意識」が潜んでいることに容易に気付く。討論番組でも決して結論を導かないようになっている。なぜならスポンサーを見るとその意味は解る。・・・つまり「土曜ワイド劇場」の観光PRと同様に、報道番組も人権団体などの各種団体のPRの場と化しているということだ。

結局、テレビはすべての宣伝やプロパガンダの場であり、庶民の娯楽の場ではなくなったということだ。当然ながら昔のテレビでもスポンサーは存在した。しかし番組自体の内容に露骨に介入することは少なかった。なぜなら、ある程度視聴率が高ければ、そういう小細工する必要もなかったからだ。しかし現在は全く違う。すべてのテレビ局の視聴率は低下に一途である。CMだけでなく番組自体にコマーシャル性がなければスポンサーになるメリットがないということ。そうでなければカネを出さないということだ。

宣伝やプロパガンダに振り回されるテレビ・・・。当然ながら視聴者も「バカ」になる。それはドリフの全員集合を見て「バカ」になるのとは意味が全く違う。真剣にバカになることは素晴らしい。スティーブ・ジョブスの「Stay Foolish:バカのままで」という発言は多くの人の共感を得た。しかし、一方通行であるテレビ番組では思考停止となりバカになる。そういう意味で現在の「テレビを見れば本当にバカになる」と断言できるだろう。


テレビは天気予報だけで十分だ!
もともとテレビ嫌いはの私だが、最近ますますテレビに嫌悪感を感じてきた。8月になると決まってくだらない戦争ネタ番組を報道する。また「ヤラセ」「世論操作」がミエミエの番組が多すぎる。一時期はニュースだけは見ようと思っていたが、それも偏向報道ばかり・・・朝からイライラ、ムカムカがたまる一方だ。さわやかの朝を迎えるためにはテレビはもはや邪魔な存在となった。

しかし天気予報だけは違う。気象衛星の画像も鮮明になり、予報の的中率も向上している。天気予報だけレベルは向上している。これはテレビ番組が努力したわけではない。気象庁、ならびに技術開発に関わった様々なスタッフの努力があるのは云うまでもない。もちろんスポット的なゲリア豪雨などは現在でも予測するのが難しいといわれているが広範囲で危険予知することは可能だ。

また、お天気キャスターはそのルックスだけでなく「気象予報士」という公認の専門家が行うことが多い。それもレベルアップにつながっている。原稿を読むだけでなく、質問にも答えられるような人材育成をしている。通常のお天気だけでなく、台風や竜巻、地震や津波情報は重要な情報源であることは間違いない。こういう人材育成は地味なようで結構重要かもしれない。

30-40年程前の欧州ではテレビ番組は1日数時間というのが当たり前だった。現在でも日本の地方局では放送のない時間帯も存在した。私もテレビなんてものは朝と夕方の合わせて2時間程度で十分だと思っている。それ以外は有料でアニメやスポーツなど専門番組をやればいいと思っている。あとはネット中継などで十分だ。

そして何よりもテレビ大好きの60歳代以上の老人たちを何とかしなければならない。「テレビを見るとボケる」から開放させることも必要だ。だいたい家でゴロゴロして何もせずテレビ鑑賞に明け暮れているからボケが更に進行する。テレビ放映を強制的にシャットダウンさせる。そうすれば外に出て少しはカネ使うかもしれない。もちろん熱中症には気をつけて、朝の天気予報だけ見てから外出する。そうすれば高齢者の人生は明るくなる! だからテレビは天気予報だけで十分だ!


