理系おじさんの社会学
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「なぜなぜ分析」では真の問題解決はできない
昨日の私のブログでは「なぜ物理学を勉強するのか」ということについて筑波大学の先生の言葉を引用した。さて、では現在の工業界では様々な問題発生時にどのような解析手法を用いているのだろうか。自動車関連企業を中心として「なぜなぜ分析」というものがある。この手法は専門知識に頼らなくても誰でもできる解析方法として広く推奨されている。この手法は、何かの問題に対して「なぜ」を5回以上繰り返して「真の問題点」にたどり着き、それに対処するというもの。これこそが「解析方法の基本だ」と信じている人々も多い。

しかし大きな問題点がある。それは偏見が入りやすいことである。「なぜなぜ分析」の悪い例を上げてみよう。例えば、一般の高校生が中間試験を受けて成績が悪かったとしよう。その原因を以下のように分析した。

成績が悪かった ⇒ 集中できなかった ⇒ 試験当日は眠かった ⇒ 昨晩眠れなかった ⇒ 隣の家の赤子の夜鳴きがうるさかった ⇒ 赤子が悪い!

この分析を見れば誰だって思う。赤子は悪くない。その親も悪くない。家の構造だって建築基準法に準じている。でも「なぜなぜ分析」の結果、赤子が悪いとなって赤子を処分する・・・・当然ながらそんなことはあってはならない。

これは極端な例だが、多かれ少なかれこのような「なぜなぜ分析」をする企業の担当者は多い。おそらく「なぜなぜ分析」の権威?のような人物は「分析に慣れていない」とか「分析の能力が低い」とか言い訳するだろう。たしかに誰でもできる分析かもしれない。しかし何にでも「こじつけ」可能なのである。わたしに言わせれば、これほど偏見に満ちた分析方法はない。仮に立派な「なぜなぜ分析」の事例があったとしても、他の改善事例を後で強引に「なぜなぜ分析」に当てはめたものが多い。こうした手法が何らかの企業のルールに織り込まれると、誰もが「やもえず」形式的に専用シートに記入する。そして、その後も何度も何度も同じ問題を繰り返す。

では、どうしてそのようなことになるのか?一言で言えば「平面上で点と線で結ぶ解析には限界がある」ということだ(ここでも、「なぜなぜ分析」なんて不要だ)。物理学を学んだ方々であれば、先ずは立体的にX軸、y軸、Z軸を考える。そうすれば体積と形状がわかる。そして、その素材、重量、強度を考える。そして時間、と加速度を考える。まさしく微分方程式の世界である。自然現象や機械構造でも、こうした考えが基本になっている。

にもかかわらず、「平面状で点と線を結ぶ解析」に拘っても良い解析結果は絶対に得られない。さらに時間軸を無視した「設計」そして「統制」が是とする考えでは「良いモノつくり」や「良い社会つくり」はできない。やはり物理学は学ぶ過程においても、応用する過程において「偏見」を縮小し「公平さ」が生まれることは重要だ。昨日のブログと対比する形で多くの方々と考えたいテーマだ。


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西田顕郎氏と物理学
筑波大学に西田顕郎という先生がおられる。歳はおそらく私と同世代か少し若いであろうか。彼は、農学、生物学が専門のようだが物理学に関して学生に対してすばらしいメッセージを贈っている。

なぜ物理学を勉強するのか

2009年10月30日の日付になっているので、ちょうど5年前になる。最近、私は偶然インターネットで見つけた。これほど物理学について私が共感を得た小論文は見たことがなかった。彼のこのメッセージは5年経った現在も、そして将来にわたって若い世代に伝えたいメッセージだ。同時に社会人になって、ある程度年齢に達した方々も一読されることをお勧めします。

特に「・・・物理学は公平な学問です。その公平さを体験的に理解することも重要です。そうすれば、他の学問も、どのように学べば良いか、わかるでしょう。」・・・いやー全く同感だ。なぜなら世の中には、偏見だらけの学問や学問にも満たない解析や主張が蔓延しているからである。そして何か壁にぶち当たったとき「公平さ」のある物理学を応用すると納得した行動をとることができる。

たしかに一般的には物理学は人気がない。微分方程式を見るだけでアレルギーの方々も多く存在する。しかし子供の頃に算数が苦手だった私ですら、物理学については多少は語ることができる。そして、その考え方を文化、経済、政治、そして社会学に応用して考えていることができる。(それがこのブログ「理系おじさんの社会学」です)

もちろん物理学を勉強するのには時間が掛かる。私も大学では物理学専攻であったが、当時あまりの難解さに授業についていけなかった。当時の教授たちがある意味で異星人のようにも見えた。・・・が、しかしである。現在40歳代半ばを過ぎて自分が物理学を学んでいたことに感謝することが多くなった。そして当時学んでいたことが少しずつ理解できるようになった。おそらく、すべてを理解するためには一生掛かるかもしれないが、現在の行動に影響を及ぼしていることは間違いない。

もちろん学生時代に物理学を学んでも、サービス業や警察官、タクシードライバーといった物理とは直接関係のない仕事をしている方々も大勢いる。一見関係ないように思えても役に立つことがある。特に工業界や経済界では必ずどこかで役に立つ考え方だ。物理学を勉強することが、あらゆる分野においてアドバンテージが得られるのは間違いない。


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海外旅行より国内旅行が良い
昨日の私のブログでエボラ騒動があるので、海外旅行は控えた方が良いと述べた。自宅で家族団らんも良いが、国内旅行もとても良い。特に飛行機ではなく電車(新幹線含む)移動は便利で楽しい。

もともと私は旅行が趣味ではなかったが、仕事の関係で国内外の出張は多い。当然ながら仕事なので、観光地へは行かない(ていうか行けない)。しかし、もし観光で来たら楽しいだろうと思う地方(国内)は非常に多い。

そんな中で私のお勧めは鹿児島だ。2011年3月11日、あの東日本大震災で九州新幹線開業祝いが縮小してしまったのは記憶にあたらしい。しかし鹿児島まで新幹線が開通したのは大きな経済効果があったことは間違いない。私も昨年、生まれて初めて鹿児島の地を訪れた。

鹿児島市内の大通りに、大久保利通像があったり、西郷隆盛像があったり、様々な歴史記念館や薩摩切子(ガラズ工芸品)の店も多くある。西南戦争での銃弾の痕が残る城壁も見える。私は残念ながら、記念館やお店に立ち寄ることはなかった。

また、もっと足を伸ばせば、枕崎の鰹節の香り、特攻隊の記念館などもある。特攻隊の記念館だけでも一度は訪問してみたかった。仕事の出張で近くまできているのに訪問できなかったのは非常に残念だった。

そして食事は本当に美味しい。様々な特産品、サツマ豚、焼酎・・・どれも絶品だ。そして何故か鹿児島は、綺麗な女性が多い(私の好みかなあ?)。そして鹿児島の人々は九州男児というより、「やさしさ」を感じる。道路でも車の「譲り合い」は当たり前だし、無用なクラクションは非常に少ない。どこかの国の大都市と大違いだ。

私は仕事の関係で海外も何度も訪問している。しかし日本の地方を訪問すると、改めて日本の素晴らしさを実感する。それは鹿児島だけではない。四国でも北陸でもそうだ。海外や日本の大都市で味わえない魅力は、日本の地方には間違いなく存在する。ちなみに日本以外のアジアでは都市部は比較的綺麗でも、地方は汚い場合が多い。

そう、エボラ騒動と円安をきっかけにして、「海外旅行ブーム」から「国内(地方)旅行ブーム」へ切り替えるべきである。日本の景気回復はもちろんのこと、安全衛生の確保、そして何よりも「日本」を見つめなおす絶好に機会になるだろう。一昔前は海外旅行で「自分探し」というのが静かなブームだった。これからは国内旅行で「日本探し」と「自分(日本人)探し」がもっとブームになることが望ましい。



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エボラ騒動
今朝のニュースで羽田空港でエボラ感染が疑われた男性が「陰性」との結果のニュースがあった。一方でアメリカのニューヨークではすでに感染者が確認されている。

こうなってくると人々は海外旅行を控えたり、国内でも外出を控えるようになるだろう。私だって、私の家族だってそうだ。幸いにも最近では、仕事で海外出張する機会が減っているので嬉しい限りだ。まあ、そもそも飛行機嫌いで海外嫌いの私にとっては「良い言い訳」ができたといえる。

そう「口実(言い訳)」が生まれる。こうしたエボラ騒動は様々な「口実」を与える大きな要因になっている。やはりインパクトは大きい。まあ、外出を控え家族で一家団欒することの歓びを人間が得られる「きっかけ」にもなればいいかも。


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イランの女性死刑囚
AFPBB ニュースによると、「イラン当局は25日、元情報部員の男性を殺害したとして死刑判決を受けていた女性死刑囚の刑を執行した。」とのこと。「女性は被害者から性的暴行を受けそうになったと主張し、国際人権団体などが刑の執行をしないよう求めていた。」

しかしニュースでは「背中を刺されており・・・計画的な殺人だったと判断」とある。いつものごとく、国際人権団体は性的暴行が関連すると必ず抗議する。こういうことは欧米の感覚で論じるのは難しい。例えばイスラムでは女性が肌を露出すれば「強姦されても仕方がない」という考えがある。

そこで彼女がそうした行為(セクシーな振る舞い?)があったのか?そして性的暴行を受けそうに・・・この「受けそうに」というところも解釈が難しい。アメリカは、イランが人権無視の野蛮な国家というイメージを植え付けたいのはいつものことだが、今回のニュースも「性的暴力」という誰もが注目しそうな話題であることが重要なポイントだ。

一方で基本的にムスリム(イスラム教徒)は嘘をつかないとされるが、実は結構嘘を吐くムスリムも多い。彼女が嘘を吐いていたかどうかは判らない。自分の身を守るために「性的暴力」というのを利用した十分可能性もある。しかし、そうした細かな検証が行われたかどうかは疑問ではある。特に背中を刺されたから、計画的かどうか判断できるというのは不思議である。

まあ事実関係はよく判らないが、こういうニュースは欧米の「反イスラムの世論」を形成させる道具になっていることは間違いない。最近では、とかく「イスラム国」に関する話題が多いが、イスラム国だってイスラムの野蛮さをアピールすることに利用されている。


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香港問題も「移民問題」である。
香港の混乱が長期化している。1997年に英国支配(150年)が終了した時点から混迷は続いている。これは「特別行政府」としながらも香港の主権があらゆる意味で(経済、文化など)薄れていくことを意味している。特に大きな問題は中国人の大量流入である。それが香港の社会に大きな影響を与えている。先ず共産党人民解放軍が香港に入った。その後、中国の経済界(富裕層)が流入した。そして一般の中国人も大量に流入した。

中国共産党の手法として、「同化政策」がある。これはチベットやウイグルに対する政策でも同じである。中国人を大量に流入させ、現地の女性は漢人と結婚させる。そして流入した中国人の子供たちは現地人となる。そうした子供たちが成人を迎えようとするわけだ。香港人は基本的には中国人と同じ「漢人」が多数派ではあるが、独特の広東語(香港語)を使用し、150年の英国支配によって文化や考え方は中国本土と相当違っている。

今後、ますます香港という独自の文化は失われ、香港人としての特権も失われる。それが根本的な問題なのである。今回の選挙問題に関して、中国当局の意向で「数名の候補者(一応、香港人)を事前に選択準備して選挙をさせる」。つまり香港人に選挙権はあるが、自由な被選挙権がないわけだ。だから「半民主化」であり、「完全民主化に」という話になっている。たしかに「半民主化」というやり方は、香港人をバカにしていると思われても仕方がない。一方、そもそも中国本土に選挙は全くないわけだから、北京は香港に「配慮」しているつもり・・・ということにもなる。

当然、こうしたやり方は香港人の怒りを買うわけだが、本当は「完全民主化」とかいうよりも、「移民問題」によって香港人の生活が脅かされているというのが本質である。そもそも香港人も中国人も「民主化」という概念は一般人にまでは浸透していない。そんなことより、経済的に生活が脅かされているということのほうが香港人にとっては重大な問題である。この「完全民主化」はそうした反発のきっかけにすぎない。確かに学生たちは「民主化」の意味と思想哲学をもっているかもしれない。しかし彼らだって将来に悲観的になっているというのが実態であり、「民主化」を大義名分にしているのが本質だ。

この混乱は簡単にはおさまらないだろう。私はかつてブログで中東イスラエル問題は「移民問題」であると述べた。国際的な様々な問題は「移民問題」にたどり着くケースが多い。そう香港問題は「完全民主化」が本質ではなく「移民問題」が本質である。「移民問題」がいかにやっかいな問題か、香港のケースだってそれを意味していることは日本人も理解する必要があるだろう。



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麻生財務大臣の発言
昨日、麻生財務大臣は会見で「増税が日本の信用に」と発言した。彼は以前にも「増税は国際公約」とも発言している。これを国際公約と表現するのは適切かは判らないが、国際会議の場で「日本の方針の一部」として公表していることは確かである。また国内的にも自民党が野党時代に当時の民主党、公明党と「税と社会保障の一体改革」として三党合意をしていることも事実。そして、自民党政権になって付帯事項があるとはいえ、消費税増税に関する法案が成立しているのも事実。そして、それを受けて様々な関連法案や行政機関の準備や民間企業の準備も進んでいる。

つまり、もう後戻りができない「しくみ」になっている。ここで覆されると逆に混乱が発生する。私の個人的な意見としては当然ながら消費税10%引き上げは反対である。それはデフレからの脱却の方針とは真逆であるからだ。・・・がしかし、である。約束というものは守らなければならない。約束を守らないと、国内的にも国際的にも信用を失うのは間違いない。

