理系おじさんの社会学
08 | 2014/09 | 10
S M T W T F S
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -

山岸先生に感謝
山岸 勝榮(やまぎし かつえい)先生というすばらしい学者がおられる。英語学者であり、言語学として「和英、英和辞典の編集」もされている。また現在は、明海大学の教授をされており後進の指導をされているようだ。

山岸先生の「山岸教授の英語サロン」というブログがある。そこで私のブログが初めて紹介されていた(9月18日)。そこで私のブログについて「優れた意見だ」とのコメントを頂いている。いやー、誠に光栄であるととともに、ホントにお恥ずかしい限りである。

山岸教授の日英語サロン

何故なら、私は文章が極めてヘタクソで誤字脱字も多い。時には無意味に長文だったり、短文だったりする。海外赴任経験があるのに英語力も低い(TOEICスコア 600点レベル)。大学では物理学専攻だったけど、学生時代は劣等生で、社会人になって仕方なく勉強するようになった。そして40歳過ぎて、ようやく学問の重要性を理解しようとした。

そんな私ですが、昨日(9/29)の山岸先生のブログにまたも深く共感したのでブログを紹介します。

今回は御嶽山の噴火に関するコメントされている。私も一昨日(9/28)のブログにて御嶽山の噴火についてコメントした。そこで私は”「神の威力」に人間が謙虚になるべき”と述べた。たしかに犠牲になった方々や怪我をされた方に哀悼の意を表することは変わらない。

しかし自然とは何なのか? 今回は確かに人的な被害は発生した。しかしそれ以上に日本人は多くの恩恵を受けてきた。だから「霊山」なのだ。日本には、台風、地震、津波、そして火山もある。ある人は「呪われた国」と思うかもしれない。しかし私は決してそう思わない。台風だって、地震だって、大雨だったり、積雪だったり。それらは日本の社会にとって多大な恩恵が伴っている。しかし、時には大きなリスクも伴うこともある。

例えば、ある広大なアフリカの砂漠では地震も台風も、そして大雨もない。そういう意味では平和な土地かもしれない。しかし、水の恩恵はない。季節の恩恵はない。そして社会性は乏しい。高度な文化だってない。・・・それってホントに豊かだろうか?人間だってそうだ。・・・何も苦難もない、厳しさもない・・・そんな社会で人間はホントの豊かさを得られるだろうか? 必ず何らかの大なり小なりの苦難があるから、その反面に豊かさがある。何もなければ、何も得ることもない。

もちろん無理して苦労する必要はない。生きていれば勝手に苦労はやってくるものだ。そして自然のモノって人間が考えている以上によくできている。自然は生き物であり、神聖なもの・・・。一見有害に見えるものも重要な役割もある。スズメは畑を荒すから皆殺して・・・なんて、かつての中国の大躍進政策のようなことをすれば必ず自然界から大きなしっぺ返しを食らう(実際に中国の大躍進政策は大失敗に終わる)。

古代の日本でも欧州でも、森や霊山には決して立ち入っていけないという「伝説」もあった。自然に対して「挑戦」する行為をすべて否定するつもりはないが、同時に「死」を覚悟することも必要だろう。また、「悪」と判断したものを全面攻撃したら、いつか必ずしっぺ返しがくるだろう。

言葉だって「生き物」だと思う。とかく現代語を徹底的に否定される言語学者の方も多くおられる。正しい日本語、それは確かに大切なことかもしれないが「言葉が絶対」ではなく、そこに含まれた社会的、文化的背景というものを知り、言葉は「生き物」であり、時には「魂を吹き込むもの」と認識することも重要だろう。

今回は、そんなことを「言語」というアプローチで上手く社会や文化を解説されているのが山岸先生だ。言語能力に乏しく、文章下手の私にとって山岸先生は新たな先生だと勝手に思っている(授業料払っていませんが)。やはりネット文化はすばらしい。そして改めて山岸先生の感謝の意を表したい。



スポンサーサイト
土井たか子さん
昨日、元社会党委員長で初の女性衆議院議長だった土井たか子さんが亡くなられた。85歳だったとのこと。土井たか子さんといえば「おたかさん」との愛称で総選挙では「マドンナブーム」を引き起こし社会党が大躍進した。社会党躍進なんて今考えれば信じられない事だが。

そして印象に残った言葉として、日本で初めて消費税(当時は「売り上げ税」だったかな?)導入をめぐっては「ダメなものはダメ!」と発言されていたのを今でも鮮明に覚えている。土井たか子さんに限らず、多くの女性は「イヤなものイヤー」「あー聞きたくない聞きたくない」・・・等、理屈をこねられるのを拒み、本能で判断するのを好む生き物である。

特におカネに関する感覚は男性と違う。スーパーの買い物でで30円得しただけで嬉しくなる。逆に別のスーパーでもっと安いの見つけると非常に残念に感じる。たしかに「塵も積もれば山になる」だが、年間でせいぜい1万円程度変わるかの世界である。一方で大きなおカネには鈍感だ。土地や家を購入する際は、数百万円~数千万円の違いなんてあまり気にしない。

従って消費税というのは、多くの女性が感情的に受け入れられないようである。私もデフレ下における消費税増税には反対だが、そうした社会全体を考えた判断ではない。つまり個人的な本能として反対している。・・・そして、その集団が当時の社会党だった。「社会」という名はあるが、実質的には個人の「本能」を寄せ集めて決定する集団だった。それは現在の左翼勢力も確実に受け継いでいる。

その本能とは「カネ」だけではない。「嫉妬心」、「恨み」、「噂話」・・・これが強烈な女性は現在でも多い。彼女たちは基本的に「社会」を考えていない。「個人の利己主義」である。特にフェミニストは影の「少子化推進派」であり、国家崩壊が望ましいと考えている。

このように述べると、私は女性蔑視していると思われる方もおられるかもしれない。しかし、ここからが重要な議論だ。この「本能で生きる」・・・これは生物学的にも、社会学的にも決して「劣性」とは言えないことだ。その証拠に、女性は男性にはない鋭い「嗅覚」を持っている。

私ごとで恐縮だが、私の妻は結婚する際に「私のどこが気に入ったのか?」聞いたことがあった。当時の私はおカネも地位も名誉もなかった。 もちろん大したイケメンでもない。そのとき妻が言ったのは「理由はよくわからない」、「好きだから好きだった」と言ってくれた。・・・まあ早い話が本能で決めたわけだ。でも、結婚してもう18年にもなるが、今でも上手くやっている。・・・とりあえずは。

一方でカネ目当てとか、地位目当てで結婚したカップルは上手く言っていないケースが多いように思う。最悪の場合、離婚することも多い。つまり、女性は理屈でなく本能で決めた方が上手く、あるいは長続きするケースが多いということだ。当然ながら、政治的に「イヤナものはイヤ」は私は違うと思うが、ミクロ的には本能って結構大事かもしれない。

以前、自然食品も男女関係も「匂い」で色々判るということをブログに書いた。香水や悪臭にまみれた現代社会では判りにくくなっていることは確かだ。しかし社会の空気(匂い)というものは、時にはポピュリズムという恐ろしい現象にもなる。

社会のようなマクロなことを議論するときには「本能でなく論理的」に、そして生活の中の文化や芸術、そして恋愛というミクロ?な世界は「徹底して本能」で生きる方が良いかもしれない。


御嶽山の噴火
昨日から続いた御嶽山の噴火が凄いことになっている。ちょうど秋の登山シーズンであり一般の登山客とともに、信仰登山も多いそうだ。私は登山について詳しくないが、冒険家の野口健さんによると本格的な登山家は常に死を意識しているという。しかし、今回の被害者はそんなことを最初に考えることもなく、突然の出来事に戸惑う状況のようだ。

それにしても、この御嶽山は気象庁も常に監視していた火山ではあるが、それでも予知は困難だったようだ。いつも思うが地震や火山なんて本当に予測可能なのか?って思う。神戸の震災だって、東日本大震災だって誰も予測して報道されることなんてなかった。発生後に「なにそれの前兆があった・・・」なんていう輩が現れる。知っているのだったら先に言えばいいのに? まあでも、研究している方々は真剣に取り組んでいるのだろうが。

御嶽山の場合、過去には昭和54年にも水蒸気爆発があった。各報道によると、今回の噴火もそれに近いとしながらも火砕流やマグマの影響の可能性も指摘されている。もしマグマと関係していれば長期化が懸念される。かつての浅間山やアイスランドのように被害が地球規模に拡大して農作物を中心とした影響があれば、歴史的な社会変動も引き起こす。

しかし歴史上、御嶽山噴火は何度か発生しているが、そのほとんどは水蒸気爆発であった。一方で、御嶽山は霊山であり、常に人々の信仰の対象であった。おそらくそれは「水」が大きく関わってきたと考えられる。人間にとって「きれいな水」は生きる源であり文化の源である。それは当然ながら、山岳地帯だけでなく、古い神社や仏閣では必ず「清水」あるいは「聖水」のようなものが存在している。

マグマの活動についてはよく解らないが、水蒸気爆発があるのは「豊富な地下水」が関連していることは間違いない。逆に水がなければ水蒸気爆発は発生しない。豊富な水資源、そして噴火・・・まさしく神が宿るように思えるのは当然かもしれない。

今回、被害に遭われた方々の無事を祈りたいとともに、いつもながら自衛隊や救援隊の努力に敬意を表したい。そして何よりも、御嶽山の「神の威力」に人間が謙虚になるべき時と感じさせる出来事だ。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

村上和雄先生の研究思想
インターネットMSN正論科学ニュースで「脳は生涯にわたり発達し続ける」というタイトルの記事があった。これは筑波大学名誉教授の村上和雄先生の研究と思想について紹介した記事だった。村上和雄氏といえば元々は農学者だったようだが、近年では遺伝子研究に力を注ぎ、高血圧の原因となる酵素の遺伝子を解読したことで一躍有名になられた研究者だ。私も実は「高血圧」なので個人的な興味があるとともに、それ以上に彼の研究内容とその思想哲学には非常に関心を寄せている。

今回の記事で先ず私が共感するところ、記事より一部抜粋。

・・・ヒトの全遺伝情報(ゲノム)の解読以前は、DNAは生命の設計図であり身体の働きを支配していると考えられていたが、事実は違っていた。 DNAは単なる設計図にすぎず、それも環境によって書き換え可能な設計図である。従って、生命はDNAに支配されていなかった。・・・

全くその通りで、重要なポイントは「DNAは書き換え可能である設計図」、「生命はDNAに支配されない」という解釈である。ヒトゲノム解析では、優生学的にヒトが最も高等動物であることは証明できなかった。そもそも何をもって「優性」「劣性」かは自然環境や社会環境によって異なることは従来から有識者から指摘されていた。それが体系的に解明されつつあるということ。染色体ハプログループ解析にしても、長い人類の歴史の中で遺伝子が書き換えられた痕跡を示している。

しかし、ここからが解釈の問題だ。

それでは、生命を支配しているのは脳か?そうではなく「心」であると。そして「脳は生涯にわたり発達し続ける」として、「心」の持ち方で老化防止や疾病防止に役立てることができるというもの。この思想は「病は気から」に通じるものがあり、私は決して間違っているとは思わない。人々に老化という不安を取り除き、「希望」を持たせる効果は十分あるだろう。たしかに「成熟した心」というのは存在する。この記事の主目的はそこにあると考えられる。

しかし現実には「脳だっていつかは衰退する」という事実もある。心だって誰もが成熟した老人でなく「ワガママ老人」になるケースもある。脳障害による痴呆の場合、「心の成熟」があっても体と脳が追いつかない現実はある。そして「DNAは書き換え可能」とはいうものの、実際にはそう簡単には書き換えできない。そして時間が掛かるという現実がある。その前に残念ながら寿命を迎えることだってある。

私の考えでは、DNAの書き換えというよりも「DNAの新たな自己組織化」であると解釈している。それは生物学的な発想ではなく、物理学的な「脳の衰退:物理的な崩壊」、「DNAの保持と再現:万能細胞と自己組織化」・・・そういう解釈するほうが私としてはしっくりくる。

そして、もっとも哲学的な論争となりそうなのがこの解釈だ。村上氏の場合、「脳ではなく心」と考えている。このあたりの考え方は天理教(一神教)の熱心な信者でおられる村上氏の思想哲学と深くつながっている感じがする。私は基本的に村上氏を尊敬しているが、個人的にこの哲学的な思想には少し違和感がある。(村上氏を思想を全否定していませんので誤解のないよう!)

