理系おじさんの社会学
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朝日新聞集団訴訟
いわゆる従軍慰安婦問題に関して、朝日新聞への集団訴訟された。イスラム国のニュースが多い中でこの訴訟は少し影が薄れているかもしれないが、原告が1万人を突破したという凄い訴訟になりそうだ。本来は、言論の世界では「言論に対しては言論で対抗」というのが本筋であるが、何しろ相手は訴訟大好きの人権派、「毒をもって毒を制する」ではないが、こうした動きがいつかは出てくると期待していた。当然のことだろう。

集団訴訟の記者会見をYou Tubeで観た。笑ったのは、あのオウム事件で有名な江川詔子は何か勘違いしているのか?渡部昇一氏の「恥」ということばの意味を何も理解していないマヌケな記者に見えた。おそらくマヌケなのだろう。もっとも「いわゆる従軍慰安婦」の肯定派する反日左翼勢力は「歴史修正主義」とか、「都合の悪いことをなかったようにしている」という感覚をもっているようだ。もし原告側が、「都合の悪いことをなかったように・・・」であれば慰安婦自体の存在を否定するだろう。個別の案件での悲しい出来事があったことも否定するだろう。

しかし原告側はそんな白黒とかそういう低レベルの発想はしていない。慰安婦自体の存在は認めている。悲しいことがあったことも認めている。しかし強制連行とか、20万人とか、挺身隊との混同のような虚構(捏造)をもって日本のイメージを傷つけられたことに抗議している。しかしバカマスコミは「視聴者に判りやすい?」ことを重視して白黒で判断する。たしかにシナ朝鮮人は「勝ち負け」、「奪うか奪われるか」という感覚が主流だし、一般のアメリカ人や日本国民も「判りやすさ」を重視して善悪二元論に陥る。

しかし多くの日本人は「騙された」ことに気付いた。特に長年の朝日新聞購読者は「裏切られた気持ち」は強いだろう。この私だって「日本軍は悪」だったと中学のバカ先生に教わったこともあった。そしてチャンネル桜の水島社長が述べていたように「外国の在留日本人」の立場というのは大きい。私自身も海外赴任していたときに「あなた日本軍が何やった知っている?」なんて仕事とは関係のないことを聞かれたこともあった。

反日バカ左翼は自分たちの続けた言論「旧日本軍=すべて悪」と構図がブーメランのように「反日左翼=すべて悪」となることを恐れているのだ。「殺られるやられる前に殺る」これは大陸の歴史観だ。 元反日左翼はこう思えば良い「騙された」と。そう、反日左翼にも同情されるべきところがある。それは「騙された」ということ。そう思わない勢力は「カネで紐付け」されていると判断してもいいだろう。

そして知識人ほど「主義主張を変えることを嫌う」、おそらく信用を失うか、一貫性がないと思われるのを恐れているから?しかし現在社会はすばらいい。調査すれば嘘はいつかはバレる。科学捜査、遺伝子検査・・・いくらでもある。歴史的解釈は文学的、哲学的にはある程度は「言論の自由」として許されるだろう。しかし事実でないことでプロパガンダに利用すること、そして多くの人々の心、そして国家にキズをつけること・・・これが犯罪と言わずして何だろう。この訴訟の行方を非常に楽しみにしている。きっと原告側は勝てる。私はそう考えている。


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捕虜の交換?
イスラム国の日本人人質事件に関連したニュースとして、ヨルダン政府はイスラム国が拘束しているヨルダン軍パイロットのムアズ・カサースベ氏の解放と引き換えに、サジダ・リシャウィ死刑囚を釈放する用意があるとするニュースがあった。しかし日本人ジャーナリストの後藤健二さんには触れなかったとのこと。

先ず、サジダ・リシャウィ死刑囚はヨルダンで法的には間違いなく「犯罪者」だ。ムアズ・カサースベは軍人なので捕虜であるが「犯罪者」ではない。さて、後藤健二さんは「犯罪者」だろうか?そもそもイスラム国に憲法や法律はあるのか?無礼者!切捨て御免?の世界なのだろうか? そうした立場の違う者同士の「捕虜の交換」というのは何か違和感がある。

このような無法国家とは基本的には付き合わない方が良い。どうしても付き合いたければ「治外法権」を認めさせるか、軍事力で「制圧」するしかない。そこでやっかいな思想が「人権思想」だ。捕虜の人権もそうだが、その地域で普通に暮らす人たちにとっては不幸もあるかもしれない。いや、本当に不幸なのだろうか? イスラム国の兵士は十分な給与や食料があるとの情報もある。本当に民衆が飢えに苦しんでいるなら内部で暴動が発生するはずだ。

日本の江戸時代は法治国家ではなく武士の「切り捨て御免」の時代だった。それでもむやみに人を殺傷することは稀だった。決して豊かではないが安定していた。一方、イスラム国では秩序が整っていないので無法者や統率されない兵士もいるだろう。それが内部、周辺諸国の治安の悪化につながっていることは間違いない。

それにしても不思議なのは、イスラム国の兵士は多くの武器を持っている。資金も食料もある。一体どうやって手に入れているのだろう?イスラム国の地域に主要な産業はない。食料が豊富な場所でもない。原油を密売しているという明確な情報もない?でも世界各国から人が集まる。個人レベルでは様々な理由でイスラム国に参加するのだろう。しかし、ここまでヒト、モノ、カネ、そしてネットを使った情報があるというのは原始社会ではなく現代社会だ。

何故そうなっているのか?考えられるのは先に述べた「原油の取引」、もう一つは「諸外国の支援」だ。これをテロ支援国家と呼ぶかどうかは判らない。最近、先進国はテロ対策として世界金融のコントロールがある。また日本でも特定秘密保護法やマイナンバー制が導入される。つまりヒト、モノ、カネのグローバルな制御ができるようになりつつある。