もし10%引き上げを阻止したいなら、そうした法案を通すこと・・・しかし三党合意の三党は賛成しないし、旧維新の会も消費税増税に賛成だったからできない。渡辺嘉美の旧みんなの党くらいしか法案は出せないだろう。まあそれでも法案は通らない。あるいはG5や国際経済会議の場で、「国際経済のために日本の方針を変更する」と明言するのも方法ではあるが、国内がまとまらない事を公言すれば、それこそ信用は失う。 つまり、もう遅いのである。経済評論家の三橋貴明氏たちが必死になって10%阻止を訴えているが、おそらく無駄であろう。

私は麻生財務大臣は理解していると考えている。例えば彼は「税率よりも税収を上げることの方が大きい」とか「日本は財政破綻しない」とか国会答弁等でまともなコメントを出している。しかし上記の理由で増税するしかないのである。彼はこう思っているだろう、「だって、国会審議や国際会議の流れがずっとそうだったじゃないか」、「公式な発表や公式な手続きに基づくことしかできないでしょ」・・・「それは国民から選ばれた議員によって決定したんでしょ」。

要するに独裁政権ではないのだから、世論や選挙で体制が変わらなければ何もできないということだ。国民が選んだ国会議員によって決めたこと。結局、そういうことだ。財務省のだれそれがとか、外国がという問題ではない。

そうなれば10%増税によって景気が低迷して、税収が増えず「多大なる苦労」を国民が経験しなければ変えられない。「痛い思いをしないと解らない」ということ。税と社会保障・・・とか言いながら年金給付額は消費税分もプラスされる。はっきり言って無茶苦茶の状態だ。

2015年10月には予定通り、消費税は10%になるだろう。問題はそのあとだ。各種経済指標と税収(税収は落ちる)を見て、すぐに方針転換するべきである。自民党と公明党で過半数あるわけだから、場合によっては社民党も巻き込んで「減税法案」を提出するのである。そこで名古屋の河村市長あたりに「減税」をキャンペーンさせるのもいいかもしれない。

こういうことは常に先手を打ちべきだ。先ほど述べたように国際会議の場も上手く使って「国際経済のため」という大義名分を立てれば諸外国は反対しない。そりゃそうだ、日本が減税したら外国商品だって減税されるわけだから「儲け」があるなら誰も反対しない。

実は日本人にとって「敵」は外国人でもなければ、日本の財務省でもない。武村正義のような無能な財政破綻論者とか、増税しないと社会保障が成立しないと訴える桜井よし子のような困った日本人なのである。



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ホンダのリコール
またまたリコールのニュース。ホンダは新型「フィット」など世界で計約42万6000台のリコールを実施する。昨年9月に発売した新型フィットのリコールはこれで5度目となる。

あの超人気のホンダのフィット、私も購入しようか迷ったこともあった。しかし、なぜ工業会でのリコールはあとを絶たないのだろう。もちろん製造者責任が厳しく追及される時代になったことも時代背景としてあるだろう。

しかし技術力が低下していることも紛れもない事実だ。それはISOの普及、そして自動車メーカのTS・・・といった国際規格も関係している。なぜなら、それらの規格は実環境というものを反映できていないからだ。

そもそも国際規格はビジネスとしての利便性と特定の国家や企業の優位性を奪い取るのが目的であることが多い(特にアメリカ)。そこでは実環境での配慮という考えは低い。

実環境とは、国に地域によっても違う、「気候」「風土」「文化」・・・本来、工業製品とはそうした環境との融合を考慮しなければ必ず問題が発生する。グローバリズムを追求すればするほど、そうした地域性を無視して規格統一だけでなく、各種マニュアルも統一しようとする。

だから工業製品のリコールは無くならないのだ。リコール内容の記事をみると、「高温多湿の場合」とか、「超低温下」とか「雨や塩分の多い地域」とか「ユーザー(特に子供)が誤使用する」とか、そんな内容をよく見かける。しかし考えてみればよくわかる。グローバル製品って、そんなことを考慮する余裕などないのである。開発スピードと大量生産、これがビジネスモデルになっている以上、リコールはなくならない。

にもかかわらず、リコールにより多額の損失を計上させるのは「社会に対する誠意」以外何物でもない。そして大企業の技術者が教育訓練されていない。あるいは技術者がそういった実環境、そして顧客のことを考えていないことも要因だ。しかし、日本の一部の中小零細企業では、顧客を意識した多くのヒット商品もある。

たしかにホンダのフィットは多くのリコールを出した。しかし私はそれでもフィットは名車だと思っている。今はリコールの部品やシステムだけがクローズアップされている。しかし決して一般的には報道されない技術者の苦労の結晶もそこには搭載されている。

先般、私は初めてレンタカーではあるが新型フィットに乗車した。いやー、いろんな意味で感動する。よくできている。20年前の高級車とは段違いだ。実は私が開発に関わった部品も搭載されている。先ほど「技術力が低下している」と述べたが、また同時にある部品の分野では飛躍的に向上しているのも事実だ。

ホンダのフィットは最高級の技術が多く搭載されているのは事実。そして同時に小さな環境配慮が見失われていた。さらに人気のある車種ゆえにとてつもない大量生産となり、部品の生産が追い付かない。そこで品質のバランスを崩したことも背景にある。高品質の部品を大量に生産するというのは、いかに高度な技術を持つ会社でも難しい。

それは上手いラーメン屋や普段は50人程度の客を相手にしているのに、店員は一人で500人を相手にするようなものである。そうした生産計画と販売計画は一体とならなければならない。しかし部門間で勝手な動きをされると大きな問題になる。数百~数千万台にもなる自動車生産では管理しきれなくなるんである。実は自動車のリコールにはそういった背景もある。



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桜井会長と橋下市長の会談
いやー、You Tubeで在特会の桜井会長と大阪市の橋下市長の会談を見たが色々な意味で面白かった。「ヘイトスピーチ」についての会談のはずが、「おまえ選挙でろよ」とか「大阪にお前は必要ない」などと・・・橋下市長の支離滅裂な発言は、ヘイトスピーチを非難する公的な立場の人間とは思えない対応だった。

この勝負、完全に橋下市長の負けである。「ヘイトスピーチの定義」だとか「言論の自由の範囲」とか・・・明確な論点はあったはずだ。橋下市長が落ち着いた対応をすれば、桜井会長は適切に応えていたはずである。それを、はなから「差別主義者」とレッテルを貼った橋下市長の対応に桜井会長が激怒するのは当然だ。

私は別に桜井会長をひいきしているわけではない。桜井会長はまともなことを言っている。橋下市長は、そもそも議論する気はなく、上から目線で「しつけ」するような態度をするからダメなのである。他の視聴者はどう感じたか判らないが、私にはそう見えた。結局は、橋下市長は在特会のデモをカウンターしている連中の同じである。「上から目線」であり、論点を表に出さずに議論をしようとしていないのである。それは、どこかのオバサンが感情的に「ダメなものはダメー」、「イヤなものはイヤー」と同じである。

少なくとも桜井会長は理由があって反韓、嫌韓を主張しているのに対して、橋下市長は明確な理由なく感情的に「ダメ」と言っている。感情的なもの同士がぶつかるときこそ、法的な根拠を示さなければならないのに、弁護士でもある橋下市長が法律を無視している。そして大人が子供に対するような「上から目線」で理由もなく「ダメなものはダメ」という。在特会、そして桜井会長は子供ではない。子供だって理由もなく「ダメなものダメ」と言われたら反発するものである。

今回の件で橋下市長の大阪市民、そして日本国民がどう思ったか?そもそも橋下市長から会うとコメントがあったから桜井会長が正式に申し入れた会談だった。30分の予定だったのを、10分で切り上げた橋下市長は逃げているといわれても仕方がない。その後、橋下市長は「自分が引き受ける」・・・と訳のわからないことを発言している。

実はヘイトスピーチに反対する団体ですら「あれは逆効果だった」との意見が出ている。これは橋下市長が完全に失脚する大きな要素になったように思える。彼が意識する「選挙」に落ちれば、彼に権威など何も残らない。彼に存在したのは、「一般的な人気」、そして「市長という権限」、それが無くなればタダのヒトだ。そうなる日はそう遠くないだろう。


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国会議員に向いてない人
小渕経済産業相の政治資金問題、松島法相のウチワ配布問題、そろって辞表を提出した。まあ、バカバカしいといえばバカバカしいが「狙われたなあ」って感じがする。


内閣改造からわずか1か月半。女性の社会進出を促す象徴的な人事とも言われた。安部首相の「女性を味方に」の戦略だったが「任命責任」を認めると安易な女性優遇は間違っていたということになる。

まあ、政治家には向き不向きがある。例えば国政に絶対に持ち込んではいけないものがある。

① 主婦の感覚
② 民間企業の感覚
③ 地方行政の感覚
④ フェミニストの感覚
⑤ 独身者の感覚

この①~⑤に共通することは「個人主義」であること。「国家、社会を考えない」ことである。でも、それは仕方がないことだ。だって、そういう存在なのだから。私が独身の頃や学生の頃もそうだった「社会なんてどうでもいい」と心の中で思っていた。民間企業だって本音は「利益追求」であり、「社会的責任」や「国家」なんて、そもそも基軸に考えていない。私は、彼らの存在そのものは否定しない。しかし、そういう存在であることを認識しなければならない。「馬の耳に念仏」、「豚に真珠」、「猫に小判」である。別に、馬や豚や猫は悪くはない。

だって、例えばある主婦に「経済学について」語っても、「何、言ってんの?今日の晩御飯何にする?」になる。学生に自殺の関する新聞記事を読ませても、「・・・問題は今日の雨・・・傘がない by 井上陽水」となる。マックの店長に「日米安保条約」について話しても「そんなことより、はやくポテトを準備しろよ!」になってしまう。大田区の町工場のおっちゃんは川崎の堀之内へよく通い「あのホステス・・・最高だべ」なんていう。一方で、ヒマなおばさんは「隣近所の奥さんが離婚したって!えーそうなのー、たいへんねー」となり、ヒマな女子高生は「有名人のだれそれはあの人と付きあってるって、えー、すごい!」・・・なんてのが世間だ。私は何もバカにしているわけではない。俗世間とはそういうもんだし、俗世間は俗世間の魅力がある。

また財政難の地方の元トップは「借金は悪だー」って叫ぶ。または「地方に権限よこせ」という。にもかかわらず「国家が権限を持つのは良くない」と売国的な発言をする。その勢いで日本は借金で財政破綻だーなんて平気で主張する。元どこかの知事だった武村正義はその典型だ。また、どこかの居酒屋ブラックオーナーが利益を追求するためには社員をとことんまで働かせよ!・・・この感覚を国政でやられたらたまったものではない。

国政は地方行政と違う。国政は民間企業とは違う。国政は主婦や女子高生の感覚は適用できない。

民主主義とはいえ、こうした当たり前のことを理解していない政治家、マスメディアはあまりにも多すぎる。でも勘違いしてはならないのは「俗世間は悪くない」ということだ。「俗世間」は結構素敵なものも多い。それを、しっかりと切り分けること、それができない政治家とマスメディアは信頼を無くす一方だろう。


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人口減少で日本は復活する②
内閣府が18日に発表した「人口、経済社会等の日本の将来像に関する世論調査」によると、50年後の日本について「暗いと思う」と答えた人が60%にのぼり、「明るいと思う」は33・2%にとどまった。子育て世代に「暗いと思う」の回答が多く、少子高齢化が将来不安につながっているといえそうだ・・・。というニュースがあった。

まあ、そういう報道ばかりするから「暗い」というイメージが定着するのだろう。前回の私のブログでは、人口増加したことによって人間の価値が低下したと述べた。従って人口減少することは「人間の価値」を上げることができると述べた。例えば、日銀が大量に通貨を発行したら貨幣価値が下がり円安になる。しかし、それでも金利は上がらない。つまり、まだまだ
通貨の価値が高いことを意味している。

一方で人間社会では、人間が増えて人間の価値が下がり、給与は上がらない。派遣労働や外国人労働者を増やして、ますます人間の価値を下げる。そして給与も据え置く。カネの価値が高いということはモノやサービスの価値が相対的に低いということになる。それ自体が「人間の価値」を下げていることを意味する。人間には金利のようなもので価値を上げることはできない。もし「人間の価値」を本質的に上げるとしたら「教育訓練」で付加価値を加えるしか方法はない。

さて、諸外国をみるとどうであろうか?シナ(中国)は12億人を抱える。この人民ほど「人間の価値」が低い民族はない。共産党中央本部ですら、これだけ人口が多ければ数万人死んだって、どうってことない・・・と本気で考えている。そして7億人を超えるインドでも人間というのは粗末に扱われる。2億人のアメリカも一般庶民の「人間の価値」は低下している。そして、これらの国々は教育制度はあるものの労働に対する訓練や技能の習得といったことには力を入れていない。

よく経済的にグローバリゼーションはよくないとか、市場原理主義はよくないとか言われる(私もそう思う)。そもそもの根底にある問題は「人間の価値」が低くなったことがそもそもの原因である。人口減少により労働者不足を補うために大量の移民を受け入れた欧州では、もともといた欧州民族ですら「人間の価値」が低下してしまったのである。何らかの最新の技術開発か何かがあれば、また多少は方向性も変わるであろうが、そうでなければ人間の価値は下がる一方である。

そしてもう一つ大きな問題なのは「短期投資」という考え方だ。人間の数が多いと長期の人材投資が行われない。何故なら、多いヒトの数の中から「選択すればよい」からである。例えば、カネの価値を上げるための政策金利を中央銀行が簡単に決定することができる。しかし人間に付加価値を付けるための「教育訓練」という投資が必要であり、それには時間が掛かる。一般的に投資というのは10年以内で回収というのが基本である。さらに投機家は1年以内でギャンブルのような投資をする。しかし教育訓練は違う。「石の上にも3年」という諺があるが、実際にはもっと時間がかかる。孔子の論語では、15歳で学を志して、30歳にして立つ・・・とある。まあ15年はかかるわけだ。技能の種類によっては一生かかることだってある。

