理系おじさんの社会学
01 | 2015/02 | 03
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

子供の教育とは?
川崎の中学一年生殺害事件が連日テレビニュースやネット上でも話題になっている。今回、この事件については私はあえて詳細コメントする気はない。しかし日本の「教育制度」というものを根底から見直す必要があることを改めて感じた。子供だけの世界とは、いつもいつも結構残酷なものだ。どうしても無知、未熟な子供の思考状態が露呈する。しかし体だけは成長する。そうした人間的にアンバンランスな中学生や高校生だけが集団になると当然ながらアンバランスな子供社会が形成される。よく「子供は子供同士で・・・」なんて主張する大人も多いし、「子供の喧嘩に親が口出すな・・・」なんて言葉もよく聞かれる。

しかし、それは間違っている。子供は大人とともに成長する。そして、子供は大人とともに社会を築き上げる。そして大人だって子供とともに成長する・・・それが生物学的、歴史的、あるいは社会文化的な正しい解釈だ。現在、日本の義務教育制度は6+3の9年制度であり、戦前のいわゆる「丁稚奉公」は制度上は無くなった。しかし高級職人や歌舞伎界、相撲界では子供の頃から大人とともに訓練するし、音楽家は子供のころから英才教育されている。それを子供への「人権侵害?」とか「一般教育を受ける権利の剥奪」といった解釈をする現代人は非常に多い。あのノーベル平和賞受賞したマララさんのイメージも強くなり、「一般教育=絶対正義」のような世論が形成されている。

まあ小学6年までの義務教育はとりあえずヨシとしよう。しかし中学、高校はどうだろうか?私は以前から主張しているように「職業訓練」を義務化すべきと考えている。そもそも中学生や高校生があんな教室で座ってつまらない勉強をしているから、ストレスもたまるし、イライラしたりムラムラしたり、ロクなことは考えない。実は私も中学、高校時代はそうだった。いや、多くの既に成人している日本人はそうだったと思う。しかし一般的に、良い高校卒業して⇒良い大学を卒業して⇒良い会社に勤める・・・という将来設計しかできない社会構造だったことも事実だ。

とくにかく大人は生活できる水準の収入がなければならない。あるいは教育訓練の期間中でも生活が保証されなければならない。そう考えると、やはり丁稚奉公制度をよくできた制度だった。江戸時代、奉公人(訓練生:こども)の身分では給与はなかった。しかし衣食住は保証されていた。また奉公換え(今でいう転職、あるいは転学)は頻繁に行われていた。特に近江商人の場合は長年つとめた奉公人よりも中途採用の者が上の階職につくこともあったという。つまり現代の能力主義と同じだった。これって、中国人研修生(実質は低賃金労働)を受け入れて時期が来れば帰国させる制度より数段?いやはるかに上の制度だ。

現代の日本社会では、医療介護の人手不足もあるし、土木建築の人手不足も深刻だ。なぜ、こうした中学生や高校生を教育訓練も兼ねて労働力とできないのか不思議でならない。結局は「一般教育を受けさせること」を絶対主義として、精神的にアンバランスな子供たちを小さな社会に閉じ込めた。それが返ってその子どもたちの人権を侵害し、結果的に様々なイジメ問題を発生させたのではないだろうか? 私の個人的な経験から、学校で学ぶことより仕事で学ぶことの方がはるかに多かった。しかし多くの公立学校の教諭たちはそれを理解していない。なにせ多くの一般教諭たちは一般の仕事の経験がないからだ。

大学進学なんて、時間とカネに余裕ができればいつでもできる。私も余裕があれば再度大学で学びたいなんて考えることもある。あのタレントのキンチャンこと萩本欽一さんが70歳すぎて大学入学するニュースも話題になっている。大学って、もしかしたらある程度社会経験してからのほうが効果があるように思える。 とにかく教育問題に関して、海外を参考にするとかグローバルに合わせるとかではなく、日本として独自に再検討することが必要だろう。


スポンサーサイト
漁業と安全保障
昨日(2/22)、与那国島の自衛隊配備について住民投票が行われ賛成多数という結果になった。法的拘束力はないものの、この結果の意義は大きい。いままで警官2名、拳銃2丁のみで島に警備に対応していたが、中国の密航船の往来やかつての中国弾道ミサイルの近海着弾で地元の漁業関係者を悩ませてきた。投票権は、中学生以上の未成年者や、永住外国人にも与えられたことも議論を呼んでいる。

さて同じ2月22日といえば「竹島の日」、恒例の式典が行われ韓国が反発するという「お決まりパターン」が繰り返された。そして沖縄米軍基地反対運動で反対派が初めて米軍と身柄確保されるというニュースも入っている。こうしたニュースを見ていると共通のキーワードとして「日本海域の安全保障」はもちろんあるが、「漁業」というキーワードもある。つまり竹島も与那国島も地元の漁業関係者の強い意向がある。また辺野古基地移設に関しても地元の漁業関係者の反対もある。