つまり「心」だって、環境や社会によって「書き換え可能」だからだ。「乙女心と秋の空」という何の変哲もないような言葉は非常に意味深いと思っている。何度か当ブログで述べているが、宗教哲学的に何をもって「善」であり、何をもって「悪」なのかということは社会や環境、そして立場によって違うということ。

しかも、そういう「ヒトの心」は簡単には変わらない。特に一神教の「心」だって、そう簡単に変わらないということ。無理に変えようとすれば「反動」や「歪(ひずみ)」が生じる。私が考える社会として大切なことは、心が違う、あるいは価値観の違う民族や集団とあまり関わらないこと、そして距離を置くことである。

どのような思想哲学を持つかは、それぞれの勝手である。しかし「怒り」、「恨み」・・・といった攻撃的な思想は村上氏が主張するように脳や体を破壊すること、それはどうやら事実のようだ。更にそれが理不尽であればあるほど、何らかの高度な防衛なり、耐性なりが必要となるだろう。

そして、我々の日常生活では怒りや恨みではなく、笑ったり泣いたり、時には科学を理解し、豊かで文化的な生活をしていれば、「脳は生涯にわたり発達し続ける」かもしれない。私の場合は「乙女心と秋の空」という変化の方が美しく感じてしまう。当然ながら、一貫性がないとか、ルールを守らなければ社会で信用されないのも事実だが、「変化を楽しむ」そういう感覚がDNAの書き換え可能?いや私風にいえばDNAの新たな自己組織化が達成できると考えてもいいだろう。 


テーマ:博物学・自然・生き物 - ジャンル:学問・文化・芸術

アジア競技大会は必要か?
現在、韓国の仁川(インチョン)にてアジア競技大会が開催されている。日本人選手も活躍しており多くのメダルを獲得している。だが、何か「おもしろさ」がない。会場ではスポーツの楽しみではなく「不快感」も漂っている。選手も取材陣も内心「はやく帰りたい」と思っているようでならない。実際にテレビであるアナウンサーが「もう帰りたい」という発言していたのが印象的だった。こんなことは今まで民放テレビでも聞いたことがない。

バトミントンでの「風」の疑惑、選手村の設備の問題、弁当のサルモネラ菌、中国選手の「日本国歌は耳触り」発言、聖火が消える、観客がいない・・・ネタがつきない。たしかに国際的なスポーツ大会では多かれ少なかれ問題は発生することはある。しかし何故か韓国ではトラブルが発生することが多い。ソウル五輪のときもそうだった。ネット上では、笑って楽しんでいる人も多いが、選手や関係者はたまったものではないだろう。

そもそもアジア大会とは、戦後インドの提唱によってアジア版オリンピックのような趣旨だった。戦前の日本が既に前身となるスポーツ大会をスタートさせている。それは当時の「大東亜共栄圏構想」の一環として経済、文化面で欧米に対抗しようとしたものだった。今でも、そういう思想が根底にはある。

しかし「アジアは一つ」なんて幻想であり、「わかっちゃいるけど、やめられない?」 バカバカしいことである。しかも今回は韓国が主催である。より一層、バカバカしさが際立っている。スポーツの場だけでなく、アジアの交流(特に日中交流とか日韓交流)は歴史的にみても日本の「無駄な努力」であるのはもちろんだが、時には「負の遺産」すら抱えてしまう。

東アジアの問題だけではない。そもそも戦後スタートしたアジア大会は開始直後から、イスラム諸国とイスラエルの対立は激しかった。何の大会だったか忘れたがイスラエル選手が殺される事件も発生した。最近のアジア大会では、人口の多い中国にメダルが集中するとか、冬季アジア大会では日本にメダルが集中するとか、とにかく世界大会というよりは、選手たちにとっては「別の世界大会へのステップ」という位置づけになっている。

主催者側も経済的なメリットも非常に少ない。今回の仁川大会も大幅な赤字が確実視されている。韓国や中国の場合、どちらかというと「面子の維持だけ」が目的となっている。はっきりいって、こんな感覚はスポーツでも文化でもない。特に今回の主催者(韓国)は、そもそも資金面でも技術面でも、そして精神面でも開催能力はなかったといえる。

2018年に予定されている平昌冬季五輪もどうなることやら。資金面もそうだが、そもそも雪が少ない、北朝鮮との国境近くであるとか、こちらも多くの不安要素を抱えている。あのロシアのソチでさえも雪が心配されたし、様々な問題あったが何とかなった。カタールでのワールドカップも不正疑惑で開催が危ぶまれるなど、綱渡りのスポーツ大会は実に多い。

それでも一番心配なのが選手たちだ。スポーツ選手は体力だけでなく精神面も重要だ。勝ち負けよりも安心して能力を発揮できるような環境つくり・・・それがなければ意味はない。自然環境としても冬季オリンピックのように、地球温暖化の影響で2060年には札幌やアルベールビル、カルガリー・・・など6都市しか開催できないとの研究結果も報道されている。

しかし冬季五輪の場合は寒ければ良いというわけではなく、マイナス20℃以下になればヒトの唇が割れ、深呼吸ができなくなる。そして寒くても雪がなければスキーで転倒やコースアウトしたときの安全性の問題が生じる。・・・なにも命をかけてまでスポーツ大会に出場することはない・・・。そういう議論が出るのは当然だ。

今後、世界のスポーツ大会は経済効果だけでなく、選手の体力的、精神的な「安心安全」を考慮した開催地の選定や運営方法を決めるべきだろう。これは観戦する我々だって、選手たちが「伸び伸び」、「生き生き」と活躍できる姿を観たいものだ。そしてメダルの色はその結果にすぎない。

将来的に、「アジア大会」は本当に必要なのか?議論する必要があるだろう。世界大会ならオリンピックやワールドカップで十分だ。またショービジネスとするなら、参加国を限定して完全に招待性にするほうがよい。その方がプレイする方も観戦する方も純粋に楽しむことができる。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

差別用語って何だろう?
在日韓国人でフリーライターの李信恵さんが、ネットの「保守速報」の管理人と在特会の桜井会長に対して民事訴訟をしたとのことでネット上で話題になっている。日本の現行法ではヘイトスピーチは簡単に裁けないが、特定の個人への誹謗中傷の場合は告訴できるという。今回の訴訟内容は民族差別と女性差別に対する訴えとのこと。当初は刑事訴訟も検討したとのことだが、さすがにそれは不可能とのことで民事訴訟となっている。

しかし「差別用語」というのは定義が難しい。特にネットやデモでのスピーチを差別としてどこまで認定できるかは非常に困難であろう。今回は「不逞鮮人」とか「朝鮮ばばあ」という言葉が出ている。例えば、これを日本の安部首相に対して「不逞倭人」とか「長州じじい」と叫んでも差別というよりギャグにしか聞こえない。

結局は、イメージの問題が大きい。一般的に美人じゃない女性にブスと言えばシャレにならない感じがするが、女子プロレスで悪役レスラーに「このブス、くたばれ」って観客が叫んでも、差別どころか会場は大いに盛り上がるであろう。またプロ野球の阪神タイガース私設応援団のヤジなんて凄まじく強烈だが、それが差別だなんて認定されたら甲子園球場はしらけるし、伝統の一戦である巨人-阪神の面白さは半減するだろう。

また、古い日本の映画を地上波で見ると、必ず「ピー」とか「無音」の場面が出ている。大抵は「メクラ:視覚障害者」、「ビッコ:片足障害者」、「ツンボ:聴覚障害者」といった現代認定されている差別用語が入っているからだ。有名なことわざで「風が吹くと桶屋が儲かる」も原文では「・・・メクラが・・・三味線が・・・ネコが・・・」とある。したがって原文を公的な場で紹介できなくなっている。さらにサスペンスミステリーの巨匠であった横溝正史の名作「獄門島」でも、「キチガイだ、仕方がない」という重要なセリフがカットされるなど、せっかくの名作の意味が全然わかんねーじゃん・・・となる。

映画だけでなく、マンガの世界でも古くは「チビクロサンボ」は有名だ。藤子不二雄「パーマン」も今では完全に放送禁止だし、数年前に実写版で話題になった「妖怪人間ベム」も当時のアニメ映像は完全に放送禁止になっている。私が子供の頃、こうしたアニメをよく見ていた。しかし私も含め、当時の子供たちは差別主義者にはなっていない。皆ちゃんと立派に大人になっている。ほら、私だってそうでしょ? 結局は「差別をなくそう」を大義名分として高度な文化が抹殺されているのである。

日本人であろうが在日であろうが、やはり差別用語の解釈はキリがない。公共電波であっても差別用語が規制されるのはやりすぎだ。しかも今回、李信恵さんが問題にしている言葉は、そもそもは差別用語ではない。この民事訴訟で李信恵さんが勝訴する可能性は極めて低いだろう。

あともう一つ気になるのは、本当に差別用語を問題にしているのか?ということ。チャンネル桜でも有名な古谷経衡さんも述べていたが本当はヘイトスピーチに反対しているのではなく、「嫌韓」に反発しているというのが本音であり、攻撃しやすい「差別や人権」を全面に打ち出しているように思える。

私個人的な意見としては、ネットであろうと何であろうとプライバシー侵害や虚偽情報でなければ「言論の自由」は保障されるべきと考えている。差別用語なんて解釈しだいだ。ただ私が一番気にするのは、大音響での街宣活動。これは右翼、左翼問わずに規制されるべき・・・それが私の考えだ。

はっきりいって、街宣される場所の商店や工場は「事業妨害」だと訴えても良いと思う。在日であろうが左翼であろうが、真面目に働いているのなら妨害すべきではない。また一般住宅では乳幼児が寝ていたり、夜勤者が睡眠とっている場合だってある。そういう人たちに迷惑かけてはいけない。

もし不法入国や不法ビジネス、そして犯罪がその場で横行しているならば、警察が徹底的に取り締まればよい。日本の警察や入管、そして法務局がしっかり取り締まらないから、あのようなデモが発生すると言ってもよいかもしれない。在特会の桜井会長はそういった内容をしばしば主張している。

最近、あの自民党の平沢勝栄議員は、デモ自体の規制を検討している。私はそれを支持したい。しかし早速ながら保守勢力でなく左翼勢力が抗議しているのが印象的だ。結局は、都合の良いデモ、都合の悪いデモで分けているのである。しかし平沢議員は警察庁出身であり本質を理解していると私は期待している。

たしかに李信恵さんは辛い思いはあるかもしれない。しかし向かう方向が間違っている。「言葉の問題」が本質ではない。同胞である在日や来日韓国人の犯罪率低下に協力すること。そして日本に居住する以上は日本人の文化や価値観を理解すること。それをしないで権利だけを要求すれば、いつまでたっても日本の保守勢力からの理解は得られないだろう。


アメリカのシリア攻撃
アメリカのオバマ大統領は問題になっている「イスラム国」に対して、「アメリカ人への脅威」という表現をした。すでに報道では22箇所を攻撃したとされる。一方でケリー国務長官はよく「悪」という表現を使用する。かつて共和党ブッシュ政権時に「悪の枢軸:Axis of Evil」という表現が有名になった。アメリカが軍事行動する際にいつも気になるのが「悪」という表現だ。