体育会系の悲劇
あの久米宏がラジオ番組で「猛暑の中、東京五輪を開催することに反対」との意見が話題になっている。最近の連日の猛暑で高齢者を中心に熱中症で病院に搬送される方も増えている。たしかに久米宏のような「老人」も熱中症で死亡する可能性はある。私は高齢者ではないが、畑仕事は早朝と決めている。そうしないと体が持たないのは現実だ。

しかしアスートというのは過酷な環境でも訓練している。中学生や高校生の体育会系も暑い中よく練習している。夏の甲子園も暑い(芝生の上はそれほどでもないようだ)、サッカーでも暑さで倒れる選手はそういない。それよりも他の選手と衝突したり、柔道のように頭を強く打ったりすることの方が危険だ。アスリートはそういったリスクを常に考えてプレイしている。たしかにスポーツにリスクがあるのは間違いない。

それより2022年の冬季五輪は北京に決定したようだが、この地域では雪は降らない。冬場の大気汚染は凄まじい。雪の無い地域の冬季スポーツでは会場がマイナス20℃以下になったりすることもある。すると唇も割れるし深呼吸すると肺が凍る・・・それこそ危険極まりない状況となる。実際にスキージャンプの高梨サラ選手も海外遠征で顔の肌を何度を亀裂を負ったとのこと(10代の女性としては大変だ)。また人口雪のスキー会場ではコースアウトしたときの危険性が高いと言われている。特に2018年の韓国の平昌五輪ではそういったことも懸念されている。

従って、久米宏が北京冬季五輪に反対して東京五輪も反対するなら多少理解できる。おそらく、もともと東京五輪は反対だったことに加えて、都合よく何かイチャモン付けたに過ぎない。これはかつて北京五輪は大賛成で東京五輪に大反対した福島瑞穂と同類の匂いがする。一方で純粋にスポーツをするアスリートからすれば既に決まったことに粛々と従うといったところだろう。にもかかわらず、こういう無責任なコメントをするのはアスリートも憤慨しているに違いない。もちろん、それぞれの種目にとって「やりやすい」「やりにくい」の会場はあるだろう。それでも対戦相手も条件は同じなので、いかにしてその条件下で対応するかも重要となる。それも五輪のみどころと言えるだろう。

実は私も中学、高校と体育会系だった。そもそも体格のいい男性は体育会系へ行くのが当たり前だった。おそらく現在もそうだろう。中学校で文化系といえば吹奏楽部と美術部くらいだ。若者は「体力」と「精神力」を養うことが重要!と今でも言われるが、社会に出ると体力勝負の仕事はそうはない。精神力も大事だが、運動しないと精神力が養えないわけではない。もちろんスポーツでプロになる人はごくわずかだし、スポーツ選手というのは35歳くらいが限界である。もちろんスキーのレジェンド葛西や野球の山本昌なども凄い人の存在するが50歳以上になると殆どいない。私はスポーツそのものを否定するわけではないが、もっと文化系の部活動やサークルも増えてもよいのでは?と私は個人的に考えている。

私の尊敬するフルート奏者のジャン・ピエール・ランパルは78歳で亡くなるまで現役で演奏していた。日本の人間国宝といわれる人たちも高齢者になりながらも技術は頂点に近づく。しかし相撲とりは短命が多いし、死ぬまで現役で相撲する人はいない。プロボクサーでも20代後半で引退してヤクザになる人も多いという。そもそもスポーツというのうは古代ギリシャやローマの時代から「見世物」のようなところはあった。優勝すれば月桂冠をかぶったヒーローとなるが、そうでなければ虐げられる。

五輪のように勝手に「国家の威信」を強調された場合、負けたアスリートは一生負い目を抱くことすらある。現代だってそうだ。散散盛り上げたアスリートは引退すればタダのヒト。ごく一部の元アスリートはコーチになったり解説者になったり、松岡修三のように現役プレーヤーより高収入になることもあるようだ。がしかし多くの元アスリートはひっそりと暮らしている。もちろん、それで納得していることもあるだろうが・・・。どこか寂しさを感じる。

もちろんトップアスリートになれば、それは大きな「誇り」にもなるし「生きがい」にも、そして「歓び」にもなるだろう!しかし社会を支えているのは何もスポーツ選手だけではない。機械系の技術者、食品技術者、そうじのオバサン・・・みんなプロだ。たしかに誰も注目していないかもしれないが、そういったプロたちが社会を支えている。そしてこういった方々は高齢者になっても活躍している。

本当にアスリートを心配するなら、こうしたスポーツ偏重の学校教育を見直すべきではないだろうか? 本当の意味での「体育会系の悲劇」を起こさないためには根本的な別の発想も必要なのかもしれない。


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「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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