そして日本の保守系の勢力は「竹島の日」に賛成して、与那国島の自衛隊配備に賛成する。これは漁業関係者と利害が一致する。しかし辺野古移設に関しては地元漁業関係者と利害は対立していることになる。要するに漁業関係者からすれば相手が韓国、中国であろうが米軍であろうが魚場を荒らされたら困ると言うこと。そして辺野古では本土の左翼、環境保護団体等が交じり合っているので問題は複雑だ。さらに地元の経済活性化を期待する声も多いので利害関係が複雑になりすぎている。

もともと私は辺野古移転ではなく空母(自衛隊)の配備をはじめとして、海上自衛隊や海上保安を強化、および整備すべきと考えていた。また陸上に地対空ミサイルの配備、あるいは弾道ミサイルの配備の方が安全保障上、また地元の漁業や環境を考慮してもベターであると考えていた。しかし、そうした有効な策をとれないと判断された以上は辺野古移転は仕方がない・・・という考えだ。もし辺野古移設反対派がそうした妥協案を示せばよいが、なにせ本土の左翼(大陸系)が混じっているので難しい。

本来は日本の保守系勢力と環境保護団体は協力しあっても良いはずだ。そもそも環境保護だって保守と解釈できる。しかしながら環境保護団体は何か「眉唾」のイメージが付きまとう。それにアレルギー示す日本国民は随分多い。私だってそうだ。あの反捕鯨のグリーンピースのイメージが強すぎる。しかし環境保護思想というのは単純なものではない。歴史的にも日本人は常に自然といかに共存共栄するかを模索してきた歴史がある。

そんな中でもう一つ興味深いニュースがあった。それは日本近海でのマグロの漁獲量激減だ。ニュースでは底引き網漁法で稚魚を捕獲することや、産卵期を迎えるマグロの捕獲が原因と伝えられている。このような内容が事実とすれば、ヒトと自然とが共存共栄していないことを意味している。日本は、中国の赤サンゴを一網打尽にする密漁を強く非難しているが、日本の漁業のやり方も本当に適切なのか考える必要がある。

以前にも紹介したが、福島沖の魚介類が増加しているというニュースがある。つまり原発事故後に数年間の漁業停止した結果、海の魚介類が復活することを意味している。このように短期の利益追求のためだけの漁業政策では限界であること。こういう考え方も安全保障(食料安全保障)として重視すべきだろう。

資源や財産の奪い合いの議論ではなく、日本の安全保障政策とともに漁業政策もじっくり考慮する必要があるだろう。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

財産権と既得権益
安部首相は国会の所信表明演説で相変わらず「岩盤規制の打破」という言葉を口にする。また、かつて小泉政権下から「抵抗勢力」とか「既得権益の打破」という言葉が飛び交った。岩盤規制とは何を意味するのか?抵抗勢力とは何を意味するのか? これをまともに回答できる人は誰一人いない。何故なら、それらの言葉の定義が明確ではないからだ。

一方で「財産権の保護」というものは憲法でも各種法令でも明確に保障されている。日本は、中国のように土地の所有権が無いとか、選挙権が無いという状況ではない。国家として「国民の生命、財産を守る」という言葉も安部首相はよく口にする。しかし、ここで大きな問題(矛盾)が浮上する。それは財産権と既得権益は何が違うのか?ということだ。これも明確な定義はない。つまり立場によっては財産と見えるし、場合によっては既得権益と見えるということだ。極端な表現すれば、日本人が日本人であることが最大の財産であり既得権益であるとも言われる。

そもそも財産というのは負の財産もあるし、正の財産もある。ある個人や法人の権限を政府が剝奪して自由に分配することはどこまで許されるのだろうか?例えば、納税義務というものは国民が行政サービスの受ける権利だけでなく財産(資源)の再分配することを意味しており、結果的に社会の安定に貢献していることは紛れもない事実だ。また郵貯や農協も守られた存在ではあったが、それが結果的に地方弱者への再分配の意味合いも大きかった。しかし時代は流れ、そうした役割が自由にされるべきという議論は決して間違っていない。農協関係者ですら「ぬるまゆ」だったと表現するくらいだ。

しかし居住に関わる土地や建物、そして仕事(特に自営業)の場合、その財産を自由に再分配できるなんてことは生存権に関わることだ。特に仕事の場合、長い年月(あるいは何世代)を掛けて築き上げた地位や立場を本人の意志に関わらず再分配されることは許せないことなる。一方で新しい世代や新規事業参入者からすれば、そうした守られた世界があるために自由なビジネスができないなんて不満を言う勢力もある。

かつての第一次、第二次大戦は欧米列強の世界の植民地支配体制という「既得権益」を打破すべく日独伊三国同盟が存在したという解釈もできる。つまり当時は英米支配という岩盤規制の打破を目的としていたと言える。しかし勝てば官軍、撒ければ賊軍・・・それが現代までも多少引きずっている。しかし日本もドイツも元々の底力があり戦後の世界秩序ががどうこうという議論をしなくても存在感は依然として高い。

