理系おじさんの社会学
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ネクロフェリア、そして手塚治虫の名作MW
長崎佐世保の女子高生殺害事件の様々な続報が報じられている。多くの人々は「ネクロフェリア」や「同性愛」のようなイメージされた方は多い。そこで私は、実際にあった過去の出来事とマンガの世界を思い出した。

「ネクロフェリア」・・つまり死体愛好、あるいは屍姦(しかん)。一種の異常行動といわれるが、これらは歴史上でも何度も確認できる。日本でも1957年に少年バラバラ殺人後にホルマリン漬けにして、それを眺めて楽しんだ・・・という事件があった。加害者はそのとき「ホルマリン漬けの子は生きてる時よりかわいい」とメモに残している。また、日本の戦国時代、ある女性が戦場に残る武将たちの遺体より首を落とし、お歯黒(身分の高い人を装い)にして戦勝側に生首を献上して生活の糧にしていた・・・。という出来事があったという。彼女は常に多くの生首と寝起きをともにしたという。ネクロフェリア?と稼業が一体となった珍しい例である。

一方、手塚治虫の名作「MW」では主人公の結城は、同性愛者であり残虐非道の人間だった。手塚治虫氏は「あとがき」で「全ての悪を表現したかった・・・自らの悪筆を嘆く・・・」そんな内容が書いてあったのを覚えている。私と同様に血が苦手で、それが理由で医者をあきらめたという手塚治虫にしては異色な作品だ。作品の中でいくつも衝撃的なシーンが出てくる。神父が犬にかみ殺されるシーンも衝撃的だったが、とくに女性を薬物で痙攣させ性交におよび、膣の締りで快感を得る・・・というシーンがあった。そのときの結城の台詞が「絶頂とともに君は死ぬ」・・・だったかなあ。学生時代に読んだマンガだが内容は今でもよく覚えている。そして最後のシーンで双子の歌舞伎役者?が別れのシーンで「ニヤリ」とした場面は当時の私としては戦慄が走るものだった。その後、映画で実写版があったそうだが、見ていないのでよく知らない。

この手塚治虫の「MW」は、以前にも紹介した「ブッダ」と並び彼の最高傑作だと私は思っている。当然、彼はマンガとはいえども何らかの事実をモチーフしていると思われる。まあ、こういった話題はテレビをはじめ公共電波では決して伝えない。テレビやPTA風にいうと「よい子はマネしないように・・・」ということになるだろうが、そんなのマネするやつはほとんどいない。影響を受けて犯行を考える奴はいるかもしれない。しかし実際に行動するとなると精神的、体力的に相当のタフでなければ困難であり、そして何より「密室」を準備しなければ不可能である。

それより、こうした事件は単なる「稀で異常な事件」とするよりも、歴史的にみても古今東西問わず何度か発生していた事実を知るべきである。そして、そうした犯罪者はどういう心理状態だったのか?そして、どういった背景があるのか? それを考えることは非常に重要である。そして社会が危険予知する(完全に防止することはできない)ことは十分可能である。


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日朝国交正常化は不要だ。
昨日のニュースで拉致被害者支援に関する法改正の動きが報じられていた。最近、拉致問題に関しての外務省の動きが活発化している。北朝鮮と何らかの動きが水面下で行われいるのことと関連しているのであろうか?

安部首相にとって拉致問題は最も大きな課題の一つであり、安部政権で解決したいという首相本人の意向は強いであろう。安部首相も北朝鮮がどういう国かということは理解しており、騙されることも視野に入れて対策を検討しているであろう。北朝鮮側は、拉致被害者の帰還は「外交カード」扱いである。しかし日本の外務省までもが、あくまでも国交正常化が主目的であり拉致問題は一つの「カード」という認識なのか?

しかし考えてみれば「拉致問題」は国際犯罪であり、韓国がよく表現する「強制連行」そのものである。しかも「現在進行形」である。外交カードではなく、拉致被害者の無条件帰還と犯罪者を法の裁きにかけるのが筋道である。

当然ながら拉致被害者家族はどんな形であろうと帰還できることを期待することはよく理解できる。しかし安易な国交正常化することは更に将来にわたって大きな禍根を残すことになる。あの韓国との基本条約のあとでも、様々な禍根を残しているのは周知の事実である。

拉致被害者を全員帰国するまで明確な期限を設定する。北朝鮮が何も対応しなければ各種経済制裁を強めれば良いまで、何も国交正常化を目的とした外交カードにすべきではない。そもそも日朝国交正常化なんてする必要はない。国交正常化しないと困る理由は何なのか? 


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佐世保の女子高生殺害事件
昨日に引き続き、このニュースに関して考えたい。この事件が発生してから様々な情報が報道されるようになった。・・・中学時代は二人は仲が良かった・・・加害者は学業やスポーツの優秀だった・・・動物も解剖に夢中になった・・・母親が昨年10月に亡くなった・・・今年の10月に海外留学予定で、それに備えて一人暮らしをスタートさせた・・・。

そして事件後の取り調べでは、「人を殺してみたかった」とか「遺体をバラバラにしたかった」と供述した。この供述により精神鑑定をすることが予定されている・・・。何だか違和感を感じる。加害者は本音を伝えていないように思える。このような痛ましい事件で勝手な憶測は不謹慎であることは十分承知の上だが、あえて考えられる仮説を論じたい。

昨日のブログでは「怨恨」あるいは「精神異常」が疑われる・・・と述べた。私は両方あるように思える。報道で伝えられているように「精神的な問題」さらに「15歳」ということで刑法上の重罪は免れる。それでクローズする可能性は非常に高い。

しかし一方で報道では、部屋に工具やノコギリがあったという。そもそも計画的な犯行である疑いがある。私の勝手な解釈です。最初から殺害を決めていた・・・。加害者は被害者への憎悪があった・・・そう考えている。

関係者への取材によると、加害者はどちらかというと性格は暗く、男っぽい感じだった・・・とのコメントがあった。確かに文武両道であり、母親からは厳しい指導の中でもさぞかし褒められていただろう。しかし年齢は15歳である。いわゆる思春期・・・異性に対する意識・・・そして同性の異性に対する行動が気になる時期である。どちらかというとチャラチャラしている女性は嫌い・・・? 被害者は加害者とは逆に明るい性格で写真を見る限り愛らしい女性に映る。

ここからは全く私個人的な考えだ・・・おそらく「加害者は被害者が好きだった」のではないだろうか? 場所は一人暮らしのマンション・・・密閉された空間で殺人もそうであるが、性的要求も容易になる・・・・そこで被害者が普通の女子高生のように一言、「好きな男性ができた」・・・そんなことをいったら加害者は間違いなく殺意を抱く・・・

結構、文武両道の女性にはそうした傾向の人が多いのは事実である。家柄も良い・・・学業も・・・スポーツも良い・・・がしかし心の中に満足できない何かが存在した。絶対なる理解者である母親が他界して、この被害者にすべてを求めるようになった。しかし被害者には好きな男性ができた・・・そうすると憎悪は無限大になる。

まあ私はの発想は、不謹慎極まりない発想かもしれない・・・しかし女性の嫉妬心と残虐性というのは、こうしたことが源になっているケースが多い。あの「声優アイコ」の容疑者も同様の匂いがする・・・。今回は単なる地方の一事件というより、この事件の根底にあるもの何か? 学術的に研究されるべき内容のように思える。

・・・私もこれ以上、この問題を深く考えるのは精神的にもあまりにも辛すぎる。


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長崎の高校生殺人事件
長崎県佐世保市でまた痛ましい事件が発生した。また・・・というのも以前も女子生徒が同じ女子生徒を殺害する事件があった。今回は夏休み中だが、同じように女子高生が同じ同級生を殺害するという内容である。

現在、動機等を調査しているとのことだが、遺体の損壊が激しいことより「怨恨」あるいは「精神異常」が疑われる。まず、「怨恨」に関して、女性が女性に対して怨恨も持つことは大人の世界でもよくある。女性だけの力で殺害するのは難しいという論説もよくあるが、スポーツ経験のある女性であれば十分可能である。この「怨恨」にも様々な要因があり「嫉妬」「侮辱」・・・女性の場合は複雑だ。

次に「精神異常」について、最近では「人格障害」ということばが話題になることがあるが、環境的要因と遺伝的要因があるといわれている。特に「血」を怖がらないのは女性に多い。ちなみに私は血を見るのが苦手で、ホラー映画などもってのほかだ。しかし何故か私の妻も娘もホラー映画は大好きだ。特に小学生の娘はホラーが大好き。しかし「一人で見るのは怖い」とかいって私を巻き込もうとして困ることがある。もちろん妻や娘が人格障害ではないが、女性が本能的に血を怖がらないところがある。

また「怨恨」と「精神異常」の相乗効果のようなものもある。つまり怨恨相手が悲惨な姿になるのに一種の「快感」を覚えるということ。首や手首を落としたりする行動は「身元を隠す」目的もあるだろうが、そうした行為そのものに「悦び」を感じているようにも思える。今回は「生き返るの恐れた」との情報もある。つまり精神が不安定な場合、必ず安定させるべき行動をとるのが人間の基本行動であるということ。その精神不安定な状況は想像を絶するものがあるだろう。

精神が特に不安定な人は「覚醒剤」に手をだしたりする。また鬱の人は「抗鬱剤」や「精神安定剤」で治療することもある。そもそも、何故「精神不安定」な状況になるのか? 特に子供の場合、体力は成長しても精神的に未熟であるが故に「精神不安定」な状況になるのであろう。

よく子供は友人が多いほうが良い・・・という説があるが、私はそう思わない。共通の趣味(文化、スポーツ等)をすることによって、結果的に友人が増えることは結構なこと。しかし精神不安定な人ほど無意味に友人をつくろうとする傾向がある。「友人をつくる」ことそのものを目的としている。その場合、危険なことが多い。たいていはカネ、あるいは宗教関係が多く、時には「支配欲」で友人を探す場合もある。そうした友人同士では何かのきっかけで関係が崩壊して悲惨な結果になる。

いずれにせよ、今回の事件調査で原因を明らかになり、何らかの社会の教訓を得ることを切に望む。



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恋愛とお見合い・・・どっちが残酷か?
一般的にフェミニストは「女性の人権向上」とか言いながら、実は男女の恋愛や結婚そのものを否定している。フェミニストは常に「女性は奴隷扱いだった」と主張しているが。しかし本音は別のところにある。

特にフェミニストにとって「お見合い結婚」は、女性の人権侵害だと主張する。たしかに血縁選択性を重視する中国や朝鮮、そしてかつての日本の農村部のように、夫婦、家族よりも一族、親戚を重視し「よそ者」である「嫁」は奴隷扱いされたことはあった。嫁は子供を産む機械であり、ムラ社会(一族、親族)の為の労働に従事なければならなかった。そして避妊具等が無い時代には子供も多産、そして死亡(間引き含む)も多かった。

しかし確実にムラ社会は維持できた。それが唯一の生き残る道だった。現在でも中国や韓国ではその名残は根強く、個人や国家よりも、ムラ(一族)いわゆる生物学的な血縁選択性を重視する社会であった。その生活が困難になると「他部族の富を奪う」という「利己的行動」をとったのが中国、朝鮮の歴史である。その文化的は背景は今なお色濃く残っている。たしかにそういう社会の女性は苦労したであろう。しかし男たちもハードな仕事をしていたわけで、時には他民族と戦うこともあった。つまり「一族としては利己的」であるが女性を含め個人は「自己犠牲を強制」された社会ともいえる。そういう意味では女性は「奴隷」とはいえないにしても過酷な状況だったことは事実だ。

さて一方で自由恋愛、そして恋愛結婚はどうだろう。これは男女ともに「愛する人とともに一緒になれる」という美しいドラマのような世界であるが、それは個人主義でもある。しかし生物学的に遺伝的多様性という合理性を持っている。フェミニストは「お見合い結婚」は否定するから、当然ながら「恋愛結婚」は肯定するのかとおもいきや、そこはどっこい一番の憎悪は「男女の純愛」である。そう「嫉妬心」である。結婚を全否定する・・・それがフェミニストの本音である。

たしかに恋愛結婚が主流になると必ず「チャンスを逃す存在」が生まれる。当然、子孫は残せない。一夫一妻で自由恋愛、そして夫婦の子供の数は3人以上にならないと必ず人口は減少する。ある意味で自由な恋愛というのは社会にとって残酷なものである。

現代の日本社会や欧米社会では個人が重視され、ムラ社会ではなく「国民国家」という単位で各々が様々な仕事をしている。当然、個人の国内移動の自由、職業選択の自由、宗教の自由がある。そして自由恋愛がある。何度か私が述べているように現代日本は基本的に「個人主権」と「国家主権」の二つしか存在しない。地方主権とかムラ社会重視という考え方は、反国家主義、そして反個人主義であると断定できる。

私は、「恋愛とお見合い」・・・どちらも残酷だと思っている。生活して子孫を残すということは必ず苦労を伴うし、何かの犠牲も生まれる。しかしそれって「すばらしいこと」ではないだろうか。少なくともフェミニストのように恋愛、お見合い関係なく結婚そのものを否定して、「皆の不幸を陰で喜ぶ」ような人々に社会を形成すること不可能である。

以前、私は自分の娘に「是非恋をしてほしい」といったことがあった。大正時代のうた「ゴンドラの歌」では、「命短し 恋せよ 乙女・・・」なんてしゃれた歌があった。しかし私が一番気に入っているのはジャズのスタンダードナンバー 「But Beautiful」である。これも古い曲だが、最近になって本当の意味が理解できたような気がした。

Love is funny or it’s sad
Or it’s quiet or it’s mad
It’s a good thing or it’s bad
But beautiful

これって本質だと思う。結婚した後だって子育て、家のローン・・・色々な事がある。そして様々な困難を男女が乗り越えて生活していく。恋愛もお見合いも残酷だ・・・でもやはり美しい。そう想う心がなければ社会は形成できない。


適正温度とは
東京都の舛添知事が姉妹都市である韓国ソウルを訪問して、「交流を推進する」とコメントしている。また外務省局長クラスが日韓の「冷え切った関係」を改善すべく活動を推進するとのNHK報道があった。

「冷え切った関係」って本当に悪いことだろうか?特に中国や韓国はいまだに首脳会談されていないと嘆く人々が多く存在する。それは何故であろうか?

何が困るのか?よくわからない。はっきりいって日本としては「冷え切ったまま」でよいではないか? むしろ凍結したほうが良い。やはり暑い夏、冷え切った方がよい。・・・いや冬場でも冷え切ったままでよい。ビールは冬でも冷やして飲む。

何でもそうだが、モノには適正温度というものがある。人間の体温は35-36℃が適温だし、ジャガイモは15-25℃でよく育つ。ペンギンは10℃以下がよい。 社会だってそうだ、ハワイが寒いのは変だし、スイスが熱帯のようだとスキーができない。

それは人間関係でも同じだ。嫌な奴と無理して一緒にいる必要ない。絶交の何が悪い。親子断絶だって時にはよいだろう。嫌いな異性と結婚する必要はない。いじめっ子と一緒にいる必要なんてない。そんな無駄なことして何になる。

国際関係でもそうである。日韓関係は冷え切ったままでよい。余計なことをしなくてよい。時間とカネの無駄である。


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報道のあり方
今度はアルジェリア機が墜落とのニュースがあった。詳しい情報はまだわからないが、ここまで連続して航空機事故と事件が発生すると、海外旅行をはじめとして国際交流を低迷することが予想される。また食品業界も中国のチキンナゲットをはじめとして海外に対する信頼は薄れていく。

こうした状況は誰もが「グローバル化」そのものに対する疑問とリスクを考えるきっかけなるべきだ。日本も海外に依存することへの全面見直しを考えるべきだ。

国際問題について、その極めつけが「パレスチナ紛争」である。今朝のニュースではイスラエル軍はガザ地区の学校までも攻撃したとの報道もあり、すでに死者数は400人を超えているとの情報もある。本当に痛ましいニュースだ。日本人は、自分たちの子供が通う学校を攻撃され死者が出ることを想像するべきである。本当の意味での「人権とは何か?」 誰もが考えるべきである。

一方でこうしたイスラエルの行動に反発した各国?市民が「イスラエル人に死を」という発言していることを「差別だ、差別だ」と騒いでいるのを報じている。また日本での在日韓国朝鮮人へのヘイトスピーチが国連自由権規約委員会の勧告を受けたとのニュースも流している。こういう法的拘束力のないニュースを嬉しそうに報道するマスメディアは本当にバカげている。「言論の自由」のもとで仕事をしている彼らが「言論の自由」を脅かそうとしているからだ。

どう考えたって、朝鮮学校へのヘイトスピーチよりもイスラエル軍のガザ地区の学校攻撃の方がはるかに深刻であり、「イスラエル人に死を」のコメントよりも、イスラエル軍の攻撃の方がはるかに深刻である。それを、まるで同列に扱う日本のマスメディアは狂っている。それともそれが「公平性」とでも思っているのだろうか? 「法的にどうなのか?」 「人道とは何なのか?」ということを前面に押し出すことこそ「公平性」が保たれるというものである。

パレスチナ紛争での状況は、「ヘイトスピーチ」とか「従軍慰安婦問題」とか全く次元(レベル)の違う問題である。大きな問題に目を背け、法的根拠のない事例を強調することの愚かしさ・・・私は、そういう人々を決して許すことはできない。


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台湾機墜落
今度は台湾機が墜落した。台湾南部の高雄発、澎湖諸島行で到着地近くの民家に墜落した。乗客54人、乗員4人の計58人が搭乗して47人が死亡したと報じられている。この飛行機は台風の影響で出発を1時間以上遅らせて出発し、到着地の天候が悪かったとのこと。台湾当局は現地に担当者を派遣して事故調査を進める。

いずれは事故調査で詳細は明らかになるであろうが以下の原因が考えられる。

1.そもそも出発を強行すべきでなかった。

台風のような広範囲での強風がある場合は、出発地はもちろんのこと到着地の天候も考慮しなければならない。

2.離島の空港は風が強い。

台風がなくても離島の空港は風が強い。飛行機は風がおさまるのを待って、上空を旋廻することが多い。

3.燃料不足

どのようなタイプの飛行機でも燃費と飛行距離を考慮して適正な燃料を搭載する。しかし昨今の格安飛行の影響で燃料をギリギリにすることが多い。

緊急時には他の近隣空港着陸することが多いが、そのためには移動燃料が十分でなければならない。通常、他の空港で緊急着陸しても乗客は出ることができず(機内で待機して、燃料補給)、その後に最初の目的地へ出発する。結局は相当な時間がかかる。(私も何度か経験したことがある)

今回はプロペラ機とのことで、そもそも余分な燃料を搭載できる能力はなかったかもしれない。また台風の状況では安全な近隣空港も存在しなかった可能性が高い。

つまり今回の事故は、機長ならびに航空会社の人為的ミスの可能性が高い。機長は退役軍人とのことだが「操縦技術を過信」していたかも・・・。

このような飛行機に関する事故や事件が多くなると、人々の「旅行を敬遠する心理」が働くことは間違いない。私は仕事の関係で仕方なく飛行機の乗ることは多いが、結構怖い思いをしたことは多い。隣の観光らしき乗客が「これで死んでも悔いはない」なんてコメントしていたときに、私は心の中で「じょーだんじゃねー」と叫んでいたこともあった。しかし無事着陸したときには機内で大きな拍手が沸きかえった。本当に自然に拍手が出る・・・。多くの人はそういう経験している。そして普通の飛行をしたときの幸福感を感じる。あんな恐怖は二度とイヤだ・・・しかし生きているだけでもマシだ。本当に犠牲になる方々がおられるなんて本当に痛恨の極みだ。


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食の安心と安全
先日、中国上海の業者から食材に問題があるとして、マクドナルドのチキンナゲットをはじめとして関連商品が販売停止になった。もともと随分前からネット上で「食べてはいけない食品」として、チキンナゲットは有名だった。たしかに製造工程はずさんであることは間違いない。しかし今まで健康被害の報告は一件もない。マクドナルドをはじめ食品サービス業界は「誠意ある対応」をアピールするのが目的になっている。

また最近、顧客情報流出としてベネッセコーポレーションの問題が取り立たされている。クレーム窓口業務も外注(派遣社員)にしているとの非難の報道がされている。(実際に電話クレーム窓口は他社でもほとんどが外注である。)しかし顧客情報流出が原因といわれる大きなトラブルの報告はない。

この2件の出来事は、直接的な大きな問題は発生していない。しかし、「だから良いという問題ではない」という論調が主流である。一方で夏になると必ずといっていいほど「食中毒」や「水の事故」が発生する。これらは様々な法的な予防措置をしているが完全に防ぐことはできない状況になっている。こちらの問題は直接的な大きな問題となっている。

特に「食の安全」というのは難しい。「少しぐらいバイキンがある方が体にいい」とか「腐りかけの肉が一番栄養があり旨い」とかいわれる。数年前、焼肉屋のユッケ(生食)でも食中毒が有名になり日本では各地で規制された。当時、私は仕事の関係でよく韓国を訪問していたが焼肉屋でユッケを食べても全く問題なかった。しかし、ある店で食べた「キムチ?」のせいかノロウィルスのような症状になったことがあった。

結局、食の場合は何が良くて何が悪いのか?さっぱり判らなくなる。あの世界最速の男であるウサイン・ボルト選手は中国訪問では勧められた中華料理には全く口を付けずに、大好きなチキンナゲットばかり食べていたという。それでも当然トップを維持している。おそらく、そのとき安全で安心で高級な「中華料理」を食べたら彼は調子を狂わせたかもしれない。

当ブログでは「カテゴリ:毒性学」として色々考えたことがあったが、やはりよく判らない。*是非、この「毒性学」について当ブログの過去の書き込みを参考にしてください。


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ユダヤ人とは何者か?
私は先日のブログで「ユダヤ民族という人種は存在しない」と述べた。またユダヤ人の定義は「ユダヤ教の信者であること」ということを述べた。そして遺伝子学的に古代イスラエル人と現代のイスラエル人の血縁性は低いとも述べた。歴史上、ユダヤ人は母系を重視していたともされるが、両親のいづれかがユダヤ人であればユダヤ人とされたこともあった。

また東欧のハザール人がユダヤ教に改宗するようになり、ユダヤ人になったとの有名な伝説もある。ハザール人のY染色体ハプログループのRが主流といわれている。Rは欧州全般に広がる遺伝子である。またアシュケナージ系ユダヤ人、そしてロスチャイルド家はJ系統の遺伝子が多い。彼らは黒髪で容姿が現代ユダヤ人の特徴を示している。古代イスラエルの時代にはすでに様々な遺伝子を持つ人たちがこの地に訪れていたといわれる。当時のユダヤ人は遺伝子のみならず肌は褐色で人類学的にもアラブ人に近い容姿であったともいわれている。つまいユダヤ教への改宗でユダヤ人なった人々が多数派であると考えるのが適切である。

以前、衝撃的? なニュースとして、ヒトラーはユダヤ人であるとか、エバ・ブラウン(ヒトラーの愛人?妻?)はユダヤ人といわれたことがあった。その根拠となったのがヒトラーはY染色体ハプログループがE系統であり、エバ・ブラウンのmtDNA(ミトコンドリアDNA)がN系であるというのを根拠としている。たしかにアインシュタインもE系統であり、古代セム系ユダヤ人のmtDNAはN系統が多いとも言われる。しかし、だからといって彼らがユダヤ人とは言えない。何故なら彼らはユダヤ教徒ではないからである。現在もユダヤ人でない欧州人な中にはY染色体がEの人々は多く存在している。

また、有名な日ユ同祖論(日本人とユダヤ人が同じ先祖という説)がある。たしかに日本人男性の多くがYAP遺伝子と呼ばれるD系統(E系統の仲間)であり、縄文人やアイヌ人の多くのmtDNAにN系(N9b1、N9b2)があることが最近の研究で明らかになっている。確かに縄文人(アイヌ人)が中東方面から来たことは間違いないであろうが、「失われた10部族」の子孫にはなりえない。なぜなら縄文人(アイヌ人)は数万年前から日本に来ているから。かなりの年月の隔たりはある。しかし後の来日した可能性は十分あり、文化的ないくつかの共通点が確認できることもある。しかしだからと言って、日ユ同祖と断言するのは妥当とはいえない。

まあ現時点で、こういう議論は歴史ロマンと遺伝子学ロマンの分野でもある。結局は「それがどうしたの?」という結論に行きつく。血統を重視するというのであればユダヤ人の「遺伝子学的な明確な根拠はない」ということになる。

では宗教的な遺伝(精神的伝統)は、どれだけ意味があるのか?この議論は非常に奥深い、また難しい。何故なら、そもそも宗教というものは非科学的な部分が多く、精神的なものでもある。それをすべて否定することはできない。例えば、アダムとイブを完全否定したり、聖母マリアの処女懐妊を否定したり、日本の天照大神の伝説を科学的に否定することは社会通念としては適切ではない。それが明らかに現代の反社会的な思想(オウム真理教等)になるなら別だが、そういった一般的な賛否として区別をするのは困難であり不適切とも言える。ここで、どこまでが反社会と判断するかは議論が分かれる。

そして「ユダヤ人とは何者か?」そして彼らの行動は正当化できるのか?という議論になる。「宗教、哲学を重視(原理主義)した行動をすれば良し?」という議論がある。よく「テロとの戦い」という言葉を西側諸国はコメントする。しかし「宗教、哲学を重視しれば何をやっても良い」というのが正であるとするならば、イスラエルのパレスチナ侵攻は正当であるといえる。しかし同時にパレスチナ人の反撃やテロも正当化できるということになる。 つまり宗教や哲学を絶対とすれば、その下の行為であれば「全てが許される」ということになる。さらに「人を殺して何が悪い」という過激な議論になり、もっと極論でいえば「宗教は反社会的なのか?」ということになる。

結局、パレスチナ問題を宗教問題にした時点で「無限ループ」になる。先ずは、宗教や哲学を抜きにして純粋なる「移民問題」として本来は議論されるべきだった。しかし時すでに遅し、「単純な移民問題が宗教問題になった時点で無限ループは永遠に続く」 宗教を重視するのであれば「約束の地」も「ジハード」も肯定されてしまう。そして弱者や貧困者のように宗教に救いを求める人々(アラブ人もユダヤ人も)がすべての犠牲を払う結果になっている。

最大の犠牲者は彼ら自身かもしれない。極端な言い方をすれば、遠く離れた地で同胞もどきのユダヤ人が財をなして上手く利用している・・・?もし、そうであるなら科学も宗教も超えて「利己的な思想」のみでコントロールされていることになる。

しかし「利己的行動」というのは生物学的には基本行動(本能)である。それに対して生物学的な「自己犠牲の行動」、そして生物学的な「血縁選択性」がある。もともとキリスト教では隣人愛とか自己犠牲の精神が存在するが、実際に欧米人はそれを建前にしながらも「利己的行動」をした歴史がある。仏教でも「自己犠牲精神」のようなものがあるがは、実際に中国人は「血縁選択性」と「利己的行動」が多い歴史であった。

さて、そう考えると「ユダヤ人とは何者なのか?」 少なくとも表面的には血縁選択性であっても実際はあまり関係ない。つまり「利己的行動」に支配されているということ。そして欧米人も「利己的行動」が主流になっていることは間違いない。日本人は「自己犠牲精神」が宗教と関係なく強いとされるが、攻撃的な「利己的行動」まで許容することはない。

このような見方をすると、ユダヤ人とは何者なのか? そして日本人とは何者なのか? こういう議論が深まることは社会学にとっては必要なことではないだろうか?


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誰が本当の弱者か?
トルコのエルドアン首相は19日、支持者への演説で、パレスチナ自治区ガザ攻撃を拡大するイスラエルについて「ヒトラーを昼夜非難する者が、野蛮さでヒトラーを超えた」と激しく批判した。

報道では、これに当然ながらイスラエルは反発するだろう・・・とか、トルコ首相の選挙パフォーマンスである・・・との論調もある。しかし多くのイスラエル以外の人々が普段から思っていることである。では、それぞれどれくらいの人々が犠牲になったのか?その犠牲者数が今だによく解らない。

まずナチスのよるホロコーストは当初は600万人と言われた。その後300万人になり、徐々に減っていく。一方でパレスチナ紛争での一般人の犠牲者は数千人から数万人、徐々に増えていく。これはどういう意味なのであろう。こうしたことは、どこが発表するかによって相当違う。南京大虐殺の20万人にしても従軍慰安婦20万人も「いいかげんな数字」であることは周知の事実である。つまり戦争や紛争での被害者数は飛行機事故のような限定された乗客名簿でもない限り明確にするのは難しい。

結局のところ「被害者面して同情を誘う」ということ、いつの世も何処の地域でも蔓延っているわけだ。最近、日本では「生活保護は日本人が対象」という最高裁判決が出た。終戦直後の混乱期に「特例」として地方自治体の判断として外国人(特に在日韓国朝鮮人)に支給された経緯がある。当時はたしかに社会不安を解消するためであったことは自治体としては苦肉の策だったのだろうが、現在はそうではない。それでも外国人も対象にすべきと主張する・・・その根拠はいつも「被害者面して同情を誘う」という精神が見え隠れする。

一方で生活保護に関して、同情する(騙される)やさしい人々も存在するが、それよりも行政は「社会の安定」を優先させた経緯がある。しかし生活保護を受け取った外国人はそう受け止めていない。「勝ち取った」・・・それだけである「配慮された」という意識はゼロである・・・だから打ち切られると「権利をはく奪された」と勘違いするのである。

この外国人の生活保護問題にしても勝手に他国にやってきて(強制連行ではない)、さらに「被害者面して同情を誘う」・・・このような行為はパレスチナ問題と共通するものがある。ユダヤ人は「世界から同情されてイスラエルが建国できた」というより、自分たちで権利を勝ち取った・・・そういう意識が強い。

この「被害者面して同情を誘う」・・・、過去50年程度以内のことならまだ多少は理解できる。それが世代もかわり、時代も流れて現在も「遠い過去の悲劇」を現代人が「被害者面して同情を誘う」のはどう考えても不自然である。

しかしパレスチナ問題は現在も進行形であること。先日のニュースによると被害者は400名を超えているとのこと。しかも小さな子供までも含まれている。そういいった映像が放映されていた。やはり本当の弱者は紛争地の子供たちである。決してユダヤ人、パレスチナ人の大人たちではない。さらに言えば、遠い過去のこと(事実関係は別として)の償いをさせられる現代人は明らかに被害者である。何故なら、このパレスチナ紛争の原因をつくった連中はすでにこの世を去っている。その多大なるツケを現代人が払っている。

もしパレスチナ紛争がなくなり50年以上の歳月が流れれば、問題は解決するかもしれない。いわゆる「時間が解決させる」というもの。しかし、「停戦」してはまた「紛争」を延々と無限ループのように続いている。まさしく「無限ループ」になっている。 実は、世界に散らばる多くのユダヤ人はこうしたパレスチナの現状を熟知していて「決してイスラエルへ移住しない」人々がいる。かれらにとって「約束の地」という意識は薄い。本当のユダヤの富裕層、芸術家、学者はアメリカに住んでいる。 そう、何度も私が主張しているようにパレスチナ問題の本質は「移民問題」である。イスラエルへのユダヤ人移民者も「ある意味では弱者」であるとも言える。しかし、それを上手く利用するグローバリズムの存在がある。そこにも大きな問題点が存在する。

おそらくパレスチナ問題はまだまだ解決しない。ただし、このことは世界中で「大きな教訓」とすべきである。いったいこの問題の本質とは何か? それを考えることは世界共通の課題である。


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パレスチナ問題は移民問題の象徴
前回に引き続きパレスチナ問題を考える。緊迫を続けるパレスチナ問題であるが、そもそも問題の発端な何なのか?様々な説があるがそれぞれについて極めて簡単に解説したい。

1.旧約聖書と古代イスラエル

<伝説>
聖書によると紀元前17世紀頃アブラハムがメソポタミアのウルの地からカナンの地を目指した。その後、孫のヤコブの時代にエジプトに移住するが奴隷となり、再びカナンの地を目指した。有名なダビデ王の頃にその地をイスラエルとして統一した。その後、南北に分裂して北の10部族(いわゆる失われた10部族)はアッシリアに滅ぼされた。そして南も滅ぼされて世界に流浪の民となった・・・。これがユダヤ人の祖といわれた。そしてこのカナンの地は「約束の土地」された・・

<事実関係>
ここで現在のユダヤ人の定義は「ユダヤ教を信仰」していることであり、ユダヤ民族という人種はすでに存在しない。つまり旧約聖書でのユダヤ人と現在のユダヤ人とでは血統としての関連は非常に薄い。これは最近の遺伝子学でも明らかになっている。つまり「約束の地」というのは、例えばユダヤ教に改宗すれば誰でも得られることになる。また現在のイスラエルではユダヤ人だけでなく単なるイスラエル人というのも多数存在する。

2.第二次大戦以降のユダヤ人との取引

<戦前、戦後の経緯>
パレスチナ地域は、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教にとっても聖地である。当時、グローバル経済の問題と絡めて何かと資産家の多いユダヤ人を取り込みたい思惑がイギリスとアメリカでは多かった。特にイギリスの欺瞞外交を有名であり、各国とパレスチナへの領土を約束する見返りに戦時中の資金援助を依頼した。一方、ナチスドイツはユダヤ人排斥を徹底的に実施した。このことが戦後になって世界中の同情を誘うことになり、近代イスラエル建国に向けた国際社会のお墨付きのようなものを得ることになる。

<考察>
こういう状況を作ったのは間違いなく欧米人であり、ユダヤ人も被害者というレッテルを自らも宣伝し「約束の地」そして「選民思想」という他国や他民族からしたら「身勝手」あるいは現代若者語風にいうと「ジコチュウー」を全面的に推し進めた結果である。どっかの日本の若い社会学者が「ジコチュー」を主張していたが、「ジコチュウー」の思想で領土を奪い、仕事を奪い移住することが、どれだけ社会に禍根を残すか?これを理解する必要があるだろう。

3.戦後の中東戦争と石油利権

<近代のパレスチナ問題>
戦後になって中東が世界最大級の油田があることが解るとアメリカをはじめ欧州各国がこの地域に影響力を保持しようと画策する。イスラエル建国とともに大規模な中東戦争が始まるがアメリカの支援によってイスラエルは強力な軍隊を保持し現在では核兵器まで持つようになった。一方でパレスチナ人(アラブ人)は勇敢だった。通常、欧米人や中国人(朝鮮人)は強い相手に対して、相手が攻めてこない限り攻撃はしない。つまり弱い敵を力でねじ伏せることは簡単であると考えていた。しかしアラブ人はかつての日本人と同様に「自らの死を恐れない」そして「自己犠牲の精神」がある。強い相手でも戦いぬく精神を持っている。これが欧米(特にアメリカ)にとっては大きな誤算である。

4.パレスチナ問題は移民問題

<パレスチナ問題は移民問題>
このようにパレスチナ問題は様々な背景がある。従って「問題は複雑である」と論評されることがある。前回の私のブログでも述べたが、本来この問題の根本は「移民問題」と全く同じである。上記の①②③の要因は問題を拡大させ、複雑化させただけであり、還元論でいえばこれは「移民問題」であると断言したい。土地を奪われ、仕事を奪われる・・・すべてはそこから始まっている。ここに根本的な問題がある。それに加えてパレスチナ問題では軍隊やテロリストによって、一般市民までもが犠牲になる。移民問題の最悪の結末である。

<移民の歴史>
このようなことは長い歴史上で何度も発生した。ゲルマン人の大移動では気候変動がきっかけとなってフン族(特定の民族ではない)の移動から始まり、玉突き状に各民族が南に移動してローマ帝国が崩壊した。古代中国でも殷の時代より、周、秦、漢と時代ごとに旧支配層は虐殺されるか移動させられるしかなかった。それが客家に代表されるように移動先に紛争(土客紛争)が発生した。そして歴史上、最大の民族大移動であるアメリカへの欧州人(アフリカ、アジアも含む)の移動は先住民であるネイティブインディアンを土地を奪い虐殺したことは事実である。

しかし現代では、パレスチナ紛争に代表されるように「土地に対する信仰心」が強いこともさることながら 「さらなる移動先は存在しない」ということも事実である。国際法上での「難民」という位置づけはあるが、かつての民族大移動のようなことは現代社会では不可能である。それを実施すれば世界は大混乱になる。現在だって小規模な移民でも各国で大問題になっている。

やはり問題の根源は「移民問題」である。少数の移民が時間をかけて移動し現地に溶け込めば安定した社会を形成することができる。日本の場合、遺伝子的には多様であるが周囲を海で囲まれ移民が制限されていたことが幸運であった。仮に異民族が移住しても現地に同化して安定した社会を形成できたことは間違いない事実である。このように世界の歴史、そして日本の歴史を考えるとよく解る。そして最悪の状況になってしまったパレスチナ問題を考えると今後の「移民問題はどうあるべきか?」その問題の解決策は自ずと導き出せるはずである。 とくに学校でも歴史や科学の教育において、こうした議論を培わせることが重要である。

<移民問題を考えよう>
そして改めて私は主張したい。日本での強引な移民受入は絶対に反対すべきであり、場合によっては武器をもって奴らと戦う覚悟を持つべきである。・・・なんて野蛮な・・・そんなことはない。フランス国家である「ラ・マルセイエーズ」の歌詞を聞いてみよう。「兵士よ武器を持て、奴らの血で我らの田を満たせ」 これが愛国心であり国を守る精神である。お花畑で移民受入を叫ぶ連中は歴史を知らないか?そういう連中の血を我らの田を満たすべき徹底的に攻撃しても構わない。そうでなければ日本はパレスチナのような状況になる。そうなると、もう取り返しがつかない。

テーマ:中東問題 - ジャンル:政治・経済

イスラエルのガザ地区攻撃
すっかり日本のニュースはマレーシア航空機の墜落(撃墜)の話題で一色である。しかし、もう一つの大きなニュースであるパレスチナ情勢についてはイメージが薄れた感がある。しかし実際には凄まじいことになっている。ついにイスラエル軍はガザ地区への地上攻撃、および地下トンネルの攻撃に踏み切った。従来はロケット攻撃等はあったが、大規模な地上攻撃は久々である。おそらく地下トンネルは地上攻撃でしか対応方法はないとイスラエルが判断したからだろう。はっきりいってこれは「大規模な戦争が始まった」と言っても過言ではない。

読売新聞によると、「イスラエルは4万人以上の予備役を招集。政府は17日、1万8000人の追加招集を認めた。」とあり、「イスラエル軍の攻撃で、これまで245人が死亡した。」とある。この死亡者数は今回のマレーシア航空機墜落の犠牲者数と変わらない。もしかしたらイスラエルの攻撃でもっと死傷者が出ている可能性が高い。

特に、地下トンネルの攻撃はパレスチナにとっては生命線であり、戦闘はさらに激化する可能性がある。地下トンネルは様々な物資(武器も含む)を運搬しているとして以前からイスラエルに目をつけられていた。その場所をイスラエルは懸命になって探していたわけだが、おおよその位置を把握したのだろうか?パレスチナ人によると、「それは口実」で関係ない地域までも攻撃しているとの主張もある。

今回、日本では日経平均株が大幅に下落したが、それはマレーシア航空機墜落によると報じられている。しかし実際にはパレスチナ情勢の方が影響が大きいかもしれない。たしかにマレーシア航空機墜落では悲惨な結果になっている。150名のオランダ人、27名のオーストラリア人、20数名のマレーシア人、4名のフランス人・・・とそれぞれ犠牲者数を報じている。今後はもっと増えるかもしれない。犠牲者はまさに多国籍である。また追撃は親露派だとの報道が多く、各国は一斉にロシアへの非難が集中する方向である。日本のマスメディアもそのことを強調する・・・がしかし、まだ事実関係は明らかではない。一方で実際にパレスチナでもそれ以上に悲惨な状況が長く続いているわけである。それを覆い隠すような各国の報道の在り方には甚だ疑問である。

昨日のブログでは「アメリカの関与」ということを述べた。もちろん根拠はないし、そもそも私は「陰謀論」なるものは興味ない。しかし、この日の二つの出来事はすべてアメリカにとって有利になる方向になっていることは事実である。

よくパレスチナ紛争は、「民族、宗教対立」といわれるが元々は共存共栄する可能性もあった。しかし強引に土地を奪い奪われ、その土地を自分たちの色に染める・・・これほどの屈辱があるだろうか?パレスチナ紛争について、日本はアメリカに配慮しているのか?ホロコーストの経験を持つユダヤ人に同情する空気があるのか?テレビ報道でもイスラエルを非難することは少ない。従って日本人は遠い国の出来事として、あまり理解していないし興味を示さない。そして、このような表現される。・・・それは問題があまりにも複雑だから・・・

しかしこう考えれば簡単である。「自分の大切にしている畑を奪われて、軍用地にされた・・・」、「自分の大切な人(子供や女性)が無残に殺される」・・・これを何度も何度も繰り返したら人間の心理はどうなるだろうか?もちろん「憎悪」が生まれるのは当然だ。「土地を奪い、自分たちの色に染める・・・」この「自分たちの色・・・」 ここではじめて文化や宗教が関係してくる。そして民族意識と宗教意識が煽られるのである。そう、もともとは民族、宗教問題が発端ではない。

よく最近では中国人が世界中に移住して、「現地人の職を奪い」、「土地をカネで買いあさり、自分たちの色に染める・・・」これも憎悪の対象になる。しかしここで大きく異なることは、パレスチナ問題は強力な武力が伴っていること。そして軍人だけでなく民間人でしかも「幼い子供」や「若い女性」が犠牲になっていること・・・こんなことが何度も繰り返したら、どんな民族だって、いや私だって武器を持って戦うだろう!・・・それがパレスチナ紛争の本質である。

本来は日本のメディアも、この問題を報道して事実を伝えることが使命であるはずだ。たしかにマレーシア航空機墜落も大きなニュースであるがパレスチナ問題は世界中の人々が真剣に考える問題である。なぜならパレスチナ問題の小型版のような出来事は「移民問題」として世界中で発生しているからである。国連のマヌケな事務総長は声明発表するだけで何もしない・・・・したがって国連は役に立たない。そして日米マスメディアもアメリカとユダヤに遠慮している・・・。では何に頼るか?もちろんインターネットだ。

現在の日本のインターネットやブログでは、反中や嫌韓を書けば簡単にアクセス数が上がるようだ。しかし本当に社会を考えるのであればパレスチナ問題をもっと取り上げるべきである。これは世界共通の問題(特に移民問題)の凝縮図であり、悲惨な歴史の凝縮図でもある。先ず、その前提として絶対に理解しなければならないのは「この地域に住むパレスチナ人たちは極めて普通の人々であり特殊な人々ではない」ということ。従って、この問題は世界中でインターネットで共有できる最高のテーマである。

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マレーシアの苦悩
またしてもマレーシア航空機が・・・昨夜、オランダ発マレーシア行きの旅客機ボーイング777型機がウクライナ東部で墜落した。地対空ミサイルで撃墜されたとの見方が強い。乗客乗員295名が全員死亡と報じられている。今回は海上でなく地上に墜落しているので捜査は容易・・・と言いたいところだが場所はウクライナ東部である。重要な証拠や物品は現地の軍によって当面は押さえられるであろう。要するに、事件?事故?の真相究明には時間が掛かることは間違いない。

ここで大きなダメージはマレーシアである。先般のマレーシア機のインド洋での行方不明からまだ日数が経っていない。マレーシアのナジブ首相は当然やっきになっている。

今から20年程前、マレーシアは「東南アジアの優等生」といわれた。しかし度重なるアメリカを中心とした投機攻撃にさらされ、経済的に苦い経験をしている。当時のマハティール首相はあえて閉鎖的な政策をとった。固定相場の導入、株式の短期売買禁止、通貨の大量持込、および持ち出し禁止・・・。私はその政策自体は間違っていないと今でも思っている。

そして現在、海外投資で経済発展しているのは隣国タイであり、新興国のインドネシアである。さらにベトナムやミャンマーと国が注目されている。どちらかというとマレーシアは取り残された感が強い。マレーシアは隣国シンガポールの物価と連動しやすく、決して安い物価ではない。マレーシアは基本的にはイスラム国家であり、社会も欧米とは異なる。また国内規制も厳しいため海外からは魅力的に見えないようである。

そこで最近のマレーシア政府は、観光を中心に「マレーシアの知名度向上」を政策に挙げていた。つまり、このような中でマレーシア航空の事件?事故?が多発するとマレーシアへの打撃は計り知れない。たしかに「知名度向上」したかもしれないが、このような形で知名度向上するとは・・・どう考えてもマレーシア政府の不作為は少ないと思われるが、どうしても責任追求される立場になる。それは多くの犠牲者を出しているから仕方がないかもしれない。

このような一連の経緯を考えると私はアメリカの関与があるように思えてならない。これでウクライナの親ロシア派の攻撃と断定されたらロシアの立場が弱くなり、目障りな政策(マハティール路線)をとるマレーシアを叩き、そしてアメリカが得をする・・・私の考え過ぎであろうか? どなたか詳しい方おられたら教えてください。


オーケストラから学べる社会学
クラッシク音楽界の大御所であった指揮者ロリン・マゼール氏の冥福を祈り、今回は音楽と社会について考える。いつも私は理系の視点から社会学を論じているが、今回は特にオーケストラと社会を比較して考えたい。私は、子供の頃からクラッシック音楽好きで、自分でも少し演奏する。またコンサートにも時々行くことがある。一番好きなのはモーツアルトだが、その他の数多くのお気に入りがある。まあその話をすると長くなるので別の機会にする。

音楽に興味のない方には申し訳ない。しかしオーケストラは社会の構造と実によく似ている。音楽というのは文系のイメージが強いかもしれないが、楽器の原理や特性は「まさしく物理学」の世界だ。また譜面は数学的であり、そこから立体的なイメージすることができる。まさしく理系の世界だと私は勝手に解釈している。そして、オーケストラというのは社会の構図によく似ている。

オーケストラの人員構成は曲目やスタイルによって異なる。基本は弦楽器、管楽器、打楽器・・・さらに曲目によって特殊楽器を加える。弦楽器ではバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバス・・・に分類され、木管楽器では、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット・・・に分類される。さらにそれぞれのパートの人数も曲目やスタイルによって異なる。そして、それぞれの専門パートがそれぞれの役割を果たし全体のハーモニーを築き上げる。

それは一般社会も同じである。製造業、販売業、サービス業など・・・さらに業種によって特殊技術を導入する。製造業では、鉄鋼、非鉄金属、樹脂、電気、土木・・・販売業では、倉庫管理、輸送、営業、小売・・・様々な業種が必要である。さらにそれぞれの人員も業種やスタイルによって異なる。様々な専門分野がそれぞれの役割を果たして社会構成を築き上げる。

例えばバイオリンだけのオーケストラなんてつまらない。そして小売だけの社会・・・そんなことありえない。つまり様々な専門家がそれぞれの役割を果たして調和すること。それがオーケストラや社会において最も重要なことといえる。誰かが何処かで仕事をしているから全体が構成される。

オーケストラ指揮者の役割は、スピードコントロール、強弱のコントロール、抑揚の調整・・・つまりバランスの調整である。社会の管理者も同じで、生産計画、販売計画、資材調達、資金調達・・・こうしたバランスシートの管理である。よく勘違いしている指揮者や管理者が存在するが、彼らの仕事はスタッフへの丸投げや、スタッフへのムチ打つことではない。あるいは特定の役割担当だけに多大なる負担を強制するものではない。そういう指揮者の大抵はオケ側と対立する。また社会の管理者も一部の関係者と対立するか事業に失敗する。つまり「全体主義」を優先させても限界があるということに気付いていない。これは大きな失敗する大きな要因である。

さて、次に人手不足になった場合を考えてみよう。オーケストラの場合、一般的に人員不足になるのはファゴットやコントラバスのような低音パートである。社会でも、最近では人手不足は社会のベースで働く土木分野や医療分野である。しかし募集しても簡単に集まるのは難しい。何故なら、それぞれ専門性を必要としているから。

「だれでもできる簡単な仕事」や「誰でもできる簡単な演奏」というものは基本的に存在しない。そうした人員確保のためには、広く一般的に教育訓練が実施されている環境でなければ世の中まわらない。例えば、街の音楽スクールではそのほとんどがピアノ教室であり、コントラバス教室はあまり見かけない。また、パソコン教室は多くあるが、土木専門教育はあまり盛んではない。

こうした社会の教育訓練と同時に、貴重な専門分野の人材は高給にしなければならない。市場原理主義であれば高給になるはずである。あとは人気のない分野の魅力をもっとアピールすることも重要だ。私は個人的に上記に示した人気のない分野の方に尊敬と魅力を感じる。

政治や経済も同じ、リーダーはどのような未来像に対してのバランス、そしてスピードをコントロールするかが仕事である。本当のリーダーは本当のプロでなければ務まらない。音楽でも指揮者や作曲家(編曲家)はそれぞれの楽器パートの特性を十分理解しなければ務まらない。例えば、ピッコロ奏者にトロンボーンより大きな音出せとか・・・、バイオリン奏者に3弦同時に弾けとか・・・歌い手さんの都合でキーを半音下げろとか・・・フルート奏者に小指で長いトリルを演奏させる・・・とか。そういう要求を演奏会直前に要求されたら、オケ団員は絶対怒る。私だったら指揮者にペン投げて、「てめーふざけんじゃねー」っていうだろう。

これって製造業で、鋼材寸法を半分にして強度は3倍にしろ・・・とか、精密モータの単重を半分にしてマグネット性能上げろ・・・とか、国内牛乳生産を1年で倍にしろ・・・とか、公共事業を1年で倍にしろ・・・とか。そういうことをトップが指示するのと同じである。おそらく経営トップに生産性向上のノルマがあったり、政府の選挙公約達成のために無茶な政策を推進することもよくあることである。あとは数字合わせ、現場なんて見ていない(おそらく見ても解らない)。そういう管理者や政治家は結構多い。頑張ってできることとできないことがある。それを精神論でクリアしようとするトップは危険人物である。

つまり、これは毛沢東の大躍進政策のように15年掛かる政策を3年でやろうとしたことと構図は全く同じだ。これは何も大げさな表現ではない。トップが現場を知らない、専門分野の特性を知らないでタスクを握ると大混乱になることを意味している。「不可能なことは不可能」「てめーふざけるな」と誰かが私みたいに訴えればよいが、誰も訴えることができない。そしてノルマが拡大して個人の出世は「嘘の報告」で決定する。無茶苦茶な政策でも決まったことは必ず実行される・・・恐ろしい世界だ。

このようにオーケストラのことを知ると社会学(政治、経済含む)もよくわかる。こうしてオーケストラの名演奏を聴くと社会学が見えてくる。私のお勧めはアンドレ・プレビン指揮のウィーンフィルハーモニーの演奏、場所はもちろんウィーン学友会館で、ウィンナーオーボエとウィンナーホルンの魅力が満載な曲目である。

曲目の魅力、ウィーン・フィルの伝統、各パートの魅力と団員の技量(努力の積み重ね)、学友会館の響き方、指揮者のとりまとめとかじ取り、聴衆の反応・・・これら全てが一体となって高度な音楽を作り上げる。

それは社会も同じ・・・

モノやサービスの魅力、日本の伝統、各業界の魅力と力量(努力の積み重ね)、日本環境の広がり方、指導者の取りまとめとかじ取り、国民の反応・・これらがすべてが一体となって高度な社会を築き上げる。



テーマ:クラシック - ジャンル:音楽

官制談合はどれくらい悪なのか?
7/12のブログで、私は退職自衛隊員の建設業への転職自粛を解除というニュースについて毎日新聞を強烈に非難した。この「自粛」に至った理由は「官制談合」への世論の批判回避であった。

たしかに「談合」は法令違反である。しかし「官制談合」はどの程度の社会悪なのだろうか?私ははっきりいって道路交通法のスピード違反10kmオーバー程度と同等の社会悪だと思っている。

1.まずこの「官制談合」で誰が損しましたか? ⇒ 国民は誰も損していない。 他の業者は皆納得している。

2.この「官制談合」で誰が傷つきましたか? ⇒ 国民は誰も傷ついていない。

3.税金の無駄使いか? ⇒ 通常は国債(建設)が使われる。つまり税金は使われていない(日銀が買取)。

4.国は借金して建設している? ⇒ 国債は日銀が永遠に保持することができる(債務返済義務はない)

5.官民の癒着は悪? ⇒ 官民共同して国家のために事業することが悪ではない。公共事業は否定できない。


法令順守・・・それは誰でも理解できる。しかしそこには、どれだけの社会悪、あるいは国民への毒性があるか?それを理解せずに、「誰かが得している」という国民の「嫉妬心」を煽り、国家の復旧や発展を阻害することこそが社会悪である。

以前、当ブログでは「毒性学」という分類で論じている。


滋賀県知事選を考える
昨日、投票が行われた滋賀県知事選挙は、前民主党議員の三日月氏が当選した。三日月氏は現職の嘉田知事の推薦、民主党の推薦を受けている。一方、政府与党系の推薦を受けた新人候補は敗れた。25万票と24万票という接戦だった。

テレビ報道によると、政府の「集団的自衛権行使容認」や「東京都議会のセクハラやじ」が影響しているとのコメントがあった。しかし、「集団的・・・」は地方行政とは直接関係のない話だし、「セクハラやじ・・・」なんて滋賀県に全く関係ない。大都市圏とことなり滋賀県は女性有権者の人口比率が比較的高い。そういう女性感情が投票行為への影響はあったかもしれない。しかしそれを全面的の報道するのはいかがなものか? 一方で自民党は候補者の「知名度不足」を挙げていた。

滋賀県は近隣の福井県若狭湾沿岸に日本で最大級の原発がある。嘉田知事は、東日本大震災以降は「卒原発」を訴えていた。それを三日月氏が継承すると主張している。以前、当ブログで述べた通り、基本的に地方に主権はない。原発を廃止させる権限は滋賀県にはなく「配慮」を主張するしかできない。また滋賀県は原発立地県ではなく、電力の最大消費地は大阪府である。従ってこの「配慮」がどこまで影響するか不透明である。

滋賀県という地域は、人口が少ない割りには産業は盛んである。工業、農業、サービス業がバランスを取りながら発展している。全国と比較しても「失業率」「平均賃金」などの各種統計データは決して悪くない数字である。これは交通の便や各種インフラが整っていることと、そして琵琶湖を中心に自然環境にも恵まれていることが考えられる。

この25万票と24万票というのが、この地域の産業構造を表しているよう思える。

テーマ:地方自治 - ジャンル:政治・経済

プロ経営者に騙されるな
最近、何かと「プロ経営者」という言葉がもてはやされている。企業側も業績の膠着状況を打破するための何らかの手立てを模索するのはやむを得ないかもしれない。特に多いパターンは社内昇進ではなく社外からの社長起用である。従来も銀行や保険会社のような金融経営者を社外からというのは頻繁にあった。しかし最近では製造やサービスに関しても同様に社外からの社長起用が盛んになっている。

これは企業側にも問題はある。従来の世襲社長や社内昇進では官僚的で進歩が見られない・・・こういったジレンマを持っていたのは事実である。しかし企業というのどんな業種も現場が支えているのである。現場力と市場、これが強いか弱いかで経営が決まるものである。本当の問題は現場での技術の伝承と発展が不十分なことだと私は思っている。豊田章男氏も、そのことに気付いているように思える。結局のところ決算書のデータなんてものは、その最終結果にすぎない。基本的に企業のトップといえども「解らない世界」に手を出してはいけない。さながら、内容を知らずに「魔法の杖」に期待する子供のようなもの発想が見え隠れする。

どうも多くの財界人が「プロ経営者」に期待する根拠は海外にあるようだ。私も海外の企業(合弁会社)での勤務経験があるが、多くの海外の経営者は「カネのことしか考えていない」・・・こういう経営者がほとんどであった。現場なんて見ない。従業員と話もしない。本来、ビジネスにはヒト、モノ、カネの三大要素が重要であるが、モノとヒトを知らない経営者は必ずカネだけを見る。要するに自分の知らない世界は嫌いであり、自分の知っている世界でヒトとモノを支配したい・・・それが彼らの精神構造である。ヒトとモノなんてシステム化すれば何とでもなる・・・と本気でそう考えているのである。

よく「プロ経営者の条件」として「数字に強いこと」と言われる。しかし「数字に強くなる」なんてのは、理系思考と経済思考の基本ができていれば誰でもできる。「決算書」「損益計算書」「貸借対称表」「原価計算書」・・・なんてものは仕事を真面目にこなしていれば誰だって自然と解るものである。

では本当の「プロ経営者」といわれる存在の利点は何か? はっきりいって何もない。強いていえば外部からの融資を受けやすい・・・その程度である。早く企業は気付くべきだ。早く方針転換しないと、10年後に気付いても遅い。

そういえば以前(10年程前)、某自動車メーカが「JUST IN TIME」とか「在庫は悪だ」とか「農耕民族より狩猟民族的な経営が良い」・・・こういった愚かな思想に染まった時期があった。その後、その自動車メーカだけでなく、その部品メーカまでにもその思想は展開され、毒がばらまかれた(今でも毒されている?)。結果的に部品サプライヤーが倉庫を増やし、在庫を持つ(完全に部品サプライヤいじめ)ようになった。こういう思想は、科学技術、本当の歴史、社会、経済を学んでいないこと。それと「欧米式が善であり」、「日本式は悪である」というマインドコントロールされた思想である。この某自動車メーカはこれを「生産革新」を呼び、生産の大改革をしようとした。これはまるで毛沢東の文革や大躍進政策の小型版のようなものであった。おそらく彼らは毛沢東が何やったか歴史を全く知らないのであろう。

その結果、この某自動車メーカやその部品サプライヤは利益を上げるどころか、「生産混乱」と「大規模リコール」に見舞われて大失敗に陥っている。何故か、このプチ毛沢東政策の総決算なされていないのが不思議でならない(アメリカのせい?)。誰も責任とっていない。結局はリーマンショックの影響でこの問題がうやむやになってしまったのである・・・そして10年後の最近になって「プロ経営者」という、別の形態で同じようなことを導入しようとしている・・・これが事の真相である。

そう、これはグローバリズムが根底にある。グローバリズムは、固有技術や人間力が大嫌いで、カネとシステムですべてのヒトやモノをコントロールしようとする思想である。何度も私は主張しているが、本当の発展とは「地道な積み重ね」でしか達成できない。無知、無能が故に「支配欲」だけが全面に出るのがグローバリズムの特徴である。

では「リーダー」というものについてもっと簡単に考えてみよう。例えば、プロ野球やサッカーの監督は誰がやりますか?オーケストラの指揮者は誰がやりますか?・・・皆それぞれ専門分野の知識があり経験者だからこそ、監督や指揮が可能である。本当の「プロのリーダー」というのは現場経験者しかできない。そして組織全体が解る人間でないとこなせない。カネしか考えなければマネーゲームのプレイヤーと何ら変わらない。実際に企業内でのカネ管理なんてものはバカでなければ誰でもできる。あとは対外的な融資や社債をどう調整できるか。これが経営者には必要な能力だ。よくいわれる「プロ経営者」なんてのはグローバリズムそのものだ。

もっと解りやすく言えば、「プロ経営者」というのは「プロ市民」と同じだということ。そう、だから彼らに絶対に騙されてはいけない。

毎日新聞 工藤昭久の記事
昨日、喜ばしいニュースがあった。それは「退職自衛官の建設会社再就職の自粛を解除」というニュース。そもそも「自粛」していたなんて私は全く知らなかった。周知の通り、建設業界は人手不足が深刻であり、特に東日本大震災からの復興事業にも影響している。

以前、何度か当ブログで紹介したが自衛隊も含め各国の軍隊は軍事訓練だけをしているのではない。応急医療措置、応急土木工事、食料管理、情報管理・・・様々な訓練をして、いざというときの国民を守る体制を構築している。当然ながら、自衛隊そのものが民業に介入することはできない。しかし、有事の際や国家の安全保障に関連すれば介入できる。そして個人レベルで考えても退職自衛官だって「職業選択の自由」がある。そして退職自衛官であっても「法の下の平等」は存在する。これは憲法が保障する大原則である。

ところが、この喜ばしいニュースを快く思わない毎日新聞の「工藤昭久」の記事には怒りを覚えた。彼の記事では、こう締めくくっている。

「退職自衛官を受け入れれば受け入れるほど、談合事件を再び起こさないための、法令順守体制の強化や官庁との癒着防止の取り組みを強く求められることになる。人手不足は、再就職解禁の「錦の御旗(みはた)」ではない。」

工藤昭久・・・こいつ頭いかれてる? この自粛解除したら「不法なことが必ず発生する」と断定するのか?退職自衛隊員も職業選択の自由はある。工藤記者も職業選択の自由があって、毎日新聞の記者になったんだろう。いやなら転職したって構わない。それが更なるプロパガンダ集団の組織への転職であったとしても・・・。おそらく社会の需要と供給のバランスがどれだけ大切かということが毎日新聞は全く理解していない。そして何よりも震災復興よりも談合事件への「自粛」という対応の方が大事とでもいうのか?「自粛」って何なんだ。そもそも個々の自衛隊員と談合事件は全く関係ない。自衛隊員、そして退職自衛隊員を侮辱するのは容認できない。私は彼にこうコメントしよう。

「毎日新聞の記事を載せれば載せるほど、プロパガンダを再び起こさないために、職業選択の自由の確保と需給ギャップの解消は強く求められることになる。報道の自由は、プロパガンダの「錦の御旗(みはた)」ではない。」

さあ毎日新聞、反論できるなら反論しなさい。不自然な大手マスコミのプロパガンダはネットの正論に論破される。そして最後にはプロパガンダがプロパガンダに殺されるのが現代社会だ。この記事をあえて毎日新聞が載せたことは、ある意味で彼らの命取りである。毎日新聞は自身で自爆する。すでに毎日新聞の思想は死んでいる。


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地方議会のあり方
最近、東京都議会の塩村議員のセクハラやじ問題から、兵庫の野々村議員の「号泣会見」まで、地方議員のバカバカしいニュースが多い。私の子供ですら、あの「号泣会見」を見て大笑いしていた。地方議員のレベルの低さを日本全体に広まることになってしまった。

そもそも有権者も地方議員のことなんてよくわからない。当然ながら報道でもあまり紹介されない。普段何やっているか解らない。かつては選挙のときは所属政党で選ぶこともあったが、最近ではどう考えても○○政党だったはずの候補者が「無所属」で出馬するから、わからない有権者にとっては、もっとわからなくなる。

その結果、有権者はちょっと「若くて元気そう」とかで選んでしまう。真面目に投票する人は、商工会議所関係者とか、農協関係者とか、自治会連合とか・・・一部のそんな人たちである。地域主権と言いながら、個別利権と関係することが多い。結局は、なんだか解らない議会になってしまう。まず本気で地域のことを考えている議会になっているとは思えない。

実際に、「地方議会のあり方」って結構難しい。よく「地域のことは地域に任せて」とか「地方分権」というスローガンがあるが、要は地方に「権限よこせ」だけの話である。たしかに地域の環境や特性というものはある。しかし権限が地方に移ったからといって地域特性に合わせた行政が行われているとは思えない。むしろ、わけのわからない第三セクターを増やして地方自身で自滅しているケースも多く見受けられる。

最近、ある地域の神社の祭りに新規入町者が宗教の違いを理由に祭りに参加せずに揉めることがある。また、ある町内会の会費が強制的に特定団体(赤い羽根募金や赤十字募金など)への寄付にまわされる・・・こういったことが、それらの地域では裁判沙汰になったことがある。裁判の結果、自治体や町内会側が完全敗訴する判決が確定している。よく外国人移民が日本に増えれば、地域社会が崩壊すると懸念する声が保守系には多い。しかし既に日本人同士でこういう問題は発生している。

そもそも地方と言えども、民法、刑法は国家で統一されている。通貨も円で統一されている。また個人としては「土地所有権」があり「国内移動の自由」「職業選択の自由」、そして「信教の自由」が存在する。従って、根本的に地方分権とか地方主権なんてのはありえない話である。あるとしたら「地域条例」だけである。しかし条例は法律の範囲内において制定することが憲法に定められており、実質的に地方には主権は存在しない。つまり日本国には国家主権と国民主権しか存在しない。

ではなぜ「地方分権」とか「地方主権」とか、このような議論になるか。それは当然ながら財源と予算権限というカネの問題である。地域財源の多い都市部は中央政府に不満を持っている。それは過疎の地域に交付金が支給されるのが気に入らないという単純な話。だったら地方に行けばいいのに行かない(移動の自由はある)。結局、豊かな暮らしをしながらも「財源と権限をもっとよこせ」という話である。はっきりいって利己的であり、国家感というものが存在しない地方議会の特有の発想である。知事ですらそういう議会の発想に左右される。つまり交付金が増えるかもしれない提案に地方議会や知事はは必ず同意する構造になっている。

地方は保守的で「郷に入っては郷に従え」という。それはどちらかというと法的というより慣習のようなものをベースとしている。私も地方の文化や伝統は大切であると考えているが、彼らの考え方は少し違う。地域全体の事というよい、やはりそれぞれの利権を確保したいという考えが主流になっている。しかし、それは逆説的にいえば、そもそも地方主権がないわけだから、個人や法人の利権に走るのは当然のことかもしれない。

本当に地方主権にするのは、江戸時代のような幕藩体制にして、藩札を発行し、個人移動の自由の制限、職業選択の制限、信教の制限、そして土地の個人所有の禁止・・・これらを実施しない限り、地方主権は絶対にありえない。また地方の保守層が主張する「郷に入っては郷に従え」は不可能である。

つまり、そもそも無理があるということ。そもそも国の法律との整合性がとれない。だから名古屋の河村市長は「ボランティアに頼る」と主張する。要は奉仕精神でカバーするというもの。しかしそれは限界がある。何故なら奉仕精神に頼るためには「強い郷土愛」、「自己犠牲の精神」、「生活が補償されていること」 これらが満足しなければ成立しない。

私は、この河村市長の発想そのものは間違っていないと考えている。しかし一般人にそれを求めるのは酷である。「タダほど高いものはない」というデメリットに傾く可能性が高い。はっきいって河村市長は類稀なる政治家であり私は尊敬している。例えば、減税、奉仕精神、南京事件の発言、名古屋城の木造化・・・等、かれの発想は非常に論理的である。でも残念なことに、ほとんどの国民は彼を奇人扱いしている。私は彼の発想を理解しないわけではない。しかし、現実には日本が法治国家であり、近代国家であるかぎり「ボランティアに頼る」というのは限界がある。先ほど述べたように揉めれば司法判断で地域側に勝ち目はない。

最近の「セクハラやじ問題」や「号泣会見」は誠にバカバカしいニュースだが、これをきっかけに皆にまず地方行政に興味を示すこと・・・それが最初の一歩かもしれない。


テーマ:地方自治 - ジャンル:政治・経済

金融社会の変化
金融システムのネットワーク化によって、アメリカは世界をマネーコントロールしているというのは事実である。「テロとの戦い」と金融管理、敵対国への経済制裁・・・これらの威力はすさまじい。アメリカは関係諸国のカネの流れを掴んでおり、カネの扉を閉じたり開けたりして金融をコントロールしている。最近では、所謂タックスヘブンを規制するような動きをアメリカをはじめとして各国の財務省が連携して対応している。あの映画「アンタッチャブル」で有名なアル・カポネは何をやっても警察に捕まらなかったが、アメリカ財務省にマークされ、最後は「脱税」で逮捕されたのはあまりにも有名なエピソード。今も昔もアメリカ財務省のパワーは凄まじい。そこに金融ネットワークの支配が加わったから更に強力である。

かつて35年程前の日本(私が小学生のころ)は、誰でも偽名をつかって簡単に銀行口座を作ることができた。当時、なんでもかんでも口座を作ることは、むしろ銀行側から奨励であった。当時、今では信じられないかもしれないが政策金利(当時の公定歩合)は7-8%であり(現在は0.1%)、預金金利は10%程度、厚生年金基金は15%以上の運用利回りは確保していた。当時、多くの企業の給与は現金支給だった。企業の賞与支給時には社員全員をホール(あるいは食堂)に集めて支給していた。ホールの後方には必ず銀行員がずらりと並んでいたという。当時、小学生だった私は小学校にも毎月のごとく銀行員が来て「子供預金」という名の実質の預金を奨励していたのをよく目にしていた。

その後、時代が流れプラザ合意以降の円高とともに金利は引き下げられた。そして2000年頃から身分証明がなければ銀行口座開設ができないのはもちろんのこと、古い偽名口座からの引き出しが不可能になった。これは事実上の預金封鎖である。そしてネットワークシステム上でカネの流れが管理されるようになった。今だに大金を現金で動かすことの多い企業や団体は、何らかの闇の部分があることが多い。特に給与を現金支給に拘っている事業体は何らかの事情がある。

日本のバブル期は、所謂「土地転がし」とともに、絵画や骨董品の取引が多かったのも現金で闇取引が横行していたためである。バブル崩壊によって下火になったが、特捜部、金融庁、さらには財務省が連携して強力なパワーのもとで現在も管理を継続している。要注意人物にターゲットを絞り、数百万単位でもカネの出所を調査するのが普通になっているという。そしてバブル期の銀行は低金利でも預金を増やさず、融資先をやっきになって探していた。その後、バブル崩壊で融資の多くが焦げ付き、自己資本比率を高めるために「貸し渋り」「貸し剥がし」が横行、新たな担保(融資と同等以上の価値のみ)がなければ融資しなかった。そして、そこに預金や送金に関する新たな法規制が成立したのである。はっきりいって社会は金融(銀行)によって振り回されている。

この結果、かつて偽名口座を開設している人たちやその送金を受ける人たち、さらには闇組織は多大なる損害を被っている。どれくらいの損失を計上しているかは全容は解らない、当然公開されていない。2000年頃から始まった新たな金融コントロールは強化される一方である。ちなみに在日韓国朝鮮人は通名でも口座は開くことができるが管理は厳しくなっているとのこと。従って、かつての日本の闇組織の既得権は崩壊し、新たな闇組織が形成される。しかし国際的なカネのネットワークをアメリカに牛耳られたら闇組織は大規模な活動はできない。日本がシステム化と法規制強化するのは、間違いなくアメリカの意向を反映しているものである。

また海外では中国人の移民問題が取り上げられるが、ここでも金融システムによる管理が厳しくなっている。特に中国人富裕層は海外への移住を求めるケースが多い。特に移住先に多かったのがアメリカ、カナダである。従来のパターンは以下の通り。

①子供を現地に留学させる
②金融資産を現地に移す
③家族ともに永住権を取得
④正式に移民になる

ここで法規制、および金融資産の自由移動禁止をする。そうなると移民となることを計画していた中国人の夢は簡単に打ち砕かれる。カナダでは最近、金融資産があっても中国からの移民を制限するようになり、既に準備を進めた中国人の間で動揺が広がっている。ここまで露骨な政策をするのはさすが欧米らしい。しかし、これはカネの移動が大きいことと犯罪対策(スパイ対策?)の匂いがする。

まあ、こういう話は通常の生活をしている善良な市民には何の関係もない。やはり闇社会やそれに近い個人や団体への影響は大きい。そうすると必然的に中国人への影響が大きくなる。北京で行われている米中定期協議でも、そうした中国側の懸念を示すものと考えられる。しかしアメリカは絶対に譲らない。結局、中国の悪知恵もった人たちは窮地に立たされることになる。まあ、自業自得ではあるが。

しかし日本はあまり他人事と思わないほうが良い。将来的に日本はドル経済に関しては一定の距離を置いたほうが良いということ。日本には幸いにも強力な自国通貨(円)がある。グローバル化を進めることは、金融面でアメリカの管理下になることを意味している。一方で日本は財務省を中心として日本円の流れをグローバルで管理強力する必要がある。金融戦争ではまだまだ日本は強い。しかし新興国や途上国は簡単にアメリカ金融で潰される・・・残念ながら、これは繰り返される仕組みになっている。

日本と日本人は、まず闇の世界に手を出さないこと。国家としての資本形成を整備すること、金融政策を政府と日銀が一体となって対応すること、個人や法人の供給能力(特に技術力)の向上とそれに伴う融資が十分確保されること。これをベースにしていれば、金融社会の変化に十分対応することは可能である。


人をうらやむこと
福沢諭吉はかつて、このようなことを述べている「世の中で一番みにくいことは、他人の生活をうらやむことです。」確かに生活が豊かな人、名誉があるひと、素敵な奥さんや旦那さんがいること、子供がいること・・・人がうらやむことは多くある。しかし大抵は豊かな生活している人は何らかの苦労した経験を持っている。

勉学 ⇒ 勤労 ⇒ 訓練 ⇒ 知識・技能 ⇒ 高収入 ⇒結婚 ⇒ 失業 ⇒ 起業 ⇒ 成功⇒ 休暇 

上記の簡単なパターンを考えてみよう。ここで「うらやむ人」は「高収入」とか「成功」という部分しか見ていない。どんな人も人生の波のようなものがあって「忙しいとき」、「楽なとき」、「ヒマなとき」というのがある。生涯苦労しかないという人は日本では少くない。また生涯にわたり楽をしている人間は存在しない。

日本では、ほぼ全員が教育を受けることができ、行政サービスを受けることができる。また各種インフラも整っており、ほぼすべての国民にはチャンスはある。生まれながらの身体的特徴や能力の差といったものも存在することは否定できないが、誰もが何らかの可能性を持って生まれてくる。体は小さいが手先は器用だとか、勉強できないけどピアノが上手とか、体力はないけど計算が得意だとか・・・そうした様々な能力がある人が集まって社会が成立している。国民全員が得意なことは「愚痴」です・・・これでは社会が成立しない。

決して、それは支配層と被支配層という分け方ではない。政治家には政治家の苦労がある。男性には男の苦労がある。女性には女の苦労がある。政治家が庶民を支配しているとか、男性が女性を支配しているというのは基本的に幻想である。あるいは良い面だけを見て「妬み」を感じているだけ。たしかに歴史上では明確な支配層と被支配層が存在したことはある。現代も主従関係のようなものはある。現在でも中国や朝鮮半島はそうした思想が根深い。

しかし日本社会は、そうした二極化だったのだろうか?戦後の高度成長期なんてのは意外に平等だった。誰でも成功する可能性があった。むしろ最近の新自由主義的な方向性の方が二極化を進めているのではないだろうか?政府の規制緩和策では、「すべての国民にチャンスを」と聞こえのいいことを主張する政治家もいる。「既得権益の打破」とかいう表現もよく使われる。しかし実際には誰かが培った知恵やシステム、あるいは長く続く伝統のなかで築き上げられたもの。そうしたものを庶民の「うらやみ」精神を煽って、横取りしたいというのが考えが見え隠れする。

地位や名誉、そしてカネは横取りするものではない。自分たちで築き上げるものだ。結局のところ、だれそれは「既得権益がある」だとか「天下りはゆるさん」とか民衆の「うらやみ」を煽っているだけではないか? 人間に「うらやみ」とか「嫉妬」があるのは個人レベルでは多少仕方が無い。しかしそれを政治的に社会を煽るようなことはあってはならない。

「うらやみ」と「あこがれ」は違う。誰もがスーパースターに憧れる。例えばワールドカップのサッカー選手なんて英雄のようだ。しかし英雄は結構身近にも存在する。私は様々な業種の方々と出会ってきたがが、どんな分野でも輝いている人は本当に輝いている。それが掃除のおばさんでも、豆腐屋のオヤジでも・・・そういう人たちって本当にかっこいい。

でも何の得意分野もなく「他人の生活をうらやむ」・・・そして人を陥れてカネや名誉を奪う・・・やはり、「世の中でに一番みにくいこと」であることは間違いない。


ウサギは生き物だ
7月6日のブログ「ウサギは月へ」の続きの話。

私の愛娘のペットのウサギが死んでから、娘は心の整理ができずに、新しいウサギが欲しいと言い出した。「今度は絶対に死なせるようなことをしない・・・」という彼女なりの強い意志があった。

そこで、以前ウサギをもらった場所に未だ仔ウサギが3匹いるとのことで、見に行くことにした。そこで気付いたのが、他のウサギは既に大きくなっていること。もともと娘は一番小さい仔ウサギを選んだとのことだが、それでもその死んだウサギがとても小さく成長が遅かったことに気付いた。通常、ウサギは数ヶ月でかなり大きくなる。そして、他のウサギは死んだウサギと顔も異なり、しぐさも・・・すべてが違った。

娘はいった。「違う、違う・・・」 そしてペットショップにも行った。そこには大柄で態度の横柄なウサギしかいなかった。そこでも娘は「違う、違う・・・」 やはり死んだウサギの替わりは存在しなかった。考えてみりゃそうだ。人間だって愛する人が亡くなっても、その替わりなんて存在しない。人間と同じように死んだ生き物をよみがえらないし、同じような存在を探しても見つからない。「生き物はモノと違う」 モノのように無くなったから、壊れたから新しいのと買い換えるということはできない。

「生き物はモノとは違う」 娘も、そして私も改めてそう感じた。動物をモノ扱いする・・・人間ですらモノ扱いする・・・そういう社会はどこか間違っている。人間に対しても動物に対しても常に感謝の気持ちがなければ心の整理はできない。特に直接に人と関わったり、動物と関わった人なら皆共通の認識である。

娘も少し成長した気がした。そして私も改めて勉強になった。


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七夕を考える
今日7月7日は「七夕」。織姫と彦星の年に1度の会う話が有名であるが、地域によって7月に実施したり、8月に実施される。たしか平塚が7月で仙台が8月だったかなあ。しかし本州、九州では梅雨の影響で雨になることが多い。今日も例年通り雨が降っている。

星を眺めるなんてあまりなくなった。というより都市部では雲がなくても夜空の星は見えにくい。でもそれは今に始まったことではない。どちらかというと七夕では縁日のようなものがメインになっている。私は、花火大会にしても、夏祭りでも、とにかく人が多くて正直いって好きではない。なぜか私の妻も子供たちも好きではない。

私の住む街でも縁日のような催しがある。しかし最近では行かなくなった。何故なら「値段が高い」「汚い」というイメージが強いからだ。昔から、ガラの悪い人たちが仕切っていたり、それを役所が取り締まったり・・・決して美しいイメージではない。もちろん、それを楽しみにしている子供たちや中学、高校生もいるのも事実。行くか行かないかは当然ながら個人の自由である。

しかし、ここ数年ニュースではマイナスなイメージが強くなっている。花火大会の歩道橋事故やガス爆発事故などに代表されるように「汚い」イメージに「危険さ」のイメージが加わった。それでも、よく夏の風物詩という表現もされる。しかし地域活性化というより、実際には地域の商店街や近隣住宅地ではむしろ嫌がっているケースが多い。それは先にも述べたように「汚れる」ということ、そして通常の商売に影響するからだ。だからといって実行委員会に文句がいえない。何か少しずつ、歪が生じてきているように見える。

私は個人的に「祭り」に関して、自然とともに静かに祈りを捧げる・・・それだけで十分と思っている。

かつて子供の娯楽というのは少なかった。地域の各種催しは子供たちにとっても重要な役割を果たしていた。また地域活性化の役割も果たしていた。しかし最近では子供の娯楽が多様化している。10歳くらいからは家庭用ゲーム機はもちろんだが、パソコン、タブレットでインターネットをみたり、動画を見たり・・・テレビはあまり見なくなった。私の娘もそうである。娘は外で遊ぶより、家でタブレットみたりピアノを練習したりする方が好きである。

最近の子供は外で遊ばなくなったと嘆く年配の方も多い。一方で子供を一人で外で遊ばせると危険だと訴えるPTAもいる。まあ、どっちもどっちで偉そうに言っているだけ。実は子供って意外と周りの状況を良く把握している。私の娘も自分なりに考えて行動している。私はそれでいいと思っている。タブレットって結構便利で勉強にもなる。私の娘もタブレットを使って「七夕」をググって(グーグルで検索)、七夕の本当の意味を知っている。


ウサギは月へ
今回、「理系おじさんの社会学」としては少し変わったテーマであり、しかも個人的な話題を取り上げたい。それは動物の話である。昨日、私の娘(小学生)が飼っていた仔ウサギが突然亡くなった。原因はよくわからない。まだ生後3カ月程度だった。エサや水も十分与えていたし、ストレスかからないように外で遊んだりもした。我々家族にもなついてくれた。それなのに、ほんとうにあっけない終わりだった。数時間前まで、いつもと変わらず元気に見えたのだが・・・そして娘がずっと泣いていた。面倒くさがり屋の娘が頑張ってよく世話していた。ウサギに名前まで付けて・・・。でも一般的に、数カ月で仔ウサギが突然死することは、ごく普通なことだそうだ。もともと弱いウサギだったかもしれない(ショップではなく、もらったウサギです)。

ネットで色々と調べたが、ウサギって体調悪くてもそれを周りに気付かれないようにするらしい。何か変だと思ったときにはもう遅いこともあるそうだ。我が家もそうだった。異変に気付いて動物病院へ連れて行く間もなく死んでしまった。ウサギはイヌやネコと違って鳴かない。つまり何かを強く主張するようなことはしない。一方でウサギって何か人間の特別に役に立つような動物でもない。しかし人間に迷惑をかける動物でもない。ただひたすら愛らしいという極めて平和な生き物だ。そして、静かにひっそりと旅立ってゆく。

ウサギの有名な神話では「火に飛び込むウサギ」の話がある。他の動物が人間に食べ物を貢いだが、ウサギだけは何もなかったので自ら火に飛び込んで食されることを望んだ・・・こういう話は日本の神話でもインドの神話でも同じような話がある。あの手塚治虫の名作「ブッダ」では、冒頭にこの話をモチーフとしたストーリーが台詞なしで絵だけで展開される。日本の神話では、ご存知の通り「神に導かれて月へ行った」・・・とされる。ウサギは月の化身であり自己犠牲の神のようにいわれた。

ウサギを飼って、亡くなって・・・なぜこのような神話が生まれたのか何となく理解したような気分になった。動物って、牛、馬、犬、猫・・・人間に身近な動物は、何らかの「人間に役に立つ」存在が多い。例えば、猫はネズミよけ、犬は番犬、馬は乗り物、牛は農業・・・でもウサギは別に人間のためには仕事はしない。かといって人間に何か迷惑をかけることも少ない。そこには主従関係や利害関係はない。人間が一方的に毛皮や肉を得ていることへの償いのような気持ちが神話にはあったのではないだろうか?あるいは何の罪のない平和な民を殺した歴史の比喩としてウサギ神話が誕生したのかもしれない。

当然ながら我が家では、ウサギの毛皮を取ったり、肉を食したりしない。しかし、あまりの「愛らしさ」のためにオモチャのような扱いをしていたかもしれない。申し訳ない気持ちとともに「ウサギが月へ」行って神になってほしい・・・と自然にそんなことを思った。ずっと泣いている娘にはそんな話をした・・・。娘は「月に食べ物ないじゃん」って現実的なことを言った。でも私の話を理解してくれた。そういう娘を誇りに思った。「理系おじさん」の私だって、時にはそんなことを考えることもこともある。それが人間らしさというもの・・・・。


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カニバリズムと中国文化
ここ数年、「進撃の巨人」というマンガが人気を博している。巨人が人間を食するのがインパクトがあるが、世界の歴史上では「食人」は実際によくあった事実である。カニバリズムということばもあるが「宗教儀式」でよく行われた。

よく現代中国でも「中国人は四足であれば自動車以外は何でも食べる」という有名なことばがある。実は近現代まで中国では「二足」ですら食していた。つまり「食人」である。

中国の古い文献には「食人」について多くの記述がある。かつて私はこういった記述は「南京大虐殺」と同様に「誇張」したものである・・・と考えていた。しかし中国、朝鮮では古来より凌遅刑(肉を剥ぎ取り人食しながら処刑する)が存在していたことは事実であるし、近年問題になったいわゆる「人肉カプセル」も事実である。そうすると多くの文献は事実を語っていると考えられるべきである。

中国の歴史は常に「気候変動による食料危機」、「異民族の侵入」そして「虐殺」を繰り返してきた。あの小室直樹氏も自身の著書でそのようなことを述べている。彼によれば、中国の人食文化は世界各国で見られる「精神異常行為」「宗教的行為」「飢餓時の緊急避難行為」とは異なり、日常の文化に近いものだったという。

通常、かつてのインドネシア等の宗教儀式としてのカニバリズムでは、ヤコブ病や狂牛病のような症状を発したことが知られている。つまり日常的に人食をしていれば、何らかの脳障害を発する。

一方、かつて古代日本でも「食人」の記述は存在する。また日本の戦国時代での「兵糧攻め」や「飢饉」にて餓死者と人食が行われていた記録もある。しかし文化としての「食人」はない。基本的に古代日本は古代中国に学んだことは数多い。例えば、漢字、律令制度、稲作、仏教、貨幣・・・等。 小室直樹氏は、食人と纏足(てんそく)、科挙の三つは、日本に定着しなかったと述べている。加えていえば、九族皆殺し、凌遅刑、朱子学も日本に浸透することはなかった。

つまり初期の古代中国の文化以外は日本は中国から何も学んでいないということである。それは現代も続いている。まあ学んでいないというより、学ぶ必要はない、あるいは学んではいけない・・・と判断しているわけだ。

毛沢東の文化大革命では数千万人も餓死、あるいは殺されたといわれている。当然ながら「人食」が行われていても何ら不思議ではない。しかしそれは飢餓状態でこと。よく中国では訳のわからない迷信が蔓延ることが多い。人食も迷信と関連している。

しかし何故こうなるのだろう。これは私のとらえ方だが、彼らは現実をストレートに観察したり論理的に解析することが苦手なのである。迷信や妄想、それが彼らの科学なわけだ。そしてその思考回路は現代の中国人や朝鮮人にも引き継がれている。やっかいなのはそうした人種が現代の中国や朝鮮では多数派になっていることである。


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やる気のない戦争
集団的自衛権の問題で何かと話題が多いが、前回に引き続き「戦争」について考えてみる。日本史を振り返ると国内の戦では「大義」がなければ軍勢は動かない。民の支持は得られない。これが基本であった。戦国時代も天下布武とか天下泰平というのが「義」であった。民を虐殺して食料を奪うとかの行動は稀なことだった。応仁の乱では京が荒れはて、餓死者が出たこともあった。羽柴秀吉(黒田如水)のように兵糧攻めで民を餓死させることがあった。しかし大抵の戦は軍VS軍の構図であり、民族対立ではない。ここが日本国内の戦乱と大陸の戦乱の違うところである。

そして日本の場合は、国際戦争することは稀だった。大規模な戦争は、中世ではモンゴル襲来と秀吉の朝鮮出兵くらいしかない。以前、当ブログでは戦争や紛争は食料とエネルギー問題が関連していると述べた。しかし、これらの戦争のきっかけは食料やエネルギー問題ではなかった。そして不思議なことに、このいずれの戦争も攻撃側の「やる気のない戦争」だったこと。

モンゴルの襲来といっても、主力軍は高麗軍と漢民族軍であった。そもそも漢民族も高麗民族も、海の戦いを全く知らないし、やる気もなかった。一般的に日本では神風が敵を壊滅させたとの伝承があるが、正確には文献では翌朝敵船は一艘いなくなった・・・との記述がある。おそらく意外に日本軍が強いので、さっさと逃げたというのが事実だと私は考えている。

前回も少し述べたが、そもそも漢民族や高麗人は強い相手と戦わないというのが伝統である。(逆に弱い相手には徹底的に攻撃する。)モンゴル兵も得意の騎馬戦法が使えず、日本上陸しても返り討ちになると解っていたと思われる。もし戦争が長引いても、モンゴル軍は日本に勝ち目はない。当時、あれだけのモンゴル軍勢に対して海を越えて物資の大量輸送が迅速にできたとは考えられない。日本本土に上陸しても全滅させられる。それが当時、海に囲まれた国家の強いところである。

一方で秀吉の朝鮮出兵はどうであろうか?日本の軍勢はそもそも「大義」がないのでやる気がなかったのはモンゴル軍と同じである。唯一期待していた「新たな領地」にしても、当時の朝鮮半島は痩せて荒れた大地だったので魅力的には映らなかっただろう。そもそも朝鮮出兵は当時は「唐入り」と呼ばれ、朝鮮は通過点であり秀吉の目標は中国だった。その通過点で物資の現地調達ができないというのは致命的である。日本軍としては、小西行長軍にしても加藤清正軍にしても競うように無意味な軍功をあげようとする。軍勢はやる気がないのに各地で勝利してしまうのである。

理由は相手の朝鮮軍が弱いこと。朝鮮の一般民衆はむしろ日本軍に協力することもあったいわれている。つまり国民意識はそもそもない。軍備を比較しても、日本は鉄砲を持っている。朝鮮は持っていない。弓矢の飛距離も断然日本側の方が長い。日本は戦国時代を生き抜いた有能な軍隊だった。まともに戦ってもの実力の差は明らかだった。しかし物資の現地調達が困難なので日本本土から供給しなければならない。

もし物資の供給(海上、陸上輸送)が十分であれば、数年で半島は征服できていた可能性がある。下手すると北京も占領できたかもしれない。しかしそうなると日本国内の経済は疲弊する。そうなったら将来は泥沼になるだろう。そもそも富のない地域を侵略しても何の意味もないどころか、本国の経済問題に発展する。おそらく大陸に深入りすると泥沼になるということを当時の軍師たちは知っていたのではないだろうか?私の勝手な想像だが、黒田如水はそれを熟知していたような気がする。(詳しい方おられたら教えてください)

おそらく黒田如水は戦況を有利にしながらも、何処かのタイミングで撤退するシナリオを考えていた?また、秀吉以外の重臣もやる気がなかった。徳川家康はこの機に豊臣方の分断工作をはじめていたと考えられる。

つまり日本軍は「勝てる戦を自ら放棄」している。ここが漢民族と朝鮮民族との思想の大きな違いである。そして絶好のタイミングで秀吉が死去している。この二つの「やる気のない戦争」は似ているようで全く似ていない。モンゴル軍の「勝てない戦は止めて撤退する」と日本の「勝てる戦だが止めて撤退する」この差は民族性以外には考えられない。

まあ現代社会ではこのような戦争が発生する可能性は極めて低い。いやありえない。結局、意味のない戦争は歴史上では多く発生したという話である。しかし問題なのは学校教育でこの戦争どのように教育するかである。攻め側が「やる気のない戦争」。つまり、特殊な戦争だったということ。そして当時、日本は結構強かったこと・・・それを何故か学校ではあまり教えなように思える。


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「戦争しない国」にするためには
集団的自衛権の話題がつきない。そこでよく目にするキーワード「戦争しない国」という言葉が出てくる。誰だって戦争を望まない。では歴史を振り返ってどういう状況になると戦争になりやすいかを論理的に考えてみよう。

先ず、長い歴史の大きな変化は必ず自然環境の変化がきっかけになっている。地球寒冷化に伴う、農産物の減少、異民族の侵攻。度々、そうした内容を当ブログでは述べてきた。「食欲」は人間も含め動物の基本行動である。宗教的断食や一般ダイエット以外は必ず食料は必要になる。人が食えなくなると死が待っている。通常は飢えると衰弱して、戦う能力さえ失う。本当に飢えていれば戦いはできない。

では何故、歴史上では「飢え」を理由に混乱したのか?それは「飢え」というより正確には「飢えの危機感」である。何度も言うが本当に飢えれば戦う能力は失う。「腹が減っては戦はできぬ」は当然のこと。飢えの末期では他人の死体を切り刻んで食する力くらいしか残っていない。中国の大躍進政策は天災ではく、あきらかに人災であるが、やはり食料問題がネックになっている。大躍進政策では人や物の移動は禁止されていたので大規模な戦争になる前に皆が餓死してしまったというのが真相である。

歴史上、食料危機になった場合に支配階級は多少の食料在庫があり短期間はしのげる。しかし将来のあてがなく、「飢えの危機感」が生まれる。そして他国への侵攻をするわけだ。あるいは自国民を捨てて、さらなる搾取をするかである。彼らは民衆が餓死する姿を目の当たりにしており、支配階級はそうなることを極度に恐れた。これが北方民族の南下の典型的なシナリオである。そして移民族の侵入により押し出された民族は、また移動先で紛争になる。この連鎖反応がかつての民族大移動の歴史だった。特に大陸では軍隊の持たない(あるいは弱い軍隊)の村々は簡単に征服された。

そして近現代になると、農業の増産するためには「耕運機」などの機械が必要となる。またそれを動かすためにガソンリが必要であり、農産物を輸送するトラックのガソリンも必要。そして食材を調理するためには電気、ガス、水道が不可欠である。つまり食料を得るためには各種エネルギーも必要ということになる。

かつて日本も大東亜戦争では石油禁輸という経済制裁(昔で言う兵糧攻め)されたことが、戦争のきっかけになった。備蓄の石油は数年存在していたのですぐに飢餓になるわけではなかったが、将来の「飢えの危機感」そして「アメリカの奴隷になることへの危機感」が戦争へと導いた。この危機感は現代日本人には解りにくいかもしれないが、当時の歴史感では当然のことだった。

最近の例では、かつてルーマニアのチャウセスク政権下でも対外債務を返済するために、自国の食料を輸出して外貨を得ようとしたことがあった。これで国内の食糧不足に拍車をかけ、インフレに見舞われることになる。これが政権崩壊の一因になっているといわれている。不況なのに国内の食料に手を付けるとは・・・対外債務の拡大がいかに恐ろしいことか、また自国の農業政策や金融政策ができない状況は地獄のようなものである。

あのパレスチナ紛争でも、問題の要因は数多くあるが、農業をどうするかが大きな問題だった。ユダヤ人は小麦栽培、パレスチナ人は柑橘類の栽培を推進しようとした。それは自国の食料と輸出(外貨獲得)の目的とが複雑に利害関係が絡んでいたからだ。例えば外国の援助で農園整備をして、このときの労働者はパレスチナ人で、その後ユダヤ人の葡萄園にされる・・・。このような不条理なことを繰り返していたという。こういうことは人々の憎悪を助長する。

食料やエネルギーの危機感が生まれれば紛争や戦争になりやすい。近現代史の戦争では食料とエネルギーが必ず関連していた。イデオロギーなんてのは民衆を利用するためのプロパガンダにすぎない。

本当に「戦争しない国」になるためには先ず自国で食料、エネルギーの自給率を高めること。さらに巨額の対外債務を抱えないこと。そして近隣諸国が「軍事力」という日本へ侵攻するかもしれないという「危機感」を解消するには、残念ながら日本も「軍事力」を持つしかない。もし自国に「軍事力」がなく、食料やエネルギーが豊富にあれば格好の標的になり「侵略して食べてください」と言っているようなもの。実際に西洋列強の植民地支配はそういった構造だった。幸いなこと?に中国という国は「強い相手とは戦わない」歴史がある。つまり日本が強ければ攻めてこないということだ。

現在の日本のGDP480兆円程度あり、個人消費が280兆円規模ある。諸外国は「おいしそうな巨大市場だ」と考えるのは当然である。通常、富がなければ侵略はない。明治政府の富国強兵というのは当時として当然のことであり、現在も基本的には変わらない。最近のTPP交渉はアメリカが、日本の美味しそうな市場が欲しいだけという話だ。

たしかに現代社会では直接的な奴隷制度が復活することはありえないであろう。しかし経済や金融、そして貿易協定にて自主性を失い、外国の言いなりになることは十分にある。それに耐えきれなくなれば紛争になる。あるいは実質的な経済奴隷になる。

本当に「戦争をしない国」にするには、こうした歴史的経緯をしっかりと理解することだ。気候変動はどうすることもできないかもしれないが、日本の場合は農業政策、工業政策、エネルギー政策、そして金融政策は可能である。外需依存ではリスクが高い。そして豊かな国なればなるほど他国から狙われやすい(金持ちは泥棒に狙われやすい)。だから一定の自主性のある軍事力が必要になるわけだ。


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集団的自衛権の行使容認
安倍内閣は、集団的自衛権の行使容認を閣議決定した。首相はあくまで限定的であることを強調している。しかし各大手マスメディアは「戦後の安全保障政策大転換」と論じた。また、これに反対する勢力のデモもあることを報じた。例のごとく「タイコでどんどんどこドン」何処かで聞いたことあるようなリズムで反対している映像もテレビで流れた。また新宿駅近くでの焼身自殺する人間もいたようだ (この人はホントにまともな日本人かなのかなあ)。

こうしたニュースは何故か海外メディアへ拡散されイメージ戦略が続いている。やはり日本のマスメディアは何かに侵されている。いや犯されていると言った方がいいかもしれない。それは女性が男性にレイプされるように・・・マスメディアは何かに犯されている。そう、ここはフェミニストにも関心と協力願いたいところだ。

一方、ネット上では圧倒的に肯定派が多い。産経新聞は肯定的に報じているが、朝日新聞は「暴挙」と伝えている。では、ここではいくつかの論調を整理してみよう。

① 日本はアメリカに守ってもらっているのだから、アメリカが攻撃されたら日本も協力して反撃するは当然というもの。

これが今回の閣議決定の基本趣旨である。ただし、これはアメリカだけではない。同盟国である韓国も含まれるという解釈もできる。しかし韓国が公式に拒否するなら北朝鮮が韓国を攻めても日本は韓国を見捨てることができる。これを韓国がどう判断するかは韓国しだい。そしてよく議論になる「アメリカの戦争に巻き込まれる」・・・たしかにそれは正しい見方だ。誰だって、そんなのまっぴらだ。

② 集団的自衛権はいらない。でも在日米軍とアメリカの核の傘は必要

いわゆる現状維持である。これでは日本はアメリカに対して何も言えない(今までもそうだった)。アメリカ従属が望ましいという考えである。いわゆる戦後体制そのままの状態が是とする考えである。

③ 米軍は日本から撤退する。そして日本も軍備を持たない

日本が憲法に従って、すべての軍備を放棄するというもの。これは憲法至上主義(法律バカか文学バカ)による単純な考え、あるいは日本が軍事的に弱い国になるのを望む中国、そして反日左翼の一番望む姿である。

④ 米軍は日本から撤退、そして日本が自主防衛の強靭な軍隊を保有する(核武装する)。

これはアメリカ、中国ともに一番嫌がる選択視である。本来ならば日本は欧州の保守勢力や東南アジアやアフリカを味方にできれば良いが・・・まだパワー不足か?

さあ日本としては、どの選択視が理想であろうか?私は迷わず④が理想であると断言する。一方で集団的自衛権を否定する人たちはどれを選択するであろうか? あの反対デモの「タイコでどんどんどこドン」を聞くと間違いなく③であると推測できる。つまり反対勢力の中心は親中であり反日左翼なのである。

③を選択する人たちは、日本の富をだれでも食うことができる状態を望む人たちである。つまり戸締りしない家、防犯システムの無いマンション、保安官のいない街・・・もっと強烈な言い方すれば、衣服を一切身につけない素敵な女性を無防備にさらけ出すことと同じである。③を選択する人は日本を丸裸にしてレイプされてもよいという発想である。

是非フェミニズムの人たちも日本をレイプから守るために④に協力していただきたいのですが・・・あれっ、フェミニズムの人たちは日本がレイプされてもいいのかなあ?? いつもレイプ反対のフェミニストさん、反日左翼さん・・・は日本を丸裸にして諸外国からレイプされてもいいのですか?それでも貴方がたは③を選択しますか?私は、それを強く問いたい。

ちなみに私の意見である④への道のりは未だ遠いのが現実だ。現在は恥を忍んで安部政権が推進する①に賛成する。ただし、ここで韓国が反対するなら、「あとは半島のことは知らないよ」という強いカードを持つことができる。それでも、おそらく韓国は日本の集団的自衛権を否定するだろう(韓国国民がそうだから仕方がない)。韓国はそういう国である。

中国や朝鮮、そして日本国内の反対派と対立することは、日本が本当に「脱亜」をする大きなきっかけになるかもしれない。福沢諭吉の脱亜論がここでようやく具体化する良いチャンスであるとあえて肯定的に考えたい。

さて安部首相は先般、「海外で活動する日本人NGOを守る」という説明があり波紋を呼んだ。NGOは名前の通り、基本的に政府と関係ない組織という立場だが、では日本政府は無視していいのか?ということになる。 日本人である以上、区別や差別はできない。それは日本国内で大災害が発生した際に「自衛隊が左翼系の住民を助けない」なんてことにはならないのと同様である。民主党の辻本清美はその理解が全くない。

また一般日本人の外国居留者(特に中国、韓国在住)は、いつ何時危険にさらされるか分からない。有事の際の輸送を考えると集団的自衛権の行使はやはり必要だ。先般、天皇陛下が70年前に疎開児童を輸送する船舶が米軍に撃沈されたことの追悼式典に出席された。一般国民を危険から守るのは国家として重要な役割である。

テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済

「次世代」を考えない人に政治はできない
「日本維新の会」が分党して、石原慎太郎らのグループは「次世代の党」を結成した。私は「旧日本維新の会」の方針にすべて賛成というわけではないが「次世代」ということをテーマにしているところは高く評価したい。

恥ずかしながら、私がまだ独身だったころ(30歳ころ)まで日本の将来なんてどうでもいいと考えていた時期があった。それは個人主義がどうこうというカッコ付けた感覚もあった。しかし本当は社会について知識が足らなかったことが影響している。最近の学生だって、半数以上はそうだと思う。でも、それが普通のことと思ってもいい。逆に「知ったかぶり」している人の方が多いかもしれない・・・しかし、そこは優しく見守ってあげるのが方がよい・・・私だってそうだったから偉そうに言えない。

私の考え方が変わったきっかけは二つ。一つ目は「仕事」が理解できたこと。そして二つ目は「結婚」である。

先ず仕事について、どれだけ学校で勉強したといっても実社会で勉強することの方がはるかに影響は大きい。そこで技術や知識を積み重ねることがいかに大事か。先輩から後輩へ実務を通じて学ぶことがいかに重要であるか。また、世の中は誰かが何処かで苦労しているから成り立っている。顧客だけでなく、資材取引先、設備メーカ、電気だって、ガスだって誰かが供給してくれるから生産活動ができるのである。

続いて二つ目に「結婚」について、やはり結婚して子供を持つと必ず「将来のこと」を考える。もちろん子供が産まれた時の純粋な感動、乳幼児の世話の苦労、子供が成長する歓び。妻への感謝の気持ち・・・そして将来の10年、20年・・・この子たちが大人になったら・・・なんて考えるのは日本人の親なら皆がそうであろう。

中国、朝鮮は少し違う。ここで朱子学的な思想に注目する。それは「子より親を大切せよ」である。これは重要なキーワードである。子はあまり重要でない。「子供はいくらでも増やせるが親は二人しかいない」という考え。子供はどちらかとというと疎かにされる。つまり将来はどうでもよい。そして今が良ければよい・・・今の面子が大事・・・どうしてもこういう考え方になってしまう傾向がある。

そうなると政治的にどうなるか?そう将来のこと、次世代のことを考えない政治になるのである。6/29のブログ「フェミニストの運命」でも少し述べたが、フェミニストの多くは将来なんてどうでもいいのである。過去に拘り(しかも嘘)で現代人を恐喝する。将来なんてどうでもいい。過去の償いしろ。今カネよこせ。今権利をよこせ。それがすべてである。本当に将来の日本の子供たちのことを考えたら日本を貶めるようなことはできないはずだ。

国を恨む、人を妬む、人のあげあしをとる、人が失脚するのを喜ぶ、人の不幸を喜ぶ、他人に責任にする。感謝の気持ちがない・・・。そんな人に次世代のことを考えることができるであろうか?将来なんて考える余裕はない。今の名誉とカネがすべてである・・・確かに、こうした思想になるのは様々な背景や理由があったかもしれない。

だからといって彼ら彼女らの意見を社会に取り入れてはならない。そんな連中に政治のかじ取りさせてはならない。感謝の念を持たない者に敬意を示す必要はない。



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小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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