そもそも私(理系おじさん)の考えでは、「悪」というのは宗教上の概念であり、科学的な意味はない。生物学的に「毒性」や「免疫」、そして「抗体」というものは存在するが、善悪という概念はない。社会では法的に有罪か無罪かはある。しかし「有罪=悪」ではない。しかし、こうした価値観を持つ人たちは一般的なアメリカ政府関係者ですら少ない。

これは何もアメリカだけではない、反日活動を続ける韓国や中国、そして朝日新聞は「日本=悪」という哲学を持っている。その証拠に「A級戦犯=悪」という考えが捨てられない。しかし科学的に「悪」なんて無意味であるのは当然ながら、法的にも全く無意味である。アメリカの場合はまだ「法を遵守」する姿勢があるから、まだマシかもしれない。

おそらくイスラム国側も「アメリカ=悪」という考え方が強いであろう。つまりキリスト教にしても、イスラム教にしても「一神教」では、「善悪」で判断になりがちというわけだ。中国や韓国も儒教思想でも、絶対的な存在への崇拝や陰陽二元論のような思想がある。

こういう国家との付き合いは本当に難しい。ただしアメリカや欧州は「法の支配」と「民主主義」があるから付き合いやすい面もある。しかしアメリカの場合は、上記に述べたように宗教的な「善悪論」を強調するからややこしい。一方で英国のように宗教的には比較的ラフ(英国国教会)で科学技術(特に実学)を尊重する文化の国家とは交流しやすい。

いつの時代もそうだが、貧困な国家ほど絶対的な宗教にすがり、善悪で判断する。そして最悪の場合は紛争になる歴史を繰り返してきた。国民が豊かであり、高度な文化や科学技術を振興することは平和への一つの手段であろう。

アメリカは先進国であり世界最強の国家であるにも関わらず「善悪二元論」に傾く。これは国内的には貧困層が多く、若年層の失業率も高い。そして何よりもアメリカの教会の影響が強いからだろうと推定している。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

自然食材は匂いを確かめよう
「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるが今日は秋分の日、ホントにすっかり秋になった。味覚の秋、食欲の秋といわれる。しかし、食に関する残念なニュースがあった。滋賀県高島市の道の駅で販売された「ひらたけ」が毒キノコが混入していたというもの。地元の住民が近所でとれたキノコを店に入れたそうだが、外観が「ひらたけ」とほとんど見分けがつかずに誰も気づかぬまま完売したとのこと。そして購入者から中毒症状の報告があり、はじめて発覚した。

私は野生の「ひらたけ」は食べたことがないが、相当美味らしい。味覚の秋だし、高島市といえば自然豊かな地域、だれもが興味を持つ食材だ。今回の購入者も然程心配することなく購入しただろう。都会に住む人にとって、自然とか野生の食材は安心といったイメージが強いかもしれない。しかし田舎に住む私が忠告しよう、野生のモノって結構危険だ。

私の畑には、ニラとスイセンがあった(現在はスイセンはすべて除去した)。ニラは栄養価に高い食材だが、スイセンの葉は猛毒だ。それらの葉は非常によく似ていて私ですら見分けがつかない。またアジサイの葉も猛毒で、一見してレタスの葉に似ているが決して食べてはいけない。

私が子供の頃に親に連れられて、「マツタケ狩り」に行ったことがあった。あとで聞いた話だが、当時の「マツタケ狩り」は別の山で収穫されたものを安全な別の山で観光レジャーとして移植していたものだそうだ。それでも現在と違って比較的安い価格でイベントに参加できた。当時は各地で結構盛んなイベントだった。

そのときにガイドさんに聞いた話では、毒キノコかどうかは「匂い」で判るとのことだった。マツタケ自体が香りが強いのでよく判るが、実は毒キノコも香りが強いものが多く子供だった私でも区別することができた。しかしタバコを吸う人、化粧や香水の強い人、風邪をひいた人には難しいかもしれない。

そう「匂い」、この感覚は非常に重要だ。ニラとスイセンの葉だって「匂い」で判断できる。肉だって魚だって「匂い」で判断できる。あの有名なサカナくんも「匂い」で魚の種類が判るそうだ。今回の高島市のキノコ採集者は「匂い」を確認していないか?「匂い」に鈍感だったか?風邪をひいていたかもしれない。まあ、この毒キノコがどの程度の「匂い」があるかは知らないが。とにかく本当に天然な食材を求めるなら「匂い」に敏感にならなければならない。

「匂い」の重要性は何も食材だけではない。人間関係だってそうだ。人間だって天然のモノだ。男女の恋愛も「匂い:フェロモン?」が重要な要素だそうだ。一見して美人美男、あるいは人当たりの良い悪いでパートナーを決めることも多いが、実は毒があり・・・なんてことも多い。

たしかに公共の場で、モノやヒトに対してクンクン犬のように匂いをかぐ行為は下品かもしれない。しかし、自然の食材は当然のこと、自分のパートナーの「匂い」をじっくり嗅げば、本能で何か判るかもしれませんよ。

さあ、皆さん是非お試しを!安全のために!嗅覚を鍛えよう!


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

秋晴れの日本
長雨や大雨が続いた今年の夏が終わり、本格的な秋になった。最近は秋晴れが多い。連休の重なりに「秋の行楽」、そして「稲刈り」も盛んだ。人々の表情も自然と明るくなる。しかし秋の天気は変わりやすく。おそらく来週あたりからは不安定な天気になるとのこと。

私は仕事の関係で海外赴任や海外主張が多いが、このような「日本の秋晴れ」は海外ではあまり経験したことがない。
東南アジア(タイ、マレーシア、インドネシア)では秋はない。中国には何度も訪問したことがことがある。よく行くのは上海地区、山東省、広東省・・(北京は行ったことない) しかし報道でも知られているように視界は非常に悪い・・・秋晴れの日本のように、遠くの山が見えることはない。インドも都市部は中国に負けずに視界は悪い。そして韓国のソウルの場合、大気汚染の影響もあるかもしれないが、いつも曇りがちな鈍よりした天候が多い。いわゆる「晴天」というものを見たことがない。

一方、ラテンヨーロッパ(フランス、イタリア)では比較的に日本の秋晴れに近いものがある。人々の陽気な性格もそうした気候が影響しているのかもしれない。しかしアメリカやオーストラリアでは晴天といっても、あまりにも紫外線が強くサングラスをしないと耐えられない感じがする。それは日本の秋晴れとは何か違う。

でも日本の秋晴れってホントに美しい。でもホントに短い。すぐに寒い冬がやってくる。昔は日本では秋祭りって多かったけど台風のせいで、春に変更したりすることも多かったようだ。それはきっと日時を予め決定させているからだろう。

予め日時を決定するのではなく、天候を見て「さあ、今日は収穫だ」とか「今日はお祭りだ」・・・が一番いい。我が家ではいつもそうである。そして、その日が私たちの記念日になる。そうでないと、こんな素晴らしい秋晴れの日をムダにしてしまうのはもったいない。 そんな素敵な日は会社だって休んでも構わない。 学校だって休んでも構わない。

あっ、でも今日は私は出勤だ・・・残念。

理系保守と文系保守
そもそも理系とか文系とか、保守とか革新だとか、厳密にいえばナンセンスなことかもしれない。しかし「厳密」にいえば何だって例外がある。再分化された事象に着目してもカオスしか観察できない。物理学の基本的な概念である「還元法」に従い考察すること。これは一般的に様々な事象を説明する際においても非常に効果的だ。まあ簡単にいえばiPS細胞の考え方を社会に応用するというところかな?

このブログ「理系おじさんの社会学」では、社会という複雑な世界を可能な限り「還元法」で整理する。ただし、「還元法」とは単純な善悪二元論や法律的な白黒というものでは決して整理できない。それは数学的な「因数分解」や「偏微分」のような発想が必要だろう。また「線と点」を結ぶ解析法、たとえば工業界の品質管理で活用される「FTA」、「FMEA」そして「ナゼナゼ分析」では限界があることを認識する必要がある。

しかしながら、こういう考え方は「文系」の方々はどうも苦手のようだ。解らない世界は「マニアック」であると判断する。私も勤務先で「マニアックな人間」と思われているようだ(まっ、いいか)。でも多くの物理学者が複雑化させることを目的としているのではなく、単純化(還元論)でモデル化しようとしていること。そして結果的に様々な数式を使っている。このことを多くの文系の方々はよく理解していない。まあ、そんなこと考えようとしなければ、そりゃ仕方がない。

私は政治思想的には比較的に「保守」といわれる思想に共感することが多い。しかし、いわゆる「文系保守」には違和感がある。最近では、櫻井よしこさん、橋下市長、・・・そして小泉元首相も安部首相もそうである。彼らに共通するのは「民営化推進」、そして「グローバリズム」である。彼らは文学、哲学、そして法律の専門家かもしれない。しかし理系の発想が極めて少ない。そう、マニアックさ?が足らないのだ。

私の思想では「悪は存在しない」。あるのは人間や社会にとって「毒性」があるかどうか?(当ブログカテゴリ:「毒性学」参照) 芸術は最も美しい嘘であり(ドビュッシーの名言)、政治は美学に惑わされてはならない。私にとって三島由紀夫は典型的な「文系保守」でありナルシストであり、石原慎太郎も美学を重視する「文系保守」であるといえる。(三島由紀夫や石原慎太郎のフアン方・・・悪く思わないでね。私は文学としては否定していません。)

一方で「小泉-竹中路線」は「悪」という表現をする保守勢力もある。私は「悪」という表現は使わないし、彼らが一種の陰謀を持っているとも思っていない。しかし財界から利用されている可能性はある。私は彼らが単純に「理系の思考」が極めて少なく、マニアックさ?に欠けるというのが本質だと私は考えている。何故に「民営化推進」や「グローバリズム」が否定されるか、「理系の思考」と「マニアックさ?」で考えればよく理解できるからだ。

しかし残念ながら「理系保守」とは極めて少数派である。しかも「理系」といっても物理学が苦手な理系、たとえば「生物系」「機械系」の人々ですら、そういう思想は弱い。まあ最近では、武田邦彦さん(環境科学)や藤井聡さん(土木工学)が「理系保守」に近いかなあ。

私が尊敬する今は亡き小室直樹氏は元々はバリバリの理系(物理系)であったが終始社会からは「変人」扱いされてきた。ロッキード事件の際に「田中角栄は無罪だ。田中に一兆円やれー」というのは彼の名言中の名言であり、彼が何を言いたかったのか現在も理解している人は極めて少ないだろう。

また、現在も原発事故当時の首相として何かと非難される管直人元首相は大学では物理学専攻(保守ではない)であった。しかし彼の学生の頃は時代が時代である。彼が学生運動上がりの市民活動家だったこと、市川房江の影響と受けていたこと、そして民主党だったこと、性格が荒かったこと・・・管直人といえば自民党系の勢力からは「悪」そのものだった。

しかし管直人は「改憲派」であり、「核抑止」とか「金融緩和」とか、今思えば結構まともな事も言っていた。しかし世間では「イラカン」と揶揄され、完全に失墜した。たしかにリーダとしての素質は低かったかもしれない。特にTPP推進は余計なことだった(財界からの圧力?)。財務大臣しながら「乗数効果」の意味を知らないとか、いわゆる南京大虐殺は事実と信じるというマヌケさはあった。

しかし旧来の自民党に疑問を抱き、自由主義や社会民主主義を融合することを模索していた。そこは一定の評価できるだろう。だからこそ、周りの理解が得られにくい状況に陥ったのも事実。当然ながら私にとっても管直人は尊敬には値しないが、類まれなる政治家だったことは確かだ。それを「文系保守」は決して理解することはなく「イラカン=悪」と切り捨てるだろう。

結局は「文系保守」も「文系革新」も善悪二元論のような空理空論のイデオロギー対立にしか見えない。まだ管直人のような「理系革新」と誰か私のような「理系保守」との議論の方がおもしろいかもしれない。