どうしても政府や役人というのは、「自由」と「仕組みつくり」を中心に考える。たしかに技術力や教育水準だけでは、グローバルシステムに飲み込まれることもあるだろう。しかし技術や教育水準が極めて低く、システムだけで社会が成長することはありえない。また守られ過ぎた環境では人間は成長しないのは生物学的にも事実だ。では、財産であるヒト、モノ、カネ、文化といったものは守られるべきものと自由発展させるべき比率とはどれくらいが適切なのか?という議論になる。ここが重要なところだ。しかし世間では、保守にしても革新にしても権限の奪い合い議論なるのが残念だ。冷静にバランスをどう考えるかということを論理的に思考することが必要だろう。

大阪都構想の大議論
最近、大阪の橋下徹市長と内閣官房参与の藤井聡氏との大阪都構想についての議論が話題になっている。橋下市長は在特会の桜井会長のときと同様に「公開討論会」を持ちかけている。一方で藤井氏はきっぱりと断ったとのことだ。まあ、桜井会長の時は、橋下市長が持ちかけた討論会にも関わらず何の資料も準備せず勝手に討論を打ち切るという橋下氏の印象の悪さが際立った討論だった。討論というよりタダの「ケンカ」だった。そんな「ケンカ」のような討論会だったらする必要はないだろう。

もっとデータにもとづいて、あるいは様々な資料に基づいて議論するなら意味があるだろう。しかし政治家である橋下は決して詳細なデータは示さない。いや、政治家というのはそういう生き物だ。結論は決まっている。仮に橋下氏が「いやー藤井さん、あなたの言う通りですね!」なんて心の中で思ったとしても同意するはずがない。それが政治家というものだ。詳細議論はともかく、既に方向性を示して政治活動している限りは大転換は政治生命に関わる。にもかかわらず橋下氏の側(公権力側)から「気に入らない」と言って公開討論を依頼するなんてホント馬鹿げている。

さて本題の大阪都構想の是非はどうなのか?それが重要だ。確かに様々なメリットもデメリットもあるだろう。こういうことはカネの流れを正確に把握しないとそれぞれのメリット、デメリットはよく解らない。一つ言えることは地方は国と違って金融政策はできないから収支のバランス、そして行政サービスの内容が重要になる。収支に関しては大阪から外に出るカネも多いだろうが、入るカネも多い。藤井氏が指摘するように200億円?が大阪市以外で使われることはあるかもしれない。しかしそれが結果的に大阪のためになるなら良いが、そうでないならば不満は大きくなる。それは様々なスタイルで生活をする都会(大阪市民)の住民にとって、それぞれで意見が異なるのは当然だ。

国政にしても地方行政にしても「誰が」「誰のために」という関係があって、「誰が負担して」そして「誰がサービスを受けて」という問題になる。そして地方行政の場合は収支の問題が発生する。町内会のような小さな組織ですら、町内のためではなく予算が「日本赤十字への寄付」「地区連合への上納金」「社会福祉協議会」のような外部への支出比率が多ければ多いほど町内の誰かが不満を感じるのと同じである。

そもそも小泉政権時代、地方分権を旗印に所得税と住民税の比率が変わったこと。これが地方を混乱させる原因であったことは間違いない。もちろん国税の比率が高いと地方の意見が反映できないとか、無駄?な公共事業が増えるとか、二重行政の弊害というデメリットは確かにあっただろう。そして結果的に平成の市町村大合併は進んだ。都会の住民からすれば予算は「自分たちのために」と考えるのも当然のこと。そして収入の多い地域は何とかなるが、そうでない地方は破綻するか、国が救済するしかならない。大阪の場合、税収も高いが生活保護費も高いので更に問題はややこしい。

結局、この問題は税制と行政サービスの問題だ。私の個人的意見であるが、納税比率は個人である程度選択できるようにすべきと考えている。例えば直接税(所得税、住民税)の場合、20%は国税、30%地方税をそれぞれ固定(半分は固定)にする。残り半分は個人で決めるというもの。国を重視したい人は国税を計70%、地方を重視したい人は地方を80%とする・・・とか、もちろん故郷納税(他府県への納税)選択もあってもいいだろう。あとは地方ファンドのような納税もあってもいいだろう。地方ファンドが成功すれば配当もある。利用方法が明確でない地方債より余程マシだ。そうすれば、納税される行政側は「是非、我々に納税を」と訴えて、中身と実行力のある行政にする方向になる。これって結構緊張感のある行政になるだろう。

ちなみに間接税である消費税は5%に戻して全額国税とすること。消費税に地方税が含まれるのはあまり有効ではない。消費税というのは、あくまでも国家としての金融政策と連動させて物価制御をさせるべきものだ。また住宅ローン減税は国税(所得税)が対象であり、住民税の比率が上昇してから恩恵をうける人が減っている。いくら控除額を拡大でしても、そもそも年間20万円以上所得税は払っている若い世代は極めて少ない。・・・要するに効果がないわけだ。そうした若年層への配慮がないと景気は向上しない。購買意欲のある若年中堅層に配慮すべきである。カネまわりを良くするためには必須の政策だと私は考えている。