もしかしたらイスラム国やテロ支援国は、こうした情勢にて追い詰められているのかもしれない。もちろん日本も関係する。日本人が捕虜になったのは偶発的ではあったかもしれないが、グローバル金融が関連しているように思えてならない。また私の勝手な憶測だが、その影にはチャイナの存在があるように思える。なぜならテャイナは法治国家ではないこと。そして経済大国であるから。

「捕虜の交換」なんて発想はイスラムの発想というより、無法国家の発想だ。まるでチャイナのようだ。一方でヨルダン政府の対応はまともだ。外国人捕虜よりも自国民を優先する・・・当然だろう。この対応に日本人は反発することはできない。日本国政府も「現地の人道支援」を優先するより、日本の国益と日本人の生命財産の保護を優先させるべきだ。

外面ばかり気にする国家や組織は、いずれ国内(内部)から不満が噴出する。日本もそろそろ、そういうことに気付くべきだろう。テロには屈しない・・・後藤さんの自己責任・・・そりゃそうだろうが!必死になって日本人を救出する姿勢を見せなければ日本政府は日本人から信頼を失う。


イスラム国の日本人人質問題
産経新聞ニュースによると、イスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」が身代金2億ドルを72時間以内に支払わなければ、拘束している日本人2人を殺害すると警告するビデオ声明を発表したとのことで話題になっている。そもそも身代金って、イスラム教はカネは邪悪なモノじゃなかったのかなあ?安部総理の中東訪問での支援金のニュースを聞いて、「日本にはカネがある」なんて思ったのかもしれない。

どうもイスラム国で過激な活動をする人たちは中東イスラムの人たちだけでなく世界各地から集結した人たちで構成されているようだ。日本人を含む東洋人も参加して問題になったことがあった。また欧州人も多く含まれている。彼らは熱心なイスラム教徒というより「戦いたい」とか「新しい世界への欲求」ということで行動しているようだ。

一方でジャーナリストも報道に対する正義感というより「新しい世界を報道したい」という欲求が見え隠れする。拘束された日本人ジャーナリストは昨年に拘束されたようだ。画像を見ると2人は髪も整えヒゲも剃っている。虐待を受けた様子はなさそうだ。何となく一種のゲームのようにも見える。そういう状況だとむしろ理屈は通じない。どんな対応しても犠牲者は発生する可能性はある。彼らの身なりが整っているからこそ処刑される可能性が非常に高い。

彼ら日本人ジャーナリストはある程度の覚悟はしていたかもしれない。しかし国家が脅されるというリスクをもっと考えるべきだろう。当然ながら日本政府としては無視することはできない。国民を守ろうとしない国家は国民から信用されなくなる。それが仮に反日勢力であろうが日本人であれば無視できない。しかし、昔の日本の首相のように「人命は地球より重い」なんて言ってマヌケな対応は不可能だ。まあ事実上、見捨てることはあるだろう。

かつて江戸時代にイギリス人が薩摩藩の大名行列を馬で横切ったとして、「無礼者」といい「切捨てごめん」にした(いわゆる生麦事件)。これが薩英戦争のきっかけになり、「治外法権」という不平等条約を正当化させられるきっかけとなった。私はよく「郷に入っては郷に従え」と主張している。この薩摩藩の対応は当時としては当然の行為だった。「野蛮だー」と思うの勝手だが、それで当時の社会秩序を維持していたのは事実だった。

さて今回の事件はどうだろうか? 彼ら日本人ジャーナリストはイスラム国で不正を行ったのかは定かではない。その「不正」だって、どういう不正かはイスラム国が決めること? 江戸時代の薩摩藩と決定的に違うのは、社会秩序の維持としての行動とは思えないこと。日本人ジャーナリストもイスラム国の誘拐犯も、何らかの思想哲学で行動しているというより、本能で行動しているように思える。身代金要求というのがその象徴的な行為だ。

本能で行動している者同士の争い、しかも他国の事件・・・日本はあまり関わらない方が良い。しかし、もし一般の日本人居留民が虐殺されるようなことがあったらどうするか? これは難しい議論になる。かつてのイギリス軍はそういった事件を口実に軍隊で植民地を制圧したのが近代の歴史だった。インドのイギリス人居留民虐殺事件、香港のアヘン事件、マレーシアでの暗殺事件・・・いずれもきっかけはそうだった。

やはり問題の根底には移民問題、あるいは異民族流入がある。中東イスラム系の諸国は欧米の介入を嫌がる。また一方で欧州ではイスラム系移民の問題、およびテロ事件が社会問題化する。すべてグローバリズムが生んだ問題点だ。それは宗教というより、自由すぎる人間の行動が原点にある。もちろん、そこには「移動の自由」も含まれる。

秩序を嫌い、本能で生きる人間同士が不幸な場所で不幸な運命になる。いや彼らにとって本望なのかもしれない。しかし結果的に国家や関係者に多大な迷惑をかけている現実を知るべきだろう。


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サザン桑田の騒動
あまりにも話題になっているので、今更ながらちょっとYou Tubeで昨年末の紅白歌合戦の動画を見た。というのも私はオンタイムで見ていなかったから。そしてサザン桑田は「反日」だとか話題になっている。たしかにそういう解釈もできなくない。後に本人も騒動について謝罪したとのこと。

こういう分野は私の専門ではないので詳しくないが、歌やエンタメの世界で政治的なメッセージが多いと私は興ざめする。実際にそのサザンの歌は率直に良いとは思わなかった。サザンの若い頃の「エロい」曲の方が楽しかった。