民営化推進やグローバリズムの主張する「既得権益」とは何か?「腐敗の温床」とは何か?私は当ブログ(6月6日)に「自己組織化と腐敗の温床」で論じている。是非、興味ある方は読んで頂けると嬉しいです。

私は今回あえて、「文系保守」とか「理系保守」という勝手なレッテル貼りをした。でも結構的を得たカテゴリであると自画自賛している。こういう議論がもっと活発になると結構おもしろい。



運動会は必要か?
秋の運動会のシーズンになった。今年は9月になってすっかり秋めいて絶好の運動会日よりとなっている。特に小学校の運動会では家族としても一大イベントになっている。この日を楽しみにしている子供や親も多いだろう。

一方で最近では、こういうイベントを嫌がる人も増えている。そのいくつかの理由を挙げる。

1.運動会で順位をつけなくなった。

2.組み体操(ピラミッド)で怪我が多い。

3.男子と女子が手をつなぐフォークダンスに子供たちの抵抗がある。

4.親の場所取りがすさまじい。

5.親が来れない子供も多い。

6.5とは逆に一族総出でおせち料理のような弁当を食べる家族がいる。

7.グランドの砂埃の中で食事する。

8.先生たちは親やPTAの監視のもとで失敗は許されない雰囲気がある。

いや、まだまだ挙げればキリはない。なんだか子供に気を使っているような、そうでもないような? すくなくともPTAには気を使っているように思える。しかし、それは地域や学校によっても相当違うようだ。

私の考えだが、運動会が嫌な人(子供も親も)は無理して参加しなくてもよいと思う。全員参加でないと気が済まない人もいるだろうし、「義務養育」という大義名分で全員参加を主張する人もいるだろう。

しかし、こういうイベントって何か「先生や親の面子の張り合い」のようにも見える。また強制的に「みんな仲良く」の精神を植え付けようとしているように思える。そして子供たちも親たちも「仲が良いフリをする」・・・そうだとすると、たしかにバカバカしいイベントになる。

私が子供のころは、学校の運動会はもちろんだが、地域のイベントは必ず参加していた。どちらかといえば半ば強制的でもあった。私は比較的運動神経も良い方だったし、特別に嫌な思いをした経験はない。しかし、それでもそういうイベントはあまり好きではなかった。・・・うーん、それは何故だろう?

やはり当事者である子供の意識というより、「先生や親の面子の張り合い」、そして「みんな仲良く」のような欺瞞を子供心にも感じるところがあったからかもしれない。たとえばクラブ活動としての野球やサッカー大会では、個人(選手)のモチベーションは高い。それは現在行われているアジア大会やオリンピック、そしてワールドカップでもそうだ。

でも学校の運動会って何か違う。「先生や親の面子の張り合い」、そして「みんな仲良く」・・・そして、どこかしらけたムードがある。仕方がないから参加しよう・・・そんな雰囲気が漂う。もちろん積極的に参加される方を否定する気は毛頭ない。でも嫌だったら参加しなきゃいいではないか? 私はそう思えてならない。


英国の発展は高度な学問から生まれた。
昨日より、スコットランド独立の賛否を問う住民投票が実施された。現時点では結果は明らかになっていないが「拮抗している」という見方が強い。当然、この問題はスコットランド人が決めることではあるが、私は個人的に「反対派」に期待している。

長い歴史を振り返ると英国の発展というのはいくつかの要素がある。それは産業革命をいちはやく成功したことが直接的な理由だ。そして、それを支えたのが科学技術の進歩、英国内の石炭の採掘、植民地支配の拡大だった。

「オールドミスと英国兵」という日本でいえば「風が吹けば桶屋がもうかる」ような自然環境や社会的な背景もあったであろうし、日本と同様に島国であるということも英国が発展した大きな理由であることは間違いない。

たしかにスコットランドは文化的にもイングランドとはことなる。特に英国保守党政権の政策(特にサッチャー首相)に猛烈に反発した経緯がある。スコットランド独立派は、北海油田を武器に北欧的な「福祉国家」を目指すという。私もグローバリズムに疑問を持つ人間の一人として気持は解る・・・しかし・・・といった感じだ。

何故なら、北欧のような福祉国家が必ずしも上手くいっているわけではないからだ。また資源国家であるクウェートやブルネイは確かに福祉は充実しているかもしれないが、国家としての文化や科学技術は発展しにくい社会になることは疑いのない事実だ。(しかも北海油田の産出量はイラクやブレネイと比ではない)

本当に豊かな国家とは何か?これはそれぞれの価値観とも関連するだろう。しかし英国が発展した本質は「高度な学問」であったと私は明言したい。私自身もケンブリッジ系の学者の強い影響を受けているので強くそう感じる。

当然ながらそうした高度な学問を引っ張った人たちにはスコットランド人も多く含まれる。結局は「独立派」とは、北方油田の権利独占、民族派の台頭、英国分断派・・・といった要素が大きく、一般のスコットランド人としては民族意識はあるものの「何か違う?」という感覚があるように思える。

そういう「地下資源」だとか、「福祉」だとか目の前にある利益に飛びつきたい気持ちは解らないでもない。しかし人間社会とは「高度な科学技術」や「高度な文化」というものがあるから豊かな社会が成立している。一方で「利己的な行為」だけで行動すれば必ず衝突が起こる。スコットランドとスコットランド人には高度な文化がある。エリザベス女王がコメントしたように、彼らに「冷静な判断」を期待したい。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

購入品の質を落とすことがデフレの原因
報道によると消費税の増税後に景気の減速が伝えられる。伸びているのは公的支出のみ。しかし、こんなことは最初から解っている話だ。来年の10月に消費税を予定通り10%にすれば確実に「不景気」になる。

アベノミクスでは、金融政策、財政出動は確かに効果があった。しかし訳のわからない成長戦略や消費税増税はデフレ脱却に何の効果も出していない。麻生財務大臣も「税率でなく、税収を増やすことが重要であり」という認識しているにも関わらず「国際公約?」とかいう発言をする・・・。結局は、税収が減るのは目に見えている。

民主党政権下での三党合意や国際公約?(たしかにアメリカやIMFとの協議、G7蔵相、中央銀行総裁会議で日本のそうした方針を説明しているのは事実)があったにしても、消費税推進することがデフレ脱却にマイナスであることは、まともな政治家だったら誰でも解ること(まともでない政治家も多いが・・・)。

おそらく10%への増税も実行されるだろう。それ以前に、そもそもエコ家電補助とかエコカー減税のような「景気の先取り」すれば、必ずその反動は来るのは当然である。日本の場合、個人消費がGDPに占める割合が多い。その中でも、車や家電といった商品の支出は大きく影響する。

しかしマイホームのようなものは、税率関係なく「欲しい」と思ったときが買い時である。税率眺めて10年-20年待つ人なんてそういない。しかし、そのマイホーム価格と将来の収入とローンを比較して「質」を落とすことは十分あり得る。この「質を落とす」という行為こそがデフレの元凶である。

国民の生活の「質」を上げる。これを実行しなければ本質的なデフレの脱却はできない。いわゆる「失われた20年」多くの貧困層は十分我慢してきた。「文化的な生活する権利」を社会は後押ししなければならない。

特に個人消費のなかで「食費」というのは結構大きい。この食事も「質」を落とすとデフレは加速する。逆に1日ワンコイン(500円)で過ごす人が1000円の倍にしただけでも全体の個人消費に大きく影響する。

そこで私の提案だ。

1.学校給食の質を上げる。
2.社員食堂の質を上げる。
3.老人ホームの食堂の質を上げる。

人間というのは不思議な生き物であり、食事の質を一度上げると再び質を落とすことは受け入れない性質がある。安いからといって、まずい食事に我慢するのは終わりにしよう。そして政府や行政としても積極的に補助あるいは援助する。その大義名分として「国民の健康を維持する」、「文化的な生活を保障する」とすればいい。当然ながら国産の食品を優先する。当然のことだ。

そして2015年10月に消費税10%に引き上げた後、ただち(私のイメージでは2017年までに)に5%に引き下げる。そうすれば必ず景気は浮上する。いや消費税ゼロにしてもいいかもしれない。結局、年金支給額が物価(+消費税)にスライドするなら何%でも高齢化社会への対応という意味は存在しない。

先般のブログでも述べたが「モノに命を吹き込む」、「自己組織化されたモノや社会」・・・これらがいかに高価であっても、人間の生活を豊かにするためには絶対に必要である。カネがあることが直接的に人間の生活を豊かにすることはありえない。カネがあることは間接的な「安心感」だけでしかない。

そういう文化的、科学的な認識を持つだけでもデフレ脱却に効果がある。経済の問題とは、つきつめれば文化や科学の問題に行き着く。文化に親しむ、科学技術を学ぶ、モノの命を吹き込む、自己組織化させる・・・これらを国民が幼いころから勉強することも重要だろう。そうすれば安易な「購入品の質を落とす」ことはしない。



階段での盗撮
今朝のニュースで、警察官が非番の日に駅ホームの階段で女性のスカートの中をスマホで盗撮したとして逮捕された・・・というニュースがあった。最近、こういったニュースは結構多い。

私は不思議でならない。このような盗撮をしてもフラッシュしなければ暗くてわからないだろう。それに女性の下着が見たいならネットでいくらでも見れるし、下着のファンションショーや風俗に行けば簡単である。なぜ、わざわざややこしいことをするのか?

そもそも性的な欲求ではなく、ストレス発散のためにスリリングなことを試したかったのかもしれない。大抵のケースでは初犯ではなく、何度も繰り返して警察や駅職員からマークされていたのかもしれない。

あるいはもう一つ考えられることは、被害に逢った女性は超ミニスカートをはいていたというもの。イスラム国家の場合は、「女性が誘惑したから悪い」という判断されるそうだ。その根拠は、男性は我慢できないが、女性は制御できるという理論である。まあ、日本のフェミニストは絶対に納得しないだろうが。私は「それも一理ある」と考えている。

女性とは不思議な生き物だ。ある日本人女性は、ブラジルのイパネマ海岸ではかなりセクシーな水着を着るのに、日本に来るとオーソドックスな水着を着ることが多いという。それは周りに合わせるという行為かもしれない。

つまり、環境さえ整えば「魅せたい」という女性の心理はあるようだ。女性が超セクシーな格好をして「見るな」なんて何か矛盾している。もちろん勝手に撮影するのは問題だろうが、公共の場であればたまたま写ってしまっても文句をいうのは何か違う気がする。

基本的に公共の場は誰もが撮影しても構わない。公共のビーチでもセクシーな水着を着ても肖像権が侵害されなければ撮影しても構わない。しかし盗撮とは何なのか?階段ですでに見えていれば、「一風景」になる。露出好きな人も結構多いのは確かだ。

ところで今回の事件は女性が訴えたのだろうか?指摘したのは駅職員と警察だった。そしてマスコミは何かと警察官の不祥事をおもしろおかしく報道する傾向がある・・・。もしかしたら、この男性ははめられたのかもしれない。

「かもしれない・・・」ばかりで申し訳ない。まあ、そんな事を色々考えさせられたニュースだった。

テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

モノに命を吹き込む
日本人のモノづくりは世界的に見ても高く評価される。その理由として、「モノに命を吹き込む」ことをしていると言われる。なるほど、人気のマンガやアニメはキャラクター(絵)に命を吹き込むと言われる。また古来より伝わる刀や包丁は鍛冶職人が鉄に魂を入れるという。特に鋼材の「焼入れ」の工程では高温から一気に水に冷却するときには職人は鉄に命を吹き込むという。

私の会社、あるいは友人がこのようなことを口にする。あるモノを指差して「この子の体が少し曲がっている」・・・と。えっ、「この子?」 そう思う人もいるかもしれない。また、鋼材を扱う技術者がよく口にする言葉として「こいつ(鉄)生まれが悪いから加工やりにくい」という会話がしばしばある。このように日本人はモノを人間と同列、あるいはそれ以上と考えているところがある。