しかし社会システムとして、教育訓練を早めることは可能である。それは常に私が主張している「高校の義務教育化」と「職業訓練の義務化」である。私は随分前のブログでも述べたが、医療介護、土木建築、農業、防衛・・・等の国家の基盤となるような産業については国民の義務として職業訓練を15-20歳までに受けるべきと主張した。そこから実際にそういう業界に就職する、あるいは予備役になれば社会の変化に対応しやすくなる。昔であれば徴兵制度があった。そこまでする必要はない。国家の基盤となる業界であれば何でもいい。現在の新入社員が即戦力にならず、改めて会社で「社会人マナー」から教育するなんてバカげている。そういったことも解消できる。

人口減少によって、たしかに一時的に民間総需要は低下するかもしれない。しかし、そういう時こそ教育訓練や各種インフラのメンテナンスに時間を費やすことができる。それは政府(国家)が主導すべきことである。民間の場合、大きな需要に対して供給が追い付かない時は、教育訓練や設備メンテする時間に余裕がない場合がある。一方、デフレで供給過剰であり時間があるにも関わらずコスト削減によって教育訓練や設備メンテをしないケースもある。従って国家が強制的に教育訓練とインフラメンテを実施することが重要となる。愚かな政治家や一部の経済学者は、「人口減少して需要が減るから、公共投資を増やしてはいけない」という。この考え方は絶対に間違っている。

人口減少とは様々な現代社会の問題を解決させるチャンスでもある。にもかかわらず欧州のような大量移民を受け入れたりするから問題が拡大するのである。先ずは、この「人口減少をチャンスととらえる」この考え方こそ日本が復活する鍵である。そして「人口減少」と「教育訓練」が時間的要素を考慮しながら、どうやって「人間の価値を向上」させるかを皆で議論すべきである。そう考えれば日本の50年後は決して暗くない。暗くしているのは「暗い」と思っている人たちだけだ。



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人口減少で日本は復活する ①
ここ数日、「私の脱原発論」ということを記事にした。私と同様に保守系の方々でも「安全保障」の観点から反原発派の方々も多い。そして前回、もう一つのキーワードとして私は日本の「人口減少」を肯定的に考えているところ。そもそも日本という国家はその地理的要因、環境的要因より定員はざっくり8000万人程度だと考えている。つまり1億3000万人に達した時点で、5000万人の定員オーバーだったということ。

定員オーバーだからこそ、外国から余計なエネルギーや食料も依存しなければならない。そして非情な表現をすれば、人間の数が多いから、人間の価値が低下しているのである。戦後の経済成長に伴い日本人の人件費は頂点に達し、社会福祉の思想の強まったために人間は「価値が低いにもかかわらずコストがかかる」やっかいな存在になってしまった。ならば人口が減ることは結果的に人間の価値が向上し、余計なコストも掛からなくなると考えることができる。

生物学的にも個体数が増加したあとに減少することは「優生的な淘汰と進化」が生まれる。ここでの優生とは社会で「仕事ができる」という意味で考えると解りやすい。たとえばホステスが100人いる風俗店があるとする。そのうち超人気の女性は4-5名程度しかいない。そしてそこそこ人気というのは20-30人いる。そして残りの半数以上はいつもまにか消えていく。これは「美人」であるとか「スタイルがいい」とかがすべてを決定するわけではない。それは「仕事ができるか」で決まるわけだ。その「仕事ができる」というのは必ず「知的」な魅力が伴うものである。

さて将来の日本は人口減少によって、どういう社会になるのか?当然ながら100年以上先のことは誰にも解らない。でも50年程度であれば推測はできる。まず、失礼ながら団塊の世代の方々がお亡くなりになれば、人口構成のバランスは結構良くなることだ。そして景気が回復すれば、少しずつ出生率は上昇する。人口減少は、短期投資型から中長期投資型に変化する。短期投資に振り回された現代社会の歪が解消されることは社会にとって望ましいことである。

もう一つ重要なことは都市部と地方の人口の予測である。1960年代から大都市の人口が急速に増加した。そして1970年代から「ドーナツ現象」といわれる大都市は人口減少するが、大都市近郊は人口増加した。そして1970年代以降、一貫して山間部や農村、漁村は過疎化していった。あと地方は、企業城下町になるか、あるいは観光地としてのビジネス価値があるかで地方同士でも格差は生まれる。そして、それは高速道路があるか、新幹線が通っているかでも随分違う。

私が子供の頃、田舎と都会では雰囲気、文化、ヒトの顔つき、女性のファッションまで違っていた。吉幾三の「オラ東京さあ行くだ」の世界だった。しかし、最近の地方でも女性はおしゃれだし(むしろ地方の方が美人が多い気がする)、もちろんインターネットも普及している。ごく一部の地域を除いて、ほとんど生活インフラも整っている。たしかに古い商店街は閑散としているが、大きな道路沿いに大きなスーパーやコンビニがあったりする。都心へのアクセスがよければ決して住みにくいわけではない。

逆説的であるが、私は日本全体で人口減少になると都市部とその近郊の人口が減少して、逆に地方は増えると考えている。すでに大都市とその近郊では完全に高齢化が進んでいる。その子供たちは決してその住宅を引き継ぐことない。古いアパートは不便である。また大都市とその近郊での生活とは、私も経験したことがあるが「なぜか、あまり居心地がよくない」のだ。その理由はよくわからない。人間の本能なのかもしれない。

とにかく人口が減少すれば「たいへんだー、移民受け入れだー」という大バカな主張に決して惑わされてはならない。人口減少は社会の歪を是正する絶好のチャンスと捉えるべきである。身近な簡単な例でいうと、ゴミが減るとか、満員電車が解消されるとか、渋滞が解消するとか。しかし、それは政府の政策次第によっても大きく変わる。その理由については次回紹介する。


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関西電力:中間決算黒字30億円!
昨日までの私は「脱原発」について記事を書いた。そこで、それに関連する話題として興味深いニュースがあった。Yahooの毎日新聞ニュースによると(以下、抜粋)

関西電力は16日、今月29日に発表する2014年9月中間決算の業績予想を上方修正し、連結の最終(当期)損益が30億円の黒字(従来予想は290億円の赤字)になると発表した。

<中略>

関電単体では、電力販売量が減ったことで、売上高は従来予想の1兆5300億円から300億円少ない1兆5000億円に修正した。だが、皮肉にも天候不順で需要が伸びなかったことで、発電単価の高い石油火力の稼働を抑え、石油より安い液化天然ガス(LNG)火力や石炭火力の稼働を増やすことができた。

通常、一般的な商品は「販売量が増えれば利益は上がる」が常識である。損益分岐点というものがある。しかし電力販売量が減ったことによって利益が上昇しているのである。これが電力会社の実態である。しかし、ニュースでは以下のように続いている。

だが、関電経理室の谷口秀明部長は「黒字は一時的なもので、通期では厳しい」と説明する。夏場に発電所をフル稼働させるために下期に多くの点検や修繕を先送りしており、修繕費がかさむ。上期は想定より安く済んだ燃料費も、価格や為替の動向次第で大きく変動する。

結局は、中間決算という数字は正しいが、経営方針は「原発依存」であるといえる。ここでいう「修繕費」とは具体的に何を意味しているか?おそらく、古い石油火力発電の修繕費ということだろう。本来ならば最新鋭の火力発電を建設すれば良いことである。しかし、いずれは原発が再稼動できるという期待感、そして通期赤字への危機感、そして中長期の見通しが立たないために、そうした「投資」ができない状況になっていると見た方がよいだろう。

私のブログにとっては、非常にタイミングの良いニュースだ。結局は谷口部長の「燃料費も、価格や為替の動向次第で大きく変動する」という発言は、「単価」だけを考えて「エネルギー発電効率」をあまり考えていないように聞こえる。確かに電気料金の算定基準は燃料費の「単価」をベースにしているが、実際の「原価」は違う。これは何も関西電力だけではない。世の中の調達グループというのは「単価」しか見ていないところがある。たしかに調達グループとは素材や原材料を安く購入することが重要な任務であるのは間違いないが、そのあとの「製品になるまで」、そしてそれがユーザで「どのように使われるか」をあまり考えていないのである。

「安物買いの銭失い」というのはある程度知識のある経理担当者ならば理解する。しかし問題なのは経営者が「長期見通しが立たない」こと、・・・そして株主(短期投機家も多い)を気にして、短期の利益追求に走るのである。一般的に「投資」というのは10年が目安だ。10年以内で回収できれば大成功である。ちなみに太陽光発電は約20年以上は掛かる(だから固価格買取が20年という発想が生まれる)。 しかし電力会社はこの10年ですら投資回収する自信がないということになる。本来は100年スパンで原発は考えなければならないが、100年先なんて誰も考えていない。ていうか考えることができない。ケインズの言葉じゃないが「将来のこと考えているうちに皆死んでしまう」・・・まあ、そういうことだ。

従って、電力会社は「原発が稼働できれば短期の利益が確保できる・・・」という下心からずっと解放されないのである。あるいは国民に対して、電気料金の大幅値下げができない「いいわけ」のように聞こえる。こういう状況こそ政府が舵取りすべきである。政府が明確に「脱原発路線」を伝えればいい。そして発電効率のよい発電施設建設を支援すべきなのだ。そうすれば電力会社は確実に利益を上げることができるし、電気料金も引き下げが可能になる。

にもかかわらず政府は、国内外の短期投資家の声の方が気になるのだろうか?安部首相も「内外からの投資の呼び込み」と「消費税10%増税への道筋つくり」、この二点についてのみに積極的であるように私の目に映る。

しかも怒りを感じるのは、政府は今年度四半期の経済指標が悪いことを「天候不順のせい」とコメントしていること。天候不順の影響はサービス、住宅での消費電力が低下することにつながる。これははっきりいって良いことだ。問題はコアコアCPI(エネルギーや食料品以外の物価指数)が上昇せず、製品在庫が上昇すること。つまりデフレから脱却していないこと。これは間違いなく本年4月からの消費税増税が影響していると言える。

結局、アベノミクスとは日銀の金融緩和によって円安にして外国からの投資を呼び込み株価を引き上げる。そして国内的には消費税導入で消費は落ち込み、一般の光熱費は上昇する。・・・一体誰の為の政治をしているのか大きな疑問が沸き起こる。

今、政府が行うべきことは「増税」ではなく、「需要と供給のバランス確保」、「中長期的なエネルギー政策」そして総合的な「国家の安全保障」である。民間人が10年目安の投資しかできないのは理解できる。しかし国家(政府)までもが、それに歩調を合わしてはいけない。もちろん100年先のことは国家だって解らない。でも50年スパンなら総合的な計画と実行はできるはずであり、それが国家というものであり、それが政治というものである。

今回の関西電力の中間決算とコメントは、こうしたことを改めさせて考えさせられるニュースだ。


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私の脱原発論② 
前回、私は原発を無くすべきであり、無くすことは可能であると述べた。また、それは段階的、計画的にそれを確実に実行させるべきと考えている。古い原発から徐々に廃炉にして(10-15年くらいで期限を設定して)、新規の原発は限定的(研究とバックアップ発電を兼ねた設備)にする。この考え方は、私が色々と考えた末の結論となった。しかし一部の保守系の勢力は「脱原発」という言葉をきいただけで、それに反発されている方々も多い。これは、おそらく反日左翼勢力が同じく「脱原発」を訴えているので、保守系にとって「脱原発」は一種のアレルギー反応を示しているのかもしれない。しかし、こういう議論は冷静にデータを下にじっくり議論すべきである。

ちなみに私と同じく脱原発派の竹田恒泰さんは供給側能力(コンバインドサイクル発電)に期待されている。また独立総合研究所の青山繁晴さんはメタンハイドレードに注目されている。そして評論家の勝谷誠彦さんは石油代替が期待されるオーランチキトリウムに注目されている。当然、私もそういった供給側の新エネルギーや新技術にも期待するが、私はもう少し違った視点から、何故に脱原発が可能であるかを説明したい。実はすでに日本社会はそれが可能な方向へと進んでいる。

先ずは様々なデータを確認してみよう。iea (International Energy Agency)のデータによると2008年の日本の総消費電力は、1,083,142GWh である。その2008年における日本の消費電力(需要側)の内訳(比率)は以下の通り。

鉱工業 31.5%、運輸 1.95%、サービス(公私共) 36.4%、農林水産 0.09%、住居家庭 29.8%

あいにく直近のデータは持ち合わせてないが、おそらくこの2008年頃が日本の消費電力のピークと思われる。2008年後半には、リーマンショックで株価が暴落し、消費電力は翌年から徐々に低下する。そして2011年東日本大震災で消費電力は更に低下した。ちなみに資源エネルギー庁のデータによると、震災前の2010年12月の電力(供給側)の比率は以下の通り。

原子力 32%、水力等 7%、石油等火力 4%、LNG火力 33%、石炭火力 24% 

それが震災後(2011年3月以降)は多くの原子力が稼動できなくなった。結果的に比率で2%以下になっている。減った約30%分は石油火力が+15%、LNG火力が+15% で補填しているという。しかし消費電力総量としても低下している。問題なのは、供給コストが上がっていること。これは、この30%が影響していることは間違いない。よく報道などでは、石油や天然ガスの輸入価格が日本の足元見られて、海外からふっかけられている・・・といわれている。たしかに調達コストの問題もあるが、古く老朽化した火力発電を再稼動させたために発電効率も低く、点検費用(結構、危険だ)などにコストが掛かったことも大きな要因である。