そもそもクラッシクやジャズ好きの私だがビートルズも大好きだった。もちろん今でも好きだ。しかしジョン・レノンが平和や政治色の強い歌はどうしても好きになれなかった。今回のサザンの歌もそんな印象を感じた。

かつて、あのモーツアルトはフリーメーソン会員だったことは有名だった。またベートーベンは福祉のために音楽を作ると述べていたという。ピアノのリストは目立ちがり屋、またチャイコフスキーは同性愛だった・・・とかクラッシクの大御所には様々なエピソードがある。

でも時代を越えて普遍的に良いものは良いと感じることができる。時代背景の影響の強い音楽はどこか「古さ」を感じる。そして何故か飽きてしまう。よく「名曲は色あせない」と言われる。もちろん聞き手によって名曲かどうか勝手に判断すればいいことだけど、私にとって名曲だと思う曲は政治色は極めて少ない。

まあ誰だって音楽に関しては好き嫌いがある。それこそ表現の自由は尊重されるべきだろう。サザンのパフォーマンスだって「表現の自由」だと考えている。ただし私にとっては全く魅力のないものだった・・・それだけだ。様々な意見はネット上で飛び交っているので、私はあえてサザンの表現についてはいちいちコメントしない。ただ一言で言えば歌として魅力はなかった。

サザンのコンサートに集まった人たちは大勢いた。しかし、そうした政治的メッセージを受け取った人がどれだけいただろうか?どちらかというとサザンの世代(40歳代以上?)とそれに憧れた人たちが、病み上がりで元気な桑田の歌と姿を見たかったということではないだろうか? その曲の歌詞に同調して盛り上がったわけではないと思うが・・・。

そもそも紅白歌合戦はそれぞれの世代に楽しんでもらうのを目的にしている。そして「皆が仲良く」をテーマにしている。政治色も含め、そういう何らかの「意図」があると必ず質は低下する。もちろん芸術やエンタメだって「表現の自由」はあっていい。しかし芸術とは違った要素を入れることで芸術自体の質が低下することに私は強い嫌悪感を感じる。


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日本の神々はおおらかだ
最近、パリのテロ事件以降にイスラム教とかユダヤ教、そしてキリスト教のことが話題になることが多かった。今回は日本の神々について考えたい。そもそも多神教である日本では絶対的な存在という概念があまりない。諸外国の「神」に対する根本的な考え方も違う。

例えば、神話に登場するイザナギとイザナギは性欲あふれる男女だった。またスサノオノミコトは暴れん坊だった。アマテラスは、天岩戸の中から外の宴に興味があってこっそり覗いた・・・なんて煩悩を象徴するエピソードだ。またイワレヒコ(神武天皇)は謀略家というイメージが強く、あのカマドの水煙で有名な仁徳天皇も女好きだったようだ。

さて明治になって天皇を神格化するようになったのは明治政府の国策だった。明治から第二次大戦まで天皇を侮辱する表現はタブーだった。でもそれは80年にも満たない短い期間だった。今日において、私が「アマテラスはパーティー好き」なんてコメントしても伊勢神宮の神職から脅迫や殺害されることは絶対にありえない。

しかし現在の日本でも明治憲法での思想も残っており、保守系、右派系を中心に天皇を絶対的な存在と考える人たちも多い。一方で韓国や中国の民間レベルで日本の天皇を侮辱することは日常茶飯事であり、日本人もそれほど気にしていない。ただし国家元首(前韓国大統領)や高官レベルの発言だと外交マナーを逸脱しているということで非難することは当然の事となっている。

そもそも日本人の精神として、「おおらかな日本の神々」に対して尊敬の念を抱いている。それはいかに女好きであろうが、暴れん坊であろうが何らかの社会貢献をしていたから、と考えることができる。現代マスメディアのように、何か人の汚点を見つけると徹底的に攻撃して「悪」と仕立てることは本来の日本人は持っていなかった。

古代日本人は皆が働いていた。もちろん中には怠け者もいたかもしれない。しかし神であるアマテラスも絹を織っていたとされる。通常、諸外国では神は仕事をしない。仕事は奴隷がするものという概念がある。それはまるで社会性のある昆虫(アリ、ハチ)の世界と似ている。

こういう議論をしているうちに理系である私は何か生物学的な遺伝と関連しているように思えてならない。そして当ブログの「遺伝学と優生学」ではそのことについて詳しく記事にしている。一方でそうした一神教を信じる民族はそういう宗教でなければ社会を維持することができなかったという歴史がある。そうした歴史や社会が生物学的な遺伝として継承されていると考えると辻褄が合う。 

優生学において、優生や劣生というのは便宜上の言葉であって実社会において何が優性で何が劣性というのは社会環境によって適用される。日本の神々の場合、様々な特徴がある。良いところも悪いところも合わせて尊敬の念を抱く。そして日本の一般庶民もすべての職業に対して敬意を表する。

誰もが真面目に働く、そうすればカネと名誉は後からついてくる。そして神からも愛される。私はいつもそう考えている。


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Je Suis Charlie
パリのテロ事件後、フランスの風刺週刊紙シャルリー・エブドの編集者らは13日、パリで記者会見し、14日の最新号にまた風刺画を載せると発表して波紋を呼んでいる。イスラムの預言者?が「Je suis Charulie:私はシャルリ」と主張する皮肉?が公表されている。当然ながらイスラム教徒の反発が予想される。また欧米諸国も「言論の自由とは?」という議論が盛んになっている。

国際的な「表現の自由の限度」とは誰が決定することができるのか?私は断言する「誰もできない」と。当然ながら国際的な外交マナーというものは存在する。特に政府高官クラスはそういた配慮というのは必要だ。まあ、そうした外交マナーを無視する国家も多いのも事実だが。少なくとも民間レベルの表現に関しては自由は保障されるべきだろう。

一方で個人のプライバシーに関することを暴露したりすること、また根拠のない誹謗中傷は立派な侮辱罪に相当する。これはどこの先進国でも同じ。問題は、国家とか宗教とか、そういう漠然としたもの関してはどうするかということ。もちろんイスラムの世界では唯一の神であるアラーや預言者のモハメドを誹謗中傷することは重罪だし、イスラム教から別の宗教に改宗することも死罪に相当する。

しかしそれはイスラム世界でのこと。結局はそういう考え方を世界で統一しないと彼らは納得できないということなのか?イスラム教徒に限らず祖国の捨てた民族がいたとしよう。それが形式的には「難民」であっても、自分たちの文化や価値観をその地域で強制させることは帝国主義、あるいは資本グローバリズムと何ら変わりはないではないか?

最近、当ブログに「魚尾竿尾さん」という方が「色」に喩えてすばらしいコメントをしていただいている(コメント欄参照)。イスラム教徒といえどもグローバリストであり、「一つの色」に染めようとしているだけではないか? そして「Je suis Charulie」と皆が掲げてデモをする。数百万人が「一つの色」に染めようとしている。ある意味で恐ろしい・・・。

素晴らしい絵画や音楽を思い浮かべよう! 様々な色や音が調和して美しいハーモニーを描いている。それぞれの色や音がそれぞれの役割を演じて全体として纏まっている。人間社会だって、土木工事のおじさん、掃除のおばさん、豆腐屋の兄さん・・・様々な人たちが、どこかで苦労しているから社会が成り立っている。それは決して単純なる「一つになろう」とは違う。スポーツのサッカーや野球だって「一丸となって」という言葉がある。それも単純に「一つになる」とは違う。

思想哲学を勉強することは悪いことではない。しかしデモで世の中を変えるのは限界がある。私がいつも主張するように誰もが「真面目に働く」こと、社会に貢献するような仕事をすること。あるいは小さな子供をしっかりと育てること。教育を受ける、そして誰かを教育すること。そういう社会の基本を忘れていないだろうか?

私には「Je suis Charulie」と主張する人たちも「言論封鎖」をする人たちも、都合の悪い勢力を排除して「一つにしよう」としているように見える。それはまるで草木をすべて食い荒らすイナゴの大群のように。おそろしいことだ。

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介護報酬引き下げ
財務省と各省庁の外債要求の折衝が行われているが、特に注目された厚生労働省との交渉では「介護報酬の引き下げ」、および「介護職員の賃上げ」という方向で調整されている。介護報酬の引き下げは、介護施設に多大な内部留保があることをその理由としている。また介護職員の賃上げは、職員の待遇改善と人手不足解消が目的という。

今年の6月2日に当ブログでは、この問題の根底にあるものについて色々と考えた。
カテゴリ「人手不足」から
医療・介護の人手不足

日本のいわゆる「団塊の世代」が65歳を超え、再雇用の年齢も通り超えて完全に現役引退する人たちが増えた。そして今後の年齢別人口どうなるか?

こちら参照。
総務省の人口統計

つまり、「団塊の世代」のあと5年程度で一気に年齢別人口は低下する。つまり、将来これ以上の投資(人や設備)ができないことを意味している。職員だってそうだ。賃金が高かろうが低かろうが、将来の見通しが立たなければ安定した職にはならない。その対策としては以前のブログで述べたように国家が介入するしかない。それがどうも外国人労働者の受入の方向に向かっているようでならない。はっきりいってその方向性は間違っている。

これから10-20年にかけて大規模な世代交代することは、年齢別人口分布からも経済の需給バランスとしても良い方向ではある。しかし途中の過程として様々な歪が生じることもある。特に最近話題になっているのが放置される「空家」問題。
これは、かつては地方の問題であったが最近では都市部の問題になっている。

古い建屋は使用されず、また税制上の問題より取り壊しもできなくなっている。にもかかわらず新築物件は増えている。これは社会や生活スタイルの変化によるもので仕方のないことだと私は考えている。ならば、短期間でもこうした物件を介護施設として活用して、その後に高齢者人口が減ればその建屋を解体、あるいは新築するようにすべきだ。

しかし、こんなこと民間では絶対にできない。塩崎厚生労働大臣は典型的な新自由主義的な思想の持ち主であり、こうした医療・介護の問題をまともに考えることができるのだろうか? こういう問題は自由主義でなく社会主義的な対応でないと成立しない。

本来なら社民党や民主党は、そういう主張をすれば支持率も上がるだろう。しかし、そうならない。なぜなら社民党も民主党もグローバリズムに毒されているからだ。特に左翼勢力は、アジアの国々に好かれて、イジメられ、更に搾取されるのが大好きという「超マゾ」な連中だからだ。

どの政党に期待していいのか判らなくなる。共産党が躍進するのもそうした背景があるのかもしれない。しかし、こういう問題は党派を超えて、数字で考えるべきだ。そうしないと本当に大変なことになる。


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「言論の自由」と「文化の多様性」
昨日フランスのパリではテロに対する抗議として大規模なデモが行われた。フランスのオランド大統領、ドイツのメルケル首相、英国のキャメロン首相の姿もあった。テレビ報道で参加者へのインタビューではフランスは「言論の自由」と「文化の多様性」を重視する・・・といったコメントもあった。

「言論の自由」と「文化の多様性」? 昨日は植村隆氏の記者会見についても記事にした、ここでも「アジアの国々との関係重視」ということを植村氏は述べていた。そして「寛容さ」ということを主張している。「寛容さ」ってなんだろう? テロや犯罪には屈しない。それはそうだ。言論や文化の多様性を認める・・・それもその通りだろう。

ということは、イスラム預言者の風刺画は「言論の自由」であり、ヘイトスピーチは「言論のテロ」で許せないというのは何か矛盾している。そもそも言論の自由といいながら、「言葉の暴力」という表現は何かおかしくないか? 風刺画だって「絵の暴力」という言い方はできる。

そして「文化の多様性」だが、かつての大日本帝国は「大東亜共栄圏」という構想があった。そしてあの満州国ですら、「五属協和:(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)」をスローガンとして、アジア民族の協調を主張していた。それって植村氏や左翼思想の「アジア重視」の思想とあまり変わらない。

その結果、どうなったかは歴史が証明している。たしかに現代は交通の便も格段に上がり、ネット社会であるので国境はなくなったかのような錯覚を持っている人々は多い。しかし人間の日常生活のほとんどはローカルなもので占められている。そこには宗教や文化だってあるだろう。

仕事や学問においては、それぞれが選択の自由があるから集団になっても「目的を一つ」にして団結することは可能だ。しかし地域社会はそうではない。食事、ショッピング、娯楽、地域集会・・・そうした多文化が共生することは極めて難しい。先進国では隣近所で友人を作るより、ネットや様々な活動(仕事や学問)の方が友人や仲間を作りやすい。

個人レベルの文化の多様性は可能であっても、地域社会(国家も含む)の文化の多様性は必ず対立を助長する。従って、真の平和や社会の安定は、地域レベルでの多文化共生は認めない。あくまでもその地域の文化が優先される。あるいは
「法の支配」に準じる。ただし個人レベル、地域とは別の団体レベルでの多様性は認める。

地域社会の「郷に入っては郷に従え」、今更ながらすばらしい「ことわざ」だということを考えさせられる。



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植村隆の記者会見
先般(1/9)、元朝日新聞記者である植村隆の記者会見があった。植村隆といえば「いわゆる従軍慰安婦問題」の火付け役の一人としてあまりにも有名。今回、私もはじめてYou Tubeで彼の姿と肉声を聞いた。

この動画

とにかく長々とした動画だが、彼には「謝罪や反省はなく」、「釈明と抗議」といった内容が中心だった。先ず冒頭で先のパリでのテロ事件を挙げ、ジャーナリズムへの暴力は許さないというコメントを述べた。また朝日新聞阪神支局の襲撃事件も例にして自らの正当性をアピールするものだった。

彼自身も多くの脅迫を受けているようで、勤務する大学や彼の家族にも影響が及んでいると抗議している。そして文藝春秋および、その週刊誌にコメントを発表した東京基督教大学の西岡力氏を告訴していると発表した。

まず根本的に植村氏が間違っているのは、植村氏に対する様々な非難は「テロではない」ということ。非難することも「言論の自由」ということだ。それを先般のパリのテロと同一視したり、阪神支局襲撃と同一視するようなイメージでコメントするところがバカバカしい。言論の自由に抗議するのも言論の自由だということ。

つまり、文藝春秋も西岡力氏も「言論の自由」があるわけで、論点は「事実かどうか?」、「捏造かどうか?」である。また、いずれにせよ植村氏の記事が大きな社会問題になったことは事実だ。ジャーナリストとしても大きな責任は間違いなく存在する。

マスメディアは取材特権や発信特権もあった。世論操作も得意としていた。特定の政治家や大企業の非難は正当化され「ブンヤ」としてヤクザのように恐れられた。一方でマスメディアへの非難(言論の自由)は許さないという身勝手ワガママ思想がそこにある。つまり特権意識があるということだ。

植村氏は挺身隊との混同についてこそ謝罪しているものの、「慰安婦問題は終わっていない」とコメントしている。まわりにいる植村氏の弁護士は典型的な「人権派弁護士」のようなコメントをしていた。これを見た視聴者は益々彼らに対する嫌悪感が増すだろう。

彼の言う「寛容ではない社会」と何だろう。売春や慰安婦は現代でも世界中に存在する。道義的には問題あるかもしれないがそれこそ「寛容さ」は必要だ。しかし日本国民や韓国民をこれだけ混乱させた結果をもたらした問題記事は「寛容」とはいえない。

また、彼はアジアの関係重視とコメントしている。そして日本がアジア全体に寛容であるということは、隣国が日本から搾取することを意味している。それがアジアから日本が好かれる最も大きな条件だということに彼は気付いていないのか?

なぜ植村隆への非難があるのか?彼はよく理解していないようだ。非難する人は中国、韓国の友人がいないからでは・・・と発言している。やはり彼はバカだ。中国や韓国を最も嫌がる人たちはグローバル(企業)な活動している人たちが多い。私は何度も韓国や中国を訪問している。やはり彼らの価値観は日本人とは違う。それはイスラム教とキリスト教の違いと同じくらい違う。なぜ、それがわからない?

植村氏の「私は捏造記者ではありません」は、小保方さんの「STAP細胞はあります」に聞こえる・・・。

パリのテロ事件犯人
パリで発生したテロ事件の容疑者は、アルジェリア系フランス人とのこと。アルジェリア移民の子でフランス生まれ、もちろんイスラム教だ。欧州全体でもイスラム系移民は多く、特にフランスでは7%がイスラム教徒だという。またアルジェリアというのは確かフランスの植民地だったか?英国もかつての植民地(英国連邦)からの移民を容易であったという。これは欧州人のかつての植民地主義のツケとの意見もある。過去の反省や人権・・・そうした現代人らしい思想が背景に存在する。

では日本ではどうだろうか?かつて日本と併合していた朝鮮、保護国であった満州、いずれも当時は互いの行き来を自由であった。現在も韓国人のビザなし渡航は許されているし、中国人も富裕層なら簡単に来日できる。そして現在でも、在日中国人、在日韓国人の犯罪は多く、帰化した人たちも犯罪率は高いという。欧州のようなキリスト教とイスラム教との対立は日本には存在しないが、「価値観の違い」は間違いなく存在する。よく「人権派」は貧しさを理由に上げることがあるが、そうではない。価値観の違いだ。その証拠に半世紀以上、在日朝鮮韓国人に特権や優遇を日本政府が与えても今だに犯罪率が高いことが何よりの証拠だ。

やはり移民政策は絶対に間違っている。互いに不幸になるだけだ。「多文化共生」なんて幻想だ。そもそもフランスでの移民政策はかつての「労働者不足」が原点だった。そうした企業の思惑と、多文化共生の思想とが融合した結果だった。それは日本だって同じだ。グローバル化とは企業の利益が、為替や人権費の影響もあり有利だったこと。それに国際化とか人権いうイメージで色づけ装飾された。それによってグローバル化が加速した。

しかし最近はどうだろう。かつての日本企業の中国進出の勢いは衰え、ベトナムやミャンマーへの移管、そして日本国内に工場を戻す動きが加速している。それは安部政権の長期化を見据えて為替、人権費などを考慮しても、その方が得であるというのが根底にある。そこに国民的感情として、反中や嫌韓というイメージが定着すれば、政府の経済政策としても企業の後押しができる。そして日本国内での雇用を創出できれば政権の支持率はアップする。

今回のフランスのテロ事件では、移民問題が背景にある。特にイスラム教徒はどこへ行っても「改宗」することは認められない。彼らの生活は常に宗教があり、切り離すことはできない。しかしフランスの保守派は黙っていない。ひずみは今後も続くだろう。もしかしたらフランス全土、あるいは欧州各地で大暴動が発生する可能性だってある。そうなる、さらに欧州経済は低迷する。

日本も「明日のわが身」として考えるべき。色々と議論はあるだろうが、もっともっと右傾化を促進したっていいかもしれない。


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プランス新聞社の襲撃事件
これはテロといってもいいだろう。フランスのパリにある新聞社が何者かに襲撃され少なくとも12名が殺害されたとのこと。この新聞社ではイスラムの預言者の風刺画を書いたとしてイスラム教徒から非難を受け、以前にも火炎瓶を投げ込まれたとのこと。今回、犯人は特定したとのことだが未だ逮捕されていない。

私は比較的イスラムに同情的な意見を述べることが多かったが(特に中東情勢)、今回は違う。場所はフランスだ。フランスにはフランスの文化があり、法律がある。もしフランス人がイスラム教の国でイスラムを冒涜することがあれば、その国のルールに従い処罰されるのはまだ理解できる。

当然ながらオランド大統領は、喪に服すとともに強い非難を表明している。前回、当ブログでは「入管の入国拒否」について記事にしたが、フランスでは遅れているのだろうか?すでにフランスでは1970年代から政策として移民受入をしてきた。最近になって右派政党といわれる勢力も台頭してきたが、もう手遅れなのか?

世界各国はこれを教訓にしなければならない。

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入国管理の強化
最近、円安や入国ビザ緩和により外国人観光客の増加が増えている。一方で入国管理局による「入国拒否」も増加しているとのこと。単純なケースとして、入国審査の際に帰りのチケットがないとか、宿泊先が明確でないとの理由が多いという。それは一般的に先進国では普通のことだ。

しかし最近、それ以外の事由で「入国拒否」も増えている。以前テレビではマレーシア人の入国拒否が報道されたことがあった。詳しい理由は報道されなかったが、どうも以前に日本での不法労働があったとのこと。また大手マスコミはあまり報じていないが韓国人の入国拒否も増えているという。

そんな中、興味深いニュースを見た。それは反捕鯨団体の入国拒否だ。そもそも反捕鯨団体は和歌山太地町へ行って捕鯨(業務)を妨害したりして問題になっていた。日本での反捕鯨活動は完全に政治活動である。日本の法律では「外国人が許可なく日本国内で政治活動をしてはならない」とある。まあ入国拒否は当然だろう。

今後、国内でのマイナンバー制度や各国とのブラックリストの共有により更に入国拒否は増えるだろう。ていうか今までユルユルだったといえる。それは在日韓国朝鮮人といえども犯罪歴があれば、一旦出国して入国する際には入国拒否は多くなる。こういう当然のことが着々と進むのであれば極めて喜ばしいことだ。

平和主義者は、「平和」こそあって豊かな生活や豊かな経済活動ができるという。それはその通りだろう。それと同時に「治安」が安定していなければ安心した社会は構築できない。「犯罪率を減らす」ということで入国管理を厳しくするのは当然だ。私も平和主義者だが、なぜか多くの国内の平和主義者は「外国人犯罪」や「治安」に関して口を閉ざすケースが多い。まさか「治安」より「犯罪者の人権」が大切と考えているのだろうか?

私は日本の法律の下で、こうした入国管理を厳格するならば外国人観光客の受入は結構なことだと思っている。はっきりいって真面目な外国人の多くは、こうした不逞外国人の存在を非常に嫌っている。今まではどこの国でも国家単位での入国審査といった色彩が強かった。日本だって日本のパスポートがあればどこへでも行けた。それが日本人であっても個人単位での入国審査ということになりつつある。日本人だって海外で入国拒否されることも増えるだろう。

当然ながら諸外国の中では出入国管理が厳しすぎる国もある。イスラム教の国ではユダヤ人は入国禁止だし、アメリカ入国もイスラム教徒に対しては厳しいようだ。しかし、それぞれの国の法律に従って・・・となればやむ得ないところもある。しかし韓国の出入国管理は、諸外国からみても滅茶苦茶だ。先般の産経新聞記者の出国禁止や呉善花さんの入国拒否など、理由が法的措置でなく人治措置だからやっかいだ。こういう国とはあまり関わらない方が良い。

一方で日本の入管の対応はあくまでも法的対応という側面が強い。入管の抜き打ちで誤って疑いを掛けるケースもあるかもしれない。これに反対する勢力はある。時には「人権」だ!とか訳の分からないことを言うかもしれない。入国拒否された人は不意を突かれたようになり、怒りをあらわにすることも多いという。しかし「疑い」をもたれない様にすることも旅行者の心得となるべきだ。

本来、善良な市民にとっては痛くもかゆくもない事だ。むしろ喜んでいるのは、善良な日本人であり、善良な外国人である。善良なる人には自由を、そして問題のある人には規制を・・・それは当然のことだ。

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朝まで生テレビ「正社員はいらない!?」
昨年末(今年?)のテレビ朝日の「朝まで生テレビ」をYou Tubeで見た。この番組、相変わらずだなあ、という印象だった。

議論のテーマとして「雇用、賃金」に関する話題があった。出演者の竹中平蔵氏や長谷川幸洋氏らは、「非正規労働者のほとんどがフレキシブルな勤務を希望している」という発言があった。たしかにそのデータは正しいだろう。何故なら非正規と言っても「派遣社員」、「主婦のパート」、「学生のバイト」も含まれているからだ。たとえばスーパーでの募集(派遣、パート)に対して応募する人は、早朝と夕方が圧倒的に少ない。しかし、その時間帯は結構時給も高い。それは、主婦の立場からしたら当然だし、学生なら休日か授業の無い時間帯を選ぶのは当たり前のこと。

もし全国の学校や役所もすべて「24時間フレキシブル」のような社会にしなければ、この歪は解消できない。結局は、「自由な働き方」というよりも、誰もが時間的制限のなかで生活していることが根底にある話だ。もっと極端に言えば、すべての国民が交替勤務、および交替学習にすれば理屈上は解決する。そうなれば正月、お盆、そしてゴールデンウィークも、地域性も、そして昼も夜も関係なくなる。(最近、そういう傾向にはある) そういう社会が本当に良いのか?という議論が必要だ。

しかし、そんな「完全なる労働の自由」を求めることに人間社会、あるいは人間の生物科学上で許容できるはずはない。それは、どちらかといえば企業側の論理だ。つまり生産性の向上(というより時間当たりの出来高)を優先すると24時間稼働する方が得であるということ。土地や建物は24時間使用できる。そして設備や機械はメンテナンスをしっかりすれば24時間使える。要は、それにあわせて労働者をフルの活用したいということだ。それで同一労働、同一賃金にすれば理論上は生産性は必ず向上する。

「自由な働き方」という労働者のニーズといっても、労働者側はそんなことを考えていない。あくまでも労働者の都合を考えてのことだ。そういう労使の思惑が一致することはありえない。完全に一致させようとすれば統制国家にすれば、ある程度バランス確保はできるかもしれない。そう、自由主義ではなく統制主義なら。それはかなり強烈な統制主義でないと不可能だ。

ここで竹中平蔵氏が「ルールの厳格化」と言ったのは、むしろ新自由主義というより統制主義に近い。つまり竹中氏の思想としては、「自由」が先行して自生的秩序が形成されるのを期待し、問題(あるいは予想される問題)があればルールを厳格化するという考えだ。私は、全く逆の思想がある。それは完全なる自由からはカオスや衝突しか生まれない。自然界の秩序、あるいは人間としての生物学的な何らかの制限(条件)のもとで自己組織化するのが本質だ。労働者は、土地や建物、あるいは設備や機械と違う。人間は生物であり自然環境に適応させるべく生活している。特に労働者の教育訓練というのは生物学的な進歩との関わりが大きい。

その自然環境への適応を無視して、労働することは物理的には可能だ。しかし大抵の場合に体調や精神の障害のリスクが高くなる。賃金とはそうしたリスクとの引き換えで高くなるケースが多い。それは深夜手当とか休日出勤手当とか・・・。もっとも労働の評価や賃金というのは簡単なルールで決まられない。どれだけ努力して会社に貢献しても最終的な収益がなければ賃上げは難しい。それは優生学と同様に、何を持って優生なのか?何が劣性なのかというのは、与えられた条件や環境によって異なるからだ。しかし、この考え方は西洋人と日本人では相当違う。バレーボールやスキーのような国際的なスポーツが元々あるルールの中で自由に競技をしているのに、誰か(どこかの国)に不利になるとルールを変えようとする考え方と同じだ。

そもそも人間、あるいは人間社会というのは、完全なる自由や完全なる統制では成立しない。特に人間はそういう生き物ではない。竹中平蔵氏は常に「自由だー」と叫んでいるが、自由と言っても、自生的秩序(あるいは自己組織化)はそう簡単ではない。数百年、あるいは数千年かけて自生的秩序を追求するなんてバカげている。つまり、太陽は東から昇ることが普遍であるように、普遍であることを崩壊させてまで経済活性化や生産性向上をする意味がどこまであるのか?という議論になる。

しかし今回の議論は、そんなレベルの高い議論ではないように思える。例えばスーパーの場合、忙しい時間に募集が集中して、時給が高くなっていると述べた。一方で正規社員は関係ない。すると派遣労働者からすれば一見して「不公平」という感覚があり、気持ちとしては少し解らないでもない。従って、同一労働、同一賃金という考え方は一理ある。しかし、だからといって「社員なんていらない」という発想は絶対に間違っている。

社員というのは、忙しい忙しくないに関係なく重要な仕事が突然舞込むことが多々ある。業務契約が明確でないのはそうした理由があるからだ。どんな仕事でも臨機応変さは必要だ。そういう人こそ、スキルが上がるというものだ。たとえばスーパーでのクレーム対応、設備の大きなトラブル、緊急の労務管理(これが結構たいへん)、安全衛生管理・・・実は正社員は楽そうで結構たいへんだ。でも、そういう経験を積み重ねて、優秀な労働者、あるいは経営者として育成されるものだ。

一方で果たして、そういう仕事を主婦や学生などの非正規社員が責任もって遂行できるだろうか? 答えはNoだ。私も学生時代に様々なバイトやったが、そんなこと「社員の仕事」、と考えていた。それが実際の時給と照らしても妥当と考えていた。「自由な労働」と言いながら、重大な責任持ちたくないという理由で派遣労働を選択する人も多い。しかし、それこそ自己責任の問題だ。自己責任を覚悟して仕事を選んだ人たちに「同情」は不要だ。そもそも社員だって非正規だって、そのメリットとデメリットを理解したうえで仕事を選択している人たちが多い。それが非正規社員のフレキシブルを希望するというデータに結びついている。

責任と権限ということを考えれば、社員と非正規の差はあって当然だ。それは派遣労働法が議論される以前に、とうの昔からパートやバイトという非正規社員は存在していた。その頃から本質は何も変わっていない。それらが派遣労働という名に変わっただけだ。場合によっては、派遣の方が雇用保険や労災があるだけマシという考え方もできる。また一般社員(特に新入社員)より派遣社員の方が給与が高かった事例も多い。問題なのは社員になりたくてもなれるチャンスが少ない人たちが存在することだ。もう一つはワーキングプアといいながら「仕事を選んでいる」ということ。いまだに若者の間では3K(きつい、きたない、くさい)仕事を敬遠する。これでは労働市場の需給ギャップは簡単に埋まらない。

こういう個々の状況を考えるとキリがない。政府が労働問題を解決させるための基本として「景気回復」以外にありえない。テレビや報道では「社員はずるい」とか「派遣は無責任」とかいう一種の「嫉妬心」を中心に置いた議論になる。そうすると本質を見失う。どうも、テレビ討論では、出演者の歪んだ「正義漢」と視聴者の「嫉妬心」と「欲望」を煽りたてるという低レベルな内容に陥っているようでならない。

やはり「朝まで生テレビ」は相変わらずだ。特に田原総一郎は、何言っているのかよく解らない。そろそろ引退して世代交代すべきだ。それも労働問題の一つの解決になるだろう。

「高度な模倣」と「高度な虚偽」
今年の正月はどこへも行かずに家族でゆっくり過ごしている。昔は親戚一族が一堂に会して大人たちは世間話、子供たちは凧揚げ、駒回し、羽根つき・・・、そんな風景は私の住む街でも全く見当たらない。

私の子供たちも正月というより、「冬休み」なので学校の宿題以外ではスマートフォンでゲームやったり、You Tube みたり・・・結構笑いながら楽しんでいる。そしてテレビも少しは見る。私は、撮影技術や自然研究による番組が結構好きであるが、それ以外はあまり好きではない。特に正月バラエティーは「実にくだらない」のひとことだ。

しかし、そんな中で唯一私が「おもしろい」と感じたのはバラエティー番組が「芸能人格付けランキング」という番組だ。国際格付け会社の「ムーディーズ」と同じくらいバカバカしさがあるが、結構楽しめる。

特に私が感じたのは「高級品」と「一般品」の違いが意外にも判りにくいということ。当然ながら「目利き」や「味覚に敏感」な人たちも存在するだろうが、誰もが一瞬迷うような「一般品」、あるいは「偽物」が存在すること。

私は目利きの人や高級品を生産した人も凄いと思うが、この「偽物」を作った人を尊敬する。かたや12000円/グラムの牛肉と300円/グラムの加工肉の違いがなかなか解らないというのは、はっきりいって「加工肉業者」の技術の勝利という感じがする。

よく中国や韓国の「パクリ」問題はよくネット上でも話題になる。しかし、もし模造品であろうが本物を上回る品質と価格であれば消費者は納得するし、本家本元も怒らない。あのモノマネタレントのコロッケが大御所の北島三郎からも慕われているのが典型的だ。当然ながら北島三郎は最初はイヤだったかもしれないが、今では互いに認め合う間柄になっているように思える。それって素敵なことだと思う。

もちろん優れた模倣品といっても、有害物質が含有したり法規制を逸脱したものであれば絶対に許されない。しかし元々は模倣品であっても優れた進化、あるいは楽しさを伴っていれば立派な文化だ。そうなれば、何それがオリジナルだとか、元祖とか、本家とか・・・そういう議論は無意味になる。文化ってそういうものでも良いだろう。

しかし・・・、私は芸術品を見極める能力はあまりない。しかし「科学技術」や「経済学」、そして「政治」や「社会学」に関して「偽物」と言っては笑ってはいられない。STAP細胞もES細胞の偽名になったなんてシャレにならない。

日本の文化やデザインとしての模倣はたしかに高度であることは間違いない。しかし、そうした「高度な模倣」と似ても似つかない「高度な虚偽」とは完全に分離して考えた方がいいだろう。でも、その見極めってやはり難しい。うーんやはり勉強だ。 私もせっかくの休みだが、ゴロゴロしてないで少しは勉強しよう。


謹賀新年
明けましておめでとうございます。
皆さまにとって本年が良い年になりますように。





プロフィール

小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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