しかし、この感覚は国際的には稀な感覚である。中国や朝鮮、欧米においても「モノ」は人間未満の存在である。何度かこのブログで述べたが「神-人間-自然-モノ」という序列感覚が強く、モノに命を吹き込むという行為は神や人間を冒涜する行為と判断される。前回、紹介した呉善花(オンソンファ)さんもそのような内容を述べている。

しかし日本人のように、モノを人間と同等以上と考えるからモノの品質が高い・・・それは当然のことかもしれない。一方で日本人でありながら、そうした感覚を失っている人たちも多い。こういう人たちは、ある意味で経験不足でありグローバリズムに憧れる傾向がある。

工業製品の場合、町工場の特殊な職人さんは別であるが、大企業になればなるほど「モノに命を吹き込む」思想が弱くなる。やれISOだのTSだの「管理手法」でモノつくりを試み、安易なスケールメリットだけを求めるようになる。やがて「モノは道具」という感覚が強く、挙句の果てに「ヒトも道具」という価値観に変貌していく。

そうすると必ずモノの品質は低下し、人材育成も上手くいかない。私は大企業の中で、多くの品質問題を抱え、業績が悪化している会社は必ずこの問題を抱えていると断定している。そして最悪なのが「さらに様々な管理手法を導入する」という悪循環に陥ることである。

私の好きな言葉、「神は細部に宿る」がある。工業製品の小さなボルトだって、小さなナットだって、そのネジ形状や精度、硬さ分布、靭性・・・等で製品組付での善し悪しが決まる。マクロな機能を十分に発揮するためには、そうしたミクロの仕組みが絶対に重要である。

そして、それらのモノが社会でどのように機能していくか。まさしく「生き物」である。それは何度か当ブログで述べている「自己組織化」とつながっている(カテゴリ:「物理学と社会」参照)。 モノや社会が自己組織化したときに、そこには命が吹き込まれる。逆にエントロピー増大(でたらめさ:カオス)によって多くの命は消え去ってしまう。

もう一度、日本人はこういう思想の意味を再認識すべきである。最近、何かと壁にぶち当たりがちな日本社会と日本企業だが、復活する「カギ」はきっとそこにあるような気がする。どれだけ日銀が金融緩和したって、TPP推進したって、根本となる思想哲学がなければ日本は成功しない。


日韓の文化や価値観はあまりにも違う
韓国に駐在する別所大使は、韓国の尹炳世(ユンビョンセ)外相と、初めて会談したというニュースがあった。その後、日韓交流行事にも参加したとのこと。これは尹外相からの打診によるもので、韓国側の積極的な日韓関係の改善に意欲を示したものとニュースでは伝えられた。

確かに民間レベルではこれ以上両国の関係が悪化するとビジネスに影響があるので何とか改善したいとの思惑もあるだろう。しかし交流を深めれば深めるほど仲が悪くなることもある。交流で親睦が深まるというのは幻想である。

韓国人の考える「友人」とは日本人の考える「友人」とは価値観が随分異なる。韓国の場合、個人レベルで「友人」となり自宅に招待されれば「勝手に冷蔵庫を開けて食べ物を食べる」、これは当然のことである。私も似たような経験をしたことがある。貸したカネをなかなか返さないとか、勝手に個人の備品を持っていくことは日常茶飯事である。

日本人ならば「親しき中にも礼儀あり」という精神があるが、彼らにはそういう思想は存在しない。むしろ本当の友人はすべてにおいて「壁」を作ってはいけない・・・という思想が韓国人にはある。この正反対な文化というか価値観は、そう簡単には互いに理解することはできない。一時的な、なんとか交流会なんかで理解できるわけがない。

従って、今回の尹炳世(ユンビョンセ)外相の打診は決して日本にとって前向きではなく、「友人」として「冷蔵庫の品物」に手を出しやすくしようというものである。・・・えっ、それってドロボーじゃん・・・ていうイメージを日本人は持つだろう。しかし韓国人(中国人も同じ)はそういう価値観の民族なのである。しかし、それを全否定することはできない。

このような文化や価値観の違いは、呉善花(オンソンファ)さんの著書や講演で非常に解りやすく説明されている。文化を知るということは単純に芸術に親しむだけでなく、その歴史的背景や社会的な背景を知ることでより鮮明さが増す。

私は呉善花さん主張しているように日本としては韓国と「距離を置く」、「間を置く」ことこそ重要だと考えている。むしろ日本人は「日本人とは?」ということを改めて考える必要があるだろう。何かと「グローバリズムが正」のようなご時勢だが、日本人がなぜ世界中から注目されるのか? そして何故、日本が文化的にも工業的にも発展したのかを知ることは絶対に必要だろう。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

収穫記念日は「大切な時」
いよいよ秋の収穫の時期が来た。私の住む地域も稲刈りが盛んになった。ちょうど5月の連休(ゴールデンウィーク)に植えた作物が秋の9月の連休(シルバーウィーク?)に収穫の時期になる。私を含め多くの農作物に関わる人間にとっては「大切な時」だ。もちろん私にとっても「大切な時」だ。

かつて日本(本州)では、6月が田植えで10月が収穫だった。それが早場米や各種技術、そして温暖化?の影響で1カ月くらい早まった。中には8月後半には収穫している田んぼも存在する。台風の被害の多い地域では、台風が来る前に収穫しようという計画が多い。

さて宮中では新嘗祭というのがある。これは天皇がその年の収穫に感謝する大きな祭事である。政教分離の原則から「新嘗祭」としての国民の祭日にはならないが、現在の「勤労感謝の日:11月23日」として祭日にされている。

昔、あるいは一部の農家では、この新嘗祭の前に新米は口にしないという伝統がある。しかし11月23日まで待つ人なんてほとんど存在しない。収穫して2か月以上経って「新米」と称するのは違和感がある(一般的には新暦の年越しまでが新米といわれる)。

以前、11月23日を土日と合わせて連休にしようという政府の案が浮上した。そのとき、「たかじんのそこまでいって委員会」だったか、勝谷さんが「伝統行事の日付を勝手に変えるとはけしからん」という趣旨の発言をされたのを記憶している。

しかし私はこう考える。「そもそも11月23日という日に大した意味はない」ということ。大切なことは、収穫に対する自然への「感謝の気持ち」を神に捧げる・・・という解釈を私はしている。おそらく多くの日本の農業従事者はそのように考えているのではないだろうか?

それぞれの「大切な日」がある。どうせ「新嘗祭」するなら私は9月の連休に合わせたって何ら問題ないと思っている。それどころか、日本の多くの農業従事者とともに「日本の自然に感謝する」という一体感が持てると思う。11月23日はそのまま「勤労感謝の日」として残せばよい・・・というのが私の考えだ。

一般的に、「正月」「お盆」「入学式」「卒業式」「運動会」「ピアノの発表会」・・・こういう行事は特別な「大切な日」と表現されることが多い。しかし私はそういう日は「新嘗祭:11月23日」と同様にあまり特別な日という感覚はない。特にピアノの発表会なんかよりも、普段の練習や普段の趣味としての演奏の方が重要だと思っている。

シンガーソングライターであり、今や大御所(失礼)の竹内まりやさんの「毎日がスペシャル」という歌が好きだ。彼女は毎日の日々の生活が大切だといっている。あのイチロー選手や有名なギタリストも「日々の積み重ね」が大切って言っている。私も全く同感だ。日付や形式だけに拘るのが滑稽に思える。

農作物も同じだ。ある日突然野菜は実らない。雨風たえて半年かけて、じっくりと成長する。ある時は害虫がやってきて、それを人間が殺したり、鳥や獣の被害にあわないようにネットをはったりする。時にはシカやサルを銃殺することもある。

でも、そうやって色々なことを経て人間が収穫する。そしてそれを口にする。自然に対する感謝の気持ちが湧いてくる。「日々の積み重ね」が大切であるとともに「植物であろうが育った命を頂く」・・・これほど重要で「大切な時」はない。

私は趣味とはいえ農作業をやるようになって、つくづくそう思うようになった。

さあ、今日は我が家のサツマイモの試し掘りだ。ワクワクするとともに自然に感謝したい。


テーマ:博物学・自然・生き物 - ジャンル:学問・文化・芸術

朝日新聞は韓国もバカにしている。
朝日新聞の木村社長が記者会見を行った。まず福島第1原発事故に関しての「吉田調書」について、「吉田所長の命令に反して作業員が逃げた?」ような表現がされており、事実と異なり撤回と謝罪をした。

もう一人の「吉田」が関連する「いわゆる従軍慰安婦問題」で一部の記事を取り下げたとはいえ、「遅きに失した」ことへの謝罪はあった。そして「アジアとの和解問題」という表現を使った。

「アジアの和解問題」のために嘘が許されるのか?上村記者は「意図的な嘘」だったことは明らかであり、決して「過失」ではない。第三者委員会だか何だかの組織をスタートさせるようだが、朝日自身で自浄能力があるか不透明である。

まず思想の問題がある。「和解」のために「虚偽」が優先されないのは誰だって理解できる。しかし日本が引けば相手は納得して和解できる?いわゆる「譲り合いの精神」は国際社会では通用しない。

結果的に日本を貶めるだけでなく、韓国をもバカにしていることになる。それは、まるで小さな子供がワガママいってダダこねて泣いているのを叱らずに「ハイハイ」といって高価な飴をあげるようなものだ。

日本政府だけでなく、韓国こそが朝日新聞に対して怒りの声を上げなければならない。韓国人は早く気付くべきである。朝日新聞、NHKやマスメディア、そして反日左翼の日本人・・・こういう勢力は結果的に韓国をバカにしている。

今後の韓国人は「怒りの矛先」を変える。それしかない。そして、それに関しては日本人は謙虚に受け入れるべきだ。



テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

芸術は最も美しい嘘
昨日、You Tube 好きの娘からおもしろい動画を紹介された。それは、有名なホラーや恐怖映画が「必殺仕事人」のテーマをBGMにすると全く異なるイメージになるというものだった。あのジェイソンも、貞子も、そして鮫のジョーズまでもが恐怖の対象ではなく、ヒーローに見えた。(興味ある方は是非視聴してください)

「必殺仕事人」は私が小学生から高校生にかけて民放テレビで放映されていた。当時は非常に人気の高い時代劇だった。私も、結構好きでよく観ていた。仕事人たちが、それぞれの得意の武器で悪人たちを殺していくシーンはとても奇抜でカッコ良かった。その殺す際に決まって流れるBGMがそれであった。

当時の出演者の何人かはすでに他界されていて、最近ではなぜか続編は出てこない。やはり、子供の教育上よくないと思われているのかなあ?よくよく考えてみれば「必殺仕事人」は江戸時代の庶民の恨みを晴らすためにカネで雇われた「殺し屋」集団の話である。BGMを変えれば彼らも非道な人間に写ることだろう。

また以前話題になった兵庫の野々村議員の号泣会見もBGMを色々変えて流すと全くイメージが異なる。そういう動画がYou Tubeにあった。そういうオモシロネタはほんとに尽きない。・・・しかし、まあこんあ動画作成をよく思いつくものだ。

私はこのブログにては何度か述べたが、あのフランスの作曲家ドビュッシーは「芸術は最も美しい嘘」という名言を残している。古い映画だが、オードリーヘップバーンの初期の映画である「ローマの休日」と「昼下がりの情事」は「美しい嘘」がテーマになっている。これらドビュッシーの曲やヘップバーンの映画は今見ても新鮮だ。

一方でかつてのナチスのゲッペルスは「嘘は100回言えば事実になる」と述べてプロパガンダの天才といわれた。その思想は現在でも一部の欧米人や中国、韓国人も持っている。・・・うーん、正直いって全然美しくない。やはり、政治や社会問題でミエミエの嘘をつかれても嫌気がさすだけだ。