一方、2009年頃から政府が推進した、エコ家電ポイント制度、更にエコカー減税をきっかけにして様々な省エネタイプの製品が急速に普及した。そうそう、エコ住宅というものもある。こうした商品は、そもそも単価が高く、眉唾であると考える方も多いようだ(たしかに一部そういう商品もある)。また発売当初は高価であっても、量産体制が整えば価格は一気に低下する。そして供給側の課題として、商品単価だけでなく、エネルギー効率がどれだけ重要かということを理解する必要がある。

現在、どれくらい省エネ製品が普及したかデータは持っていないが、実感として50%程度まできているのではないだろうか?ノーベル賞でも話題のLEDライトにしても、低燃費の自動車にせよ、エネルギー効率が従来の3-5倍以上なんてザラにある。最近では道路の信号機もLEDへの切替が進んでいる。また、ホテルや旅館でも、液晶テレビや省エネエアコンや冷蔵庫への切替が確実に進んでいる。それは単なるブームだとか、補助金があるとかでなく、本当にコスト削減になるからである。特に電力やガソリンの「単価」より、いかに「エネルギー効率」の影響が大きいか、計算すれば誰でも判る。これが計算できない経営者や経理担当者は失格である。

さて、上記のピーク?である2008年の消費電力内訳では、サービス、住居家庭で合わせて66.2%にもなる。つまり、省エネ家電等の活用で消費電力が仮に半減できたら単純計算で全消費電力の33.1% (358,520GWh)を削減できる。あれっ、先ほど原発停止の補填分30%と述べたが、これで30%クリアするではないか? ・・・ということに気づくはずだ。あと10~20年もあれば、こうしたエコ家電やエコカーが完全普及するだろう。従って、サービス、住宅家庭の消費電力を半減させることは全くの夢物語でもない。

しかしながら、季節要因や時間別の需要ピークを考慮すれば、それだけでは不十分だ。ここで重要な要因が関連してくる。前回も述べたが将来、日本の人口が減少すること。それに伴い消費電力(特に住居家庭)は間違いなく減少する。単純計算で人口が1億3千万から1億人になっただけで、23%のエネルギー消費が抑制されることになる。そう、需要と供給のバランスを考えても脱原発は可能である。確かに急激な人口減少は短期的なGDP縮小をはじめとして、社会的、経済的にも様々な弊害が発生することは間違いない。しかし経済というのは、需要と供給のバランスを保つこと、そして乗数効果を上げる(カネまわりをよくする)事の方が重要だ。

消費電力の需要が減れば、必ず供給側も減らすことができる。というか減らさなければならない。従って、原発の縮小、原油やガスの輸入量の抑制が可能になるというわけだ。国民としても、光熱費やガソリン代の消費コスト(単価よりも効率)が低下して、その分を本来欲しかったモノやサービスの購入にまわることが最も理想的である。

ここで政府の政策も重要になる。先ずはそういう認識のもとで脱原発を着々と進める(社会的影響あるなら、情報も制限する)。それから、太陽光電力の固定価格買取制度は明らかに間違っている。特に20年固定価格とはやりすぎだ。普及拡大とはいえ、電気料金に上乗せして誰が得するのか?という議論になる。契約の20年が経過したら、ただちに市場価格への移行が必要だろう。

しかし、おもしろいのは国内の消費電力30%もある鉱工業の動きである。彼らは大口契約だとしても、電気料金の上昇に嫌気がさして、自らの敷地内で発電(火力)しようとしているのだ。つまり、自前の電力の方がメリットがあると判断したのであろう。今後、どの程度拡大するかは不透明であるが、総消費電力の30%である鉱工業が1/3である10%でも導入すれば、その影響は非常に大きい。また、そうした鉱工業が下請け企業へ安価で電力供給できるようになれば更に凄いことになる。そういう動きこそ、政府は支援すべきである。要するにGDPを下げないで(むしろGDPを上げる)、そして消費電力とコストを下げることを目標にするのである。

また、その他の大企業では工場新設予定だった空き地などにメガソーラーを導入したりしている。これに関しては自前の電力というより、土地の有効活用という意味しかない。鉱工業の発電に比べればわずかな発電量である。しかしそれでも着実に既存の電力会社への需要は低下する。

はっきりいってメガソーラーの導入自体は全体の供給能力に対して大した影響力はない(せいぜい2-3%程度)。しかも、最近ではソーラーシステムの配線ケーブル盗まれたり、雷やひょうでパネルが大規模な被害を受けることも多いという。「手間いらず」というのは嘘である。一方で消費電力30%以上もある鉱工業が自前の発電に参入することは大きな意味がある。広大な敷地を持つ企業だからこそ可能な対応だろう。

また固定価格買取という法律は、悪法とはいえ法律である。最近になって、政府はようやく問題に気付いて改正しようとする動きもある。カネがある個人だって太陽光システムを導入すればいいのである。一般家庭の場合は、さらに2015年10月から電気料金も消費税10%の加算になる。当然ながら居住地域によっては少しはメリットはある。

たしかに、太陽光推進そのもので大した雇用を生むことは無いし、発電量も大したことはない。しかし、そもそもエネルギーコストを下げる工夫は個人だって、法人だって、国家だって、推進すべきことなのである。これは、まわりまわって日本の安全保障とも関係してくるのである。その安全保障とは昨日のブログで記事にした通りである。

今回は特に、保守系、右派系の方々に訴えたい。「脱原発は可能」であり、「脱原発こそが日本の安全保障」にとって重要であること。そして私の思想哲学でもあるが「人間の労働の価値を見出す」ことの重要性を再認識する。この考え方に是非とも共感頂きたい。



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私の脱原発論①
私は脱原発思想がある・・・と常々何度も述べてきた。その理由について今回は詳しく記事にしたい。

先ず大規模な戦争が発生した場合、日本の核施設が他国から攻撃されたら日本は壊滅するということ。つまり核攻撃される以前に日本にある核施設が通常ミサイルで攻撃されただけで、長崎や広島以上の惨劇を引き起こす事は容易であるということだ。そんな残虐な行為はどの国も行わない?そして諸国民の正義?・・・そんな脳天気なこと言うべきではない。アメリカは実際に広島、長崎に原爆投下という法で裁かれなかった「前科」があるわけで、シナ人も自国民ですら大量虐殺することに躊躇しなかった民族の歴史がある。

あの北朝鮮ですら弾道ミサイルを可能にしている。日本はその射程距離に完全に入っている。その弾道ミサイルに核兵器が搭載できるかどうかが議論になることが多いが、通常弾道ミサイルでも日本の核施設を攻撃すれば、核攻撃と実質的には同じことになるわけだ。戦争というのは常に飛び道具からスタートするのは常識であるが、これからの時代の戦争は、先ずはミサイル攻撃であるということは中東紛争の例でもよくわかる。おそらく攻撃側はこういうだろう「核攻撃はしていない」、たまたま着弾したのが核施設だったと・・・。想像してみよう、日本最大級の原発施設を抱える若狭湾沿岸がミサイル攻撃されたら、若狭地域はもちろんのこと近隣の京都府や滋賀県にも影響する。特に滋賀県の琵琶湖が汚染されれば近畿圏はそれだけでも大きなダメージになる。

たしかに戦後69年間、日本は戦争を遂行することはもちろんのこと、戦争に巻き込まれることもなかった。今後も大規模な戦争が発生する可能性は極めて低い。しかし弾道ミサイルによるテロ攻撃は十分ありうる。迎撃ミサイルも精度は向上しているが完璧ではない。おそらく完璧な迎撃ミサイルは不可能に近い。もちろん日本にも迎撃ミサイルを配備させる必要があるが、あれだけの数の国内の核施設をテロの脅威から防ぐのは至難の業だ。そしてテロ被害に遭う以前に、そうした「脅し」があった場合に日本は抵抗する術が全くないわけだ。つまり、核施設を段階的に縮小させることこそ日本の安全保障と国益にとっては必要なことなのだ。自然環境のリスク(地震や津波)の対策は技術的にある程度は可能であっても、国際的な戦争やテロに対する安全保障はそうはいかない。敵が国家ではなくテロ組織の場合、仮に日本が核武装しても抑止力にはならない。

ではエネルギー問題はどうするのか?という重要な課題がある。もちろん日米開戦前の石油の禁輸のような経済制裁されれば、実質的な「兵糧攻め」となり、これまた悲惨な状況になる。そもそも原発を稼働しようが、しまいが現時点で多くの使用済み核燃料棒や冷温停止の核燃料が存在するわけでリスクは大して変わらない。したがって稼働停止させてエネルギー不足になるくらいなら動かす方がマシである。つまり、今後の核施設の計画をどうするのか?ということが重要な論点である。原発を無条件で即停止させるようなことは主張しない(できない)。

また社会問題としては、核施設が建設される地元では核システムが「麻薬浸け」のようになっている。補助金も多く、それを頼りにして生活している人々も多い。設備の維持管理費、そして廃炉での費用・・・長期的にも決して低コストでないことは明らかである。では、なぜに原発に頼るのか?それは短期的な利益を生みやすいからである。どんなシステムでも「腐敗の温床」は発生する可能性はある。しかし原発システムは特別視する必要がある。なぜなら、原発というものは50年以上(核廃棄物処理は100年以上)のスパンで考えなければならないものである。そもそも人間の寿命からも、社会秩序の成立から考えても、人間社会で制御できるものではない。日本国民は、この原発という「麻薬」から、いつかは解放されなければならない。

では、どうやって日本の核施設を縮小するか? 段階的、そして計画的に縮小することは可能である。もちろん、代替えエネルギー開発はまだまだであるが、省エネ活動は凄まじい効果がある。随分前にこのブログでも紹介したがガソリン1リッターあたり価格が10-20円変わるよりも、燃費が8-9km/Lが25-30km/Lになる方がはるかの効果は大きい(計算すればすぐに解る)。たしかに部品のメンテやエンジンオイル交換に時間や費用が掛かることもあるが、エネルギー消費が抑制される替りに人間の「労働」によってカバーできるという意義は大きい。古いエンジンオイルだって人間の「労働」によって再利用が可能である。

ここで私が何を言いたいかというと、近現代史は「人間の労働を減らして」、「エネルギーの活用」へと移行したわけだ。それを逆に「エネルギーの活用」から「人間の労働の活用」を増やすことに価値を見出すべきだ、というのが私の主張だ。実際に石油にしても原子力にしても原価はタダのようなものだ。それを人間が採掘、運搬、精製といった比較的簡単な労働によって自然環境を犠牲にしながら、彼らがピンハネのように利潤(カネ)を得てきたのが近現代の本質である。そのバランスを見直すべき、というのが私の基本思想である。

そもそも経済社会というのは人間の「労働」にたいする「対価:カネ」であり、「労働」と「カネ」が廻ることによって乗数効果が上がり、そして社会が豊かになるのが基本である。私は、逆説的な考え方として日本の「人口減少」による「効果」を期待している。当然ながら、急激な人口減少は社会の歪を生むことは間違いない。少子化対策は必要である。しかし重要なことは需要と供給のバランスをとることであり、経済的に乗数効果を上げることである。

人口減少によって全体のエネルギー(電気、ガス、ガソリン)消費は間違いなく抑えらる。そして、人間の労働の価値を上げる(これが重要)。更に国産の新エネルギー開発や省エネ技術が更に発展すれば、より一層に日本の安全保障は確保されるだろう。それこそが健全な社会である。私はこう考えている。日本の人口は6000万人-8000万人くらいになっても十分やっていける。原発も不要になる。何も心配する必要はない今までの原発技術は密かに何処かで継続すればよいのである。当然ながら人口が減っても防衛力は確保する。そして食糧自給率も上昇も期待できる。外国から余計な食料を輸入する必要もない(家畜のエサだってそうだ)。そもそも価格や量の管理のできない外国のエネルギーや食糧に頼る現代日本が異常なのである。

しかし残念ながら現在の日本政府は私の意見とは違った方向を向いている。人口減少はたいへんだー、移民受け入れだー(愚かな日本人か外国人)、内需がダメだからTPPで外需獲得だー(新自由主義者)、原発推進しないと日本はやっていけないー(保守系:短期的には理解できる)、核兵器は廃絶すべきだー(左翼系:少し理解できる)、原発もすぐにでも停止すべきだー(左翼系:おいおい)・・・

しかし問題は、そう単純ではない。それでは次回は更に具体的な数字を元にそれを説明したい。


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条件付きの首脳会談?
先日のニュースで日中首脳会談を事務方で調整していたところ、中国側は「尖閣諸島の問題を認めることと、首相の靖国神社を参拝しないことを条件に」という主張をしている・・・とのこと。以前、日韓首脳会談の調整でも韓国側は歴史認識問題などの条件付きでの会談とのコメントがあり、安部首相はあっさりと「条件付きなど認められない」と明言している。

それにしても中国、韓国は日本に対して強行姿勢ばかりで配慮が一切ない。一方、日本は戦後一貫として中国、韓国に配慮してきた。もう、戦後69年経った。この両国に配慮はいらない。日本としても主張することは主張すべきだ。

<中国への要求>

1.南京大虐殺の捏造を認め、日本国民に謝罪する。
2.中国人の日本における犯罪率低下に協力する。
3.核武装を解除し、アジアの平和に貢献する。
4.その他(捏造、パクリを止める・・・などキリがない)

<韓国への要求>

1.竹島を日本に返還する。あるいは国際司法裁判所へ共同提訴する。
2.韓国人(在日含む)の日本における犯罪率の低下に協力する (凶悪犯の強制送還も認める)
3.いわゆる従軍慰安婦問題の捏造を認め、関連像や石碑の撤去と日本国民への謝罪をする。
4.その他(對馬の仏像返す・・・など、ああキリがない)

こうした要求を受け入れなければ、首脳会談どころか、経済援助、技術援助、人的交流も制限する。こうした態度を日本政府は明確にする必要がある。どちらの言い分が正しいか? プロパガンダに汚染されていなければ世界中の有識者には容易に判断できることだ。そうなって困るのは間違いなく中国や韓国である。 でもまあ、それが両国の運命というものだろう。 


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産経起訴と韓国の誤算
韓国セウォル号沈没事件当時、「パククネ大統領の男性との密会?」という実にくだらないニュースがあった。私はその記事を読んでいないが「空白の7時間?」というのが話題になっているとのこと。それに韓国は激怒した挙句に、韓国に滞在する産経新聞ソウル支局長を起訴、および出国禁止にするという、法治国家とは思えない(そもそも韓国は法治国家ではない)行動をとった。さすがに、このニュースに関しては日本の大手マスメディアばかりか、アメリカの報道までもが韓国を非難するようになっている。そりゃそうだ。産経記者といっても民間人である。

これは完全に韓国の誤算というか、韓国のバカ丸出しである。この行動は完全に韓国民の民意でもあるから厄介である。もともと韓国に同情的だった日本の大手マスメディア、そして内心反日のアメリカが韓国をかばいきれなくなったというのが実態だ。この件をきっかけにして韓国は、日本のマスメディアを完全に敵にまわしたと言っても過言ではない。これは色んな意味で面白い展開だ。

そもそも国の政治トップという存在は、国家元首であれ首相であれ、どれだけ民間マスメディアから非難されようが誹謗中傷されようが決して動じてはならない。それはどこの国家でも同じである。一方で、例えば韓国前大統領の李明博が日本の天皇陛下を侮辱する発言、野田前首相の親書を返送するという行為、そしてパククネの告げ口外交は「外交儀礼」としても、政治トップとしても目茶苦茶な行為である。民間人には言論の自由があるが、公的トップが他国の公的トップを侮辱することは絶対に許されないことである。日本国民の怒りが生じるのは当然のことである。それでも日本は訴訟していない。

しかし、韓国はそんな自国のトップの問題行為にはお構いなしで、他国の民間報道機関を「パククネ侮辱?」として起訴するなんて、やはり韓国は狂った国である。相当病んでいるのか、先天的にそうなのか? 韓国のやっていることは江戸時代の「おぬし無礼者!切り捨て御免だー」と大して変わらない。韓国が法治国家でなければ、韓国に滞在する外国人すべてに「治外法権」を与えないと安心して滞在できないことになる。あるいは今後一切関係も持たないか、その二者択一しかない。おそらく韓国は外国人に治外法権は与えない。とすると、一切関係を持たない・・・という選択視しか残らない。いよいよ「日韓断交」という長年の夢が現実味を帯びてきたかもしれない。

おそらく、この韓国人のキャラクターは今後1000年経っても変わらない。もし今回の問題で韓国にチャンスがあるとしたら一つだけある。それはパククネがこう発言することだ。 「男性と密会していたわ! それの何がいけないの? 私だって女よ!」・・・このコメントで、「そりゃそうだ。すまなかったなあ、オバサン・・・。」でチャンチャンって終わることができる。・・・ホント、そういうレベルの話である。 

もちろん、そんな発言したらパククネは韓国国内では、権威もへったくりも無くなる。しかし諸外国はそんなことは知ったこっちゃない。 むしろ、そんなコメントがあれば世界中で「このオバサン、人間らしいところもあるんだなあ」って好評価になるのは間違いない。でも、そんなこと絶対に韓国人にはできない。もちろん日本人にもできないだろう。

でもフランス人(例えばオランド大統領)やイタリア人(例えばベルルスコーニ元首相)だったらできるだろうなあ。だって、どんな国家の緊急事態が発生しても、男女が逢うことは悪いことではない。以前このブログでも主張したが、仮に大きな災害が発生したときに、政治のトップがゴルフをしていようが、バーベキューしていようが、女性とベットで過ごそうが、「適切な命令」が下されれば良いのである。

そう、ベットで緊急の電話があった場合、首相(男性)の片手は女性の胸を触り、もう片手でスマートフォンを持つ(最近ではBluetoothで両手も自由)、そして「自衛隊を出動させ、万全を期すように!」 あるいは性交の真っ最中でも、はあ、はあ言いながら、「自衛隊! 突撃!」と叫べばいいのだ(下品な表現で失礼!)。あとは、そのトップの命令に従って訓練された部下たちが適切に動くのである・・・それで十分なのだ。一方で男女の性交によって、ある女性大統領が失神して「緊急連絡」の電話がきても、しばらくボーとして、「あーん、ほっといてよ!」なんてコメントしたら最悪だ・・・それが「空白の7時間」の真相なら本当に問題である。

まあ、トップというのはそういうものだ。男女の密会があっても構わない。むしろ、それは普通のことだ。そこで先ずは「適切な命令」が下せるかどうかが国民にとって最も重要なことだ。そして、その後に早急に官邸に戻ることだ。(現場直行は現場が混乱するので絶対NG) 

とにかく政治のトップとはどうあるべきか?それを理解していないから、こういうバカバカしい議論になるのである。まあ、産経もくだらない記事を書いたものだが(もしかして意図的な挑発目的?)、それでも韓国の方が酷すぎる。まあ。とにかく韓国人は権威にすがる・・・面子にこだわる・・・反日無罪・・・そもそも法治国家云々以前に思想哲学があまりにも稚拙すぎる。これ以上、付き合いきれない。


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桜井会長:ヘイトスピーチは規制されてもよい?
You Tubeで在特会の桜井会長がヘイトスピーチ規制についての興味深いコメントをしていた。それは「ヘイトスピーチは規制されるべき」と述べているところだ。良いヘイトスピーチと悪いヘイトスピーチなんて区別できるはずもなく、反原発デモで日本政府や推進派を罵倒するのはOKで、在日朝鮮韓国人に対する罵倒だけがNGなんてことはありえない。まさしくその通りだ。桜井会長はすべてのヘイトスピーチが規制されて反日左翼のデモがなくなれば、在特会のデモもなくなっても構わないと述べている。そもそも反日左翼勢力は「言論の自由」を訴える集団である。特定の言論だけを封鎖することは難しいと彼ら自身も気づき始めたとのことだ。

反日左翼団体や韓国人は、「自分たちの問題は大目に見ろ、日本は譲歩せよ」こういうアンフェアの姿勢が常にある。しかし桜井会長のコメントはいたってフェアな発想である。「在特会のデモがなくなっても構わない」と明言している。おそらく反日左翼勢力が「在特会のヘイトスピーチデモがなくなれば、左翼デモはなくなってもよい」なんて決してコメントしないだろう。私のブログは結構左派系の方も訪問されている・・・是非そういうコメントをしてほしいものだ。まあ極めて少ないだろう。それが反日左翼の実態なのである。だから一般的に信頼を失うのである。私は基本的に脱原発思想があるから、なおさら彼らに対して憤りを感じる。

私は、9/25ブログ「差別用語って何だろう」でもコメントしたが、右翼であろうが左翼であろうが「デモ事態を規制すべき」と主張している。なぜなら、街角や住宅街、そして工業地では皆が仕事したり、普通の生活をしたり、勉強や各種訓練をしているからだ。それが大音響や交通規制によって阻害されることは決して好ましくない。また様々な生活活動だけでなく夜勤者が睡眠していたり、休息したり、乳幼児が睡眠をとったりしているケースもあるのだ。

仮にその街で不法入国者や不法行為が横行しているのであれば警察がしっかりと取り締まればいいわけだ。言論の自由は、講演会場やネット空間でも十分可能だ。選挙活動だって、うるさい選挙カーが街角を徘徊するよりは、決められた場所で演説すべきだ。また、それ以外の方法でいくらでも政策をアピールすることができる。選挙のローラー作戦が有効だった昔と現在とは明らかに違う。

たしかに「結社の自由」や「集会の自由」は保障されるべきだろうが、一般の生活空間や職業空間、さらには教育訓練等を犠牲にするデモ活動は徹底的に規制されるべきである。もし桜井会長の「ヘイトスピーチは規制されるべき」の発言にそうした意味も含むならば、私は全面的に彼を支持したい。一方でそうした発想のない反日左翼が都合のよい規制だけを望むなら、徹底的に反撃追及したい。やはり反日左翼勢力はただの利己主義のようにしか見えない理由はそこにもある。

憲法9条をイグノーベル賞に推薦しよう!
私は日本の憲法9条がノーベル賞を受賞しないでほっとした。一方で受賞を逃して本気で残念がっているのは「日本の左翼勢力」、「中国人」そして「韓国人」である。まあ中国人、韓国人は青色発光ダイオードの日本人3名の物理学賞受賞には喜ぶどころか「嫉妬」しており、韓国人に至っては「賞をカネで買っている」と根拠のないことを評している。逆に「彼らが喜ぶこと」はそれだけで日本にとって絶対に良くないと断定できる。

そもそも「憲法9条を守る日本人」が対象って、日本人全員を対象にするなんて身勝手極まりない。発案者は一般の主婦らしいが、完全に政治的に利用されている。この9条は文章からしても、現代社会の構造からしても「矛盾の塊」であり「欠陥商品」と同じであるのは有識者であれば常識である。今後、毎年のように推薦するといっているからタチが悪い。

このような憲法を守ろうとすることこそが滑稽なことなのだ。従って「憲法9条を守る日本の左翼勢力」をイグノーベル賞に推薦して、辻本清美あたりを授賞式に参加させるのが適当であろう。そして世界から笑われること、そして考えさせられること・・・まさしくイグノーベル賞にふさわしい。


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中村修二氏への賛否②
昨日の当ブログ記事について、コメント頂いておりますので、 再度この中村修二氏について記事にします。

私は先般、とある人物(日亜化学と関係の深い人物)と長話をした。彼はこう言い放った「中村修二氏は売国奴だ」・・・と。何故なら、前社長に直訴してアメリカ留学が認められ、約20億の留学費用と研究費用を会社が負担した。そして彼自身の年収も数千万円にもなっていたという。(当時、大手電機メーカの幹部社員の報酬は数千万円が普通だった。(当時の一般のサラリーマン年収は500-700万円程度) にもかかわらず、ああいった訴訟という行為に出た。それは企業側としては戦うしかなかったとのこと。

確かに青色発光ダイオードは彼が中心となって開発したかもしれないが、多くの人々の協力もあったことは事実である。日亜化学工業としては、会社の秩序を守るためにははワガママ社員を放置できないという判断はあったという。マスコミは日本企業の悪さをアピールする絶好の機会を得た。また企業に訴訟できる社会的土壌をつくろうとする動きも存在した。最近では「内部告発」も当たり前のことになった。そして結果的に中村氏は日本を出国してアメリカのカリフォルニア大学で教授になったわけだ。たしかに彼は売国奴のようにも見える側面もあったかもしれない。

しかし社会人は結果がすべてである。どれだけ苦労しようが、同情されようが、憎まれようが。彼が社会的、いや世界的にも画期的な開発をしたことは紛れもない事実だ。たしかに彼は「やっかいなサラリーマン」だったかもしれない。私が同僚ならケンカしていたかもしれない。しかし還暦過ぎれば丸くなるのも・・・だが、そうしたキャラクターを「売り」にするのも一つの生き方かもしれない。実際には彼を動かしたのは「怒り」ではなく、かつての上司への「恨み」だった。

上司、先輩のイヤみ→ 社長に直訴 → 留学(特別扱い) → 上司、先輩の更なる妬み → 退職 → 訴訟

これは先日も話をしたが、日本の年功序列社会のなせる弊害であろう。当時、多くの日本企業では先輩後輩の上下関係は絶対であり、時には後輩イジメをすることは普通のことだった。私もそういう時代の最後の世代だ。新入社員のとき、強制的に社員旅行に参加させられて宴会で「新入社員は一発芸やれー」って先輩からいわれたことを今でも鮮明に覚えている。現在では、やれパワハラだとかセクハラだということになるので幹部社員はむしろ委縮してしまっているのが現状である(・・・それはそれでどうかなあ?って思うけど)

結局は、そうした時代背景のなかで「妬み」と「恨み」の戦いがあったわけだ。特に電機業界というのは優秀な人材が他社に引き抜かれるのは日常茶飯事である。会社側とケンカして退職し、関連会社やライバル会社の転職することも非常に多い。中には企業の機密情報を中国、韓国に売りつける不届きな技術者も存在する。・・・それは間違いなく会社側への「恨み」である。さすがに今回の中村氏はそこまでの売国行為はしていないようだが、やはり根が深い問題である。たしかに電機業界の技術者だって、かつての花形産業の主役としてプライドが高いことも事実だ。そして当然ながら経営側もプライドが高い。そして景気の衰退がすべての歯車を狂わせたのかもしれない。

その後、日亜化学は大きくなりすぎた。たしかに大幅な利益を上げた。当初、600億円の関連利益に対して半分の300億円を訴訟要求して、最終的には8億円の和解金で決着している。これに対して、私は妥当であると考えている。昨日の私のブログで述べたとおり、成果を全く認められずに会社の組織の一部として技術者を道具として扱われることは数多くある。殆どが泣き寝入りしている。まあ、私だってそうだった。技術者の功績というのは当事者が一番理解しているものだ。それを理解しない企業や社会があったことも事実である。色々と立場によって言い分はあるかもしれない。しかし現場の技術者の開発にせよ、品質保証にせよ・・・そうした地道な仕事の積み重ねで、快適な現代社会を構成されている。これは紛れもない事実である。

私は技術者に関しては結果がすべてだと考えている。当然ながら「運の良さ」だってある。かつてパナソニック(旧松下電産)の創業者である松下幸之助は自らの「運の良さ」を強調していた。彼は当然のことながら自らの長い努力を積み重ねはあった。しかし「運の良さ」とは本人の努力だけでなく、周りのサポートや社会的背景(家電が急上昇する時代だった)があったことを意味している。しかしそれが家電の安定期の時代になると社員同士の無意味な対立も増え、景気が減速するとともに「イジメ」「妬み」「恨み」・・・といったものが表面化する。

まあ、色々と議論はあるだろうが中村氏の訴訟は日本の技術者にとっては大きな節目になったことも間違いない事実である。それでも彼に不満を持つ人物が今でも多いのもまた事実。そこでとことん泥沼になるよりは「和解勧告」という裁判所の正しい判断があったと思う。

将来の日本企業は、かつての後輩イジメのパワハラは間違いなく減少していくだろう。そして、完全なる年功序列制度も崩壊している。しかし、人間の嫉妬心と恨みというのは簡単にはおさまらない。そして景気の後退がある以上、こうした現象は繰り返すであろう。 まあ、先ずは確実な景気回復をすること、これが何よりも必要なことだろう。


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中村修二氏への賛否
今回は、昨日に引き続きノーベル賞の受賞関連として、中村修二氏に関する議論について考える。彼は日本の教育システムや日本の企業のあり方について苦言を呈したとして、最近の報道でも伝えられている。一方で、天野浩氏は日本の教育に感謝しているというコメントを述べている。中村氏は、日亜化学工業を退社したあとに研究成果について訴訟した。その頃から彼のキャラクターに対しては様々な議論が沸き起こった。やはり中村氏は博士というより技術者という感じがする。根っからの研究者(博士)である天野氏と元企業の技術者である中村氏との違いである。

中村氏は決して日本そのものを否定しているわけではない。日亜化学工業の小川前社長(2002年に他界)を尊敬していた。また当時の若手社員からは尊敬されていたそうだ。つまり、一部合わないの上司?がいて、その特定?人物に対する「怒り」というものがパワーの源になっている。また学校教育についての不満というのは彼だけでなく、誰だって感じることはある。たしかに「変わり者」は組織の秩序が多少乱すようなことはあるかもしれない。しかし実際にそれで大きな事件が発生することはない。むしろ「妬み」や「嫉み」といったことがあるならば、そういう感覚を持つ人間の方が問題であると私は考えている。

実は私も似たような経験がある。以前、勤務していた企業(そこも大企業)では工業製品の品質保証と品質技術の仕事をしていた。私はノーベル賞にはほど遠いながらも、その企業では社長賞クラスの実績をいくつか挙げていた。しかし私は、決して社長賞を得ることはなかった。その理由が凄かった。私より1年~2年先輩たちが未だ誰も社長賞貰っていないというのが理由だった。当時は年功序列は当たり前だったが、そうした社内の人事評価や賞に関しても同様だった。まあ、そこまでは仕方ないと思った。怒りに思ったのはその後だった。会社側が少し気を使ったのか「努力賞」という名で3000円を支給したのだ。・・・完全にバカにされている・・・と思った。私は当然ながら成果主義がすべて正しいとは言わない。でも技術者のやる気をそぐような行為は会社にとっても絶対にマイナスになると考えている。その後、別の様々な件でも会社側と対立することも多くなった。まあ当時は私もまだ若かったこともあっただろう。そして、家庭の事情もあってその会社を退社した。約17年勤務した。もちろん様々な勉強させてもらったこと事実だし、感謝している上司や同僚もたくさんいた。今でも交流のある旧同僚もいる。もちろん当時の怒りは今では無いが、そうした会社のやり方は絶対に間違っていると今でもそう思っている。

まあ私の過去の話はさておき、ノーベル賞の中村氏について話題を戻す。中村氏の訴訟問題が過熱していた当時、かつてTBS系のニュースステーションだったか森永卓郎が中村氏の行動を強く非難したことがあった。森永氏の主張は「企業が高い給料も払っていたし、周りの協力もあっただろう・・・」というよく耳にする非難だった。森永氏は本質を理解していない。以前、当ブログでコメントも頂いたが森永氏は「日本丸腰論」とか「イケメン税の導入」とかふざけた(本気?)主張をしている。日銀の金融緩和を主張したり、毎年靖国神社を参拝することは評価しているが、全体的に共産主義的な全体思想が根底にあるのかもしれない。

やはり日本の企業の現場がどういう状況だったのか?特にここ十数年、日本企業で何が起こっていたか、それを理解する必要がある。そもそも日本企業(海外でもそうだが)では、博士号を持つ人物にはチヤホヤするが、技術者に対して冷遇するのは現在だって同じである。特に家電業界ではかつての輝かしい業績の中で大きく二つのグループが存在した。一つは高度な技術者チームと高度な下請け企業、もう一つは面子だけが高く、下請けや技術者を奴隷のように扱うグループである。かつての業績は、大手電機メーカ本体というよりは、一部の技術者チームと高度な下請け企業が支えてきたのである。

しかし、そういう事実に目を背け社内の技術者を冷遇し、下請けイジメを繰り返していた。結局、定年退職、あるいは早期退職した高度な技術者たちは中国や韓国の新興企業に顧問、アドバイザーとして採用される。そして高度な技術のある下請け企業は韓国のサムスン電子やLG電子と取引をする。そして高度な技術のない下請け企業は倒産する。そして気がつけば日本の大手電機メーカーは「丸腰」になっていたわけだ。これが森永氏のいう「丸腰論」かもしれない。技術者や下請け企業は大手企業に対して内心「ざまー」って思っている。私は何度もそういう状況を目にした。

たしかに経済情勢として、為替の影響や長いデフレの影響もあった。しかし現場では上記のようなことがずっと進行していたのである。これが日本が衰退した原因の一つであることは間違いない。おカネだけの問題ではない。実際に中村氏は和解金の8億円をどこか寄付しているという情報もある。技術者を道具のように扱う、直向きな研究をバカにする、下請けイジメをする、社内ではみんな同じ、社内ではみんな仲良く・・・そんな思想が許せない。もし、そうであるならば私は中村氏を全面的に応援したい。


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ノーベル物理学賞
2014年のノーベル物理学賞に、赤崎勇、天野浩、中村修二の三名が受賞した。青色発光ダイオードに対する研究成果とのこと。私の第一感想としては、「今頃になって・・・」だった。山中教授のiPS細胞は全くの初期段階でこれから臨床試験という段階で受賞を受けたが、青色発光ダイオードはすでに実用化されており、完全にビジネスベースに乗っている。

そもそも光(色)というのは、電磁波でありそれぞれの色に固有周波数がある。特に青色は周波数が低いため高い強度を得るのが難しい。一番簡単な方法は「銅を燃やせば青色」が放出される。またリン(P)を燃やせば紫外線に近い電磁波も放出される。しかし、それでもその強度は非常に弱い。また、銅は結晶化の形態によっても青色になる。宝石のサファイアも銅が主成分である。

こうした熱(エネルギー)や高価な結晶化(圧力、時間)のようなコストを掛けずに、色の光を簡単にON-OFFするためには半導体(ダイオード)が必要である。しかし青色だけが長年困難であった。私はその研究過程について詳細は知らないが、おそらくその素材の結晶化と発光強度と関連している。いずれにせよ画期的な発明である。今までは、この凄さを理解していない人はあまりにも多すぎた。今回、身近な生活でも多く使用されているものの発明功績を多くの人が知るいい機会になったと思う。

もちろん、物理屋の私としても彼らのノーベル賞受賞は非常に嬉しい。特に中村修二氏に関しては、もともと彼は一企業のサラリーマンであった。以前、企業の知的財産か社員の知的財産か?で大きな論争になったことがあった。当時、テレビ報道も多くなされ、お怒りの中村氏の映像がよく映されていた。ここまできてようやく認められたという感じがした。彼は、今でも学者というより技術者というイメージが強い。同じく学者ではなく一企業の技術者である私にとっては、そこが重要なポイントだ。

とかく天才的な技術者というのは大企業では扱いにくい存在になることが多い。大企業というのは、「管理」で何とかしようとする傾向からだ。「管理」でモノつくりはできない。しかし管理が大好きな企業側は、技術者を道具のように扱う。こういう考え方は欧米でも同じである。「技術者より学者の方が格が上」という認識が強い(特にドイツ)。また中国、韓国では技術者を低い身分と判断している。中国では、そもそも研究素地の裾野は狭いし、韓国では技術開発には興味がなく「権威」だけに憧れる。

日本では、もともと技術研究の裾野は広い。ノーベル賞は第一回目から北里柴三郎や野口英世は受賞候補だった。おそらく現代であれば間違いなく受賞しているだろう。また、それ以降大勢のノーベル賞クラスの日本人学者が存在した。戦前では、そのほとんどが「推薦状を出していない」とか「英語の論文ではない」とかくだらない理由で受賞を逃している。また「白人至上主義」とも関係しているとも言われた。まあ、ノーベル賞だけがすべてではないが、日本人の活躍があまり世に知られていないのは残念なことだった。

私はノーベル賞に関して、平和賞、文学賞、経済学賞は全く興味がない。特に平和賞はイグノーベル賞と同等でギャグの世界である。日本の憲法9条が推薦されるとか、それを受理する方もおバカ丸出しである。おそらく受賞されないと思うが(受賞されたら日本のバカ丸出しだ)、誰かが本当にイグノーベル賞に推薦するほうが余程マシだろう。

まあ、くだらない話はさておき、ノーベル賞の自然科学関連、特に物理学賞は特別だ。私自身も物理屋であり、一技術者として、そして日本人として誇りに思う。


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自生的秩序と自己組織化
これまで私は理系の立場から「自己組織化:self-organization」という言葉を多用してきた。私の場合、その根本的な理論は自身の専門でもある物理学、そして実務分野であった鉄鋼の熱処理がスタートであった。また近年の凄まじい生物学(遺伝子学)や再生医療(iPS細胞など)の先端技術の発展も背景にあった。また、その他の自然科学もエントロピー増大(カオス)との対比として自己組織化(散逸構造)で容易に説明することが可能となった。当然、これらの発想は社会や経済に対しても応用できると私は考えている。

経済学では、ハイエクを学んだ方なら「自生的秩序:Spontaneous order」という言葉の方が馴染み深いだろう。つまり経済学的に自由主義すれば、それに対して自然発生的に秩序が生まれる。だからそれを重視しなければならない。・・・という考え方。この思想は公共投資の重要性を説いたケインズの論理と相反するようにも考えられた。しかしハイエクの思想では物理学的なエントロピーとの対比という明確な理論は存在しない。

その後、経済学者のミルトン・フリードマンはハイエクのその思想を受け継ぎ、いわゆる新自由主義なる理論を展開した。日本の竹中平蔵氏あたりの思想はこの流れを汲んでいると考えられる。一方で最近のアメリカの経済学者であるポール・クルーグマンは「自生的秩序:Spontaneous order」というハイエクの表現ではなく、あえて?「自己組織化:self-organization」という表現を用いている。このポール・クルーグマンは科学の嗜みがあるのだろうか? そして彼の経済理論に私は共感する部分が非常に多い。

この「自己組織化」と「自生的秩序」は一般的に同一視されることが多い。しかし、この英語表現にて大きくイメージが異なる。つまり、self (自身で)-organization (組織化する)。そして、spontaneous(自発的)-order (指令、秩序) 特にこのOrder というのは 命令や順序・・・何やら上下関係が含まれるような表現と私は認識している。またSpontaneousはSelfとは違い、「意識的な、意図的な」なニュアンスが強いように思える。(英語に詳しい方、コメントあれば宜しくお願いします)

私がいつも主張しているように、科学では「全知全能の神」は存在せず、「善悪」も存在しない。これらの表現はあくまでも宗教哲学上の定義である。実際に存在するのは人間にとっての有益性、毒性、攻撃性、免疫抗体・・・といった要素である。そして、そのベクトル(方向性と量)によって要素の呼び方は当然ながら変化する。その中で自己組織化した状況にそうした要素がどういった形態(方向性、そして量)で存在するかを知る必要がある。(当ブログ「毒性学」参照)

そして私は自己組織化とは一定の閉鎖された条件下によって成立することも何度も述べた。その閉鎖された条件とは、季節の移り変わりの如く変化があったとしても、再び同じ季節がやってくることも同様である。一方、四季が無くなり水が無くなった広大な砂漠で人工的なインフラ整備も無い中で、人間社会が自己組織化しようと思ってもカオスとともに砂に同化されるであろう。実際に、古代のエジプト文明やメソポタミア文明はそうであった。

そして、この自己組織化や自生的秩序が可能な場合でも、「時間」という要素を考えなければならない。簡単な化学実験として、例えば塩酸と水酸化ナトリウムを混合させれば化学反応にてすばやく塩水に変化する。しかし味噌や醤油の麹菌や、チーズやヨーグルトの乳酸菌のように複雑な生物(菌)により組織化されたモノはすぐには熟成しない。そして、社会を構成する人間だって訓練や勉学を長期的に継続しなければプロ(熟成:自己組織化)にはなれないし、そうした人間の熟成された能力がなければ社会も成立しない。

食品に喩えるなら、葉物野菜や魚介類なんかは新鮮な方が人間の食用には良いのかもしれない。しかし肉や果物、そしてイモ類はある程度熟成していないと美味くはない。かといって時間が経ち過ぎると腐ってしまい人間の食用に向かなくなる(他には利用できる場合も多いが・・・)。この「時間経過と熟成具合」、そして「腐敗の進行」が社会に対して「有益であるか?有害があるか?」・・・こうした議論が社会や経済においても最も重要であるというのが私の主張だ。

従ってハイエクが述べている「自生的秩序」はグローバリズム経済でも有益なものとして形成されているのか?そしてそれは誰にとって?という議論になる。またケインズの公共投資は「条件の提供」であり、そこから自己組織化が容易である。しかし一定条件の弊害として政治的、経済的な「腐敗の温床」は発生しうるであろう。逆に「条件の提供」がなければエントロピーは増大する。やはり時間と方向性の要素は大きい。例えば「自生的秩序」は一時的にはエントロピー増大に見えても、数百万年?数千万年?レベルでは秩序を生むかもしれない。だから、それがどうしたの?ということになる。

しかし人間には本来すばらしいシステムがある。それは人間の寿命だ。必ず世代交代は起こる。過去の文化や伝統を引き継ぎながらも新しい社会にも対応できるように遺伝的な進化がある。それが人間の寿命だ。生物学、遺伝学的にも、人類そのものが地球の自然環境に適応すべく「自己組織化」させてきたのは事実だ。しかしそうした長期的な秩序を発生させることができるのは自然環境しかありえない。

人間社会においては将来のことを考えることも重要だが、100年先ですら誰にも未来は解らない。例えば100年前の日本人が現代社会を見抜いていた人は誰一人いない。スマートフォンもタブレットの存在はもちろんのこと、冷蔵庫や洗濯機の出現も100年前の「霊能者」ですら予測不可能だったであろう。まあ、せいぜい50年だろう。そういえばケインズは「将来のことを考えているうちに皆死んでしまうよ」だったかな、そんなことを述べていた。つまり自己組織化にしても自生的秩序にしても50年以上掛かるようなことは考えても無駄ということになる。

数千年、数万年での自己組織化や自生的秩序こそ「自然界に委ねる」べきではないだろうか? まあそこまでスケールの大きな話でなくても身近なことでも説明できる。私は子供の将来のことを考える。しかし、それ以降の世代のことを考えることは難しい。まあ、孫ができればそこまでは考えるかもしれない。誰だってそうだと思う。何故って、そんな先のこと・・・どんな社会になっているか誰にもわからないからだ。今できること・・・子供と遊び、勉強して、スポーツして、文化にたしなみ・・・そして仕事をする。それこそが社会の自己組織化させる第一歩のように思える。


パーソナリティ障害?
長崎県同級生殺人事件での加害者の少女の父親が亡くなった。報道によると、どうやら首吊り自殺のようだ。この少女の母親はすでに亡くなっているために少女の両親がすでに他界したことになる。

少女は現在、精神鑑定中とのこと。一体何故このようなことになってしまったのだろう。この精神鑑定結果の詳細が報道されるかどうか判らないが、私は少女のパーソナリティ障害の疑いを持っている。

まあ「パーソナリティ障害」なんて聞きなれない言葉かもしれないが、かつての「人格障害」、「性格障害」と同じである。差別的に聞こえるかどうかの議論はくだらないので今回はしない。私が勝手に言葉を選ぶと「攻撃性のある人格障害」といった方が解り易い。

攻撃性のある子供や大人は多かれ少なかれ、どこにでも存在する。それが不思議なことに家庭環境はごく一般的だったり、むしろ裕福な家庭でも存在する。そして家族の他のメンバーはいたって普通なのに一人の子供(青年)だけにそうした症状がある場合がある。

よく児童相談所や学校では、「家庭の問題」を強調したがる(実は学校の問題の方が多かったりするが)。たしかに両親が子供に対する家庭内暴力もあるかもしれない。そして児童虐待の経験のある子供はその両親、あるいは他人へ攻撃的になることもあるという。

しかし、そうしたことでは説明つかない現象もある。私はそれが「遺伝的」あるいは「優生学的」なアプローチによって解析されるべきと考えている。先に述べたように「人格障害」、「性格障害」と言っただけで「差別的」と判断し、「パーソナリティ障害」という何だか解らない言葉に置き換えるくらいだから、社会が遺伝学や優生学のようなアプローチを避けるのは間違いない。・・・しかしそれで本当に良いのだろうか?

妊婦が出産前羊水検査によって胎児の遺伝子異常を事前に把握することは一般化しつつある。そしてダウン症のような障害のある胎児を「命の選択」として人工妊娠中絶することは肯定的な意見も増えてきた(私も肯定的だ)。何度か当ブログで述べたように歴史的にも「間引き:子殺し」は存在していたし、その理由が何らかの障害が多かったことも事実である。

しかしダウン症の子供に「攻撃性」はない。自閉症の子供たちも様々なパターンがあるが総じて「攻撃性」は低い。また小児麻痺や生まれつき五体不満足の人たちだって攻撃性は極めて低い。それでも「命の選択」の対象となってきた歴史がある。

私は「攻撃性のある人格障害者」は何らかの遺伝的な要因が潜んでいると考えている。例えば、ヒトや動物を殺して解体することを得意とする。これは狩猟民や遊牧民にとっては間違いなく優性(その生活社会において)である。しかしそれが農耕社会では劣性となってしまうわけだ。

もしこうした遺伝的要因(異常とはいえない)を事前に察知して、人工妊娠中絶されればこうした悲劇は防げるかもしれない。私は人権団体に非難されることを覚悟でいうが、長崎の加害者の少女こそ殺されるべきだったと考えている。父親が自殺する必要なんてなかった。・・・それが本来の「命の選択」であると考えている。

多くの凶悪犯は、自身に問題があることに気付いており「俺を殺せ」、「そうしないと誰かが殺される」と本気で叫んでいるという。それは一般人からすると理解できないことかもしれない。しかし凶悪犯罪の受刑者で、本人の希望により死刑執行されているケースが非常に多いという。

結局、「人権とは何か」、「社会の安定とは何か」・・・遺伝学や優生学をタブー視してはならない。それこそ何の罪のない子供たちや一般市民が無残な殺され方する社会が放置すれば、誰もその社会を信じられなくなる。


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西尾幹二氏と中川八洋氏の議論
いわゆる「日本の保守」といわれる思想家同士で、大きな意見の隔たりが発生することがある。評論家の西尾幹二氏と筑波大学名誉教授の中川八洋氏の論争が代表的かもしれない。この議論は非常に重要な意味があると私は考えている。ちなみに先般、西尾幹二氏は中川八洋氏を名誉棄損で提訴されている。その件についてはここでは詳細はコメントしない。

西尾幹二氏は東大文学部卒で元々はドイツ文学専攻であり、あの三島由紀夫との交流もあったという。アメリカ陰謀論のようなコメントや、台湾に対する発言、そして皇太子徳仁親王や雅子妃殿下への非難といった「過激?」な意見でも知られている。そして、彼は自身で「保守」は自称していない。特に、いわゆる新米保守の勢力から非難されることが多い。

一方で中川八洋氏は、東大工学部を卒業しているがその後アメリカのスタンフォードで政治を学んでいる。基本的に保守思想であり、日本の核武装を一貫して主張している。また皇室問題に関しては、旧皇族の復帰や男系男子への皇位継承を主張している。アメリカ陰謀論ではなく、コミンテルン陰謀説のような主張をすることが多い。つまり、いわゆる親米保守の色彩が濃い。

両氏の共通点としては「東大卒」がある。しかし中川八洋が工学部卒ということで、わたくし「理系おじさん」としては中川氏に共感したいと言いたいところだが、私は、むしろ文系の西尾幹二氏の主張に注目している。私は少なくとも「親米」でないし、反グローバリズムであり、そして反原発思想もある(ただし兵糧攻め(大規模な経済制裁)されるくらいなら原発動かす方がマシと主張している。) そして西尾氏に共感する最大の理由は彼のその「歴史観」かもしれない。

私はアメリカ陰謀論に関しては「陰謀論」という表現が適切かどうかは解らない。しかし英国(ケンブリッジ系)の学者から始まった「優生学」が当時のドイツ(ナチス)とアメリカで拡大解釈されたことは間違いのない事実である(当ブログ:「遺伝学と優生学」参照)。特にアメリカでは選民思想的キリスト教文化、そして元々選民思想があるユダヤ系アメリカ人の選民意識は非常に強かった。西尾幹二氏は「優生学」という言葉こそ使っていないが「人種偏見」があったと常に主張している。そのことについて、私は深く共感している。

当時の「人種偏見」については、中部大学の武田邦彦教授や元新聞記者の高山正之氏、そして経済評論家の森永卓郎氏もが「白人至上主義」について的を得た主張をしている。しかし、こういう議論は特にテレビではタブーであり、特にアメリカ社会は絶対に受け入れない議論である。そしてこの「優生学」も現在ではタブー視されることが多い。とくに既存のマスメディアでは自制?外圧?あるいは無意識に皆が議論を避ける傾向がある。(おそらく人権問題に拡大するのを恐れている?)

私は第二次大戦でのアメリカがそういう「選民思想」や「人種偏見」がベースなっていた事は間違いないと考えている。その社会の上に「経済的な利権勢力」がプロパガンダで政治を動かされてしまったことが本質だと考えている。それが「アメリカの世界支配」というように目に映るのも当然かもしれない。しかしアメリカの政治家は献金が多いとはいえ、法の下で民主主義で選ばれている。アメリカ国民のことをある程度は考慮しなければ大統領や政治家として成立しない。ルーズベルトだって、そもそも外国と戦争しないことを公約にして大統領になった人物である。将来、かつてのモンロー主義だって復活する可能性は多少はあるかもしれない。

現代でもそうだが、アメリカは多民族国家で貧富の差が大きい。マジョリティであるアングロサクソン系の支持を得るためには「歪んだ優生学:人種差別意識」を陰で推進する。資本家の多いユダヤ系の支持を得るためには「ナチスのホロコーストの悲劇を宣伝」する。アフリカ系住民はキリスト教徒が多いので「選民思想」を植え付ける。そして最近の中国系、韓国系住民への配慮(選挙の票目当て)、および先の大戦でのアメリカを正当化(原爆投下も正当化)する目的として反日活動を容認する。・・・そして、すべてのアメリカ人にはアメリカの「正義:Justice」を訴える。

彼らにとってアメリカの「正義」とは、先ずはアメリカの歴史を正当化させること。ハーバード大学のサンデル教授の「正義」は私には「欺瞞」にしか見えない。アメリカの歴史は正当であり、その基軸はアングロサクソンであり、キリスト教であり、選民思想である。非アングロサクソンでもキリスト教であり、選民思想であれば正義とすることができる(ユダヤ人やラテン系、そしてアフリカ系)。しかし当時、強国でもあった日本、そして日本人はそのどれにも当てはまらない。あのナチスドイツは日本に対して「アイヌはコーカソイドであり、日本人はアイヌの血をひいているので特別である」・・・という無茶苦茶な「こじつけ」で日本と同盟を結んだのである。

たしかに中川八洋や上念司が主張するようにコミンテルンの陰謀もあったことは事実。特にハルノートを実質作成したデクスター・ホワイトはコミンテルンのスパイだったことは有名。しかし日本の近衛文麿(元首相)や東郷茂徳(元外相)までもがコミンテルンのスパイだったかどうかは明確になっていない。しかし、旧ソ連のKGB(プーチン大統領の古巣)でも共産主義者でもそうだが「人種差別」の要素は少なく、「愛国心」の方が強いように私には映る。

保守勢力同士の対立で最も顕著なのが、この論点だ。「共産主義=コミンテルン=悪」、一方で「白人至上主義=選民思想=キリスト教」。しかし共通するのは軍事化とグローバル化である。私も共産主義には反対であるが、そもそも共産主義の目的は国家主義や平等主義が根本にあり、差別主義(選民思想)やキリスト教主義がベースではなかった。要は設計主義的な手法に問題があったわけだ。さて、日本にとってどちらがやっかいな存在だろうか? という議論になる。戦前からこうした議論は日本の知識人の中では結構論争になっていたようだ。

そして大東亜戦争での日本政府は、欧米の白人主義を否定して、ソ連の共産主義も否定した。そしてアジアの欧米からの解放をスローガンとして大東亜共栄圏への道を進んだ。しかしアジアといっても人類学的に人種が似ていても文化や価値観はまるで違っていた。シナ朝鮮が日本とはあまりにも違いすぎることは福沢諭吉「脱亜論」でも既に気付いていた。しかし「アジアは皆ともだち」・・・のような現代日本に通じる「お花畑」思想は戦時中もあったということになる。

戦時中の反米、大東亜共栄?「アジアは皆ともだち」の思想はあの東条英機の思想でもあった。しかし、その「反米」や「アジアは皆ともだち」思想は「A級戦犯」を永遠に断罪する左翼勢力が何故か確実に受け継いでいる。日本の左翼勢力はコミンテルンの影響も受けていたとされるが、当時の政府もその思想の影響を間違いなく持っていた。近衛文麿は「結局、左翼も右翼も同じだった」と発言されたようだ。

確かに現代日本は恥ずかしながらもアメリカの核の傘は必要だろう。日米関係なくして日本の国益を維持することは困難かもしれない。日本を手中にしたアメリカにとって最後に残された敵は「イスラム」であることは間違いない。私はアメリカに非難されようが、親米保守から非難されようが西尾幹二氏のような主張を堂々とテレビやネットで多く紹介されること期待する。


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「手のひらを太陽に」しても何も生まれない。
日本の左翼思想の根本には「みんな仲良く」という思想がある。この思想を表現した子供の歌で「手のひらを太陽に」がある。・・・オケラだって、アメンボだって・・・みんなみんな生きているんだ「と・も・だ・ち」なんだ・・・。 この「と・も・だ・ち なんだ」という低音域から上がっていく音の流れは詐欺師の目の動きによく似ている。そして最後はニヤって笑うのだ。

じゃあ、生きていると言えば、ゴキブリ、ダニ、寄生虫も生きている。皆一緒に友達になってテーブルで食事でもするのか?家畜を襲うイタチの手の平を太陽に透かしてみれば、ニワトリ食った血潮が見えるだろう。それがどうしたというのか? この作詞者はあのアンパンマンで有名な故やなせたかし氏だが、彼は「みんなともだち」といいながら「バイキンマン」を悪者にしている。