しかし大阪都構想に関して、そうした税とサービスの問題ではなく「権限」の奪い合いになっているように見える。このブログでは何度も述べているが、そもそも国家主権は存在するが地方主権は存在しない。江戸時代の幕藩体制では藩札発行(金融政策)も出来たし、それぞれの藩の武士(軍)も存在した。つまり現在よりも地方主権は強かった。それは現代では常識である「移動の自由」がなく「職業選択の自由」がなく、「信教の自由」もなかったからだ。つまり個人の自由がなければ地方(集団)の主権がある。個人の自由があれば地方(集団)主権はないということだ。もっと判りやすくいえば、国家として「法の下の平等」があり、自由があれば個人の権利は存在しても地方には主権はないということ。

たしかに国家として人口が1億を超えると一つの主権国家としてコントロールするのが難しくなるのは事実だろう。中国やインドを見ればよく判る。あるいはアメリカのように州ごとに分権させるには日本は規模が小さすぎる。従って日本では地方分権や道州制を進めることは難しい。特に北海道や沖縄は国が投資(交付金)を続けなければ発展は難しい。国土の均衡ある発展はまだ達成されていない。地方のインフラや仕事さえあれば人々は移動する。都会に住む多くの人々だって本当は移動したがっている。

私の考えはこうだ。そもそも大阪都構想は問題点のアプローチ方法が間違っている。これは藤井氏が主張するように住民投票したって大阪都になることはない。最終的には国が動かなければ不可能な話だ。それよりも国と地方の全体的な「税とサービスのあり方」を考える方が近道だ。政策論争とは可能な限り「権限の奪い合い」にならないような仕組みつくりにする方が望ましい。私は、そういう意味で大阪都構想や道州制には反対である。 どうしても議論ではなく「ケンカ」となる。そうした構想であること自体が問題である。


テーマ:都市計画・防災・復興 - ジャンル:学問・文化・芸術

基本的人権の尊重とは?
日本国憲法の三原則として、「国民主権」「平和主義(戦争放棄)」そして「基本的人権の尊重」がある。この崇高?な理念の追求のために様々な憲法条文や各種法令が存在する。これらの思想はアメリカ独立宣言やフランス革命といった啓蒙思想をベースにしており、フリーメーソンの理念でもある「自由」「平等」「博愛」が根底にある。これらの思想はかつて欧州の絶対王政や過度な帝国主義などの歴史的な反作用によるものと考えるべきだろう。

日本国憲法もそうした思想の影響を受けている(受けさせられた)。現代日本において、特に「基本的人権の尊重」という理念を根拠にして、「人権派」は様々な人権擁護活動を行い、特に弁護士にとってそれが事実上の重要な収入源となっている。また個人の自由の尊重として「宗教の自由」、「職業選択の自由」、そして「移動の自由」という原則がある。これも個人主義というか、ワガママとも言える行動までも正当化させるための口実として、こうした憲法解釈を引用されることは非常に多い。

上位規定?と考えられている憲法の内容が保証されるべきという解釈が一般的に強いため、しばし最高裁は社会理念と解離した判決を下すこともある。そして「報道の自由」を声だかに叫んだり、選挙での「一票の格差問題」を大きく取り上げたりするのは、こうした憲法の内容を絶対視する理念が存在するからだ。はっきり言って、報道規制にしても一票の格差問題にしても社会に与える悪影響など皆無である。にもかかわらず、こうしたことを主張するのは悪く言えば憲法解釈の悪用であり、結果的に自己権利の拡大や弁護士報酬の拡大につながるだけである。

人間は一人では生きていけない。広い砂漠の中、あるいは大洋に浮かぶボートの上に一人存在してもすぐに息絶えてしまう。社会インフラはハード面もソフト面も絶対に必要だし、人々の協力も必要だ。基本的に人間は社会性のある生物であり、多少なりとも他人に迷惑をかけたり、貢献したりしながら生活している。そして何だって義務と権利というものが存在する。それを権利ばかり主張するから眉唾モノになってしまう。すでに多くの人々は気付いている。

たしかに人権問題は現代も存在する。それは、例えば子供のイジメ問題、長時間労働、強制ボランティアなど・・・。しかし多くの弁護士は取り上げない。何故なら「カネにならない」からだ。一方で国家を相手にしたり、大企業を相手にするとカネになる可能性が大きい。しかし実際の労働問題は中小企業や破綻しかかった大企業で多いのは明らかだ。また近隣トラブルに伴う嫌がらせのような人権問題はむしろ閉鎖されたムラ社会や防音壁のないアパートだったりする。しかしそういう問題は事件が発生するまで放置される。

つまり相手の「支払い能力」の有無で人権問題がクローズアップするわけだ。公立学校教諭の不祥事や警官や自衛隊員の不祥事を優先して報道するのもマスコミが注目を浴びて、大きな組織へのバッシングをしやすくするため。一方で小さな組織やコミュニティーでの不祥事は全く報じない。要するに「人権活動に公平公正は存在しない」ということだ。現代の売春問題に目を背けて70年前の慰安婦問題をクローズアップするのも、そういう背景がある。弁護士は依頼がなければ活動しない。依頼があるものはカネが動くもののみである。現代の人権活動=カネといっても過言ではない。