しかし娯楽としての「嘘」は本当に楽しい。こういう嘘吐きの名人には最大限の敬意を表するべきだ。


テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

日本の風俗嬢
中村淳彦氏の書籍「日本の風俗嬢」が話題になっているようだ。私はまだ読んでいないが、概要がネット上に少し紹介されていた。 

かつて女性はカネがなければ、いざとなれば「風俗嬢」があるという考え方があった。しかし実際は厳しいようだ。やはり、何でもそうだが「高品質」、「低価格」が当たり前の時代である。「風俗嬢」だって客に人気があるか、ないかで収入が大きく違ってくる。最近ではどこのソープランドでも「指名制」があるそうだ。

そこで女性の心理としても、思い切って裸になって儲けようとしたのに・・・男性客が寄り付かない。一方で別の女性が人気があったりすると「嫉妬心」と「無力感」が重なり、精神的にもキツくなる。実際の仕事内容よりも、そういう精神的な苦痛の方が辛いかもしれない。

当然ながら「風俗嬢」は人間なので工業製品と違ってバラツキがある。容姿だけでなく本人の努力次第で技術力を得ることができる。技術力とは性的なテクニックだけでなく、会話術や雰囲気つくりも重要である。

また有名な会社の重役や著名人が客になる場合は、「秘密の保持」も重要である。どっかの週刊誌に暴露したり、ユスリ、タカリをすることは日本の風俗嬢の場合はご法度である。日本の場合、そういう「心構え」もった「風俗嬢」も多いようだ。

私が高校生の頃だったか、何かテレビのインタビューだったか、ある「風俗嬢」はこのようなことを述べていた。「私たち世の中のために働いている」、「社会には、さみしい男性も多い。そういう人助けをしている・・・」。最初、このコメントを聞いたとき「この娘たち、どうかしている」なんて思った。

しかし今思えば、彼女達は完全なる「プロ意識」を持っていた。何かと非難されることの多い「風俗嬢」だが、一般企業の中途半端なOLよりも随分レベルは高いように思える。彼女たちは立派である。

結局は「風俗嬢」といっても、かなり高度な総合力が必要となる。そういう総合力のある女性が稼ぐことができるというわけだ。逆に風俗で稼ぐことのできない女性たちは「社会に八つ当たり」することもあるかもしれない。

私は成功している彼女たちを尊敬する。江戸時代の花魁道中は、そうしたトップレディの誇りでもあったという。仕事に誇りを持つこと、やはり絶対に重要なことだ。



デング熱とエボラ出血熱
昨日に引き続き、話題のデング熱、そしてアフリカで問題になっているエボラ出血熱を取り上げる。

私は基本的には「陰謀論」はあまり好きではない。しかし、これらの問題はたしかに共通した「陰謀論の匂い」が漂う。その代表的なことは、製薬会社のワクチン開発である。

特にエボラ出血熱は最初はたしかアメリカ人数名がアフリカで感染したとの情報だった。それがいつのまにかアフリカ各地に飛び火してしまった。それに伴いWTO(世界保健機関)はワクチンの大規模な投与を呼び掛けており、国連にまで支援(カネ)を要請する事態になっている。

一方、日本でのデング熱騒動は武田製薬やワクチンの認証にかなり前向きであるニュースもある。つまり、この種のニュースは製薬会社の巨大なビジネスが動くことを意味している。しかし社会不安が存在する以上、政府や国際機関は動かざる得ない状況になる。実際に患者が存在するがゆえにワクチン推進に正面から反対できるような状況ではない。

マスメディアは中国での感染症のニュースはあまり積極的ではないが、デングとエボラを積極的に報じている。それはワクチン認可への世論操作が関係していると考えても良いかもしれない。

病気の種類にもよるが、ワクチン開発には時間も掛かるし、コストも掛かる。開発したのに需要がなければ開発費すら回収できない。特に難しいワクチンほど、成功すれば利益はあがる。しかし、開発しても病気が蔓延しなければ無意味になる。

それにしても、エボラにしてもデング熱にしても、ワクチン開発と実際の流行があまりにもタイミングが良すぎる。本当に偶然だろうか?こういう疑惑が浮上するのは当然のことだろう。かつての日本でのB型肝炎も「被害者+製薬会社+人権派+α」がそれぞれの利害が合致したのは有名はエピソードである。

しかし、こういう疑惑(陰謀論)を証明することは極めて難しい、なにしろ直接の相手は細菌や虫だから。どういう行動するか解らない。そして、それらの行動追跡は難しい。

また近い将来、こんなことも想定してもよいだろう。誰か将来「エイズのワクチン」を開発する。その時点で、エイズが大流行する。そうなると、日本ではソープランドが閑古鳥が鳴き、タイへの売春ツアーは激減する。そしてワクチンが一般に流通すれば、そうした趣味のある金持ちはワクチンを大量購入して安心して売春行為をする・・・うーん、ありえる。

こうなると、我々一般庶民はあまり外出しない。他人と付き合わない。セックスは奥さんとだけ・・・それが個人の健康、家計の節約、楽しい性生活の「コツ」になるかもしれない。外向き=×、内向き=○ の時代が到来する。



テーマ:医療・健康 - ジャンル:ニュース

デング熱の流行
デング熱の流行で、ついに代々木公園が閉鎖された。テレビでも連日報道されて不安が高まっている。

しかし喜んだ人たちも存在する。それは虫よけスプレーの会社だ。今回の騒動で大幅に売り上げを伸ばしているという。またデング熱のワクチン製造は長らく不可能といわれていたのに早速ながら「開発した」とのニュースもあった。

あのキンチョールは研究と称して、蚊やゴキブリを大量に養殖しているらしいが、それを密かに外に放流しているという噂は昔から絶えなかった。また、コンピュータウイルスを媒介しているのはウイルス対策ソフトのメーカだとか・・・。確かに「効果の確認」は市場でしか解らない。だから「そうかもしれないなあ?」という説得力なある噂話になる。

今回の報道では、地球温暖化の影響だとか、東南アジアの旅行客の来日増加・・・などが要因として取り上げられている。しかし未だはっきりとは解らない。大手マスコミは報道はできないだろうが「製薬会社の陰謀論」はネット文化(おもしろネタ)としては良いテーマになる。

また食品会社と医薬品メーカが共同して「新毒物」を開発。まずは食品メーカがこの新毒物を含む食品(これが病みつきになる)を消費者に販売する。その後の病気が蔓延して医薬品メーカが「解毒剤」を販売する。50年後にようやく厚生労働省が規制に乗り出す。その50年間はそれらの企業はボロ儲けできるわけだ。

医薬品業界というのは、人類が皆健康になっては困る存在であることは間違いない。もっと人々が病気になって、もっと人々が医薬品を購入してくれないと困る・・・そういう思想は間違いなく存在する。ビジネスとはそういうものだ。

あと人権派は人権問題がないと困るのである。もし人権問題が全くなければ、人権派団体の存在理由はなくなる。収入源が断たれる。それは偽装ボランティアだってそうだ。そうなると何が何でも人権問題を探し出して飯のタネにするしかない。

誰だって現代社会を生きるには経済活動が必要だ。需要がなければ需要を作ろうとする。ときには社会を犠牲にしてでも需要を作ろうとする。よく公的な需要の創出(公共事業: ケインズ論)を否定することは多い。しかし実は民間の需要の創出ほど醜いものはない。

まあ今回のデング熱とは関係のない話かもしれないが、需要と供給って大切だけど恐ろしい。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

朝日新聞と左翼勢力の将来
最近の「いわゆる従軍慰安婦問題」に関して、朝日や左翼の主張に注目してみよう。特に多いのが「強制連行はなくても強制性はある」とか「日本軍国主義が行った蛮行が消し去れるものではない」とかの主張が目立つ。つまり吉田証言の否定でこの問題が100%否定されたわけではない。というのが基本的な論調だ。

まずは「強制性」とか「蛮行」とか曖昧な言葉を使うこと。明確なエビデンスや法的根拠を示さないのは、彼らの典型的なやり方である。かつて彼らが行ってきた「善悪二元論」、つまり「100% 日本が悪い」というイメージをつくった張本人たちが、「100% 日本は悪くない」となるのを恐れているわけだ。当然、かつての大戦がすべて正しかったなんて考えは現代の保守層ですらほとんどいない。だれもが、そんな単純で両極端な考えを持っているわけではない。

しかし現代社会ですら、そういう単純なイメージが先行することはある。朝日に代表される戦後のマスメディアは「事実の報道」ではなく、「世論操作」と「流行通信」が主な仕事だった。かつては「ブンヤ」という表現が使われ「ヤクザ」と同等であるという認識は、多くの知識人は理解していた。そこでは「事実」よりも「カネ」がすべてだったといえる。しかしネット社会になって情勢は大きく変わり、そのやり方が限界に近づいたというのが本質だ。

それでも「100% 日本が悪い」というイメージはいまだに世界中(特に旧連合国)に蔓延している。そして、それは既に世代を超えている。現代日本や現代日本人が理不尽に侮辱されるのは現在進行形であること。その理解が左翼勢力には決定的に不足している。朝日や左翼は、結果的に日本人の子供たちが「性奴隷の子孫」とイジメらることを「犠牲」にして生計を立ててきたわけだ。こどもの人権を奪って、よく人権派だなんて自称できるものだ。

残念ながら、一般庶民というものは「解りやすさ」を追求する。難しいことをどれだけいっても解らない・・・ていうか、解ろうとしない。古今東西で論理的な思考ができない人々は多いのは事実である。またヒマな女性が噂話が大好きなのは今も昔もかわらない。

それならば、いっそのこと「朝日と左翼は絶対悪」と流布するのもアリかもしれない。社会というものは多少の「不条理な犠牲」が必要になることもある。人の弱みに付け込むのは、けしからんことだが、ここまで問題を大きくしたのだから「絶対悪」と社会認定されても良いだろう。

朝日に多少の正義(あるかなあ?)があったとしても、それは関係ない。そういうことを考えるから問題はややこしくなる。正攻法だけでは彼らに勝てない。プロパガンダに対抗するには、正論だけでなくプロパガンダも必要だ。

かつて左翼は「日本=悪」であるとして「日本と日本人を犠牲」にして生計を立ててきた。今度は、彼らを犠牲にして我々日本人が生計を立てる番かもしれない。実際に、最近の週刊誌は嫌韓ネタや反左翼ネタがよく売れている。それが象徴的なことだ。・・・だって、おもしろいし、ネタはつきないし、何よりも説得力があるからだ。

かつての朝日や左翼の主張は、「セックスと暴力」というインパクトを「売り」にしていた。また人権屋(ヤクザ)からもサポートが貰える。さらに中韓からも支援される。完全にビジネスとして成立していた。しかし、もはやインパクトはない。ネタも少ない。説得力もない。・・・つまり、おもしろくないわけだ。もはやビジネスとして成立していない。しかも、大きな虚偽を放置するという報道の信頼を失うような事態にもなっている。

そして近い将来、「あの、うそつき朝日社員の息子だあー」とか「反日左翼の娘だあー」ってイジメが蔓延するかもしれない。でも、そうなっても大人の仕事は転職できる。誰だって転職できるし、左翼から右翼に移籍することも可能だ。一方で国家が理不尽に侮辱されたから国籍変えるなんてのはあり得ないことだ。

そう、朝日新聞の社員は「週刊誌の記者」になって記事を書けばもっと儲かるかもしれない。左翼勢力が保守系団体に移籍する。そうすれば、家計はもっと安定するかもしれない。そもそも人権でなく「カネ目当て」で行動しているのだから、そういう発想すれば、自然とこの問題は誰も傷つかずにフェイドアウトできるだろう。