私は何も「みんなケンカしよう」と言っているわけではない。要するに「嫌な人たちと付き合うな!」ということだ。動物だってそうだ。ライオンとシマウマが仲良くお手手つなぐことはない。ヘビとカエルが一緒にピクニックに行くことはない。無理して仲良くしようとするとケガ、あるいは食われてしまう。何だって交流を深めると対立も深まる。

国際関係でも、日中関係や日韓関係が冷え切っているとかマイナスイメージで報道される。・・・何が問題なのか?韓国は「反日精神」をどんなことがあっても捨てることはない。日本だって嫌韓思想を持ち続けることを否定されるべきではない。あの在特会が主張するように「日韓断行」しても構わないと思う。

国際関係だけでなく、もっと身近な例を考える。小学校や中学校では、たいてい一人や二人は攻撃的な子供が存在する。自治会や町内会だって、身勝手なババアや無意味に偉そうにするジジイも多い。PTAでも変なヤツが多い。そういう連中とはつきあわないことだ。そんな連中と無理して仲良くしても大したメリットはない。

まあ、何も心配する必要はない。そんな嫌な連中と付き合わなくても十分生きていける。現代社会は便利になった。電気、ガス、水道を通っているはもちろんだが。各種公共インフラも整備されている。近くにコンビニもある、少し車で走れば大型スーパもある。ネット通販もあるし、各種情報は地に落ちたテレビや新聞だけでなくインターネットからも得られる。子供たちも危険な外で遊んだ挙句にバラバラ殺人にされるよりは、家にあるゲーム機やタブレットで遊ぶ方がマシである。

そういえば、かつて福沢諭吉は成人になるまで真の友人はいなかったと述べている。しかし後に北里柴三郎(医学者)や菊池大麓(数学者)との交流があったという。また、その菊池大麓はケンブリッジ時代より、あの統計学者のカールピアソンと親友だったという。それらは「遊びともだち」というより互いを認め合う仲間・・・という感じである。現在でいえば、ヤンキースのジータとイチローのような関係かもしれない。

仕事において職場や取引先で嫌な奴がいても、付き合わなければならい状況ってのは確かにあるだろう。しかし私の経験上、不条理な人間や不条理な取引先はいずれは没落する。そして互い切磋琢磨された人間や企業は一目置かれた存在となり、互いに立派な仕事を成し遂げるものだ。

そういうことを子供たちに教える工夫が必要だろう。・・・野菜とって食ってもいい、ニワトリ殺して食ってもいい、魚とって食ってもいい、もちろんクジラも食ってもいい。ただし感謝の気持ち持って「いただきます」という。そういう心を教えるべきだ。あのアンパンマンは自分の体の一部を取って他人に食わせるような「自己犠牲の精神」がある。しかし一方的に自己犠牲の精神を子供に植え付けるべきではない。

私は、やなせたかし氏の日本人的な「やさしさ」はよく理解できる。そしてアニメとしてもアンパンマンは面白いとは思う。しかし大人たちが子供に解説を加えることが必要だろう。何故なら「みんなともだち」と「自己犠牲」が一緒になれば、「みんなに食われること」が正しいとなってしまうからである。


消費税増税は文化の質が低下する。
今年4月に消費税が5%から8%に引き上げられた。来年10月に10%への引き上げもほぼ間違いない。多くのエコノミストが主張しているように、まだ日本はデフレであり、デフレ下の消費税増税は更にデフレを加速させる。

しかし、ここで少し違った見方もしたい。問題なのは経済だけではない。文化への影響も大きいこと。売る方も買う方も結果的に「欲しいモノやサービスの質を落とす」ような行動をとるからだ。もちろん、個人レベルでは必要以上に高価なものを購入する必要もないかもしれない。たしかに、ムダ使いがデフレを解消することもある。

しかし個人消費で重要なことは「本来、欲しいモノやサービスの質」ということだ。本当は家族で温泉旅行に行きたいのに近場の簡単な施設で終わらせる・・・とか、本当はディズニーランドに行きたいのに近くの公園ですませる・・・とか。本当は子供部屋や庭があるマイホームが欲しいのに小さい家で我慢する・・・とか。本当はトヨタのプリウスが欲しいのに軽自動車で我慢する・・・とか。

一般的な商品でも、例えばお菓子のパックの値段は同じでも中身を減らす・・・とか、高価な原材料や成分の比率を下げる・・・とか。ちょうど消費税増税分をそうやってまかなっていることが多い。そうなると何のために増税しているのか解らなくなる。結局はカネまわりは悪くなる。デフレで消費税を上げるというのはこういうことだ。

電気や自動車業界においても、コスト削減が加速している。先ず「ヒトを減らす」、「軽量化する」・・・しかし問題なのは「品質の低下」である。かつては製造業の強い日本だったが、最近では様々なリコールや、表面化していない品質不具合はあとを絶たない。そういった品質不具合が発生しないためには「人材育成」が最も重要なのに手がまわらない。そしてまた新たな不具合が発生するといった状況である。

つまりモノやサービスの質、そして個人能力の低下も含めた「文化が質が低下する」ということが問題だ。

国際公約だかなんだか知らないが、消費税10%へ引き上げた後には早急に5%、あるいはそれ以下に引き下げることが必要だろう。日本でのカネまわりが悪いことは結果的には世界経済にも影響するわけで、それを否定する理由が解らない。

麻生財務大臣は、それをよく理解されている期待していたがよく判らない。本当に国際公約?(確かに国際会議等で日本政府の方針を説明している)だけの問題であれば、10%に増税したあとに直ぐに5%に戻せば良い話だ。




男女平等をクオータ制で実現するのは不可能だ
最近、女性の社会進出を推進しようとする動きが加速している。先般、安部首相も国連でのスピーチやクリントン長官との対談でも「女性の社会進出」をテーマにした議論をしていた。様々な対策が検討されているが、「クオータ制」もその一つだ。

この「クオータ制」は、割り当てという解釈がもっとも良いだろう。個人の能力に関わらず女性なら一定の割合の国会議員や公務員といった人数を割り当てるというもの。たしかに男女平等といえるかもしれないが、個人の不平等とも言える。

マレーシアではブミブトラ政策という一種のクオータ制がある。マレーシアはアメリカ同様に他民族国家である。ざっくりマレー系(ブミブトラ)が60%、中華系が20%、インド系が5%・・・といった割合だ。この人口割合に応じた公務員の数、従業員(上場企業)の割合が決められている。

そもそもこのブミブトラ政策とは、民族平等という理念ではなく「社会の安定化」と「各民族にチャンスを与える」という意味が強かった。当時のマハティール首相は、「この政策を永遠に続ける気はない・・・」との発言をしていた。しかし、このマレーシアですら男女のクオータ制を導入するような動きは全くなかった。イスラム国家なので当然かもしれない。そもそも根本的に考え方が違う。

またスポーツの世界でも、サッカーワールドカップはアジア枠とかアフリカ枠といったものがある。世界大会にするためには、そうしなければ成立しないからだ。日本の高校野球(甲子園大会)だって各県や地域に枠がある。それを無視すりゃ「おもしろさ」は半減するだろう。まあ、これはスポーツの世界だ「盛り上げるため」という目的は十分理解できる。

しかし政治的なクオータ制というのは、個人平等が無視されていることは間違いない。選挙の「一票の格差問題」も個人の不平等とも言える。ここで重要なのは「社会の安定」をどこまで考えるかである。例えば「地方は抑圧されているのか?」、「女性は抑圧されているのか?」・・・だからゲタを履かせる⇒ それではそれ以外に人々は不平等となる。重要なポイントは「単純な権利主張」なのか「社会の安定」を目的としているのか? それをじっくる見極める必要がある。

ちなみに私が勤務する企業(一応、大企業です)では、女性社員の幹部社員も数名いるが、多くの女性社員は昇進を望んでいない。家庭を大切にする、あるいは自分の自由な時間を大切にする・・・といった人の方が圧倒的に多い。それよりも何よりも、最近の管理職や幹部社員は責任も重大だし、過酷な労働も多いので進んでやりたいという社員は男性ですら減少している。

あと女性の場合は、「時間帯」というのが重要である。朝方や夕方ではどこの業界も女性労働者が不足している。そりゃそうだ。家族を持つ女性は朝方と夕方は忙しい。・・・だから外国人メイドさん自由化? それも何か違う。もし、余計なものを減らすとしたら学校のPTA、町内の婦人会・・・そういったものが無くなれば女性は多少は自由になれるだろう。

いずれにせよ男女平等を「クオータ制」で実現するという考え方は、むしろ「経済が衰退する」原因にもなる。そりゃそうだ。やりたくもないのに「割り当て」されるなんて、「ゴミ当番」がまわってくるのと同じだからだ。・・・仕方がないからやりましょう・・・この思想心理と行動は必ず経済を衰退させる。従って「やる気のある人」を支援する・・・それで十分だ。


呉善花さんと金慶珠さんの違い
呉善花さんの講演をYOU TUBEで観たが、相変わらず彼女の知的水準が高いと感じた。彼女は韓国の済州島出身で幼少のころは日本の話を親族に教えてもらいながら自然豊かな環境で育てられた。それがその後、韓国本土へ移り、徹底的な反日教育を受け本人も反日活動をしていた時期があった。

その後、日本に留学して日本文化を学び紆余曲折されながらも、現在では日本国籍を取り、拓殖大学の教授をされている。講演では、いまだに日本語の濁音が苦手としながらもユーモアも交えながらも説得力のある講演だった。講演会場ではどこの出身であろうが皆が彼女を歓迎している日本人の雰囲気が漂う。

呉善花さんほど、日本と韓国(中国)の価値観の違いを理解されている方はいないだろう。生粋の日本人だって気付いていない事に気づいている。そもそも日本での留学では「敵を知るため」に徹底的に日本を研究したのがきっかけだったのかもしれない。それがいつのまにか核心たるものを掴んだのだろう。結局それは反日を加速させる方向とは全く正反対に転換した。彼女がいうように日本人を知るためには段階を経て時間が掛かるということは非常に理解できる。

この呉善花さんのような知的水準の高い方ですら20年以上の歳月をかけて日本人を理解したのである。やはり時間が掛かるのだ。一般の外国人がそう簡単に日本を理解するのは困難だろう。呉善花さんも「日本人は普通の人間じゃない」というコメントはその通りだろう。彼女も訴えている「韓国と距離を持つこと」・・・これが大事であると。私も全く同感である。

一方で子供の頃は神戸市に暮らし、日本で20年以上の滞在経験があり、現在は東海大学の準教授されている金慶珠さんは対称的だ。彼女は、常に韓国の立場を懸命に説明している。しかし彼女が話さば話すほど、周囲の反発を招いている。そして日本人の心に響かないのは、やはり日本人を理解していないからに他ならない。おそらく彼女は韓国人である以上は価値観を変えることはできないだろう。なにせ様々な彼女の分析と主張は一方的であり、呉善花さんの高度な分析と比較にならない。それは反日、親日ということ以前の問題である。

金慶珠に代表されるように多くの韓国人は反日でありながらも「日本に接近する」という矛盾した行動をとる。やはり「文化的な価値観の違い」は大きい。金慶珠は、文化的な違いを前面に出しても仕方がないという主張をよくするが、本人自身が文化的な価値観を前面に出しているのに気づいていないということだろう。この溝はそう簡単には埋まらない。

「日本は中韓と距離を置く」これは何も呉善花さんだけの主張ではない。中国出身の石平さん、台湾出身の金美麗さんも同じことを言っている。またエジプト出身のフィフィさんは「日本人は日本人らしくいてほしい」と述べている。またブラジル出身のラモス瑠偉さんは「日本人は日本人としての誇りを持て」というコメントをしている。

彼らは本当に日本と日本人を理解している。生まれながらの日本人である私ですら恥ずかしく感じる。外国人や元外国人に指摘されたからというより、そもそも日本人は普段から「日本人とは?」なんて考えていない。私も社会人になって、海外赴任や海外出張・・・といった様々な海外との仕事をする中でそういったことを少しずつ感じ取った。

呉善花さんに指導される拓殖大学の学生が羨ましい。一方で東海大学の学生が可哀そうに思える。もし私が改めて受験生で大学を選ぶとしたら拓殖大学を選ぶね。倍率とか大学ランクなんて関係ない。もちろん何を専攻にするかが最も重要なポイントだが。昔は大学選びはランクが高いか低いか?あるいは国公立か私立か、自分の受験能力と照らし合わせて決めていた。

でも、そんな表面的なことではなく、立派な先生が多くおられる大学・・・それが大学選択での重要な要素になるだろう。今後、日本の多くの大学は生き残りをかけて様々な対策を打ち出しているようだが、大学側としては立派な先生を獲得できるかどうかも重要だ。どこかの大学で元朝日新聞記者の在籍が問題になったりしたが、そうなるとその大学の受験生は減る一方だろう。そもそも大学側にそういう選抜能力があるかどうかは疑問ではある。

大学受験では「大学選択」が最も大きなテーマであることを理解する必要がある。現代はインターネットの情報化社会だ。情報ツールはいくらでもある。呉善花さんに憧れて拓殖大学を受験するのも良い。当然、金慶珠さんに憧れて東海大学を受験することだってアリだろう。また、昨日紹介した山岸先生のおられる明海大学もいいだろう。

もちろん社会人になってからでも遅くない。こういった先生方の書籍は多く販売されているし、インターネットでも簡単に検索して情報を得ることができる。特に、私は呉善花さんがお勧めです。日韓問題に興味ある方は必見です。




プロフィール

小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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