基本的人権の尊重、そして法の下の平等・・・この理念は私も正しいと考えている。しかしその活動の目的は何か?そして誰のための活動か?という視点で考えればよーく社会がよく見えてくる。


憲法と法律の違い
憲法と法律の違いを論じるときによく「憲法:国民の味方で政府を縛るもの」で「法律:憲法の下で政府が国民を縛るもの」と解釈されることが多い。すると現行憲法が本当に国民の味方になっているのか?とか、政府が国民を本当に縛っているのか?という疑問が発生する。よく左翼、護憲派は「憲法」を絶対的な神のような存在と信じ、国家(政府)の横暴は許さないといった基本思想が存在する。それは完全に先の大戦のトラウマである。

しかしよくよく考えると憲法で定める記述が国民の味方になっているとは到底思えない文言が多い。そもそも前文の「・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」 はあ? アメリカに公正と信義があるのか?中国に公正と信義があるのか?答えは小学生でも解る。そんなヤクザ国家のような国々を信頼して・・・悪い冗談を?・・・いやそれが憲法の前文になっている。あの左翼護憲派だってアメリカの横暴を非難しているではないか?しかしこの前文は憲法の理念でもあるので覆すのは大変だ。何しろ絶対的な神のような存在と信じている勢力があまりにも多いからだ。

命令されたことに忠実に従うことを好む人間は、自ら思考するという面倒さを拒否する。それは護憲派だって右翼だって同じだ。おそらく人間の動物的本能なのかもしれない。だって楽だもん。そして一見してカッコいいからだ。反政府主義とか反骨精神だって「タダのカッコつけ」の色彩が強い。あの60-70年代の学生紛争も思想哲学というより何やら娯楽と同様の空気の影響だったように思える。もし本当に公平公正を求めるならば科学技術を学ぶことが最も近道だろう。

保守系の勢力が主張するように現行憲法が戦後アメリカからの押しつけ憲法であったことは疑いのない事実だ。「強い日本」を否定して「やさしい日本」を望むのは社民党だけではなく中国であり朝鮮であり、そしてアメリカである。つまり言葉を換えれば「弱い日本、諸外国の言いなりの日本」が諸外国にとっては都合がいいのである。しかしそんな諸外国も「平和を愛する諸国民の公正と信義」扱いなのだから本当にバカバカしい限りだ。

日本の弁護士のほとんどは日弁連に所属しているが、その代表は都知事選でも話題になった共産党の宇都宮氏である。また日弁連として死刑廃止を訴えている。もちろん個別の弁護士は様々な思想哲学を持っているが、個別の弁護士の収入安定、および収入向上のためには人権派活動は欠かせなかった。はっきり言って弁護士も商売だ。どれだけ凶悪犯の被告でも弁護依頼を受ければ弁護するのは法律上認められた権利であり、それが「仕事」だった。これらがなければ彼らは収入を絶たれる。請け負った仕事は最後まで全うする・・・日本人らしいといえば日本人らしい精神も見え隠れする。

しかし今後は朝日新聞への集団訴訟のように1万人以上が賛同して裁判活動ができる(収入が安定する)なら、日弁連は左翼系ではなく保守系にシフトすることもあるかもしれない。要はカネと世論だ。内容は何だってよい。しかし新聞記者も弁護士も社会のバッシングを浴びるのは辛いこと。仕事(収入)のために一線を越えるとどういうことになるか。結局、法律と社会はそういう関係をもたらしたということ。

このように政府が法律によって国民を縛っている側面は少ない。つまり法律は商売(利害関係)に利用される。例えば法律の規制緩和は必ず何らかの商売が必ず関連している。私の解釈では、憲法が国民を縛っている。そして法律は社会を守っている。それが現代日本の基本構造である。もちろん様々な法改正も必要だろう。しかしそれは誰のために?を考えるべきであって憲法だって誰のため?と考える必要がある。


「安楽死」と「命の選択」が高齢化社会を救う
前回のブログで「道徳教育と裁判員裁判」について記事にした。そこで私は「犯罪は許さない」ということを強く主張した。では日本の現行法の犯罪の定義は適切なのか?という問題に直面する。凶悪犯罪は誰もが許さないのは皆同じだろう。もちろん「ヒトを殺して何が悪い?」という哲学や歴史的解釈は存在するのは事実だ。しかしそうした表現は、誤認や誤解が生じやすくなるので極力避けたい。やはり現行法の犯罪の定義を考える必要があるだろう。

今回テーマとしている「安楽死」と「命の選択」について、私は合法化すべきと考えている。最近、高齢化社会の進行により「老老介護」とか「介護ノイローゼ」といった問題が多く発生している。そういう問題は「安楽死は犯罪である」という罪の意識と極限状態の苦痛との精神的な葛藤が根底にある。それは妊婦の出産前羊水検査も同じだ。つまり「命の選択」という罪の意識と「生かされることの苦痛」といった背景が存在する。

これらの問題は、当ブログのカテゴリ「命の選択と社会」の中でも詳しく記事にしている。たしかに法律は法律、ダメなものはダメという判断は法治国家として機能するにはある程度は必要なシステムだろう。しかし法というものは絶対ではない。三権分立の理念は決して司法が頂点に存在しないことを意味している。しかし多くの現代政治家たちは「法の支配と民主主義の重視」なんて政治家なのに政治的判断はしませんよ!と発言する。それは国家権力増大に対する民衆の不安感(過去のトラウマ)に配慮しているといえるだろう。

殺人に関して、犯罪者の人権を考える際に「安楽死させた」とか「命の選択をした」というケースには「情状酌量の余地」という何だか「お情け」のよう表現で刑を軽減したり無罪になったりするケースが多い。私は、何もそんな「上から目線」のような判決ではなく、「安楽死は合法」、「命の選択は合法」とすれば良いと考えている。もちろんそれを認めるためには様々な厳しいルール(ガイドライン)は必要だが。

一方、そうすれが本当の凶悪犯のような犯罪は絶対に許さないという認識になりやすくなる。加害者の人権を叫ぶのであれば、加害者の人間性や社会的影響を考慮した判決が望ましい。残念ながら現行法ではそうでないので裁判員裁判において仮に社会的に適切な判断をしたとしても、前例主義(判例主義)の最高裁では覆されるのが現実だ。もちろん裁判員裁判において大衆迎合するような判断も恐ろしいこと。やはり法律を根本的に見直すことが必要だろう。

あと問題になるのは人々の倫理、思想哲学だ。科学的根拠に乏しい倫理というのはいくらでもある。例えば「売春は悪」だとか「マリファナは悪」だとか。あの俳優の石田純一が「不倫は文化」という発言は芸能ネタとして受け入れられている程度だ。かつてポール・マッカートニーが来日したときにマリファナ所持が問題になったことがあったが、彼は「マリファナは健康に悪影響はない」といった趣旨の「事実」をコメントしているのに一斉に日本社会からバッシング受けたことがあった。まあ覚醒剤は医療以外では絶対禁止でマリファナは合法化すれば良い話なのだが・・・。

つまり法律というのは可能な限り「科学的根拠」と「社会性」との整合がとれるようにすべきというもの。もちろん、それでもすべての法律と社会的ギャップが完全に埋まることはない。だから法律が社会の頂点になることはあり得ないということだ。あのシナ朝鮮が法治国家ではなく、人智国家であることを決して肯定しているわけではない。基本的な法整備と法の下の公平公正は絶対に必要。しかし時代の流れに法整備が追い付かないようなことが多い。また悪法も数回適用されれば正義(判例主義)となる。それこそが裁判員裁判なりで判断となるわけだが、裁判員の責務は重いわり報われない。

やはり学問に基づいた世論形成というものが根底になければ、こうした法改正は難しい。もうひとつ大きな問題は何しろ日本国憲法が一度も手がつけられない。今後、益々少子高齢化社会が進行する。こうした社会に適応するためには少なくとも「安楽死の合法化」と「命の選択の合法化」を進めるべきだ。こうした動きは必ず日本社会を豊かにすることができると私は確信している。

テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

道徳教育と裁判員裁判
最近ニュースで「道徳教育」について取り上げられている。ここ数年多発した「イジメ」をきっかけとした子供の自殺が社会問題となったことも背景にあるようだ。すでに次年度から公立の小中学校で教育指針の変更がいくつか決定されている。更に今後も「道徳教育」の見直しが検討されている。ここでは「わが国、郷土の文化」とか「公平、公正」という内容があるようだ。一般的にも「平等」と「公平、公正」が混同されるようなことがあるが、それが教育の中で多少でも是正されるのは望ましいことだろう。

一方で大津の事件に代表されるように多くの「イジメ」は明らかに「犯罪」であり、子供といえども犯罪を許さないということを徹底すべきだろう。よく日本では加害者の人権を重視するバカが多いが、被害者からすれば相手が子供だろうが障害者であろうが外国人であろうが関係ない。被害は被害で変わらない。加害者は法の下で裁かれる。これが公平、公正というものだ。イスラム国の議論でよく言われる「テロには屈しない」というのなら、「犯罪は許さない」という理念を日本は徹底すべきだ。

未成年者に対する刑罰だって強化するのは当然のこと。また最近「子供の頃から人を殺してみたかった」という犯罪者のコメントを多く耳にする。あるいは死刑執行される死刑囚の多くは自ら死刑を望んでおり、極端な場合「俺を殺せ、そうでないと誰かが俺に殺されるー」なんて叫ぶ犯罪者も多いという。

とにかく日本では犯罪者に対して刑法が甘すぎる。私はもちろん死刑容認論者だが、覚醒剤の売買に関しても諸外国同様に極刑でも構わないと考えている。私の予測では、こうした刑罰の強化、および教育によって間違いなく社会は安定すると確信している。 歪んだ人権教育を見直し、法の下の「公平、公正」を教育することは絶対に必要だ。

ここで、もう一つ注目すべきニュースがあった。それは裁判員裁判と死刑判決についてだ。NHKニュースによると、「東京と千葉で起きた強盗殺人事件を巡り、裁判員裁判の死刑判決が妥当かどうかが争われた2つの裁判で、最高裁判所は死刑を選択するには過去の裁判例を踏まえて判断しなければならないとする決定を出した。決定は裁判員裁判においても死刑の判断に慎重さと公平性を求めたもので、いずれも2審の無期懲役が確定することになりました。」

そもそも民間の社会的観念を反映しようとした裁判員裁判が、プロの裁判官によって覆されたということが論点にもなっている。元々私は日本での裁判員裁判制度には否定的な立場だった。そして一般的に裁判員裁判では「死刑判決」は出にくいと私は考えていた。がしかし、そうでもないようだ。おそらく裁判員たちは、被告の人物像を重視したと考えている。要するに「社会に対する脅威の度合い」を見極めようとしているところあったのでは?。もし、そうであるなら私は大賛成だ。

一方で私が注目するのは最高裁の「過去の裁判例を踏まえて・・・」という文言。たしかに裁判所は過去の判例に拘る。ここでの「慎重さと公平性」とは「過去と現在の公平性」という観念が存在する。私は法の下での公平性は理解できるが、過去の判例との公平性というのはあまり理解できない。私は最高裁のお偉い方々は、今だに「加害者の人権」を重視しているように思える。(もっとも私は前回の総選挙の時に何名かの最高裁判事に×を付けている)

これは根が深い問題だ。これを解決するためにはやはり道徳教育とともに社会学的な教育が必要であると私は考えている。そうでなければ今回の裁判での「溝」は埋まらない。「道徳教育?」 やはり難しい。しかし、この機会に国民的な議論が高まることに期待する。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

イスラム国は何を目指すのか?
そもそもイスラム国は「国家」ではないと言われる。少なくとも英語で表現される「Nation State」ではないだろう。しかし「Nation State」と呼べる国は近現代まで欧州の一部とアジアでは日本くらいだろう。あのシナ大陸だって国家と呼べるような国はほとんど存在しなかった。現在の中華人民共和国も国家と言えるか相当あやしい。ちなみに漢字の「国」について、中国の歴史ではある集団が勝手にそれぞれで「国」と称して代表者が勝手に「国王」を名乗っていたことがあった。だからその後に「皇帝」という言葉ができた。それは西洋のEmperor とKing との関係と似ている。そういう意味ではイスラム国が「国」を名乗っても何ら不思議はない。ここではあえて「イスラム国」と称することにする。

基本的に私は日本が中東問題について「関わらない」のがベターだと考えている。しかし、今回の日本人殺害によって反イスラム国の勢力や地域への食料や医療といった人道支援を拡大すると日本政府は発表している。これは、どちらかというと中東石油資源に頼る日本という立場、そして国際的な多数派工作のような一面も存在する。つまり政府だって「人道」という「人権」に似た美名のもとで他国に介入していることを意味している。

たしかに日本は軍事行動はしていない。しかし間接的に「カネや物資の支援」で反イスラム国勢力を支援している。戦争というのは、今も昔も兵力だけでなく、カネや様々な物資、そして情報戦が大きく影響する。かつて大東亜戦争のときに東南アジアの華僑を日本軍が厳しく取り締まったのは、彼らが中国内部への支援していたことが大きな要因だった。現代社会は「ヒト、モノ、カネ」の動きで情勢が決定する。当然ながらヒトの影響が一番大きいが、モノやカネを大きく動かす存在は敵対する勢力にとっては脅威である。

従って日本と日本人がテロの標的になるのは、ごく自然なことだ。「何故、日本人が標的に?」という日本人の感覚は間違っている。地球上のほとんどの地域はグローバルなヒト、モノ、カネがまわることで社会が成立している。私はイスラム国の最終目標は何なのかはよく解らないが、仮にグローバリゼーションを完全否定してローカリゼーションを追求するのであれば、それはそれでも良いと思うことがある。

しかし土地も痩せ、海洋資源も乏しいあの地域で果たしてそれは可能だろうか?石油に依存するならグローバル経済と関わらなければならない。結局は、略奪、誘拐、そして今回のようば身代金要求を行ったり、強盗、殺人を実行する集団になれば他国から攻撃されても仕方がない状況になる。結局は、カオス(エントロピー増大)の連鎖しか生まれない。

つまり、これは私の学問のテーマとしている自然界の自己組織化、あるいは社会の自己組織化が成しえるかという問題だ。結論から言うと私はあの地域では「不可能」だと考えている。まず社会の自己組織化には「核」となる存在が必要だ。それは農業なのか、工業なのか、商業なのか・・・そうした人間の生活の基盤が不可欠だ。その生活の基盤の上に国王や宗教といった存在は象徴的な核になりえる。しかし生活基盤がなければそうした象徴や権威も幻(まぼろし)になる。

おそらくイスラム国はイスラム教を核とした社会秩序を形成しようとしているのかもしれない。しかし生活の基盤がなければ生物学的に人間の不満は爆発する。あるいは黙って貧しさに耐えて、混乱の中で命を落とす。あの古代メソポタミア文明が終焉を迎えたのはチグリス、ユーフラテス流域の土壌が上流の塩分に侵されたからだった。そして一部では砂漠化が進行して、豊か大地の多くは失われた。そのころから、ずっとこの地域では悲劇が続いている。そして近現代になって、石油利権とイスラエル問題が加わる・・・まあ、ここまで悲劇を繰り返す地域も珍しい。

貧しさ故に近代文明の豊かさに人々が惑わされきたことも事実だろう。また、貧しさ故に宗教を拠り所にしたことも事実だろう。それが良いのか悪いのか?二者選択は難しい。いずれにせよ土地に根ざした社会的な自己組織化ができなければカオスの連鎖になる。精神的な求心力も物質的な求心力が伴わなければ社会は構築できない。それが歴史的な事実だ。

もしあの地域が安定できるとしたら、石油依存から脱却して土地を一から耕す。そして一般学問も普及させて人々に知識や技術を養わせる。それしか豊かな社会を復活させる方法はないだろう。しかし、それも当面は不可能だ。なぜなら彼らは多くの武器を持ち、思想的にも別の感覚で洗脳されているからだ。真面目に働く、真面目に勉強することを忘れた民族の悲しみの連鎖は続く。そして彼らの矛先は欧米諸国に向く、そして当然ながら欧米諸国(日本も含む)は反発する。まるで無限ループだ。

日本政府は人道的支援をする? むしろ、良かれと思った行動が更に混乱を招くのではないだろうか?つまり「焼け石に水」どころか「火に油」というわけだ。かつてアメリカが人道支援と称してアフリカに食料支援したことが結果的に現地の農業を壊滅させたこともあった。今まで欧米諸国は中東やアジア・アフリカに関与しすぎた。これが私の歴史的解釈だ。後になって人道とか、人権とか美名を掲げて支援するなんてどこか不条理だ。結局、自生的秩序や自己組織化は下手な外圧や支援では形成されないということ。何度も言うが、中東に関して放っておく・・・それがむしろ適切な対応だ。

もう一つ気になる情勢がある。それはサウジアラビアの動向だ。石油価格下落の要因は世界的需要の低下とアメリカのシェールオイルにあると言われるが、実際にはサウジが石油減産に応じないことが直接的に要因になっている。その結果、どこが苦しんでいるか? アメリカのシェールオイル業界も打撃を受けているが、国家として打撃をうけているのはロシア、イラン、イラク・・・。そして得をしているのが欧州と日本という構図だ。そして最近のフランスでのテロ事件と今回のイスラム国の日本人殺害・・・・それは単なる偶然だろうか? 偶発的、あるいは本能的に行動する集団の動きとは別に誰かがどこかで得をしている。

日本としては、こうした取り巻きに関して日本の国益を重視することが何よりも重要だ。現地への人道支援はほどほどにする。もちろん、それは対中東地域だけではない。国際支援よりも内政をもっと重視すべきだ。円安にもかかわらず石油価格下落は間違いなく日本にとっては有利な状況。政府は国土強靭化をさら推進して、日本の自己組織化を進める。なにしろ日本は土地に根ざした自己組織化が可能な「国家」であるから。これは謀略でも何でもなく天が与えてくれた恵みであると私は信じている。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

イスラム国 後藤さん殺害
朝一番入ったニュースがイスラム国に後藤さんが殺害?という情報だった。事実であるとするならば、残念といえば残念ではあるが、日本政府が安易な譲歩をしなかったことは高く評価できるだろう。人質が殺害されても絶対に譲歩することはないという強いメッセージを国際社会にアピールすることもできたと私は肯定的に考えている。

当然ながら日本政府としては、どんなにマヌケな人物であっても、日本国籍を有していれば救出に全力を尽くす姿勢を見せるのは当然のこと。しかし多くのネットユーザーは、二人に対してあまり同情していないように思う。そもそもの彼らの無謀な行動、さらに後藤さんの母親の「反原発」や「朝鮮馬山」を入り交えた「意味不明」の会見も少なからず影響している。

やはりイスラム国は無法地帯のようだ。You Tubeでいわゆる戦場カメラマンの渡部陽一のインタビューが印象的だった。渡部陽一氏はテレビでゆっくり話す「ヘンなおじさん」のように見えるが、実は取材の線引きをしっかりとしている人物で非常に聡明な方だ。以前なんかのテレビ番組であの池上彰氏の対談のような場面があったとき、渡辺陽一氏の方が数段格上に思えたものだった。

一方で後藤健二氏にしても、湯川遥菜氏にしてもどこか「カッコつけ」のように見える。しかし渡部陽一氏は決してカッコつけない。そしてスクープに拘らない。渡部陽一氏は本当に聡明で賢明なジャーナリストとして尊敬されるべき人物だ。本来のジャーナリストとはそうあるべきなのかもしれない。

亡くなったかもしれない二人の人物のことを非難するのは良くないことかもしれない。しかし、これは完全に国際問題になっている。国際社会というスケールでなくても、それぞれの立場でどのような対応が適切なのか?ということを考えることは極めて重要なこと。これは、どんな仕事でも言えることだろう。




プロフィール

小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

小室沢カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。