いやー、そういう日が来るのが待ち遠しい。


テーマ:テレビ・マスコミ・報道の問題 - ジャンル:ニュース

ハラールと観光ビジネス
日本政府は「観光立国」を目指して、様々な対応を推進している。私が最近、興味を持っているのが「ハラール」に関する対応である。「ハラール」とはムスリム(イスラム教徒)の食事に関する宗教的な規制である。有名なところでは「豚肉」これはイスラム教では不浄のものとされている。また「飲酒」も厳禁である。

そこで海外のイスラム教徒(特にインドネシア、マレーシア)の観光客が安心して来日できるように、ハラール認証の店を増やしている。最近ニュースでも安心した表情のイスラム教徒の写真や映像も報じられている。

しかし、東南アジアのムスリムは中東のムスリムと少し違う。表面的には厳格なイスラム教徒であっても、内面的にはそうでもないことが多い。インドネシアやマレーシア国内では宗教警察のような存在があって厳しく管理している。しかし当然ながら日本や非イスラム国にはイスラムの宗教警察なんて存在しない。・・・だから彼らの本音は、「海外ではもっと自由になりたい!」という感覚があるのだ。

私の友人に東南アジアのムスリムの男性がいる。彼の話が結構おもしろかった。彼は比較的にムスリムとして厳格な方だったがヨーロッパ訪問した際には、ストリップショーにも行った話をしてくれた。彼の友人(友人もムスリム)と二人で行ったそうだが、彼の友人はショーのサービスで女性ダンサーのお尻を触ることができたとのこと・・・。

また東南アジアの女性の場合、日本の女性と同様にグルメも多いので「密かに豚肉食べてみたいなあ」なんて思っている人たちも多い。せっかく日本に来たのに、「おもてなしサービス」として「ハラール認証の店?」・・・「えっ」て思いながらも
「安心しました」なんてコメントするのがオチになっている。

従って、日本人が考えているようなやり方がすべて良いとはいえない。そもそも日本に興味があって日本に来るのだから「日本は日本らしく」していることが本来あるべき姿である。クールジャパン戦略をすべて否定するつもりはないが、「余計なこと」をしないよう心がける必要はあるだろう。

つまり東南アジアのムスリム観光客の場合は、団体客でまとまって食事するときは「ハラール認定の店」は結構なこと。しかし「個人行動」を増やして「自由行動」させる。彼らはすでにネットやツイッターで情報は得ている。そうすると彼ら彼女たちは、先ず一般的なカジュアルな服装に着替える。そして観光地だけでなく地方の「豚骨ラーメンの店」、地方の「ストリップ劇場」へ行くだろう・・・非イスラムのふりをして様々な場所に訪問する。・・・これほど彼らにとって楽しいことはない。

何せ日本には、イスラムの宗教警察はいないのだから・・・


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

水子供養、そして座敷童子伝説
この一週間(8/30-9/5)、当ブログでは「命に選択」について社会との関連を深く考えてきた。今回も日本の風習や伝説とともに現代社会を鋭く考察したい。

昔から東北を中心(特に岩手)では、一種の「おばけ伝説」として「座敷童子(ザシキワラシ)」がある。4-5歳の子供の精霊が座敷に現れる、あるいは物音がする。子供にしか見えないと。しかし、それは決して不吉なことではなく幸運が宿るといった伝説がある。私が子供の頃、「おばけ本」が流行していて、ワクワクしながらよく読んだものだった。

この伝説には様々な由来の説がある。私は、その中でも東北でよく実施された「間引き(子殺し)」と関連する可能性が非常に高いと考えている。「少しイタズラはするけど決して悪事はしない」とか「生きている子供に近づく」・・・これらは「死んだことに気づいていない子供たちが、現生の子供たちと遊んで欲しい」、「決して現世の子供たちを恨まないよう・・・」そういう大人たちの気持ちがあったのではないだろうか?「間引き」は現代の人工妊娠中絶と違い、母親は当然ながら産声を聞いているだろう、また顔姿も見ている。そして、その行為に及んだムラ人も辛い思いだったことは間違いない。その思いは、人工妊娠中絶を経験した現代女性の比ではない。

関西でよくある「地蔵盆」もそうだ。これも様々な伝承が重なり合っている(おそらくカモフラージュ?)。しかし「間引き(子殺し)」が一番関連していると考えられる。年に一度、子供が好きそうな物をお供えをする。そして現世の子供たちとふれあい、お地蔵さんの恨らまれないよう・・・そんなムラ社会としての「大人たち思い」があったのかもしれない。おそらく、それは一家族だけでなく「ムラの掟として」、そして「最大のタブー」として・・・そう考えるとそこには「残酷さ」ではなく、社会を重んじ、現世の「子供たちへのやさしさ」、「大人(母親)たちの自己説得」、そして何よりもあの世へ行った子供たちへの愛情のようなものがあったと考えられる。そして「神にお返しする」とか「ムラ社会の安定のための犠牲に感謝する・・・」それは現代人の考える単純な「罪と罰」とは決して違う。

一方で以前に社会問題になった統一教会(当然、名称を出してもよいだろう)による霊感商法があった。今でも似たような悪徳な霊感商法は数多くある。統一教会のやり方は「イエスキリストの名の下に」、人工妊娠中絶をした女性へ「罪悪感」を植え付けさせ、原価数千円の壷を数百万円で売りつけたというもの。このときの壷とともに「水子供養」すれば救われる・・・信じる者は救われる・・・。全く許しがたい行為である。女性の不安感を煽り、カネを巻き上げていたのである。

それは、さながら「いわゆる従軍慰安婦問題」や「いわゆる南京大虐殺事件」にて日本人に「罪悪感」を植え付け、カネを巻き上げる・・・全く同じ手法である。そこには絶対的な支配感が存在し、勝者と敗者の姿を明確に描く。そうした思想は、古来の日本人には存在しない。残念ながら、多くの現代日本人は近現代以前の精神を忘れ、欧米やシナ大陸の歪んだ思想に惑わされているのである。

やはり、私は日本の歴史や文化、そして事実(闇の事実を含む)を知ることは絶対に必要だと断言する。当然ながら「間引き」や「人工妊娠中絶」は悲しいことかもしれない。そんなことを幼い子供に細かく教える必要はない。せいぜい、「エンマ大王の伝説」を伝えるくらいである(*この話だって人権派は残酷だといって反対している)。 しかし誰もが大人になって、こうした伝説や伝統文化は「何を意味しているのか?」、そういう事を大人は理解する必要がある。そうすれば悪徳商法に騙されたり、「罪悪感」を引きずって生きることはなくなる。そして「社会とは何か?」、日本の社会学の真髄が見えてくる。


テーマ:神話伝説逸話 - ジャンル:学問・文化・芸術

「知的障害のある長女殺害」母親への無罪判決
読売新聞は以下のニュースを報じた。一部抜粋します。

難病で知的障害のある長女(当時29歳)を殺害したとして、殺人罪に問われた母親(58)の裁判員裁判判決で、大阪地裁は3日、無罪(求刑・懲役4年)を言い渡した。裁判長は「介護の負担から重いうつ病となり、犯行当時は心神喪失状態で刑事責任能力はなかった」と述べた。母親は昨年10月、自宅の浴槽に長女を沈めて殺害した後、池で入水自殺を図ったところを発見され、逮捕、起訴された。・・・裁判では責任能力の有無、程度が争点となっていた。

ここ数日、このブログで「命の選択」をテーマにした記事を書いていた。まるで、それに合わせるかのようなニュースだ。「・・・裁判では責任能力の有無、程度が争点となっていた」とある。たしかに法律的にはそうなるだろう。どのような詳しい背景があるのか?また医学的な見解がどうであったか詳しくは報じられていない。裁判員裁判ということで一般的な同情されるところもあったかもしれない。

しかし、問題の本質は違う。 最近(8/30-9/3)の当ブログに是非目を通して頂きたい。何度もいうが、こういうことは珍しいことではない。29歳の女性というと、一般的には社会で最も輝いている時期である。・・・だから余計に人の心はキズ付くものだ。「命を大切に」・・・そういう綺麗事は誰だって考える。特に子供のころから、学校の先生も含めそういう教育をするのが当たり前になっている。

しかし重い病気と向き合うということが、どれだけ残酷なことか? 自殺する人は「経済的な理由」よりも「健康上の理由」の方が多い。たしかに障害を乗り越えて活躍されている方々も多く存在する。教員で有名な乙武洋匡さんや盲目ピアニストの辻井伸行さんは社会で大活躍している。彼らに励まされる障害者は多いだろう。また自閉症やアスペルガー症候群の人の中には天才のような方も多くおられる。しかし「重度の知的障害」というのは社会で成功することは極めてゼロに近い。また小児麻痺のように知的障害を伴わないからこそ精神的な苦痛が大きくなることもある。それが現実なのだ。

本当の人権とは何か?本当の社会の安定とは何か? この問題はまさしく「現在進行形の人権問題」である。私は妊婦の出生前検査は絶対に推進すべきであると改めて思った。それが現時点で100%確実でない方法だとしても・・・。科学技術(遺伝子学や生物学)は驚くべき進歩をしている。「命の選択」だとかいって反対する人権派や宗教関係者は「無知無意識の偽善者」、あるいは「確信犯の偽善者」である。


テーマ:最近のニュース - ジャンル:ニュース

人権と宗教
昨日ブログ、「命の選択」や8/31の「人工妊娠中絶と社会」で述べたように、日本の歴史上では「命の選択」は間違いなく実施されてきた。しかし、それによって社会を維持してきた経緯がある。あまりにも無慈悲と思われがちであるが、かつての日本は「人権と社会」のバランスを理解していたと考えられる。

もう一つ特徴的なことは日本人の宗教、哲学との関わりである。間引き(子殺し)を行う一方で「水子供養」があり、関西では「地蔵盆」というものがあり「子供地蔵」を祭る風習がある。水子供養は中絶との関連をイメージする方が多いと思うが、本当は間引きとの関連の方が深い。

私は何度か「自己説得」という表現を使用した。「間引きするのは神にお返しする」・・・こういう思想は、日本人として受け入れ易い感覚である。日本人は古来より、自然があって、生活があって、社会があって・・・そして神々は様々な生活の中に存在する・・・こうした思想があって、現在も受け継がれている。

しかし、七五三にしても地蔵供養にしても本来の意味を知らない現代人は多い。何となく昔からの慣例だからとか・・・という感覚が多いであろう。そもそも、そういう残酷な背景をいちいち子供たちに伝えることはないだろう。大人だって知らない人々の方が多い。現代社会では意味が薄れるのは当然のことだろう。

昔の日本人は、子供への人権教育として「悪いことをしてもお天道さまが見ている」とか、地獄絵図を見せて「嘘吐くとエンマ大王に舌を抜かれる」とかいって子供に教育した。その一方で「間引き」が行われ、貧しい農村では「娘の身売り」や「姥捨て(山へ連れていくわけではない)」が行われた。それは一見して「欺瞞」に思えるかもしれないが、それが日本人の生活のための「人権と社会」の思想だった。

その後、外国から様々な宗教が流入した。それでも日本は神道をベースとしている。キリスト教が日本では1%にも満たないのは、そうした神道精神が強いからだろう。しかし、大戦後の日本はそうした日本人の宗教、哲学が次第に薄れていった。特に最近いわれる「人権」というものは欧米のキリスト教をベースにした思想に近い。

はっきりいって「キリスト教での人権」と「古来の日本人の人権」とではまるで思想が違う。それは上記で述べたことでも理解できるだろう。その証拠に外国人には、日本各地にある小さい神社やお地蔵さんの存在を不思議に思うそうだ。そもそも原始的なキリスト教は「隣人愛」や「自己犠牲の精神」がベースであったが、いつのまにか「神=絶対」、「選民思想」のような哲学が発展してしまった。

現在のキリスト教の教義の内容は、現代科学と照らし合わせると、かなり非科学的な要素が多い。しかしそれでも宗教は宗教である。それらを全否定することは適切ではない。しかしながら、やっかいなのは「人権」との関わりである。イスラム教でも独自の道徳感があり、彼らなりの人権意識がある。それをキリスト教の概念でみれば「非人道的」となってしまうことは多々ある。

また、欧州人には「有色人種と異教徒は人間ではない」という思想があり、「人権」とは文字通り「人間」が対象だった。それが「優生学」と「貿易経済」とが融合して植民地政策とつながった歴史がある。しかしキリスト教の盛んな韓国では、「隣人愛」や「自己犠牲」の精神をすっ飛ばして、「神=絶対」という思想が根付いた。それは従来の儒教思想の土壌に溶け込みやすかったのかもしれない。

そして最近、何かと話題の「いわゆる従軍慰安婦問題」について、キリスト教の多い韓国人にとっては一種の「宗教」のようになっている。最近、そんな気がするようになった。そこには「論理性」や「現代科学」を受け付けない「絶対的」なものが根底に存在するのかもしれない。

やはり「人権」なんてものを国連で議論するのは、あまりにもナンセンスなことと断定できる。法的拘束力がないのは当然だろうし、完全にプロパガンダの劇場と化している。あのパレスチナ問題ですらそうである。世界中の多くの知識人は気付いている。国際的に統一した人権などありえない。

日本国内でもやれ人権、人権と叫ばれるが、どうでもいい内容ばかりが議論になっている。本来は現在進行形のワーキンプア問題や子供のイジメ問題・・・など優先して改善しなければならない。それなのに過去の問題に拘ったり、「無意味な利権」を得るための人権活動となっている。それは、そもそも本当の人権や社会問題を考えない、あるいはキリスト教的な「人権」に惑わされているからかもしれない。

我々日本人は改めて日本の歴史、文化、そして哲学を学ぶ必要があるだろう。残念ながら私が小学中学の頃はほとんど学ぶことはなかった。しかし私にとって、その後に独学で知識を得たことは幸運なことだった。


テーマ:哲学/倫理学 - ジャンル:学問・文化・芸術

命の選択
8月31日の当ブログで「人工妊娠中絶と社会」というテーマで論じた。その後、私は改めて「七五三」について様々なコラムやWikipedia等を確認した。そこには確かに、「七五三」は間引き(子殺し)までの期間であり、無事にそれを乗り越えれば晴れて人間としての「お祝い」になる・・・とされている。

また地方では、3歳=言葉、5歳=知恵、7歳=歯を神から授かることを感謝とする。、3歳、5歳、7歳は子供の厄として、七五三を一種の厄祓としている地方もあるとのこと。(Wikipedia より)。

以前の当ブログでは妊婦の「羊水遺伝子検査」にて、「命の選択」は肯定的であると私は述べた。その主張は今でも変わらない。しかし最新の技術でも妊娠中の「胎児の障害の有無」をすべて判断するのは不可能である。ダウン症や一部の遺伝病に限られる。逆に羊水検査で流産するリスクの可能性もある。実際には、産まれてから、しばらく経過しないと「障害の有無」は解らない事の方が多い。

先に述べた、「3歳=言葉、5歳=知恵、7歳=歯を神から授かること・・・」 これらがそれを物語っている。ある意味で理にかなった方法であるといえる(残酷な言い方で失礼)。一方で現代の妊婦の羊水遺伝子検査では確認できない内容が多い。まず、「3歳=言葉」 これは現在でいう典型的な「自閉症」の症状である。また、「5歳=知恵」というのは「知的障害」を意味している。また「歯を神から授かること」これは当時の風土病(カルシウム不足)、あるいは現在でいう「クル病」や「脚気」などの「ビタミン不足」を指していると考えられる。これらの病状は現代の遺伝子検査でも判別はつかない。

結局は産んから、ある程度経過しないと解らないということである。近代以前の日本は、現代的な人工妊娠中絶のように安全に行われていたわけではないので、産まれてからの「間引き」の方が母体を痛めない意味でも確実な方法だった。そこには、「子は子を産めないが、親は子を産める・・・」という思想が存在した。つまり多産多死の時代では、「子の死」よりも「親の生」を重視したと言える。儒教思想でも、そういう思想は強かった。

当然ながら現代において、そうした残酷な社会を復活させるべきと主張するつもりは毛頭ない。しかし冷静に考えてみると、姥捨て(老人を見殺しにする行為)風習にしても、間引き風習にしても、これらを現代で実施すれば、「障害者福祉問題」や「高齢者医療問題」は、ほぼ解決する。逆に「個人を犠牲」にして「社会を守る行為」を全否定すれば、上記の問題は永遠に続く。

そういう悲しい時代は過去のもの・・・現在は関係ない・・・と考えている現代の人権団体も多い。そういう団体はは必ず「命を大切に」と訴えて、「堕胎の残酷さ」を強調する。・・・多くの人々はそれに同調する。そして結果的には社会は衰退する。・・・皮肉としか言いようがない。

経済的な問題での堕胎については、経済的な対策で改善できる。しかし障害者や高齢者というのは、経済的な支援だけでは解決されない。それはカネや労力を費やしても「何か生産性が向上」することは極めて少ないからだ。ただ「死を待つ」だけの対応になるケースも多い。また、そうした福祉利権にて蔓延る人権屋の存在も問題視されている。結局は弱者を利用して食い物にされているからである。

一方で実際に重度の障害を持つ多くの家庭は精神面でも苦悩している。かといって「間引き」したら犯罪になる。だから心中する・・・そんなことは珍しいことではない。

「命の選択」とは、何もこうした議論だけでない。災害救援などでは「子供と女性を優先」させることは救援隊の暗黙のルールである。また野戦病院では「手遅れの患者」は見捨てられる・・・いや、一般の病院でも同じである。山岳登山でも、重症のケガ人を見捨てることはあるという。これら内容だって、間接的な「命の選択」をしているといえる。

「命の選択」をタブー視してはならない。「社会」と「人権」というのものは、もっと奥深いものだ。日本人である我々は、もっと日本の歴史や文化、そして近代科学を勉強することが絶対に必要だと考えている。


震災での朝鮮人暴動
今日は9月1日、大正12年(1923年)に関東大震災が発生した日。1週間ほど前(8月22日)の当ブログでは、「災害対策と遷都論」として首都災害そのものに対する対策や政策について論じた。内閣官房参与の藤井聡氏と同様に意見ではあるが、是非、その記事も読んで頂ければ幸いです。今回は少し違った視点から、この関東大震災に伴い実際に発生した事件について取り上げたい。

関東大震災では、「戒厳令」の下で社会主義者など活動家13名が軍によって射殺された「亀戸事件」がある。また、有名な朝鮮人暴動と自警団による抗争があった。私が中学生の頃、「朝鮮人が井戸に毒を入れている」とのデマが流されて多くの朝鮮人が殺された・・・とだけ(学校で!)教わった。

しかし、「朝鮮人の暴動」が発生したことは事実であり、当時のマスコミも報道を自粛したとの説もある。当然ながらデマも多かったであろう。当時「戒厳令」が敷かれた状況としては、政府は治安維持を最優先させたことは決して間違っていなかったというのが私の見解だ。そもそも「戒厳令」とは、そういうものだ。

日本の文化として、「火事場泥棒は絶対に許さない」という思想が根付いていた。しかし当時(現在でも)、そうした思想は朝鮮人やシナ人には備わっていなかった。従って、多かれ少なかれ朝鮮人による「火事場泥棒」のようなことが発生して、さらにデマが加わった。そして帝都の自警団や軍の「怒りに火」をついたことが原因だったと私は認識している。

それでは、どれくらいの朝鮮人の被害者がいたのか。韓国政府による1959年の公式発表では「数十万の韓国人が大量虐殺された」と主張している。しかし当時の内務省警保局調査では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名であったとのこと。(Wikipedia 記事より)

いやー、いわゆる従軍慰安婦問題と同じで韓国人は「数十万の被害」という虚構が好きなようだ。戦争でもない、原爆投下でもない(ちなみに長崎の原爆投下直後でも死者10万人には達していない)、それで数十万なんてのは「私は10万歳です・・」って言ってるようなものだ。ホントにいつもいつも韓国人はこうである。だから日本人から信頼されないのだ。

一方、第二次大戦直後の在日朝鮮人は「三国人」あるいは「朝鮮進駐軍」などと名乗り、戦後の混乱期に多くの騒動が発生していたことは紛れもない事実である。従って、関東大震災後の混乱も本質は同じだったと考えてよいだろう。ここで、どこかの新聞社が「私の震災犯罪」なんて老人のデマ本を紹介すれば、全くあの問題と同じことが発生する可能性すらあった。

最近では、2011年3月11日の「東日本大震災」では、暴動や火事場泥棒はほとんど発生しなかった。それはなぜだろう。それは「東北」という日本の地方であること。東京や大阪のように、数十万人といわれる外国人がいないことも大きな理由である。私は何も外国人を人種差別をしているのではない。しかしアメリカのハリケーンでも、中国のデモでも、インドネシアの暴動でも「略奪」や「暴動」は世界中で普通に発生している。それは世界の災害などの報道を見ればよく解る。人種差別ではなく「犯罪」や「火事場泥棒は許さない」と主張しているだけである。

今後、日本の大都市圏で大きな災害が発生したらどうなるだろうか? 私は断言する。外国人による「略奪」が発生する可能性は極めて高い。不良集団の数が多いほど集団犯罪は増える。そして歴史的に、「二度あることは三度ある」からだ。この諺は決して間違っていない。最初は「関東大震災」、そして2度目は「大東亜戦争後の混乱期」・・・そして今度は・・・?そう考えるのは当然だ。これは決して差別ではない。過去からの教訓である。韓国人が好きな石碑にしてもいいくらいだ。「この民族は嘘と火事場泥棒をよく行う」・・・そういう石碑を世界中に設置することは移民問題で悩む国への教訓になる。

ところで、あの神戸の震災では都市部にも関わらず「略奪」は少なかったといわれている。これは様々な要因がある。しかし私個人的な見解ではあるが、暴力団組織といわれる「山口組」の存在があったからだと考えている。当時、山口組は震災にて「ボランティア活動」として、様々な救援活動を実施していた。当時、テレビでもそれを少し報道していたのを覚えている。彼らが、活動している中で「火事場泥棒」をもくろむゴロツキは手出しできないのは当然である。。戦後、かつて三代目の田岡組長が三国人(当時の在日朝鮮人)と戦ったのは有名な逸話であり、田岡組長の思想は現在の山口組にも多少は受け継がれているのかもしれない。

私は、差別と云われようが何であろうが都市圏に在住する外国人(特に朝鮮、中国人)を徹底的に規制すべきだと考えてている。そもそも、それ以前に移民規制もするべきである。「差別だあ」とか主張する人々が目に浮かぶが、決して騙されてはいけない。震災が発生して暴動が起きてからでは遅い。「震災の教訓」とはこういう事実からも学ぶべきだ。

何度も言うが、日本人の常識である「火事場泥棒は絶対に許さない」という思想は、現在の朝鮮人や中国人には備えていない。アメリカの貧困層だってそうである。しかし貧困アメリカ人と違って、朝鮮人や中国人は徹底した反日教育で育っている。日本人に対して何してもいいと本気で思っている人も多い。人権侵害といわれようが、なんであろうが首都東京を守る精神は当時の「帝都の自警団」から学ぶべきである。彼らには「江戸っ子魂=火付け、盗賊は許さない」があり、そういう人々の精神は間違いなく存在した。それを現代人は歴史から学ぶべきである。

さて、現在の東京都民にそういう覚悟があるだあろうか?それが一番の問題である。私は東京都民ではないが、東京都民の将来が心配でならない。日本人として首都東京がどうなるか?本当は東京都民自身が真剣に考えるべき問題である。是非、この関東大震災の日に東京都民は真剣に考えていただきたい。そうでなければ、震災の犠牲者だけでなく暴動による犠牲者も増える。 




プロフィール

小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

最新記事

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ

カテゴリ

小室沢カウンター

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR