理系おじさんの社会学
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地域社会の崩壊?
年配でしかも保守層と呼ばれる方々から次のような主張がよく出る。「日本の地域社会が崩壊へ向かっている」。だからそれを復活して「グローバリズムに対抗」しなければならないと。あるいは「日本の町内会を崩壊させるのは許せない」とか言った主張である。私も完全な地域切り捨て論には反対である。そして私もグローバリズムに疑問を感じる。しかし彼らの主張にも大いに疑問を感じる。しかしこうした議論は地域はもちろんのこと、ネット上でもタブー視されている気がする。

日本の歴史を振り返ると、江戸時代は城下町、職人町、農家の集落、漁村・・・等、様々であった。城下町は当然ながら城を中心に武士や町人が住み大いに賑わった。また職人町では「寄合」を通じて、相互に協力しあって生きてきた。地方では主に神社や仏閣を中心にして領民が結束して生活した。当時は当然ながらガス、水道、電気もないから、井戸(真水)を分け合ったり、薪を分け合ったり、自警団だって活躍した。当時は現在のような流通も制限されていた。水運を利用して小型船での物資の運搬もあったが、大型トラック、大型船舶もない、もちろんネット通販なんてのもなかった。娯楽だって少なかった。江戸には歌舞伎が盛んだったが、地方では村の祭りや、神社仏閣を中心とした各種イベントがあるくらいであった。だから庶民は地域ごとで協力しないと生きていきない。それは当然のことであった。

しかし時代は流れた。現代の日本社会では各種インフラも整備された。そういう過去の社会の在り方が大きく変わったことは事実である。最近では、田舎の中心的役割であった仏教寺院では建物の維持管理すらできず、門徒も少ないために廃墟になることがある。また資金難のために仏像を売却する僧侶すら存在する。あの本願寺系ですら地方は独立採算制なので京都の総本山からの資金援助はほとんどない。地方の古い商店街もシャッター通りと化した。復活した古い商店街も稀に存在するが、もともと地元の運営ではなく大手企業や中規模の企業の出資で成り立っていることが多い。やはり地方であろうと、商品の調達システム、労務管理システム、顧客との契約システムは重要である。がしかし、個人経営だといずれのシステムも不十分になることが多い。特に労務管理システムはお粗末である。ロクに教育訓練もしない、仕事がなければ「帰れ」と言われる。せっかく地元に求人があり応募しても、その有様だ。もちろんすべてがそうではない。だが、そのような話は地域でよく耳にする話である。

あと地方では一種の癒着も多い。例えば、学校ではPTAに制服販売する業者があれば、そこを使用しなければならないとか、文具や備品もPTAと関連する業者から購入しなければならないとか、結局入札がないのでやりたい放題である。こうした金額は累積でかなりの高額になることが多い。結局、生活が苦しい子供を持つ世帯の大きな負担になっている。まだ学校給食に時折「地域の食材」を入れることくらいは良いことかもしれない。しかし結果的に子育て世代の負担だけを増やせば、結局は地域のためになっていないと判断できる。つまり一部の業界だけが得をする。グローバリズムを非難する際によく出る話と同じじゃないですか。

こうしたやり方は、地域で関連する仕事している人にとっては良いシステムかもしれない。しかし都会へ通勤しているサラリーマンや地域に直接関係のない製品を製造している工場勤務の人にとっては迷惑な話である。そもそも、PTAとは親、先生との連携ということを建前にしているが、完全に利権が絡んでいる。地域の事業だってそうである。イベントをやるのは結構だが、全住民に寄付金を強要したり、ボランティアを強要させたり、そして対立が発生することも多い。協力できない人も多いが「非協力者」のレッテルを貼る。広義の意味での強制性(W)もあるかも?

当ブログ4/25の「交流は対立を生む」でも述べたが、一見して「地域で協力しあう」は美しい言葉に思えるかもしれない。しかし実際は、個人の多様性を無視して「統一」し、さらに「その頂点で支配したい」という、グローバリストの考えと何ら変わらない。地域社会は崩壊すると危機を煽るのではなく、むしろ変化することを受け入れるべきである。

将来、ネット社会や価値観の多様性はこれからも進化する。それはもう避けられない。たしかに地方の商店街がシャッター通りになることは残念なことではある。でも心配する必要はない。高い技術をもった職人さんは必ず生き残っている。伝統芸能や伝統文化だって間違いなく生き残っている。それを素直に求める人たちも多いからである。そして美しい価値観は少数派であっても生きている。

結局、グローバリズムとは関係なくても「良いものは残る」そして「悪いものは淘汰される」のだ。日本の歴史で学ぶ上で、解りにくいかもしれないが、歴史上「過去に消えていった文化」は「現存する文化」よりはるかに多い。残っている文化だけを現在も紹介しているから、「古い文化は良い」という錯覚に陥るのである。神社仏閣でもそうだ。今残っているのは立派な建物であり、そうでない質の悪い神社仏閣も過去に多く存在したが、とっくの昔に無くなっている。思想哲学だってそうだ。江戸時代に朝鮮風の朱子学は日本に流入したことがあったが結局は日本に定着しなかった。キリスト教の選民思想だって日本にそれほど定着しなかった。それは日本が壁を作ったことが主要因ではない。結局、馴染まない文化はルールを変えたって馴染まないのである。

現在も同じである。地域振興とかいって質の悪いイベントやっても数年で廃れてしまうことは結構多い。主催者は自分たちの無能ぶりには背を向けて、やれ「地域の若者は非協力的だあ」とか、「地域振興を無視するのかあ」と他人の責任にすり替えようとする。「若者が悪い」という一見それらしい年配者の主張に騙されてはいけない。こういうやっかいな年配者は結構大陸系が多い。一方、地域再生に成功してリピーター客を増やしている地域だってある。個人商店だって町内会や商工会議所を通じなくても個性を生かしてネットで有名になっている店も数多くある。こういう主張は、よく「新自由主義者」も主張をするが、それはある意味で正しい。また、シャッター通りは可哀そうだから支援しろという論調は、生活保護者の生活レベルを上げろという左翼や人権派の主張と何ら変わらない。私に言わせれば、それは保守であろうが左翼であろうが結局は同じなのである。特定の利益を主張しているだけである。

たしかに私もグローバリズムには反対である。それは、これまで当ブログで多く述べてきた。基本的に国家というものはマクロ社会を考える存在である。経済でもマクロ経済とミクロ経済は違った見方しなければならない。物理学だってマクロとミクロの見方はことなる。社会だってそれは同じである。国家というマクロ社会と地域というミクロ社会を同一視すべきではない。社会基盤(各種インフラ、法整備、教育)を整備するのは国家であり、安全保障(防衛、エネルギー、食料)を守るのも国家の役割である。これらをグローバルで完全自由化することはありえない。しかし日本の地域社会は国が整備する社会基盤の中で市民に自由度を持たせるべきである。

にも関わらず、地方では自治会連合とか、広域連合だとか、道州制だとか「余計なこと」を目指す動きがある。私にはそれこそ新たな利権と権力を目指しているようにしか見えない。日本の場合、私は三つで十分だと考える。それは国、県、市町村それだけである。市町村合併した以上は県の意味は低下した。県の役割は少なくしても構わない。はっきりいって、地域によっては町内会は無くしても良い。あと学校のPTAも無くすべきである。(ちなみに初音ミクの「くたばれPTA」はいい曲だ)

そのかわりに市町村の職員や予算を増やして、市の権限も強めるべきである。そもそも地方公務員の人数や予算を減らしたり、あと市町村合併の推進したのはやりすぎであった。市町村合併を推進すれば県の意味は低下する。たしかに今まで地方の無駄使いはあったかもしれない。しかしその主要因は別のところにあった。それは「余計な事」を推進しようとする地域の自治会、商工会議所、そしてPTAの存在である。ちなみに市議会議員なんてほとんどが自営業者や農業関係者である。地方で本当に必要なことがある場合、予算がなければ国が交付金増やせばいい話なのである。「余計なこと」あるいは「必要ないこと」を借金してでも実施するから地方は失敗するのである。

結局、役所も縮小の方向でパワーが無くなったから自治会やPTAに丸投げするのである。この「悪循環」に多くの市民は早く気付くべきである。しかし、あの名古屋の河村市長ですら地域はボランティアに任せろという。でも実際にボランティアに任せることができるのは限られた業種だけである。たしかに自己犠牲の精神でボランティアする方もおられるだろうが、そういう方だけに頼っても行政には限界がある。むしろ別の目的でボランティアと称して群がる怪しい集団に注意しなければならない。そもそも大人になってもプラプラしている連中が突然ボランティアを称して集まっても何もできないのがオチである。

しかし、地域には本当に必要なこともある。それは私が以前から提案している「職業訓練の推進」それから「高齢者対策」「乳幼児対策」そして「防犯、防災対策」などやるべきことはいっぱいあるではないか。そんな重要なことをボランティア、あるいは自治会に丸投げするのか?「個人情報保護法があるから市は関与しません」「自治会に任せます」なんて発言する役所の担当者も多い。本末転倒である。何のために住民税払っているのか解らなくなる。結局「地方行政のムダの削減」とか偽善者ぶって住民を苦しめているだけではないか?

地域として絶対に「必要なこと」は癒着があろうがなかろうが推進すべきである。基本的には「癒着の排除」より「社会の必要」が優先される。しかし「余計なこと」や「必要のないこと」で癒着するPTAや自治会とは完全に区別する必要がある。そうしたことを混同するから地域社会の議論がややこしくなるのである。はっきりいって、こういう議論は公の場でやりにくい。誰もが役所を攻撃するのは簡単だ。しかし、隣近所やPTAと揉めるのは非常に困るである。

特に保守派支持の方に訴えたい。保守派の政治家が「地域社会の崩壊」の対策として実際に何を訴えているか? 内容を注視する必要があると。本当に社会全体のことを考えているのか結構疑わしいからである。彼らはグローバリズムと何ら変わりない側面がある。しかし実際に敵対するのも難しい。それが現代日本の大きな問題であり、保守層の大きな矛盾点である。


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マリアン・マクパートランドに想いを寄せて
今回は一人の高齢女性の生涯とその時代背景、そして社会学について考えたい。昨年8月に95歳で亡くなった英国出身の女流ジャズピアニストであるマリアン・マクパートランドは私が最も敬愛するジャズピアニストにひとりである。

私は彼女が亡くなったことについて、最近になってその事実を知った。それは同じく高齢だったバイオリンのステファン・グラッペリや女性ボーカル兼ピアニストのブラッサム・デアリーが亡くなったときもそうだった。私が尊敬するジャズプレイヤーが静かに生涯を閉じた時なんて、いつのまに?って感じだった。私は、既にこれらのジャズプレーヤーはかなり高齢であったことは知っていた。一般のニュースでは全く報じないし、いちいちネット等で生存確認なんてしないから。亡くなったことに気付かなかったのは当然かもしれない。

今回、改めて色々と調べたがマリアン・マクパートランドは1920年生まれとのこと。あのバド・パウエルが1924年生まれで、マイルス・デイビスが1926年生まれだから、彼らより年上である。しかしジャズファンの間でも彼女は然程有名ではない。おそらく「女性」であること「白人」であること「イギリス人」であること・・・かつてジャズといえば「男性」の音楽であり「黒人」の音楽であり「アメリカ」の音楽という認識が強かった。彼女が有名になったのはラジオ音楽番組の影響だったようだ。そして60歳を過ぎてから、ようやく評価が高まった。ジャズの世界では異彩な方だ。

私が彼女のピアノが好きな理由はその「品格」「優雅さ」そして「癒し」があることだ。一方、派手さや強烈の個性は確かに少ない。おそらく彼女には「野心」というものが少なかったように思える。地道にゆっくりと実力と感性を身に付けた方だと思う。そうした彼女の奥深さとともに落ち着きのある人柄が音楽を通じて伝わってくる。それはさながら、当ブログ(4/18)で紹介したウイリアム・メリル・ヴォーリズの建築を眺めるような気持ちにどこか似ている。

さて、マリアン・マクパートランドは1920年生まれなので第二次大戦中は19-25歳ということになる。一般女性なら花のような時期である。しかし彼女は戦時中、慰問団として軍の駐屯地各地に赴き演奏活動をしていたという。当時、彼女はどのような気持ちで演奏して、そしてそれを聴いた兵士はどんな気持ちだったのか?

想像してみよう。戦時中の兵士は「いつ死ぬか分からない」という精神状態が常にある。現代社会だって「末期のがん患者」に代表されるように、精神状態は必ず不安定になる。そして戦時中の兵士ならなおさらである。それは悲しいことであるが事実である。そのような中で、兵士のことを想い慰問する。もちろん従軍慰安婦(特に日本人女性)の中だって、カネだけでなく本当に兵士のことを想い、兵士を慰めていた女性も間違いなく存在した。そして、ほんの束の間の慰めの後に無残に散っていった兵士たちが大勢いた。それは日本だって欧州だって同じだった。ベトナム戦争での米兵の場合でも、無事に米国に帰国したにも関わらず心が癒されず、後にノイローゼになり自殺した元兵士も多かった。

特に考えさせられるのは日本の特攻隊だ。その時期になると慰問や慰安なんてできる余裕なんて全くなかった。しかし最初から彼らは「死を覚悟」していたから? 遺書を見ても「取り乱す」様子が全く見受けられない。戦後、遺族は彼ら英霊を「癒す」ために靖国神社に「花嫁人形」を納めている。本来「癒す方」も「癒される方」も美しい人間らしさを持っているのである。

たしかに戦地の慰問団だって、慰安婦だって辛い思いをすることもあったであろう。しかし人間というのは常に精神のバランスをとりながら生きている。従って「人を癒す」ということがいかに重要であるか。それは「癒す方も」「癒される方」も分かっていた。それが人間社会の現実である。ドビュッシーは「芸術は最高の嘘」と言った。音楽にしても売春にしても、それが精神的な嘘だとわかっていても、人間はそれを求める生き物なのだ。

戦争が終わり、人々は様々な精神的バランスをとるべく行動をとってきた。幸いなことに現代社会では、様々な娯楽がある。時にスポーツしたり、読書したり、映画みたり、音楽聞いたりする。居酒屋だって行くだろうし、けしからんとコメントされるかもしれないが、いかがわしい風俗に行く若者だっているだろう。

でも普段の生活で最も大切ことは、「仕事をすること」「勉強すること」そして、それをゆっくりと継続することである。もちろん、楽しみながら仕事や勉強できればベストである。一方、過度な労働や勉強のしすぎでは体力的にも精神的に壊される。成功している人ほど何かバランスをとった行動をしているものである。だが、最近でも長時間労働されている方々はいくらでも存在する。頑張っているつもりが、空回りばかり、負の連鎖になりがちである。(当ブログ4/10「無限ループ」参照)そういう状況でノイローゼになる人たちは現代でも多い。何とか、そこから抜け出すことが大切だ。しかし先ずは何らかの形で「癒される」必要がある。

私の場合、社会人になって20年くらいかけて、ようやく仕事や勉強である程度の能力を身に付けた。そして、余暇では子供と遊んだり、散歩したり、農作業したり、楽器弾いたり、音楽聞いたり、そしてネットみたりブログ書いたり・・・そうやって精神的な「癒し」を作っていった。マリアン・マクパートランドのピアノも私にとって「癒し」の一つだった。

ちなみに、私は今でもマリアン・マクパートランドの演奏は好きである。私の自宅には古いアナログレコードがある。彼女のピアノとJoe Venuti(バイオリン) の共演アルバム(The Maestro and Friend: Halyon Records社 おそらく廃版?)を今でも大切にしている。その他、CDも数枚持っているが、この古いアナログレコードが一番好きでる。最近ではYou Tubeでも彼女の演奏は簡単に聴ける。でも私にとっては、このアナログレコードの方が更に味わい深いと勝手に感じている。

私はこう思う。マリアン・マクパートランドは人々の心を癒すことの本質を知っていたと。そして、ゆっくりと実力と人間性を養って95歳の生涯を閉じた。私はそうした生き方に深い感銘を覚える。もしこの世に全く「癒し」がなく、騙し騙され、恨み恨まれ、妬み妬まれ、奪い奪われ、そのような精神のバランスのとり方では人間と社会は成長しない。ゆっくりとした「努力の積み重ね」。そして嘘とわかっていても「精神的な美学」を持ち続けること。しかし個人がそう思っても社会が成熟していないと時代に飲み込まれてしまうのも現実である。

マリアン・マクパートランドのピアノ、そして彼女の生涯は、そうしたことを私に教えてくれる。彼女の冥福を祈り、彼女の精神が後世にも残ることを期待する。



テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

米比の新軍事協定調印へ
オバマ大統領のアジア歴訪の最後の訪問地フィリピンで「米比の新軍事協定調印へ」という重要なニュースが入ってきた。このニュースは各報道機関もなぜか小さく扱っている。かつて米軍は1992年、フィリピンから全面撤退した。しかしそれが復活するというもの。アメリカは中国をけん制するものではないと重ねて強調しているとのことだが、そんなことはありえない。今回のアジア歴訪の重要な目的だったと考えられる。

そもそも中国の海洋進出はアメリカにとっても他のアジア諸国にとっても共通の脅威である。そして偶然?にもマレーシアと中国の関係はマレーシア航空機事件をきっかけに完全に冷え込んでいる。もともとTPP交渉に関して、マレーシアは日本と同様にアメリカに対して強い反発をしていた。あのマハティール元首相もTPPに関して徹底的にアメリカを非難していた。アメリカはこの中国に対する安全保障とTPPの問題について平行して議論し政治決着に向けた動きをしていると断定できる。

そもそも今回のオバマのアジア歴訪は、日本、マレーシア、フィリピンの三国の予定であった。しかし韓国の強い要望であとに韓国を追加したと言われている。つまり、アメリカにとって韓国はもはや重要ではないのである。すでに米韓FTAを結び、アメリカは事実上の韓国を経済支配する体制が整っている。北朝鮮は核を保有しており、半島の有事の際にはアメリカも日本も手出しできない。「日本の高官が韓国を助けないかも」とコメントして韓国側は凍りついたとのネット報道があるが、これはあながちデタラメでもない。半島に有事があってもアメリカも日本も韓国を見捨てるだろう。そうなると韓国としては、絶対に北朝鮮を刺激したくない、そして反日で国民の目を危機から背けるというのが方策なのかもしれない。あるいは何も考えていない。私は後者だと思っている。

さて、台湾だってこれからどうなるか分からない。本当はオバマも台湾を訪問すべきだったかもしれない。しかし、それでは中国の強烈な反発は避けられない。まずは日本、マレーシア、フィリピンの三国を利用して太平洋を取り込もうとしている。私はアメリカに完全に従属すべきではないと思うが、ここは日本としてもアメリカのこの意向を利用すべきだと考えている。実はマレーシアやフィリピンも反米思想も根強いが、同時に中国よりはマシという認識も持っている。

私は4/23のブログで「日中共同声明の終結宣言をせよ」と訴えた。破棄ではなく終結(終焉)である。そもそもこれは国際条約なのかという議論もあるが、「領土主権の尊重」や「請求権放棄」といった内容が完全に有名無実化している。また度重なる日本の中国に対する経済支援や技術支援でも反日活動をやめない。今日のニュースでも「デンマーク女王の南京大虐殺記念館への訪問させる」という愚行を平気で実施する。これ以上、中国に義理だてする必要は全くない。日中共同声明は日本には何のメリットもなく事実上「不平等条約」になっている。このような声明を継続する必要はない。日本としては一刻もはやく共同声明を終焉させることである。特に声明の重要理念の終焉、つまり「一つの中国を認めない」「台湾を認める」というもの。

そのためには恥を忍んでアメリカと他のアジア諸国の協力が必要である。当然、台湾の「反馬政権の勢力」とも連携すべきである。そしてTPP交渉も有利になるよう、この問題を上手く利用するのだ。そういうしたたかな外交が絶対に必要である。この提案は日本側からしか提案できない内容である。そして韓国を含め大陸を見捨てて、太平洋(フィリピン、台湾、東南アジア)に目を向けるべきだ。



エントロピーと社会学
大学で物理学は勉強された方なら、ご存知のボルツマンのエントロピーについて今回は社会学的に考えたい。ルートヴィッヒ・ボルツマン、彼は1844年オーストリアのウィーンに生まれている。さすがは音楽の都、彼もピアノの演奏をしていたとのこと。かれは数学、統計学者でもあり物理学史を語る上で絶対に忘れてはならない人物である。後に彼は物理学で有名なエントロピーの式を導き出した。これが現代の熱力学や流体力学の基礎的な概念になる。

S=k log W

S:エントロピー、 k:ボルツマン定数、W: 混合の場合の数 (笑 じゃないです)
ここでlogは自然対数(昨今では常用対数を区別するためにlnで表記される)

残念ながら、彼は後に精神病になり1906年に自殺してしまった。私が学生当時、「このような学問やってれば気が変になるのは当然かも?」なんて思ったものだった。現在も彼の墓石にはこの数式 S=k log W と記されている。この墓石の話も私が学生時代に教授(当時、助教授だったかも)から聞いたのが最初であり、今でもよく覚えている。墓石に数式が刻まれているのは、私が知る限り彼しかいない。本当に色んな意味で考えさせられる。

ボルツマンの関係式は一般的に、とかく難しい理論に思えるかもしれない。簡単にいえば、物質がある位置(ポテンシャル)に存在した場合、必ず拡散する方向に移動するというもの。またはエネルギーは必ず安定した方向へ向かうのが基本原理であるので物質が拡散するのは安定した方向に向かっているといえる。

具体例をいうと、ビーカー内部の液体Aという物質があり、ビーカ内のしきい(壁)があり、反対にBという液体があったとしよう。その壁に小さな穴をあけると液体同士が混ざりあう。通常は液体温度、あるいは濃度の高い側から低い側へながれる。そして再び穴を閉めるとそれぞれの中で拡散しながら飽和状態になる。これは簡単な小学生の理科実験でも解ることである。

また大気でもそうでる。一般的によく天気予報に用いられる等圧線図(気圧配置)でも気圧の高い側(高気圧)から気圧に低い側(低気圧)側に空気が流れ込む。ただしカリオリの原理があるので、真っ直ぐな移動をしない。従って1000ヘクトパスカル以下の低気圧は渦を巻いて台風となる。また上昇気流と下降気流と混ざり合うを繰り返す。このように地球上では空気や海は繋がっているので、常にこのような現象が見られる。そしてもっと大きな視点でみれば「宇宙は拡大している」という発見もボルツマンの理論が証明された重要な事例である。

そこで今回は人類についての移動および拡散について考える。皆さんご存知の通り、人類はアフリカを起源として世界中に広がった。移動に際しては、途中には山があり川があり、そして海があり、様々な障害物を乗り越えた。海の場合、古代人では陸の海岸を伝って移動してきた。今も昔も、人間が単独で空を飛んだり海を長距離泳ぐことはできない。従って、徒歩や小型船に乗って移動したわけだ。特に氷河期には現在より海岸線が沖合いであり移動しやすかったと思われる。数万年という長い年月をかけて移動、および拡散していった。

そして時代は流れ中世においては、ユーラシア大陸ではモンゴル帝国の拡大し、16世紀頃からスペイン、ポルトガルの大航海時代が始まった。そして新たな道具(羅針盤や鉄砲等の武器)とともに新たな人の移動と拡散が広まった。そして近現代ではイギリスが覇権を握り、その後アメリカに覇権が移る過程で度重なる大戦を経て今日に至る。つまり人類の歴史とは、人の移動と拡散、さらに衝突、そして崩壊を繰り返したわけである。

現代でも、人の移動や拡散はある。大型輸送船や大型航空機のよって短時間で長距離移動できるようになった。しかし人の動きよりもインターネットで瞬時に情報がグローバルで拡散することは凄まじいことである。手段さえあれば、モノや情報は拡散することも自然のなりゆきとも解釈できる。基本的に人間は「歩く」という速度を基準にした視覚、聴覚が成り立っている。それと同様に人間の移動と拡散について、その速度に合わせた適応という「一種の進化」が数万年かけて形成された。しかし現代社会では、その人間が適応できる速度をはるかに超えている分野も存在する。通常、力学では静的な歪(変位)はパスカル原理に従い一定応力となる。しかし一定速度を超えた、いわゆる衝撃応力が加わると必ず局部的な応力集中といった歪が生じる。金属材料力学の場合は、そこで亀裂が始まり崩壊するというのが常識である。それと人間社会のメカニズムも基本的には全く同じである。

そこでボルツマン的な考え方を応用して人類の歴史や社会について考えてみよう。「物質は拡散する方向にある」そして「エネルギーは安定した方向へ向かう」。そうなると人類だって安定を求めるために移動し拡散したと考えることもできる。たしかに人間は必ず、物質的、精神的な安定を求める存在である。古代人が移動した際も、何か安定を求めて移動し拡散した。それは何故か?

① ある場所に留まっても安定した生活(特に食料)にありつけない。
② 別の場所へ移動すれば、もっと安定した生活ができるかもしれないと考えた。
③ ある場所に留まっても敵から攻撃される可能性がある。

自然界の草食動物だって、ある地域の草木を食いつくせば、また別の場所に移動して草木を食いつくす。そしてその草食動物を追う肉食動物も同じように移動する。そして人間も同じように移動するといった感じである。向かう方向としては、常に太陽を追っているという感じがする。それは自然が太陽とともにあるということに古代人が気付いていたと考える。特にアフリカを起源とした我々の祖先は旭日を目指して東進し日本に辿り着いたと考えている。

数万年前に日本に辿り着いた縄文人は、その後の数万年にわたり日本に滞在し日本各地へ拡散していった。しかし考えてみれば、長い日本の歴史の中で日本から海外に移り住んだ人々も確かに存在したが、他国と比べて極めて少ない。つまり日本は数万年前から安定して暮らしやすかったということである。まず豊富な水がある。土地が肥えている。山の恵みはある。海の恵みもある。そして島国なので異民族からは簡単に攻撃されない。更には、自然の恵みだけでなく台風や地震といった自然の厳しさも対応しながら日本文化が育ってきた。そう、自然環境の好条件だけでなく、安定した社会を彼ら自身の力で築き上げてきたといえる。それは「自然を食いつくす」方法ではなく「自然と共生する」という思想であった。これは日本国民として絶対に守るべきものであると私は確信している。

一方、欧州では古代ローマ帝国の拡大が限界となったと同時にゲルマン人の大移動が発生した。そして大航海時代を経て、18世紀以降はアメリカへの大量移民(史上最大の移動)があった。つまり欧州人は常に移動と拡散を続けている民族であることがわかる。現代に目を向けても、特に中国人はチャンスがあれば海外に移動したがる。実際に中国人は世界各地に移動している。つまり、かつての欧州人や現代の中国人は、物質的にも精神的にも不安定であるが故に移動を好みグローバリズムの中心になっているのである。

近現代社会では国民国家というのが当然であるが、グローバリズムは何とか国家という壁に穴をあけて流動化させたいと考えているのである。つまり先ほど述べたビーカ内のしきい(壁)に穴をあけてエネルギーの高い方から低い方へ移動し拡散させようとするボルツマンの法則なのである。もしそれが古代日本で後からやってきた弥生人のように自然に日本に溶け込み日本社会の安定に寄与するなら何も問題はない。もちろん縄文と弥生の衝突も多少はあったかもしれないが、国家を二分するような対立は古代史上は発生していない。しかし仮にある異民族が急激にしかも大量に移動すると必ずどこかで歪が生じるのである。また、ただ単純に、草木を食い荒らし、無くなれば別の場所に急速に移動するような民族は、百害あって一理なしである。つまり定住民族として断固として対抗すべきなのである。それはさながら、イナゴの大群が穀物を食い荒らして別の場所に移動するのに対峙すようなものである。

そもそも長い人類の歴史、あるいはボルツマンの法則からしても、移動や拡散については適切な量と速度というものがある。熱力学でも温度によって拡散係数が向上するというのがある。それを人類に喩えるなら「心」あるいは「思想哲学」であると私は考える。むりやり活性化エネルギーを社会に注入しようとしても「思想哲学」が変わらない限り、あらたな不安定さが発生するだけである。特にイナゴ的な狩猟民族の思想を是とする人たちには要注意である。

移動と拡散について、量(ボルツマン的にいうと混合の場合の数:W)であり、速度(熱力学でいう拡散係数)が重要である。ボルツマン定数は一定であり(k = 1.38×10−23 J K-1)、自然対数 e=2.718も一定である。従って、何らかの特別な要因がない限り、急速にあるいは大量に移動、および拡散することは不可能なのである。仮に思想哲学という一種の熱エネルギーがあり、日本文化と共鳴するならば移動や拡散は容易であろう。つまり外国人が日本に移り住みたいのであれば、様々な条件を満たさなければならない。それは、日本という国に特別な熱意を持つこと、あるいは愛情がある、そして日本の文化を尊重するならば自然に融合されるであろう。それこそ、「朱に交われば赤くなる」というものである。当然、日本人としても大いに歓迎すべきある。にもかかわらず個人の都合で日本社会を変更させる。あるいは強引に別の理由で移民を受け入れる。私には全く理解ができない。

そうした熱エネルギー(思想哲学)もなく、ただ便利で安定さだけを求める移民がいるならば、それは制限されて当然である。また日本に住みながら不安定さを感じるならば、さっさと出て行けばよいのだ。それが本来の自然のあるべき姿である。長いの人類の歴史が証明している。そうでなければ、逆に社会に不安定さを生みだす要因になってしまう。そして必ず歪が生じるのである。

所詮、物理学なんて社会学に応用できないと考えている方々も多いかもしれないが、私は間違いなく応用できると考えている。今こそグローバリズムの時代にボルツマンのエントロピーと社会学を考える絶好の機会である。




アメリカにとって人権侵害とは
昨日、オバマ大統領は韓国での記者会見にて「従軍慰安婦は重大な人権侵害」と述べた。しかし「約束を守ることが大切」とも述べた。まず「従軍慰安婦問題が人権問題」なら、「広島原爆投下は人権侵害ですか?」という記者の質問があればおもしろかったが、そんな優秀な記者は韓国にも日本にもいない。あと「約束を守ることが大切」に関して「誰が約束を守って」「誰が約束を守っていないか」追及する記者がいてもいいのに? 突っ込みどころは満載である。全く記者というのはコピペするだけが仕事なのか? そのくせ小保方さんのSTAP細胞の論文にコピペがあることを非難するなんてバカバカしい限りである。

そもそも戦時中の人権侵害って何だろう。先の大戦では多く兵士はもちろんのこと、一般市民も含めて無残な最期を遂げられた方々は日本だけでも300万人以上はおられるのである。一方、運良く生き残った方々も「心に傷を負わなかった人」は誰ひとりいなかった。ある意味で当時のすべての方々が甚大なる人権侵害を受けたともいえる。それでも戦後の日本人は努力して見事に復興を成し遂げた。現代社会において、カネや名誉が欲しければ当然「真面目に働くこと」そして「真面目に勉強すること」が一番重要なのである。私はこう考えている。戦時中の人権問題を訴える人は「働くこと」そして「勉強すること」を否定しているのである。そして自らロクに働かずに他人(あるいは他国)の働いて得たカネを横取りしたいだけなのである。当然、それぞれの国には立場や事情はあるだろう。その国内で活動する分には仕方がない。だが、これらを国際問題にする話では決してない。

こうしたことは少し勉強すれば簡単に解る事である。国際法、条約、司法判断、そして事実関係の把握。これだけでも勉強すれば大体解る。たしかに最初は純粋な気持ちで人権問題に興味を持ち「良かれ」と思って活動を開始した人も大勢いるだろう。しかし、そういう人に言いたい「勉強しなさい」「事実関係を把握しなさい」、そして「真面目に働きなさい」と。もちろんネット等を通じて事実を知り、考え方を改める優秀な若者も多いであろう。しかしそうした勉強を全くせず(あるいは拒否し)に現在の日本政府と現在の日本人に謝罪と賠償を訴え続ける哀れな人たちは相変わらず多い。おそらく、何らかのプロパガンダを目的とした団体や支援者との関係を断ち切れないか、あるいはただのバカかいずれかである。私は前者が圧倒的に多いと考えている。怪しい団体や個人と関係を断ち切るの非常に重要であるが、やはり現実は難しいのだろうか?こういうことも「集団ストーカー」と言えるのだろうか?(詳しい方おられたら教えてください)

そもそも、すべての人間に平等な人権があるなんて全くの幻想である。辛い境遇にも耐え、それを乗り越えていくのが人間である。誰だってそうだ。辛い労働、辛い勉強なんていくらでもある。私だって辛い仕事もしたし(昨日も辛い仕事だった)、そして必死になって勉強もした。それも必要に迫られて、別の言い方すれば社会的な「広義の意味での強制で(笑)」。しかし、それが人権問題と思ったことは一度もない。もっとも日本人の元慰安婦は誰も訴えていないわけだし、現代の日本人の売春婦は「労働としての誇り」を持つ女性も結構多い。たしかに売春は良くないことだけど彼女たちの「誇り」は素晴らしいと思う。とにかく人権問題を声高く訴える人たちは、国民に三大義務(労働、教育、納税)を否定し「泣いた子供に餅をあげなさい」と言っているのと同じである。

さて、オバマはどこまで従軍慰安婦問題について理解してコメントを出したのかよく分からない。とりあえず韓国と日本の立場を尊重した。それだけのように思える。おそらくオバマは従軍慰安婦問題なんて全く興味ない。そんなくだらん内容に時間を割きたくないというのが本音だろう。そうであれば、それは正しい判断だ。アメリカにとっては対北朝鮮政策、対中国政策、そして国際経済しか興味がないであろう。私がオバマだったらこのように考える。朝鮮半島で有事が発生しても「在日米軍は韓国軍を支援しない」「日本も支援しない」そして「韓国さん、そうなっても覚悟してください」である。何故なら、北朝鮮はすでに核を持っている。弾道ミサイルでアメリカ攻撃可能になるのは時間の問題である。・・・つまりアメリカは何も手出しできないということである。

核保有するということは、こういうことなのである。アメリカは朝鮮半島の人たちの人権なんて知ったこっちゃないのである。韓国人がお家芸である「泣こうが喚こうが」全く関係ない。結局は、自己努力するしかないのである。それは日本だってそうである。尖閣諸島が日米安保の適用範囲とオバマが明言しても有事の際にどうなるかはわからない。私がオバマだったら加えてこうコメントする「有事の際、アメリカも協力するけど先ずは自分たちで頑張ってね」「人権だって自分たちで責任もって対応してね」という話だ。

私は将来、朝鮮半島に有事の可能性は十分あると考えている。その場合、アメリカも中国も何も手出ししない。そうなれば、本当の意味での朝鮮民族による朝鮮半島の完全な統一、および完全独立も夢ではないと言いたい。しかし本来、国家の独立とは自分たちの努力で成し遂げるものである。事大主義や他国への依存で国家として完全独立することは絶対にあり得ない。自分たちで努力して国家をつくる。まあ今のままの朝鮮民族では本当の独立を果たすにはあと1000年はかかるであろう。そういう意味では日本だって同じだ。日本の場合、本当の意味で完全独立を果たすにはあと100年はかかるであろう。それは、人権なんていう問題ではなく社会学的な思想哲学の問題であると私は考えている。


交流は対立を生む
アメリカのオバマ大統領の日本訪問で、どのようなことが話し合われたか全て明らかになっていない。当然ながら極秘の内容もあるであろう。注目されたTPPに関しても、甘利大臣とフロマン代表、および事務レベルの交渉も不調になったことは間違いなさそうである。日本側が安易な妥協しなかったことは大いに評価できるであろう。また、安倍総理とオバマの寿司会食や宮中晩餐会ではトップ外交としての大きな意味がある。天皇陛下のお言葉とオバマ大統領の返答は象徴的にも影響力は大きい。象徴的なことには意味がないと思われる方も多いかもしれないが私はそれが一番重要と考えている。

さて、こうした国際関係における交流とは良い面ばかりではない。そもそもTPPでは利権の奪い合いのような交渉になっている。交流というより喧嘩である。これは何も国際関係だけでない。例えば、市民交流だとか、町内会連合の交流だとか、学校の家族交流だとか・・・様々な交流がある。しかし、交流に伴い様々な対立が発生することも多い。現代社会においては多様な価値観やライフスタイルがある。それを強引に「交流」の名のもとに統一化しようとするから歪を生むのである。かつては企業でも福利厚生の一環として社員旅行や様々なリクリエーションが行われていた。しかし最近では参加人数も減っている。あるいは参加する人、しない人とが明確に分れ不公平だとかいって中止になるケースも多い。

よく町内会等でも長老たちが「交流と親睦は大切だあ」と叫んでいるが若者は冷めている。学校でも「親子のふれあい活動」とかいって頑張っている人もいるが、若者は冷めている。しかし主催者は「若者は非協力的だあ」とか「無責任だあ」なんていって、いわゆる「強制ボランティア」させようとして更に対立が進む。おそらくこうした活動を進めたい人たちは、一見ローカルを大切にする人のように思える。しかし実のところ、個人の多様性を無視して「統一」し、さらに「その頂点で支配したい」という、グローバリストの考えと何ら変わらないのである。役所は役所でパワー不足のために、自治会に丸投げするのも歪の大きな原因である。ボランティアだのみの行政は必ず歪が発生する。「タダほど高いモノはない」という認識が欠けているのだ。

それでは何故、このような対立が発生するか?理由は簡単「余計なことをする」からだ。かつては小さな自治会でも「皆が協力しなければ生きていけなかった」。しかし最近では特別なことしなくても皆が十分生きていける。また、昔は娯楽は少なかったが今ではいくらでも選択がある。何か特別なメリットがあるなら参加するであろう。そう、昔は皆が参加するメリットがあったから参加率が高かっただけである。それが各自に何のメリットもなく負担だけを押し付けるから問題になるのである。学校だってそうである。そもそも学校は勉強を教えるところであり、やれ福利厚生だあ、やれ交流会だあ・・・とか余計なことが多すぎるのだ。ヒマなのかなあ。そんなことする時間があれば「各種労働研修」という重要な勉強をしてもらいたいものだ。

しかしある人はこう考える「交流を深めれば親睦が深まるはずである」と。はっきり言って大きな間違いである。交流を深めるほど対立は深まることの方が多いのである。夫婦だってそうだ。24時間一緒にいたら嫌になることだってある。適度な距離があるから関係が成り立っているのだ。確かに、何かの「きっかけつくり」という意味では多少は理解できるが、定例行事にしてイヤイヤながら交流会を継続するなんて時間の無駄である。

国際関係の場合は更に深刻である。「国際交流は大切だあ」と叫び過ぎである。仮に同盟関係であっても「適度な距離を保つ」そして「余計なことしない」そうしなければ余計な対立を煽るだけである。これは何もアメリカとの関係だけではない。当然アジア諸国とも同様である。

つまり個人主義が悪いとか、全体主義がどうとかいう問題ではない。誰もが何らかのメリットがなければ協力できない。ただそれだけの話である。私は決して個人主義が悪いとは思わない。ただし、その個人主義が成立するためには社会の安定が絶対に必要だと主張するだけである。

そう、ここでは「交流は対立を生む」という言葉を定着させる必要がある。

詐欺と美しい嘘
今朝、興味深い小さなニュースを見た。それは「医師と偽り7年間医療の講演会をしていた」人がいたというもの。「悪いやつがいるもんだ」と感じるニュースだが、よくよく考えるとそれがどんな社会的な悪影響あったのかなあと考えた。ニュースでは7年間の報酬が数百万円とのことで、はっきり言って大した金額ではない。まあ7年間も続いたということは、結構評判の良かった講演ではなかったのだろうか?そもそも、講演会、映画、ショー、コンサートというものは人気があれば継続するし、人気がなければ打ち切られるものである。たしかに医師が医師免許もなく医療行為をして、しかも医療事故があれば重罪である。また運転免許なく交通事故を起こしても重罪である。しかし、医療に関する講演会とは言っても、絶対に医師免許がなければ講演できないわけではない。講演内容が全くのデタラメで社会に悪影響を及ぼしたなら問題だが、そういう話はない。つまり問題は「医師免許がないのに医療の講演した」ということである。実際に7年も講演すれば、デタラメ内容なら素人でも気付くものである。従って、これ自体は大した問題ではないと思える。もし主催者側が報酬返還を要求したら主催者側がブラックであるとほぼ断定できる。

さて、「詐欺」と「美しい嘘」の違いは何であろうか?かつてフランスの作曲家であるドビッシーは「芸術とは最も美しい嘘である」と述べた。私自身もドビッシーの大ファンであるが、「ドビッシーの音楽に騙される快感」は本当にすばらしい。また、バイオリニストのクライスラーはヨーゼフ・ランナーの未発表曲と嘘をついて、自身の曲を宣伝した。それがあの名曲「愛の喜び」になるわけだ。結局、名前や肩書がどうであろうが内容が良ければいいのである。つまり名前や肩書はその仕事をする、あるいは皆に知ってもらう「きっかけ」にすぎない。ちなみにあの「日本のベートーベン」はあまりに後味悪い結果になったので全く美しい嘘にならなかったのは残念である。

ここで、あのシェークスピアの有名なロミオとジュリエットの名シーンを思い浮かべよう。「O Romeo, Romeo! wherefore art thou Romeo? ロミオ ロミオあなたはなぜロミオなのか?」「What's in a name? that which we call a rose by any other name would smell as sweet. 名前に何があるのか? バラは別の呼び方されても甘く香るもの」ホントの美しいセリフですね?そう名前なんて大した意味はありません。(*ここでは英語原文の美しさも感じよう。)

一方、「詐欺」とは何だろう。最近でも「オレオレ詐欺」が多いとのことだが、これも典型的な詐欺である。もっと凄いのは、最近の一連の韓国船沈没事故での嘘の氾濫。また中国の商船三井の船舶差し押さえと和解金強奪は、詐欺以外の何ものでもない。日本人は「嘘はよくない」「約束違反は許されない」のが常識であるが、中国、韓国ではそうではない。嘘は必要であると言う(中国人、韓国人の99%はそう言う)。そうであるならば、ドビッシーやクライスラーを是非見習ってほしい。あるいは7年間も講演を続けた医師免許なしの人を見習ってほしい。またはロミオとジュリエットを見て欲しい。しかし、それでも中国人や韓国人が「名前」とか「肩書」とか表面的なものに拘り続ける、そして中身が実に薄っぺらいのである。だから結局は誰からも認めてもらえないのである。

これ以上、中国、韓国のことを考えると気分が悪くなるので、今日は改めてドビッシーとクライスラーの音楽を聴きたい。そして、じっくりとその「美しい嘘」に浸りたい。


日中共同声明の終結宣言をせよ
本日(2014年4月23日)アメリカのオバマ大統領が国賓として来日する。主な議題は、TPP交渉、北朝鮮問題と言われている。また、中国に対して日本のマスメディアは日米ともに「中国を刺激しない方針」という意見も多く出ている。しかしオバマ大統領は「尖閣諸島は日米安保の適用範囲」と述べたという。従来はアメリカの報道官がそうしたコメントをすることはあったが大統領自身からのコメントは初めてであるとのこと。

現在の日中関係はますます混迷を極めている。最近では中国が商船三井の船舶が「差し押さえ」という一線を越えた行動をとった。当然、日本政府も日中共同声明の「相互請求権の放棄」に反するということで抗議している。中国がここまで踏み込んだ理由はよくわからない。しかし、よくよく考えてみたら戦時中の労働未払賃金という問題はすでに70年の歳月が流れたため日中共同声明がなくても国際法上(あるいは普通の国の法律では)では「時効の案件」である。

その他の日中共同声明の内容からすると、まず「経済協力」はODAや円借款などあらゆる面で日本は責任を全うしている。尖閣問題は日中共同声明では「事実上の棚上げを密約した」との説があるが、それが仮に本当であっても事実上無意味になっている。度重なる中国の侵犯や上陸、そして日本の国有化処理、そして中国の反日暴動・・・棚上げなんて無意味である。

従って、日本としては日中共同声明を今後も継続する意味は少ないのである。あと残っているの重要課題は次の通り。

① 「一つの中国」を支持
② 台湾を承認しない

この基本理念については、かねてからアメリカは反発していた。田中角栄が失脚したのもアメリカの影響である。しかし時代は流れた。台湾では中国との「サービス貿易協定」にて学生を中心に大規模な反発運動が繰り広げられている。アメリカとしても、これ以上台湾が中国に飲み込まれるのは太平洋の安全保障上の懸念になる。台湾は次回の総統選挙では国民党は大敗するとの見方が多い。

たしかにアメリカは中国との経済関係を重視する傾向もあるが、どちらかというとTPPを推進したいという考えが強い。もちろん日本側は重要5項目をはじめとして譲れない一線はある。ここでは次のような戦略を実施すべきである。

① 日本は日中共同声明の終結宣言をする。
② 日本は台湾と国交を回復する。
③ 台湾をTPPに参加させる。(台中サービス貿易協定を破棄する)
④ 日米台の3国 安全保障条約を締結する。
⑤ 日本が主張するTPPの重要5項目等についてアメリカの全面譲歩させる。

当然、中国は反発するかもしれないが、そもそも日中共同声明に反する行動をとったの中国なので文句をいう筋合いはない。またアメリカとしては安全保障上の念願だった日中共同声明が終結して、台湾が完全に西側に移ることに反対できない。台湾系アメリカ人(中国本土系より知識人が多い)の支持も得られる。またTPPで台湾を参加させることによってアメリカにもメリットがある。そして、世界中のどの国よりも台湾がそして台湾人のためになる。これを否定する台湾人は台湾人ではない。

今回のオバマ大統領の来日にて、このような議論されることを期待したい。そして基本合意して3年程度の時間を掛けて着実に実行すべきである。もちろん中国には情報が漏れないよう徹底した秘密保護することも重要である。まあそうした戦略を安倍首相もオバマ大統領も全く持っていないかもしれないが・・・だが、どこかでこのような発想の転換をすることを強く望む。

そう皆で叫ぼう「日中共同声明の終結宣言をせよ!」


韓国船沈没の嘘情報
毎日のように報道で話題になっている韓国船沈没の情報だが、あまりの情報錯綜ぶりが露呈されている。たしかに大事件や大事故があると情報が錯綜するものであるが、少し異常な気がする。先ず、「船長は一般人を装い真っ先に脱出した」とか「乗客の家族に偽の安否メール情報が入った」とか、今朝のニュースでも「女性ダイバーを名乗る女が嘘情報と韓国海上警察の批判をした」とかあった。ここまで、嘘関連の情報が多いと何が本当で何が嘘なのかよくわからなくなる。そもそも韓国という国(中国も同様だが)は嘘を付くことに全く罪の意識を感じない国民である。相手に責任を擦り付けたり、約束を破ることはごく普通のことである。よく過激な反日活動は韓国でも少数派との意見もある。たしかにそれは事実かもしれない。しかし、私の経験上、「嘘を付く」「約束を守らない」ことに対して罪の意識が低いのは韓国国民(中国国民も)の99%が当てはまる。

従って、彼らの情報を鵜呑みにすべきではない。日本のマスメディアも韓国報道をそのままコピペしている。上記の報道は本当かと思う人も多いだろうが、ここは疑った方が良い。ここでは小室沢直樹が勝手な解釈をする。

報道1.「船長が一般人を装って、真っ先に脱出した」

この「一般人を装って・・・」が疑わしい。先ず、脱出するときにいちいち「私は一般人です」とか言わない。おそらく、彼は何も言わずに脱出を試み、救助されたというのが本質であろう。確かに船長としての罪は重いとは考えられるが、船長の悪人ぶりアピールするには「一般人を装って・・・」という表現はいかにもと思える。

報道2.「乗客の家族に偽の安否メール情報が入った」

常識的に第三者が、家族のメルアドを知っているとは思えない。先ず、考えられることは家族が誰か親戚や友人に頼んで安否メールを家族に送らせ、レスキュー隊に危険を顧みずに捜索するよう圧力をかけたことが考えられる。

もう一つは、本当に遭難者からメールを送信したが、レスキュー隊や海洋警察に必要以上の圧力が掛からないように嘘メールであると海上警察が決め付けた。

報道3.「女性ダイバーを名乗る女が嘘情報と韓国海上警察の批判をした」

これも非常に不自然な話だ。女性はそんなことをして何の得になるのかということ。たしかに彼女の報道にはデフォルメもあったかもしれない。しかし何らかの海上警察の不手際を発見して、それを世間に知ってほしかったとも考えられる。海上警察からしたら、彼らが批判の標的にされるのは絶対に困るのである。従って、彼女の不正な部分を取り上げてすべてを否定した。そう考えると辻褄が合う。なにせ韓国人の批判の仕方は並大抵ではないからだ。


そもそも嘘を交えて真実を誇張するという方法は韓国人の特徴的なやり方だ。また反論する側は、何とか相手の弱点を見つける。そしてその弱点を誇張して、相手のすべてを否定するのである。こういうやり方は従軍慰安婦問題と全く構図は同じである。つまり「嘘を付くこと」は自分を有利にするための武器なのである。そういう感覚が彼ら染み付いているのが、今回の事故で明確に現れている。

日本人は日本のマスメディアの韓国報道コピペを鵜呑みにするだけでなく、深く考えた方がよい。すでに計300名近い人たちが死亡、あるいは行方不明になっている。冗談ですまされない話である。日本の支援も断ったとの情報もある。その情報だってホントかウソかよく分からない。しかし韓国政府からの正式な支援要請が無い限り、日本は支援しない方がよい。何故なら日本が下手に支援して、逆に責任追及されたら、たまったものではないからだ。韓国の被害者には申し訳ないが「恨むなら韓国を恨め」と言いたい。

このように「嘘を付く」「約束を守らない」ことが平気な国は友人を必ず失う。そろそろ韓国は気付いて欲しい。自己利益や面子重視からそろそろ脱却すべきである。そうしなければ犠牲者は本当に浮かばれない。







TBS時事放談の偏向報道
今朝、TBSの時事放談を見たが相変わらずの偏向報道である。日曜の早朝ということもありテレビしか見ない高齢者をターゲットにしているとしか思えない内容であった。大体、日曜の早朝なんて子供や若者は起きていない。私の場合は、血圧が高めなので、いつも朝早く目覚める。そこで今日も朝起きて何気にテレビをつけた。そしてこの番組やっていたから朝からムカムカするのである。当然、血圧によくないと思い、見なけりゃいいのに見てしまう。逆に低血圧の方々が見たら、朝ぼーとして「へえそうなんだ」といって洗脳されるのだろう。 

今回の出演者は、私にとっては「お笑いコンビ」ともいえる武村正義と浜矩子だった。日中韓の関係の問題は「ボールは日本側にある」とか「日本は借金大国」とか「公共事業はムダである」とか、間抜けなコメントばかりである。くだらないのでいちいち個々について反論コメントしないが、私の視点で一言でいえば「すべて間違っている」である。まあ言論の自由はあるから色んな意見があっても良いが、この番組は完全に偏向報道である。この番組の出演者は大体決まっており、他には野中広務とか藤井裕久とか完全に偏っている。

しかし、こういう出演者に共通しているのは「思想哲学」が私とは全く異なるのである。ときどきボーとしていると「あれ自分が間違っているのかなあ」なんて洗脳されそうになるからやっかいである。「みんながいっている・・・」というと「そうなのかな?」って思うのは人の心理につけ込む詐欺商法の典型である。しかも出演者は、高学歴であるし様々な人生経験しているので「この人たちが言うから本当なんだろう」と思うのであろう。

しかし、学歴問わず様々分野で活躍し勉強続けている人からすれば「根本的に間違っている」と感じる方が多いであろう。その根本的な部分が違うために、すべて方向性も違ってくるのである。武村正義は元々は理系だったが物理系でなく環境系の専門である。また浜矩子は経済が専門であり欧米思想が強い人だ。たしかにそれぞれの専門分野を持つことは非常に重要なことである。しかし、この二人に共通しているのが「社会学」的な観点が薄いことである。そして自分の専門分野を頂点にしてモノゴトを考えているようにも見える。

私は専門は物理学であり、材料力学である。しかし私にとってはただの道具である。そうした学問を使っていかに良いモノ作りをするか?そしてどのように社会貢献できるかしか考えていない。もちろん高度な学問や専門知識は絶対に必要である。それを無視して「思いつき」で行動しても成功する確率は低い。だが高度な学問や専門知識に驕れると社会を見失うのである。手段が目的になってしまうことが多くなってしまう。また私は一技術者としてだけでなく、一国民として、子供の親として社会がどうあるべきかを考える。それは人間として当然だと思うのだが。

まあこんな偏向報道を続けて国民はバカにするから、逆に国民からバカにされるのである。マスコミと国民との信頼関係は完全に崩壊したと言っても過言ではない。もちろん、まだマシな政治経済問題を扱う番組もあるが、完全にインターネットの方が上である。まあ、とにかく日曜のすがすがしい朝をぶち壊しにしたこの番組を私はぶち壊したいと思っている。


鉱山採掘リスクと資源確保
ここ数年ニュースで話題になるハイテク部品素材に欠かせないレアアース、レアメタルというものがある。日本では、主に中国からの輸入が多い。一時期、中国当局は自国資源の保護を理由にレアアースの輸出を制限した。世界各国は供給リスク分散として、あらたな採掘場を探している。日本でも安定供給を目的として、太平洋上の日本の領海(特に南鳥島あたり)でレアアースの開発を進めている。

そもそもレアアースというものは、世界中のどこの土にも存在している。多少の濃淡差はあるにせよ、大量の土が必要である。日本国内では、そうしたまとまった土地を処理できる場所がないから輸入に頼っている。また採掘に際しては、環境問題が付きまとう。人の住まない山岳地帯や遠く離れた海上浅瀬(南鳥島周辺のような)でないと採掘が困難である。これは何もレアアースに限ったことではない。古くは銅採掘や、アルミの材料となるボーキサイト採掘でも環境問題がある。かつて、富山県ではイタイイタイ病が発生したが、これは亜鉛やマグネシウム採掘時に同時採掘できるカドミウムが原因だったといわれている。(カドミウムが人体に入ると骨が侵されるという。)また、アフリカの鉱山や韓国の鉱山では、自然放射線が非常に高い地域があるとのこと。

つまり鉱山というものは、宝の山という意味だけでなく、環境汚染のリスクが非常に高いという意味もある。よく春先になると花粉アレルギーやPM2.5等の大気汚染物質が話題になる。しかしPM2.5の主成分は硫化炭化物であり、何かと中和させれば有害性は軽減される。しかし、世の中には金属アレルギー(Ni が有名)やアスベストに代表される微粉末による健康被害もある。こちらの方がより深刻である。

実際に発展途上国では、こうした鉱山開発、さらに中古電子部品の分解(特に重金属である鉛、水銀分解)を環境リスクを無視して作業されていることが多い。どれくらいの健康被害が出ているか不明である。日本では鉛、水銀、アスベスト等の規制が厳しくなっているが海外ではまだ多く使用されているところもある。日本でも戦後の高度経済成長の頃に、先に述べたイタイイタイ病や水銀が原因である水俣病が発生した。それらの有害金属の許容限界値が今だにはっきりしていない。放射能にしてもそうである。法的基準値はあるが人間の許容範囲なんてのは複数回の「人体実験」しない限り、明確なことは分からないのである。

先進国が製造業の海外移転する理由として、安い人権費、安い管理費が主な理由でもあるが、実はそのような環境問題もあるのだ。特に最近の中国では中国国内の環境基準が厳しくなっているために中国からの海外移転(主にアフリカ)が増えている。そこでも環境問題が陰に潜んでいる。資源の採掘、または再利用というのは簡単そうで簡単ではない。結局、環境的に問題ある作業を発展途上国に押し付けているのが現状なのである。

日本は資源の無い国である。たしかに石油や鉄鉱石はほとんど取れない。しかし材料のスクラップは大量にある。自動車のリサイクル券や家電リサイクル法は定着した。携帯電話やスマートフォンには、金をはじめ様々なレアメタルが含まれている。実質的な金の保有量は日本が世界一であるという報道も聞いたことがある。実は日本は資源大国であるという意見は全くのデタラメでもなさそうだ。鋼材に関しても、日本では電炉(スクラップが主)鋼の比率は高く、発展途上国では高炉(鉄鉱石が主)がほとんどである。

しかしながらスクラップの低価格が続いたため中国等へ転売されることも多かった。これではリサイクル法が無意味になる。(最近では素材価格は上昇している)たしかにリサイクル法で国民の義務を強制することはある程度やむ得ないかもしれない。だが国民に負担だけを要求して資源が海外流出すれば国民が納得しない。それこそリサイクル費は支払わずに山奥に不法投棄する人も増えるであろう。こうした貴重な資源の海外流出を防ぐためにも、日本政府が買い取る、あるいは補助金を出す等の対策を講じるべきである。そしてリサイクル技術を向上させる。そして素材輸入と国内リサイクルのバランスを調整すべきである。これは日本の資源確保と環境問題の両方を解決させるという一石二鳥である。これは国家が解決させるべき問題なのである。例えば、電力会社が太陽光という無限のエネルギーを破格値での買取りを強要されて、そのコストを消費者に負担させるのは愚作である。太陽光を促進させたい気持ちは判るが、そんなに社会(国民)に負担をかけて何%の安定した電力を確保したというのだ。(2012年度、太陽光全体でもわずか1.6%である。)結局、電気代の上乗せ分は投資家に移るだけであり、新たな雇用も生むわけではない。社会に利益を還元すべき政策が社会を犠牲にして投資家の利益になっている。

それに対して私が提案するのは、資源エネルギー庁が有限である資源(素材)を国民から高く買い取り、安く民間に供給する体制を作るべきというものである。なにせ日本はスクラップ資源大国なのである。これを有効活用し環境問題も同時に解決させるのだ。海外の資源を買い占めると海外から反発食らうが、これは国内の資源なのである。それで企業が儲かれば、法人税を徴収すればよい。おそらく税収増になる。そうした好循環を作るのが政府の役割だ。日本のような国だから可能なことだ。そう、環境省、国土交通省と連携して、素材資源の確保(資源再利用)と環境問題を改善させることができるのである。それが結果的に日本の産業を支えることになる。しかし残念ながら、素材金属は完全自由市場になっており、金やプラチナだけでなくNi(ニッケル)までが投機対象になっているのだ。これに振り回され続けた企業は結構多い。そういうリスクを国家が規制してスクラップ管理だけは政府独占にするような法改正が必要である。
ヴォーリズの思想
いつもアメリカ批判の多い私であるが、もちろん私が尊敬するアメリカ人は大勢いる。ウィリアム・メレル・ヴォーリズもその一人だ。彼は1905年に英語教師として来日した。その後、建築家、実業家としても有名になる。彼は、熱心なキリスト教徒(プロテスタント)であった。しかしプロの宣教師でもなければプロの牧師でもなかったようだが、いわゆる伝道師のような役割を果たしている。また建築に関しても、大学での専攻は建築ではなく哲学であったそうだ。また、彼は楽器を演奏し作曲も行う等、音楽の高い才能もある。しかし音楽の専門家でもない。もちろん実業家のプロでもなかった。彼は本当の多彩な人だ。この際、元々プロだのプロじゃないなど全く意味のない話かもしれない。 

そのような多彩な彼でも、来日してから決して順調ではなかった。キリスト教の教育に対して、仏教勢力から圧力がかかったり、大戦中はスパイ容疑で様々な弾圧を受けたりしたそうだ。にも関わらず、彼は日本を愛し続けた。その本質とは何だろうか?大戦前に多くのアメリカ人がアメリカに帰国する中、彼は日本人女性と結婚して日本人に帰化した。よく「青い目の近江商人」とか「天皇を守ったアメリカ人」とも言われている。戦後、マッカーサーとも面会している。その後、彼はその件に関しては一切話さなかったという。そういう彼の姿勢が彼の精神そのものを表しているように思える。

そして、1964年 彼の自宅(現ヴォーリズ記念館)にて亡くなった。彼の建築物は今も数多く残っている。やはりキリスト教的な趣はあるが、木材を多用し非常に上手く使いこなしている。どこか暖かさとやさしさを感じさせる建築が多い。また、欧米にあるような豪華さは決して感じない。どちらかというと素朴である。「落ち着きがある」のである。そういう意味では日本建築にも通じるところがある。彼は一般の住宅、学校、教会等を多く手がけている。私は建築家ではないが、どの建築を見ても奥深さを感じる。また彼の性格としては、ユーモアもあり非常に気さくな人物だったといわれている。彼の英語教育を受けた当時の生徒たちが羨ましい。

さて現代に戻って、私自身の経験を少し話したい。私は仕事の関係で海外に行くことも多い。また長期赴任したこともある。特に印象に残っているのが今から15年前のこと。東南アジアの従業員40人程度の小さな工場に赴任した時だった。当時は、アジア通貨危機もあり、急激に景気が停滞して経営状態が最悪の時だった。在庫が山積みになったり、工場内も荒れていた。私の赴任も急であった。なにせ前任者(日本人)が病気で倒れたことが発端だった。今思い起こしても、とんでもない話だ。赴任当初は現地スタッフは私を少し警戒するようだった。また言葉の壁もあり彼らとのコミュニケーションも難しかった。しかし数年かけて何とか会社を回復させることに成功した。そして、会社はコスト削減のために中断していた福利厚生も再開した。そうして現地従業員との信頼関係も序々に構築できた。やはり企業は利益が上がらなければ賃金も含め従業員に何も還元できない。特に発展途上国では社員旅行やリクレエーション等を行うと本当に喜ばれる。そして現地従業員の家族とも交流した。当時、私は「彼らだって家族を支えているんだなあ」なんて当たり前のことを感じた。

そして、そのとき更にもっと強く感じたことがあった。確かに海外では、日本との文化の違い、環境の違い、思想哲学の違いはある。当ブログでは、そうした世界の思想哲学の違いについては長々と論じた。しかし、「人間の本質は変わらない」。当たり前と思われるかもしれないが、当時それ気付いた自分が嬉しかった。それが私の海外赴任経験での思想的な結論だった。楽しいときは笑顔になるし、悲しいときは悲しい顔をする。女性はお洒落が好きで、男はかっこつける。そして、何よりも変わらないのが「子供」だ。子供はどこの国の子供も可愛い、そして無邪気だ。これは絶対に変わらない世界の普遍的な事実だ。

その後、私は日本に帰国してある本を読んだ。そして更に驚きと感動があった。そう、ウィリアム・メレル・ヴォーリズは日本に滞在して、私と全く同様のことを述べているのだ。「世界中の子供は可愛い。それは普遍的である」と。そして彼は、英語はもちろん、日本の若者の教育に尽力した。しかも彼は、教育だけでなく建築、ビジネス、そしてキリスト教を伝え。さらに音楽を楽しんだ。彼は、本来のキリスト教の「隣人愛」というものを重視し、「自己犠牲の精神」も持っていたという。我々日本人には馴染みにくい選民思想的なことは一切語っていない。私はキリスト教を詳しく知らないが、カトリックではなく、プロテスタント(プロテスタントも様々な流派がある)なので根本的に何か違うのかもしれない。彼は、本来キリスト教の持っている精神と日本の思想哲学とを、うまく調和した人だと私は解釈している。それは彼がプロの宣教師ではなく、哲学者であったことも関係するかもしれない。

私は、なかなか西欧のキリスト教と日本の古来からある思想哲学は相容れないものと考えることがある。しかし、こうしたヴォーリズのケースを考えると、必ずしもそうでもないことに気付く。もちろん、彼が長らく日本に滞在した影響もあるだろう。そして「人間の根本とは何か」ということを考えさせられる。ヴォーリズは戦前戦中に様々な弾圧を受けながらも「日本を愛し続けた」。その理由がそこにあるように思える。

そもそも、世界中のどんな宗教も最初は素朴なものだった。それはまるでどの国の子供も素朴なように。そして子供たちが大人になって、結婚して子供をもうけると、親たちは子供の純粋さに学ばされることが多い。そういった経験された方は多いと思う。私もそうだった。子供を教育しているつもりが、逆に子供から何か教わるのである。これは国境や宗教を越えて普遍の何かがある。残念ながらウォーリズ自身には子供はいなかった。しかし彼には多くの教え子たちがいた。ヴォーリスを思い浮かべ、いつもそんなことを考える。そしてヴォーリスの建築を眺めると、改めて彼のすばらしさに感銘を受ける。是非、興味のある方はヴォーリズ建築の見学されることをお勧めします。
民主主義だけ本当に良いのか
最近、ネット上で様々な誹謗中傷合戦がある。どうしてこうなるのかなあと思う。私の場合、もともと何の利害関係もない一国民なので、仮に間違えたり、失敗すれば「ごめんなさい」って言って簡単に訂正、修正できる。本来は科学技術なんてものはそうあるべきだ。しかし昨今話題になっている理化学研究所のように権威のある立場だと簡単に「ごめんなさい」なんて言えないようだ。私の場合は、主義主張が一貫していないなんて非難されることもない。例えば、今までブログに書いて記事も間違いもあったかもしれない。でも、それを誰かが指摘して直すきっかけになれば結構有難い話である。そう誰だって失敗する。誰だって間違える。それは医者だって弁護士だって・・・えっ医者の失敗・・・それは困るっていうかもしれないが、同じ人間だから仕方がないじゃないですか。失敗を少なくする努力を継続することこそが重要なこと。

しかし、間違っているとか間違っていないとかは、政治や社会においては立場によっても随分異なるものである。それでも国家感や社会通念として違うでしょということはよくある。通常、政治家や各種団体、さらには評論家の方々はそう簡単に持論を撤回することはない(というより立場があるから簡単に撤回出来ない)。心の中で間違っていると思っても立場というものがある。特に政治家が言葉をコロコロ変えると主義主張が一貫してないと非難されて支持されなくなる。特に多くの支援団体や政治献金等が多ければ、もう後戻りできなくなる。それは弁護士だってそうだ。責任ある立場になればなるほど、言葉を選ばなければならない。それは大企業の幹部だってそうだ。

でも政治家や弁護士が、発言が制限されるということは大きな問題だと思う。また国内外問わず機密事項があれば更に発言が制限される。そして、政敵から言論攻撃されたときに相手の言っていることが正論であると分かりながらも抵抗しなければならないことだってある。よく雄弁だった新人議員が当選後に時間が経過するとともに言葉数が減っていく事もよくある。

結局、民主主義とは必ず国民同士あるいは団体同士の利害関係が衝突するものなのである。例えば、農業団体と工業団体の対立がその典型的だ。どちらが絶対に悪いなんてない。そして、どんな事案であれ、声の大きい者、カネのある者、そして数の力に従うようになる。そう数の力である。かつての共産主義が衰退してから、「民主主義こそ唯一の政治手法だ」ということが有識者の声から多く聞かれる。私も長らくそう思っていた。果たして本当にそうであろうか?

先ず第一に民主主義とはなんぞやという話になる。多くの国民は必ず何らかの組織に所属している、労働組合、医師会、弁護士会、経団連、商工会議所、農協・・・等。こうした団体の意見を聞くのも民主主義である。そういう組織は当然のことながら、それぞれの団体の利益を考える。また主婦は主婦の立場で、高齢者は高齢者の立場で利益を考える。そして子を持つ親は子供のための政策を支持する、なんとなく深く考えずに空気で投票する無党派層も多いであろう。しかし立場をかけて候補者を支援し投票した人にとっては時に死活問題になることもある。既得権益であろうが何であろうが、誰もがこの国で生活しているのだ。当然ながら立場によって利害が対立すれることは当然ある。そして最悪の場合は誹謗中傷合戦になる。マスコミを利用してスキャンダル探しもする。そして国会議員たちは、そうした支援者、支援団体、そして何となく投票した国民に支えられて当選して政治活動を行う。

では、果たして社会全体の利益、または国益とは誰が考えるべきであろうか?もちろん国家や社会のことを考えて投票する人もいるだろう。しかし個人の仕事や家庭を犠牲にしてまで、国家や社会の安定を望む人はどれだけいるのか?実際には投票行為や政治活動には反映しにくい。私だって、グローバル企業に勤務しながらも日本社会の安定や国益を考えるなんて限界がある。まあ、このようなブログで訴えているくらいだ。それは国会議員だけではない。例えば、政府直轄の産業競争力会議では民間議員と称して、各種利益団体の代表が集まっている。所詮、民間議員とか第三者委員会とかだって、何らかの特定の利益団体の代表の集まりである。従って社会的な公平さなんて全く期待できない。まだ国会議員グループの方が選挙に当選している分は10倍以上マシだ。そうなると基本的に、誰も社会全体の利益や国益を考える人はいないということになる。たしかに国家感をもった国会議員も存在する。しかし決して強い支援団体の代表でない。従って資金力にしても、後援会にしても政治的パワーが極めて弱いのだ。各種団体を支持母体に持っている政治家とは明らかにパワーが違うのである。

しかし本当の意味で個人や団体の利益だけを考えずに国家や社会を考える最強な存在が一つだけある。それは「天皇」である。天皇そのものの身分や生活が完全に保障されていることもあるが、元来の日本の天皇とはそういう存在なのだ。天皇は、諸外国の国王や皇帝とは異なり、暴君だったことや、専制君主をしたことは一度もない。もちろん天皇も人間である。自由が欲しいという気持ちもあるかもしれない。今上天皇自身も「天皇は孤独」とも発言されている。しかし孤独であっても常に日本の社会や国家を考える立場なのだ。本当にそれは壮絶な孤独との戦いだろう。先般の記者会見では、「天皇は孤独なものであるが、皇后が支えてくれた」と感謝に意を表されている。ただし天皇が直接政治を動かすことはできない。それは、国会が完全に二分したとき、あるいは国会が機能を停止したとき(クーデター等)。時に、開戦や終戦、領土の変更等の国家の一大事で政府だけでは決定できないときのみ御聖断を仰ぐ。かつての大日本帝国のこの解釈は極めて正しい考え方だ。

私はあえて多くの非難(もしかしたら誹謗中傷)も覚悟で提案します。それは国会に「貴族院」を復活させることである。旧皇族の宮家をすべて復活させる。また一部の旧華族も復活させる。そう、天皇の壮絶な孤独を守る強い組織が必要なのである。そして国家や社会全体のことを考える存在が必要なのである。当然ながら皇族宮家は全額公費を支給する。また旧華族も一定額の公費を支給する。皇族宮家は常任貴族院議員とする。皇族宮家からの議員は、男女合わせて50名を天皇の助言を得て宮内庁が調整する。旧華族は男女合わせて50名は皇族宮家が選出する。皇族議員、旧華族議員、おおよそ約100名ほどにする。100名分の国家予算なんて生保(ナマポ)に比べたら安いものだ。それで国家の為になるなら、そのほうが断然良い。

彼らの使命は唯一つ「国家のために働く」です。もちろん、皇族、華族だけでは人数も少ないため、一般文化人および各都道府県の代表も1名ずつ選出する。一般文化人は50名程度で候補者は、文化功労賞(文化勲章受章者)受賞者、三権の長の経験者、国立大学学長経験者、そして皇族、華族が推薦する者より選出される。(これは元々参議院の目指すところだったが、現在では崩壊している)候補者は70-80名程度で常任貴族院議員、および旧華族で推薦して、全国比例代表選挙で選出する。さらに46都道府県代表は、東京が東西で2名、北海道が南北2名で計48名代表を選出する。(国連は一国一票制である)これも重要である。それぞれの都道府県の意見を平等に聞き入れることも日本社会として重要だからである。従って計198名の貴族院を構成される。もちろん彼らに対する政治献金は一切禁止する。(基本的に貴族院での一票の格差は問わない。その代わり衆議院では一票格差を確実に2.0倍以内にする。)こういうメリハリは重要である。

たしかに現在の参議院は衆議院のカーボンコピーといわれても仕方がない。また、特定の支援団体や政治献金を全く持たない議員組織を作るために、貴族院の復活は絶対に必要だ。本当の意味での「良識の府」を作らなければならない。民主主義のために運営する衆議院、そして国家と社会のために運営する貴族院、これでようやく日本国の真の意味での再生が可能になる。まあ、ここまでなるにはあと100年以上はかかるであろう。そもそも国民思想そのものが変わらなければ当面は無理であろう。

そこで思い出したが、Wikipedia 米内光政(元首相、元海軍大臣)の記事の引用である。戦後の米内光政と武見太郎との会話で武見が「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」と言ったのに対して、米内は「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。そして米内の予想では「日本が本当に復興するまで二百年かかる」と述べた。近現代史学者の間では、米内光政の評価は賛否両論様々あるが、たしかに米内光政の述べたことは、その通りであると私は思う。




右傾化とは
以前(3/18)、当ブログで「嫌韓デモとヘイトスピーチ」を取り上げた。最近でもデモは行われているようだが、以前のような過激なヘイトスピーチは減っているようだ。むしろ何かのテーマに絞ってデモを行っている。逆にカウンター側の方が過激になっているように見える。在特会(在日特権を許さない市民の会)の桜井会長は「注目されるという目的は達成した」との趣旨の発言をしている。

一方、静かにしかも着実に嫌韓、反中は一般人に浸透している。まず、ネット上でも嫌韓をテーマにしたブログのアクセス数は非常に多い。このFC2ブログですらそうだ。そして週刊誌、書籍なども嫌韓をテーマにすると良く売れている。たしかに歴史、社会、経済、芸能・・・等、あらゆる領域で韓国ネタに尽きない。中には私ですら「ちょっとやり過ぎでは・・・」と思う記事も多い。まあやさしい日本人を本気で怒らしたというところだろう。一方、公共電波(NHKや民法TV)のみが必死になって韓国を擁護して、嫌韓やヘイトスピーチを非難している。

最近では、なんと小学生の間でも嫌韓、反中が広がっている。これは10数年前では考えられないことだ。その原因は、やはりネットの普及とテレビ離れだ。以前は、20代-30代男性のテレビ離れが著しかったが、最近では若い女性および小学、中学生ですらテレビ離れが進んでいる。そして家庭にあるPCやタブレット、そしてスマートフォンでYou Tubeやニコニコ動画、さらにネットブログ等を見ている。子供にネット制限している家庭も多いようだ。またTou Tubeを制限モードにしても、嫌韓ネタに誰でもアクセスできる。

特に小学高学年(5-6年生)になると、何となく色んなことに興味を持ち、自然に学んでいくものだ。子供だってTVはつまらないのでYou Tubeを見るのが増えている。我が家もそうだ。もともと私も妻もテレビはあまり見ない。どちらかというとテレビに否定的である。子供も、その影響を受けているのかもしれない。そうした韓国ネタだけでなく、中国の反日デモ、大気汚染、パクリ・・・すでに小学生も知っている。もちろん親として、特別に嫌韓教育や反中教育は一切していない。ただ子供たちもネットや友達同士で情報を共有しているのだ。また子供たちでもテレビのヤラセは知っている。特にバラエティー報道をバカにしている。というよりテレビが視聴者をバカにするからそうなるのだ。特にテレビのワイドショー等で芸能人のゴシップのネタを見ると、小学生の娘が「ばかばかしい。何がおもしろいんだ」なんてオヤジみたいなことを言うからびっくりだ。

そして娘は、ときどき私に質問する。「韓国のパクリは酷すぎない?」私は返答に困ってします。しかし私は子供に嘘はつけない。質問されたら真面目に答える。韓国の一連のパクリについて事実関係を淡々と話す。すると、思ったとおり大炎上だ。ただし、行き過ぎた言動や憎悪は慎むように注意はしている。憎悪させるために事実を教えているのではないから。すでに小学校でも児童の大半が嫌韓、反中である。ホントにこどもは素直であり敏感である。ある意味で一番残酷だ。もちろん、日本の小学校の先生はそんな教育はしていない。また、それを煽ることはない。ある日、小学校の社会課の時間に先生が子供たちに質問した。「韓国ってどんな国でしょうか?」すると数人の児童から手が挙がって 「うざい国ー」「消えてほしい国ー」という返答があったという。先生も困った顔しながら小声で「やっぱりねー」。・・・もう、後戻り不能です。韓国の小学校のように先生自ら反日教育するのとは正反対である。日本ではネットを見た児童に指摘されて先生が困るという現象が起こっているのだ。真実を知っている先生も子供たちの言葉使いについて注意はするが、全面的に反論できないのである。やはり真実は強いし恐ろしい。

もちろん、小学生でもさすがに従軍慰安婦問題や竹島問題の詳細までは知らない。しかし、パクリが多いだの反日だのは知っている。もしここで、先生が様々な事実を教えたら更に大炎上するだろう。かといって嘘を教えるわけにもいかない。そんなことしたらモンスターペアレンツに怒られる。韓国のように嘘を子供に教えたら、それこそ子供たちに未来はない。まずはネット社会で、そして実社会でボコボコにされるのがオチだ。

あと10数年もたてば、そうした子供たちが大人になり社会の主役になる。また、いわゆる団塊の世代は、多数派から少数派へ転落する。また反日思想の多い現在の50代後半(会社役員等)も現役を引退する。これらの世代は、音楽でいえばボブディランやジョンレノンに憧れている。私も個人的にビートルズは好きだがソロになったあとのジョンレノンはどうも好きにはなれない。まあ、ものは考えようで、将来人口が減るというより、日本としては皮下脂肪が減って良いかもしれない。スリムになって動きやすい社会になる。(ちょっと言い過ぎかなあ) まあ、とにかくこれから世代交代は加速する。そうした中で思想のバランスは必ず逆転する。

日本のいわゆる反日左翼の勢力は、日本の「右傾化」を懸念するという。彼らが言う「右傾化」とは何であろうか?嫌韓や反中が右傾化というのであれば、中国、韓国の反日は極右といえる。たしかに在特会は品は悪かったかもしれないが、中国の反日デモや韓国の反日デモよりはカワイイものだ。かつて日本の60年代の左翼過激派のようなことには決してならない。しかし、いずれにせよ将来の日本は、彼らがいう右傾化、あるいは保守層が多数派になるのは間違いない。私は、正直いって右派とか保守とかいう定義はよくわからない。ただし様々な問題に関して「本質は何か」と勉強すると自然に保守と呼ばれる人たちに共感するだけだ。もちろん私は黒い街宣車の右翼とは何の関係もないし、娘だって右翼じゃない。間違っているものは間違っているでしょう・・・といっているだけだ。それを右傾化しているなんて言い方は完全にレッテル貼りだ。そういうことを言うのは団塊の世代、そして50代(特に女性)が圧倒的に多い。

かつての日本の女性たちは、一般専業主婦、農家の嫁が中心であり、外で仕事をしている女性も学校教諭か看護婦くらいであった。そして女性のインテリ層は、与謝野晶子に憧れる。反日左翼的になるのは、誰かの陰謀論というより自然の成り行きだったのかもしれない。そして戦後の男女同権やウーマンリブで彼女たちの発言権も大きくなった。時代は流れ、現在では夫婦共働きが当たり前であり、子育て中の母親もパートにでるのは普通になった。また最近では土木業界で仕事する女性も増え、自衛隊の女性も増えた。これは本当にいい傾向だ。女性の意識も大きく変わりつつある。

先に述べたように、将来日本は皮下脂肪の少ないスリムで強靭な国家になる可能性を十分持っている。にもかかわらず副作用の強いサプリメントを大量注入しようとする計画がある。そう、それが1000万人移民受入計画だ。日本は人口減少に伴い、移民大量受入なんかしたら必ず社会問題になる。それはウクライナだけでなく、ドイツ、フランス、ベルギー、シンガポール、台湾・・・反面教師がこれだけあることは日本としては幸運である。

私の結論はこうだ。将来の日本は「右傾化?」あるいは「保守化」を素直に受け入れるべきである。仮にそうした「右傾化」「保守化」になって何が困るのだろうか。別に外国に侵略戦争するわけでもない。徴兵制すらしない(できない)。外国人の全面入国禁止するわけでもない。国際結婚が全面禁止されるわけでもない。国際貿易をゼロにするわけでもない。そういうことを主張する右派、あるいは保守派なんて存在しない。いたとしても極ごく少数派である。

また反日左翼勢力が心配する「軍国主義の復活」とは何を意味するのだろう。彼らはあえて「右傾化」とか「軍国主義」といった曖昧なことばを使用する。もしこれが「侵略国家へ」だったら話は早い。結論からいうと絶対にあり得ないからだ。私もそうであるが、多くの日本人は「二度と大陸と関わりたくない」と思っている。これは、日本の極右と言われる人ですらそうである。帝国陸海空軍を復活を考える人も侵略国家になることを肯定する人は誰一人いない。そもそも大陸(中国、朝鮮)を侵略したって何も得るものないじゃないか?逆に日本の財産奪われるだけだ。それは歴史が証明している。しかし、当然ながら自主防衛権はある。それを強化する。それだけである。何が問題なのだろうか?

そう、だから何も心配する必要はない。むしろ国家を強靭にすることで大きなメリットがある。例えば、経済、食料、エネルギー、各種インフラ、防衛、教育 そうしたもの自国で強化する。困るというか、悔しがるのは中国、韓国であろう。しかし、そんなことは知ったことではない。それぞれの国でしっかり国つくりすればよいのだ。そもそも自国で努力もせず、他国のカネ、技術、文化を当てにすることしか考えない国とは付き合わないほうがマシだ。正直いって、私にとって中国とか韓国はどうでもいい国である。日本がどうするかである。それが最も重要なことだ。

すでに多くの国民も気付き始めている。そして小学生までもが中国、韓国の何か矛盾に気付いている。もう、こうした流れは変えられない。ただ、やっかいなのが先ほどから述べている「移民政策」だ。もしかしたら移民政策を推進する人の本当の目的は、こうした「右傾化」「保守化」を阻止することかもしれない。しかし多くの日本人は目覚めている。移民大量受入を阻止さえすれば保守派が多数派になることは間違いない。ここは国家の存亡をかけた戦いだ。皆で協力して絶対に大量移民受入を阻止しよう。そして「正しいことは正しい」「間違っていることは間違っている」という世の中にしよう。
移民政策Ⅲ
再び移民政策について論じる。この件については政府が1000万人移民政策計画を完全撤回するまで延々と訴え続けます。移民に関するリスクは様々な議論がされている。結局、外国人も日本人も不幸になる。それは海外でもすでに証明されている。とにかくリスクをアピールするだけでなく、様々な対案を打ち出すしかない。実際に移民政策に対抗する方法はまだまだある。今回は、移民政策の根拠と言われる「労働力不足」そして、これに対処する方法について論じる。

①勤労:労働出来る者は労働する

労働力が不足しているから、どこから補おうという発想である。それが何故か外国人労働者の活用という発想になっている。しかし現在の日本には、ニートや労働可能な生活保護受給者は少なくとも80万人以上いるといわれている。そのうちの半数でも就労すれば40万人である。そもそも基本的に「教育」「納税」「勤労」は国民の義務である。特に、25歳-50歳までで心身ともに健康であれば勤労の義務はある。もちろん主婦だって勤労とみなされる。労働すれば当然ながら賃金を得て所得税を払う。にもかかわらず勤労しない者は国家としての犯罪者あるいは反逆者といっても過言でない。従って、国家として強制労働させても構わない。当然、必要な職業訓練は行う。これは人権侵害ではない。国民の義務である。

②教育:研修生制度は日本人学生に義務付ける

これは当ブログの移民政策Ⅰでも述べたが、何故、中国人の研修制度があって、日本人の研修制度がないかって話だ。高校を義務教育化して職業訓練させる(土木建設、医療介護、自衛隊・・・等)。机に座って本読むだけが勉強ではない。これも日本国民の義務である「教育」という概念を徹底させる。大学でも一定の職業訓練を義務付ける。職業訓練はれっきとした「教育」である。この国民の義務が果たせない者は犯罪者と断定しても構わない。本当は兵役義務と言いたいところだが、今の日本ではそれが難しい。実際にはどこの国も兵役の中でも土木作業や医療介護、さらには食品衛生の訓練をしているという。それを兵役としてでなく、純粋にそれぞれの教育をすべきであるというのが私の意見だ。そうすれば生活保護に陥る人だって減少する。

③生産性の向上

あらゆる分野においては、生産性の向上を徹底して実施すること。機械に任せられる仕事は機械に任せる。そして設備投資を推進させる。生産性の向上が実現すれば、ある程度の人手不足問題も解消できる。ある分野においては、生産歩留まり、あるいは不良率が高い業界がある。これはエネルギー効率と同じ問題である。ロスを減らす開発を推進すべきである。特に既存の分野に関するそうした投資を加速することが重要である。法人税減税ではなく、そういた研究投資と設備投資こそ活性化されるべきであり、減税されるべきである。労働者が余っているときに、この対策すると反発がある。しかし、これから労働力不足になるなら徹底的に生産性の向上を実施しても構わない。


このように国民の三大義務である「教育」「納税」「勤労」を徹底させる。さらに生産性の向上として研究や設備投資する。このように当たり前のことをすれば、労働問題はかなり解消できるのである。


テーマ:移民問題 - ジャンル:政治・経済

平和憲法
本日より、ブログの模様替えしました。先月から立ち上げた本ブログも記事数が多くなり、少し見づらくなったためです。以前書いた記事も検索し易くしたつもりです。是非、過去の記事にも目を通していただけると幸いです。すでに様々な方々からの反響があり「勉強になる」とのコメントも頂いています。本当に嬉しい限りです。しかし私もまだまだ勉強不足です、これからも世の中は動いていきます。継続して勉強することが重要です。プロフィールに記載した通り、私は普通のサラリーマンです。特定の政党とも関係ありませんし、何の支援団体もありません。素直な目線で社会学を論じていきます。今後ともよろしくお願いします。

さて今回は「平和憲法」について考えたい。最近のニュースで日本の憲法九条をノーベル平和賞に推薦しようという話題がある。しかし、これってどれだけの意味があるのだろうか?どこの国の憲法でも平和の理念は持っている。その平和の方法論は様々だ。「武力をもって平和を守る」という考えもある。当然「非武装中立」や「永世中立」という考えもある。平和という社会の目的に対して、どんな手段が良くて、どんな手段が悪いかは各国ともに状況は異なる。また思想哲学だって違う。従って国際的に平和のために方法論の優劣は決定できないはずだ。例えば、どこかの国で完全武装解除をしたあと、その国が崩壊して資産も略奪され平和も完全に失ったとしよう。その後に「完全武装解除」したことに「ノーベル平和賞」を授与しても何の意味もなく、ただの皮肉にしかならない。

かつて日本の首相であった佐藤栄作は非核三原則でノーベル平和賞を受賞した。しかしアメリカとの密約があったことは有名なエピソードである。最近では被爆地の広島で核武装しない国同士の会合もあった。当然のことながら「核兵器の非人道性」をアピールすることは重要である。しかし、だからといって常任理事国五大国が核を放棄する可能性はゼロである。むしろアメリカは核兵器は五大国の専売特許であることを維持するのに必死だ。むしろ核の不拡散条約強化や平和憲法もアメリカにとって都合がいいのだ。残念ながら、核を持つ国とそうでない国は間違いなくパワーバランスは異なる。そのような中で憲法九条をノーベル賞の候補にすること自体、日本として大した意味はない。むしろ近隣諸国にとって喜ばしいことなだけだ。つまりそれは、佐藤栄作のノーベル賞だけでなく、韓国の金大中のノーベル平和賞、そしてアメリカのオバマのノーベル平和賞・・・いずれもあまり意味がないのと同様である。結局、プロパガンダ、あるいは国際政治的な宣伝合戦ということだ。一方、ユネスコ無形文化遺産申請のようにビジネスの宣伝道具に利用することなら、まだ少しは理解できる。しかし「ノーベル平和賞」という名で政治的プロパガンダに利用するのはいかがなものか。

もし本当の意味での国際的な平和賞というものを設けるなら、受賞理由はただ一つ「平和を維持しているかどうか」であるべきだ。実際に日本は1945年以降、戦争や紛争を一切発生させていない。これって意外にも、そうした国は少ない。アメリカ、中国、ロシア、イギリス、そして韓国も第二次大戦後に、他国との戦争なり地域紛争が発生している。どんな平和憲法を持っていようが平和条約があったとしても、結果的に平和じゃなければ意味がない。平和という社会の目的を実際に達成しているかどうかの方が重要だ。たしかに日本の「平和憲法」も一定の役割を果たしたかもしれない。しかしそれは軍事予算ではなく戦後の復興予算にシフトされたことによるもので、実際はアメリカの核の傘に入っていたために平和が維持されたともいえる。先ほど述べたように手段はどうであれ、平和を維持することが最も重要なのだ。

どうしても国家へのノーベル平和賞を受賞をさせたいのならば「過去50年にわたり戦争や紛争の発生および関与していない国」を表彰すべきである。当然、日本はその対象国である。極論だが、戦争や紛争を発生させた国は国際的に罰金を科すか、あるいは国際奉仕をさせるかも考えたっていいと思う。つまり、そういう意味のあるノーベル平和賞になってほしい。



テーマ:国家論・憲法総論 - ジャンル:政治・経済

世界の食料問題
現在、世界の人口は70億を超えたという。私が小学生の頃だったか、学校の先生が世界の人口40億とか言っていたので、この30年で30億増えたことになる。これから数十年で90億になるとの見方もある。逆に日本の人口は1億3000万であり、今後50年で8000万人になるとのこと。

そこでよく議論になるのが世界の食料問題だ。たしかに単純計算で世界の食料生産量を一定として、人口だけが倍になれば競争率は高くなる。最近では、昆虫食が世界を救うとか、微生物のミドリムシがいいとか、TVで放送している。今日の朝のNHKニュースでもそんな事を言っていた。

では、本当の世界の食料事情はどうであろうか?個別の国家や地域レベルでいうとそうでもない。例えば、インドネシアのある地域では年3回コメが収穫できるのにも関わらず民衆は貧しい。またバングラディッシュでもコメが余っているが貧困者(餓死者ではない)が多い。発展途上国でも、農場の機械化が進み生産性が向上していることが多いようだ。つまり食料自体は増えている地域も多い。従って、国や地域別でみれば食料生産量と貧困率はあまり関係ないように思える。確かにどこの国もコメ本位制ではないので、食料の問題というよりカネがあるかどうかのほうが重要な問題になる。

しかし、アフリカの山岳部では機械化、および大規模農業ができない地域も多く、そういう場所は生産性の向上は難しい。そこに農業国(アメリカ等)からの安い穀物が流入すると、たちまち山岳農家の経営が破綻する。実際にそうした事例はアフリカに多くある。そもそも、それはアメリカの「人道支援」として送った食料物資が問題の発端だったのだ。そして一旦、農業をやめると土が荒れる。そして簡単には農地が回復しない。また農業に従事者も少なくなる。そして気象異常や紛争なので穀物価格が上昇すると、一気に買占めが起こり、こうした地域に行き届かなくなくなる。それこそ結果的に兵糧攻めされるようなものだ。アフリカの農業が衰退したのはこれが原因だといわれる。特にアメリカ等の大国は、穀物は大規模経営であり機械化されている。さらに補助金まであるのだ。これに立ち打ちできる国は存在しない。

最近、日本でよくいわれるのが、家畜を育てるために人間が必要とする穀物を無駄に消費してしている・・・とか。
インドや中国での結婚パーティーでは無駄に多く食材が準備され大量に廃棄されている・・・とか
先進国の肥満の人が食べる量を減らしたらアフリカの子供が救われる・・・とか、はっきり言って大きなお世話だ(私も最近少々太り気味)。しかし、それでアフリカの貧困者が救えるだろう・・・という論調がある。たしかに単純計算ならそうなる。「モノを大切に」というスローガンとしては理解できないわけではない。しかし、それってアフリカはもっと穀物を輸入しなさいっていっているように聞こえる。グローバリズムのせいで地球は狭いように思えるかもしれないが、やはり広い。こっちのお皿から別のお皿に簡単に移し変えるようなものではない。結局、誰がそんな遠方まで輸送費払うのとか?衛生管理どうするのか?そういう具体論がないとナンセンスである。具体的に、どうやって流通を安定させるか?あるいはどうやってリスク回避するかという議論の方がまだ意味がある。一番良いのは、それぞれで自給率を高める。新鮮で輸送費も大して要らずの、地産池消の何が悪い。それが最も有効な手立てなのだ。それを無視して、「あっちのモノを、こっちによこせ」という考え自体が不自然きわまりない。だいたい無条件に「右から左へ移せ!左から右へ移せ!」という議論は非生産的で野蛮な思想だ。

基本的に農産物の生産高はその年の気候によって大きく影響を受ける。従って、価格の変動も大きくなる。取引量が大きければ大きいほど、異常発生時の損害は大きい。それは売る方も買う方も同じだ。特に穀物は石油と違って、1年以上経過すると商品価値が著しく低下する。高品質を保持するには短期間で販売しなければならない。また基本的に穀物の場合は、価格の複数年契約はできない。そりゃそうだ、誰もリスクを取りたくない。価格は毎年変動する。市場での先物取引でリスク分散するのが精一杯だ。

しかし、生産者にとってみれば複数年での価格が安定しないと農地の管理が難しい。品種によっては連作障害を防ぐ工夫も必要だし、中長期の栽培計画が必要だ。そして一旦、耕作放棄すると土なかなか元には戻らない。畜産業の場合でも、家畜が生育するまでの数年掛かる。また牛は妊娠しなければミルクはとれない。そう工業製品のように生産調整するのが困難なのだ。しかも肉や魚は冷凍保存できるが、冷凍保存だって冷凍輸送だってコストがかかるのである。

最近では、よく日本の成長戦略の一環として、「日本は高品質で安心安全の食料を積極的に輸出しよう」という意見が多い。しかし、本当にずっと安定して買ってもらえるのだろうか?世界情勢の変化で輸出ができなかった場合、どうなるのか? 低価格で国内で販売するか、家畜のエサにするか、廃却するしかない。そうなれば、どう考えたって原価割れする。ある日本の農業経営者のコメントだが、「そもそも高品質の食品を輸出して、低品質の食品を輸入するという考え方そのものがおかしい」私も全く同感だ。別にそれら食材を多少輸出入しても構わないとは思うが、何でそれが成長戦略になるのかということだ。グローバルで金持ちだけが、安心、安全の高級品を食べて、貧乏人が危険でまずく安いもの食べる。そしてそれがエスカレートして、日本のコメが高騰して日本人が日本のコメを食べれなくなるなんてのが良いのかって話だ。もし、日本人が食べないものが、付加価値があり輸出されるのであれば、それは大いにありであろう。(そんなものあるかどうか知らないが・・・)

例えば、アフリカのガーナでは貧困層の子供たちが、チョコレートの原料になるカカオの収穫で働いている。ある人は、それは先進国の搾取だという。なるほどそういう見方はある意味で間違ってはいない。なぜなら彼らは低賃金であり、チョコレートそのものも食べたことはないからだ。でもカカオ豆なんてそのまま食べたら苦くて食べられない。しかしカカオのまわりについた白い果実はそのまま食べられる。そうガーナの子供たちはその白い実をよく食べる。そして、食べて残った種(カカオ)を業者に渡している。そして乾燥させて出荷する。この白い果実はたいへん栄養価もあり美味だそうだ。子供たちもこれが大好きである。その残り物を先進国に輸出しているわけだ。もし、このパターンが逆で白い果実が輸出されてカカオ豆だけ現地に残ったらガーナ人は絶対に怒るであろう。基本的にカカオやコーヒー豆のいいところは乾燥して密封すれば長時間保管できるし、必ずと言って良いほど業者に買ってもらえる。そもそも熱帯雨林地帯でないと栽培が不可能なので、栽培できる場所も限られているのも幸いである。特にカカオは砂糖を加えてチョコレートに加工すれば、さらに長期間保管できる。ケーキや洋菓子だけでなく非常食にもなる。この食材は本当にすばらしい。たしかにガーナの子供たちは極めて安い賃金で働いている。お金はさほど持っていないが、結構幸せのようだ。もちろん栄養不足にもなっていない。経営者にとっても重要な外貨稼ぎだ。そして、チョコレートもパームオイルも高価格で先進国で安定的に消費される。従って、これってホントの搾取なのかどうか考えてします。たしかに賃金は少なく貧困かもしれないが幸せそうに見える。つまり自分たちが好きな部分は自分たちで消費して、残りものは買ってもらえる。これって、すばらしいことじゃないのかなあ。

そういう意味で、もし日本が日本の高級米を輸出して、もみ殻と米ヌカだけが日本に残ったら、日本人ははたしてどんな気分になるだろうか?確かに利益(金)を得た業者は、一時的に嬉しいかもしれないが、いざ自分の食のために日本のコメをたべようとしたら売っていない、あるいは高価で購入できない。仕方ないから外国も安いコメを食べる。あるいは開発した昆虫食を喜んで食べる?・・・・何かおかしくないか?もしガーナが搾取されているというのであれば、このような将来の日本はもっと搾取されていると言えるのではないでしょうか?

まあ安定して売れればまだマシだ。はたして、本当に安定して売れるのであろうか? コメはカカオと違って、温暖で粘土質の土と水があればどこでもできる。しかも連作もできる。日本以外の外国だって頑張れば日本の高級米を作るのは可能だ(実際に日本人が海外で日本米を栽培している)たしかに日本のコメは美味であるが、どちらかというと日本米というブランド意識から売れる要素がある。逆にいえばブランドイメージが消えたら終わりである。そもそも国際情勢というのは日本一国で決められるものではない。いつどこで紛争が発生したり、異常気象が発生するかわからない。どっかの国にネガキャンされることもある。そう考えれば食料のグローバル化は大きなリスクを伴うことになる。

当然ローカルでもリスクはある。日本の歴史を見ても、過去に東北を中心に何度も飢饉があった。しかし、サトイモを植えたり、サツマイモを植えたりして万が一のコメ不作に備えた。ヨーロッパでも、南米から流入したジャガイモの栽培が人々の飢えをしのいだと言われる。そして最悪の場合は、食料の輸出を制限すれば良い。ちなみに昨年ロシアは麦の輸出制限をした。そういう対策は国家レベルでの管理は可能だ。しかし、グローバルでの食料管理なんて不可能だ。

にもかかわらず食料品の自由化を進めようとする動きはある。TPP交渉がその代表的だ。なぜであろう?そう、推進派は社会を無視しているのである。とにかく自由が良いと。社会主義は悪だと。そう勘違いしているのだ。当然、わたしもすべてを統制経済する方が良いとは言っていない。つまり社会を無視して、個人の利益を追求したら、いつか社会から信用なくしますよ! ということだ。すでに多くの人々は気付き始めている。そして彼らを信用しなくなる。
研究とは何なのかⅡ
STAP細胞について議論が続いている。たしかに小保方さんは未熟だったところはあるだろう。しかし、私は小保方さんを擁護したい。そもそも完璧な論文なんて存在しない。誰だってミスするし、誤った解釈することもある。何年か経って、正しいと思われたことが間違いで、間違いと思っていたことが正しかったりする。大切なことは前に進めるということ。前回のブログで述べたとおり、「無限ループ」に陥らないで道を開く、そしてそのためには「学び続ける」しかない。こう述べている私だって過去に何度も失敗している。繰り返し失敗したこともあった。しかし勉強を継続することによって、間違えることが少なくなった。ここで「少なくなった」というのが重要である。誰だって完璧なんてないのだ。

「失敗は成功のもと」という諺がある。失敗したデータだって、失敗した経験だって、実は貴重な財産である。いいところだけピックアップして他人にアピールしてもあとでバレるものである。小保方さんも以前のインタビューで「何度も失敗した」といっていたが、果たして失敗したデータをすべて残しているのだろうか?失敗したデータも貴重なデータである。絶対に捨ててはいけない。成功者は大抵そうした失敗データを大切にしている。もし失敗データを都度捨てているようだったら、必ず同じ失敗を繰り返す。時にはそれは世代をこえて、あるいは社会を超えて。そして無限ループになる。

時に世間は冷たいもの、しかしどこかで分かっている人は必ずいる。そう信じるべきであろうし、日本社会はまだそうした土壌は多少なり残っている。逆に、こうした社会土壌のない国家の場合、科学技術の進歩は期待できない。私も技術者の端くれだが、今回のことは教訓にしたい。また社会がどう支えるか?そうしたことを皆で考えるべきだろう。特に教育の場ではそうだ。なんでもそうだが、最初から出来る、あるいは成功する人なんていない。どうやっても時間がかかるもの。しかし時に人はすぐに「結果」を求める。それは許しがたい。特に管理者というのは、とかく「結果」だけを求める。たしかに結果は重要だが、どんなものも、ある日、突然、成功はやってこない。そう奇跡は起こらない。すべて失敗しながらも積み重ねて成長していくもの、そして成功するもの。

もし今回のSTAP細胞の騒動が、何らかの社会的悪影響を及ぼしたなら話は別だ。例えば研究に伴う詐欺的な行為があったとか。たしかに文献流用はあったかもしれない。しかし、それが食品偽装のように虚偽記載があったわけではない。以前ブログで私が指摘したように「文献末尾に参考文献一覧」を記載することが疎かになっていただけだ。今後、理研は予算を削られるかもしれない。でも日本社会全体で何か大きなマイナスなことはありましたか?本当に研究の「信用問題」になっているのか?もし、すべての研究に「信用問題」を伴うのならば過去も含めて研究なんてものは、すべて信用できないとも言える。

重要なことは、社会がゆっくりと研究者を育成していく。それが許される社会であること。そういう環境づくり。教育問題と同じだ。教える側、教わる側、そして社会がそれを許容するようでなければ科学技術は絶対に進歩しない。
無限ループ
昨日、STAP細胞についての小保方晴子さんの記者会見があった。2時間以上の会見であり、私もすべて見ていない。前回のブログ「研究とは何なのか」で述べた通り、「何が解って、何が解らなかったのか」ということが明確になったようには思えなかった。ただ小保方さんも謝罪したわけだし、小保方さんも、理研も何らかの問題があったことは間違いない。しかし同じ間違いを繰り返さなければ良い。とにかく今後も研究を継続してほしいし、小保方さんのみならず理研も今後の活躍を期待したい。それが私の率直な思いだ。

「同じ間違いを繰り返さない」この言葉は意味深い。(当ブログ「従軍慰安婦問題と現代社会」参照)そこで今回は逆の意味である「無限ループ」について考えたい。この言葉は本来、コンピュータ用語のようで、同じ指令が永久に続くというもの。最近では、負の連鎖に例えて使う事も多い。例えば、経済的に「デフレスパイラル」ということばもそれに当てはまる。またよく「不幸の連鎖」という言葉もある。私が学生のころ、ある方からこう聞かされたことがある「ねえ知ってる?貧乏ってうつるんだよ!」。何故かこの言葉が今でもとても印象に残っている。たしかに何か失敗を繰り返す人がいる。まるで無限ループのように。その本質とは何なのか?

ネットでの人気アイドル「初音ミク」の「整形美人」という曲がある。YOU TUBEでも簡単に検索して動画が見れるので興味ある方は見ていただきい。私はこれを見たとき、これこそ「無限ループ」だと思った。この曲の歌詞の一節で「・・・間違えたから、修正液を塗った。また、そこを間違えて修正液塗った。またそこを間違えて・・・」思わずゾッとした。そもそも美容整形する女性をテーマにしている。たしかにそのテーマそのものも強烈なイメージがある。しかし私が思ったのは、この世の中には美容整形以外でも、こうした「無限ループ」の世界が多々あること。例えば、世界情勢でいえば中東紛争もそうだ。日本国内での長らく続いたデフレスパイラルもそうだ。

そして、実は研究機関でも一般企業でもそうした「無限ループ」になっている人、あるいはそうした事象が非常に多いのだ。それは何故だろうか。特に企業の場合、重要不具合の対策とかなるとトップダウンからのパワーがあるからまだマシである。しかし、小さな問題から中規模も問題になると、大した対策を講じることなく、延々と続くのである。それが、10年後、20年後の累積したマイナス金額は計り知れない。そういったケースが多い。

とにかくこうした「無限ループ」から一刻も早く抜け出すことが重要である。仮に、仮にである。今回の理研での問題がこの「無限ループ」であったことが原因ならば、今回の騒動がそこから抜け出すきっかけになれば良い。逆に、新たな「無限ループ」になり、予算削られ、マスコミから叩かれ・・・にならないことを願っている。

こうした事態を打開する方法はただ一つ。とにかく「学び続ける」それしかない。道を開くにはひたすら「学ぶしかない」。ここでまた孔子の論語を引用する。

子曰、君子謀道、不謀食、耕也餒在其中矣、學也禄在其中矣、君子憂道、不憂貧。

<現代 日本語訳>
「人格者たるもの、道を追い求めるが食を得ようとはしない。自ら耕して生活しながら飢えることさえある。学んでいればその内に俸禄を得られるものだ。だから人格者たるもの、道の事を考えても自分の貧しさは気にしないものだ。」


研究とは何なのか
STAP細胞論争が過熱している。本日、渦中の小保方晴子さんの記者会見もあるそうだ。本件については、まだ真相が明らかになっていないので私も詳細コメントしようがない。しかし改めて「研究とは何なのか」と考えさせられる。一般的に、研究は理化学研究所(理研)のように公共のものから、民間企業の研究、大学の研究、さらにはそれらから委託された研究機関や試験機関など多くの組織がある。通常は次のステップで研究が進められる。

①研究の背景

研究を始める上で、その社会的背景、技術的背景を理解する必要がある。そのためには社会学的データ、過去の技術資料等が重要になる。「なんとなく」研究したいという動機もダメなわけじゃない。しかし、その場合は研究から得られる結果は「なんとなく」こうなったとなってしまうことが多い。もちろん小学生の夏休みの自由研究もそうした内容でも問題はない。ただ、企業の場合はそうはいかない。最近は「生き残りをかけた研究」あるいは「重大問題の解決のための研究」が盛んである。そういう意味では大学や理研は、それほど切羽詰った感覚はない。ただ予算減らされると困るので一定の成果を出そうとすることはよくあるそうだ。

②研究の目的と目標

これも重要だ。企業の場合は純粋な新商品開発だけでなく、現行製品のコスト削減、品質向上の為の研究も多い。ただ、理研や大学というのは企業と共同研究の場合は別だが、結構方向性を見失うことも多い。先ほど述べた「何か成果をあげるため」とか「予算を確保するため」と「出世のため」とかは、そういう目的は言語道断である。

③研究の計画

一般的に、どういう情報をどのような試験設備等で入手して、どのように評価するか?これも重要だ。行き当たりばったりの進め方をする研究もある。しかし実験計画法(フィッシャー)のように様々な組み合わせを用いてマトリックスに試験をすることが効果的である。また、どういう統計処理や傾向分析をすることを予め計画に入れるかも重要である。また近年、コンピュータが普及してからは、様々なシミュレーション解析としてFEM(有限要素法)を用いたりする。そのシミュレーション結果が実際に実験結果と整合性があるか?という研究も多い。

④データの収集

測定や観察といったデータ収集は、どのような設備でどのような条件で試験をするを明確にすることが重要。JISや各種法規、あるいは顧客が要求する試験方法に準じることが多い。また顕微鏡観察のような計数値や計量値での記録でないものは、技能を養った人が観察し判断することになる。もちろんこれらの測定方法はあくまでも測定基準である。実環境や実社会にどこまで適用できるかという考察は必要である。こまったことに最近の外部の試験機関や企業の試験グループもあまり技術的に精通した人ではなく、一般のパート従業員や派遣労働者が従事することも多い。この理由は、試験設備の操作が簡単になったこと、また人件費の抑制が挙げられる。しかし、ここで大きなミスがあっても見落とされるケースが結構多い。また失敗したデータであっても貴重なデータになることもあるのに闇に葬られるケースも多い。これは研究そのものの信頼性が低下する由々しき問題である。しかしこれに管理者が気付かないことがもっと大きな問題である。

⑤データ解析の評価と考察

得られた情報は統計処理等を行い、何らかの判定を行う。もちろんここでも判定基準は何なのかが重要である。企業ではたいてい品質SPECというものがある。それが実環境とどこまで整合性があるかは別にして、そうした判定を行う。通常、外部の試験機関に解析を依頼すると評価や考察というものは彼らに期待できない。ただ淡々と、このような試験でこういう結果になりました。と言う感じだ。試験を外部委託しても、やはり評価と考察は依頼者がしっかりと行うべきである。それを勘違いしている管理者も多い。

⑥報告

試験報告の場合、JISでは試験方法だけでなく報告の仕方も決められている。たとえば、このような記号を使用してこのように表記しなさいとか。どちらかというとお役所的な内容だ。しかし研究報告の場合はそうではない。ここでは考察が重要である。そして研究の目的に対して、「何か解って、何が解らなかったのか」ということが重要だ。実際には「何が解ったか」重視することが多いが、「何が解らなかったのか」ということを明らかにすることも重要だ。


さて、こうして考えるとSTAP細胞のみならず、あらゆる論文に対して内容を見極める能力が必要だ。実際に私も様々な論文を読み、様々な論文を書いてきた。結構、スカスカの論文も多いし、過去に自分の書いた論文も今見ると情けなくなるようなものもある。
あと、こまった現象として、研究者同士の対立というものが結構あることだ。年配の研究者はプライドが高かったりするので、各論文を評価する際にも余計なマインドが入ったりするのだ。特に権威のある大学や研究機関だとそうしたことが多いと聞く。今回の理研の場合、そうでないことを願っているが・・・。

こうした視点で様々な論文を読むと結構おもしろい。研究とは、一見難しそうに見えるものも実は生々しく、時にはバカバカしいものも多いのだ。そう思って気軽に様々な論文を読むことを有意義なことである。

工業製品とその素材
今回は現代社会における工業製品とその素材について考えてみる。製造業において、建設業界、自動車業界、電気業界では、それぞれのサプライヤーチェーン、あるいはサプライヤーピラミッドと呼ばれるものがある。要はそれらのメーカに対して部品や材料を供給する体制だ。1次取引先、2次取引先、3次、4次、5次というのもざらにある。例えば、1台の車には数十万といわれる部品がある。もちろん、自動車メーカ自身でまかなっている部品もあるが、ほとんどは部品仕入先が供給している。日本の製造業の特徴として、各業界で共通していることがある。それは、ほとんどの素材や部品はすべて日本国内で供給可能であること。これは日本の工業製品の潜在能力の強さを示している。もちろん原油や鉄鉱石等は輸入しているが、それ以外の中間品や部品はほぼすべて日本国内だけでもまかなうことは可能である。諸外国で、そこまで100%に近い自国調達できる国はない。欧州ではドイツが日本に近いがそこまでではない。例えば、アメリカでは部品調達はほぼ海外(主に中国)である。またその中国や韓国も重要部品や素材は今だに日本から供給している。もちろん最近では各社の部品調達グループはより安く、安定した供給先を探しており、成功しているケースもある。一部の部品は中国や韓国でも金型製作や重要部品も製造することは可能である。しかし製造設備自体は日本製だったりドイツ製だったりする。ある程度のレベルのものなら世界中から部品調達が可能になったのは事実だ。

そこで、日本の素材、部品メーカも二極化しています。特に日本の大手電気メーカが韓国のサムソン、LGに押されていた。日本の部品サプライヤーに関しては特殊技術を持つ会社は相手が日本であろうが韓国であるが、供給は途切れず利益も上げている。一方、それほど特殊技術ではない部品サプライヤーは苦境に立たされている。1970年代頃はある程度、各社が持ちつ持たれつのような関係もあった。しかし、やがて市場原理主義のような風潮になるとそうした関係が悪のように扱われた。土木建設業も「談合は悪だあ」という世論になってしまった背景がある。つまり市場原理と低価格路線というのは誰も止められなかったわけだ。そして、1990年代後半から長らく続いたデフレの影響で、1次は2次へ、2次は3次へ価格、品質ともに要求がエスカレートしていった。まるで取引先イジメのような状態であった。一部ではこうした過度な要求により部品サプライヤーは大手企業を今でも恨んでいる。特に電気関係の特殊技術を持つ部品サプライヤーは日本の大手電気メーカの衰退について心の中で「ざまあ」と思っているのである。基本的に、調達側と供給側は対等である。それを完全に忘れているのである。「長らく続くデフレ」という経済状況と「お客様は神様」という昔ながらの意識から、下請けイジメが凄まじかった。もちろん法的にいわゆる「下請法」が成立して多少はマシになったのだが。

しかしイジメられている下請業者ばかりではない。特殊技能のある会社はやはり強い。さきほどサプライヤピラミッドという表現したが、実際にはピラミッドのような綺麗な三角形状ではなく、もっと複雑な形状だ。大手企業の調達部は、自分たちが頂点にいて全体をコントロールしている気分になっている。しかし実際には、このような特殊技能を持った会社が全体をコントロールしているのだ。昔から「鉄を制するものは世界を制する」とはよくいったもので、鉄に限らず素材開発に高度に技術がある会社は強いのである。身近に例で考えてみよう。スマートフォンにタブレット、こうした製品を可能にしたのは、高度なハイテク部品、半導体、それを構成するレアメタル、レアアース等の加工技術である。また、エコ自動車の場合は、それを支えているのは「車体の軽量化」「エンジン性能」「ベアリング性能」が挙げられる、これらはいずれも素材、および高度な部品加工技術があるから可能になっているのである。さらに過去にはリニアの超伝導素材、建設分野では新セラミックやカーボンファイバーも活躍している。このように多くの新製品は新素材や最先端の部品加工技術によって支えられているのである。逆に大手企業独自の開発は意外にも少ない。あったとしても、それは共同研究の成果だ。一方、共同研究に積極的ではない大手企業は完全に乗り遅れている。結局、素材や部品の技術向上に便乗した形で大手企業が発展した側面は大きい。最近では大手企業の一部の技術者はそのことを十分認識している。製造各社の調達部門をはじめとして、下請けイジメや部品取引先イジメをする社員は今でも多いが、そういったことを理解している技術者は、下請けや部品取引先を大切にする。本当の技術者は下請けイジメのようなことは一切しない。いやそんなことできないはずだ。しかし大手企業の設計部門や品質部門といえども若手はそのあたりを理解していない者も多い(だから教育が必要だ)。

そして、海外の場合は更に状況がやっかいだ。私は仕事で、中国、韓国、インド、タイに頻繁に出張するが、現地スタッフは下請けや部品取引先を「奴隷のように」考えているのである。日本でも取引先イジメは酷かったが、それ以上である。それは調達部門だけでなく設計部門や品質部門も同様なのである。特に設計部門自身のレベルの低さを取引先に押し付けようとするのである。それが一番ショックである。たしかに海外の場合、日本の最先端素材メーカは少なく、実際に部品不具合も多い。しかし「ちょっと違うだろう」と言いたくなる。だが、それも文化の違いというのがあるのです。特にインドでは今だにカースト意識は強い。また、韓国でも現代やサムソンといった大手は強いが、結局それは彼らが下請けや部品サプライヤを叩きまくって成り立っているのだ。

また先ほど述べた通り、海外の部品工場では最新鋭の設備を導入しているところも多い。(逆に日本の設備は老朽化が進む)しかし、設備やISO,TSのようなシステムは整っているが、中身は実に薄っぺらい。もっとも○○認証とか××認定工場なんてのは、そのほとんどは「金で買っている」ようなものだ。また、技術教育が重要であることは現地の一部の経営者も気付いている。そこで、よく中国の電気メーカでは、定年退職した日本人技術者が顧問として採用されているケースが多い。一般的にネット上では中国、韓国について、為替の影響や株式配当といった経営的な問題があることは話題になる。しかし製造現場の工場レベルでいうと上記のような問題が根本的に存在するのだ。私が考える最大の問題は、特に下請け、部品取引先イジメは酷いこと。また工場オペレータや下請業者を奴隷のように考えていることだ。

以前、当ブログ「仁徳天皇稜を整備せよ」でも述べたが、「奴隷、または奴隷のような扱いしても良い製品は生まれない」ということだ。海外の一部では、そういう日本的な思想哲学を受け入れる文化素地はまだまだ弱いのだ。また海外の日系企業の日本人ですら長年現地に赴任すると、現地の感覚に染まっていくのである。日本人が海外赴任すると、次の三つのパターンになりやすい。①あらゆる意味で現地に染まる。②精神不安定になりノイローゼになる。③日本人としての思想哲学が強くなる。ちなみに私は典型的な③のパターンだ。いずれにしても海外勤務、そして外国人の教育は難しいのだ。最悪の場合、日本人技術者そのものを潰してしまうことだってある。かつて私は②のような方々を多く見かけた。本当に心が痛む。特に真面目で繊細な性格な人ほど②になりやすい。逆に私のような輩は、脳天気人間なので何とかなるのだ。

私の主張はこうだ。グローバリゼーションの考え方を根本的に見直しべきだ。企業も国家も外国人ではなく、先ずは身近に日本人の若手を教育することに重点を置く。それが先ず絶対に必要だ。そして、大手企業は古臭いプライドを捨てて、日本の素材、部品メーカと協力して新商品の開発にもっと投資すべきだ。そして日本人技術者の本来の実力が適切に発揮できる環境をつくることだ。そうでなければ将来の日本の製造業は現在の潜在能力すら失い本当の意味で衰退する。そうのような未来になることを阻止しなければならない。
兵糧攻めと経済制裁Ⅱ
引き続き、「兵糧攻めと経済制裁」について語りたい。前回は「兵糧攻め」というものが、いかに残酷かということを述べた。現在、国際社会で使用される「経済制裁」もこの残酷な「兵糧攻め」と本質的には何ら変わりないのである。そして、先の大戦において日本も兵糧攻めにあい悲惨な戦争へと突き進んだ。もちろん、それを今更どうこういっても仕方がない。では、こういったことを繰り返さないためにはどうすれば良いかを考えたい。ここで問題点を整理する。

1.エネルギー安全保障の認識が低かった。
2.石油メジャーとの交渉力が低かった。
3.国際連盟等でのロビー活動が弱かった。
4.大陸(満州)に拘りすぎた。
5.武士道精神に拘った。

これが私が考える日本の敗戦の主な理由だ。そして、この状況は現在にも通じる点が多々ある。今後、将来にかけて「兵糧攻め」という言葉はなくても「経済制裁」というのは、十分有りうる事態である。もちろん、そうならないような外交努力は重要だが、何を言ってもきかない、あるいは常識の通じない国というのは現在でも多く存在するのだ。そう、どんな言いがかりも作ろうと思えばいくらでも作れる。現在のアメリカ、中国だってそういう意味では何も変わっていない。アメリカは「大量破壊兵器がある」とでっちあげてサダムフセインのイラクを経済制裁した挙句に軍事攻撃したではないか。尖閣諸島を勝手に領土問題化しようと中国は行動するではないか。それは国際社会を少しでも勉強すればわかることだ。従って、いつの世もこの「兵糧攻め」および「軍事攻撃」に対する備えをすべきなのである。

当然ながら防衛について、前回に述べた豊臣秀吉に学ぶべきだ。つまり、兵糧攻めに耐えうる国家(城郭)を形成することだ。軍事的安全保障はもちろんだが、エネルギー安全保障、食料安全保障を確保する。そして、さらに関係各国との協定や同盟を結ぶことだ。もちろん政略結婚や人質まですることはない。その替わりに、ODAや技術支援といったものを提供するのも良いだろう。そして、幸いにも四方海に囲まれた天然の堀は存在する。徳川家康のように、これを講和の条件として埋めることは不可能だ。これは天が日本に与えてくれた最大の恵みだ。それではそれぞれの分野で具体的にどうすればよいか考えてみよう。

1.軍事面

日本は、いつでも核武装できるかのように見せかける。ただし核不拡散条約に署名しているので明言はできない。実際に核開発していると明言すると、イラン、北朝鮮のように国際社会から非難される。そしてアメリカの餌食になる。一般的に日本は、「その気になれば3日で核武装できる」という。つまり、核燃料、ロケット技術、すべて技術的にも材料的にも保有しているからだ。それを「3日ではなく、その気になれば1時間でできる」という噂を世界中に拡散するのだ。それは効果的だ。あるいは以前、当ブログ「超法規的措置」でも述べたが、日本がアメリカを核攻撃しても何ら問題がないことを「ネットを通じて拡散する」だって、「超法規的措置」あるいは「どこかでアメリカのせいで一般市民が大勢死んでいる」と多少の事実を含んだ捏造情報をばらまけばいいだけ。何か海外から日本政府に問い合わせがあっても、それは単なる噂話だと言えば良い。軍備として、陸軍は地対空ミサイルの配備、海上自衛隊の大幅増員と空母、戦闘機を増産する。これで、日本の海と空を守る。アメリカ製の兵器ではなく、純国産の兵器もそろえる。これは国際法上も正当なものだ。アメリカもロシアも中国も、そしてあの韓国でも国産兵器を開発している。日本では、この全く正当なことが独立国家として行使できないことが異常なのだ。

2.エネルギーと食料自給率の向上

先ずエネルギーとして、原発を安全基準を満たしたものから稼動させる。私は基本的には反原発思想がある。しかしエネルギー安全保障として動かせる状況は維持すべきだ。つまり、兵糧攻めに遭うくらいなら原発稼働した方がマシだと思っている。もちろん原発に頼らなくても済む方法があればそれに越したことはない。当然、自前のエネルギー開発を推進する(メタンハイドレード、バイオオイル等)。そして、食料自給率として耕作放棄地をなくす。家畜用の輸入飼料に制限を加え、自給率を高める(飼料米の活用等)水産物の養殖技術を向上させる。食料備蓄率を上げる。

3.ロビー活動、諜報活動

ここでも秀吉、家康から学べる。特に秀吉は諸大名を巧妙に味方に付けた。一方、家康も巧妙に分断工作や裏切り誘導の工作活動を行った。現代の国際社会においても、先ず近隣諸国(アメリカ含む)は常に紛争になるリスクがある前提で様々な準備をすること。中国がどうとかアメリカがどうとかいう以前に近隣国への対応はそういうものだ。従って、非公式に中国、アメリカ、ロシアを仮想敵国として、欧州、インド、東南アジア、南米、アフリカ、西アジアと軍事同盟(密約)を結ぶ。そしてこういう国々に積極的なODAや技術支援、そして経済連携をすることだ。決して中国のような敵国に塩(ODA)を提供するような愚かな行為はしない。むしろ、中国には分断工作が効果的だ。台湾への支援、ウイグル、チベットへの支援、そして中国に完全に支配されそうな、香港やマカオも支援する。当然、これは中国共産党が最も恐れるシナリオであり、これを防ぐために中国が躍起になっているのは良く分かる。あとは裏切り工作も重要だ。日露戦争の際には、明石元二郎のロシア共産革命を支援したのは有名なエピソードだ。こうした徳川家康や明石元二郎のような工作活動は卑怯に見えるかもしれないが、国家の存亡をかけるとはそういうことだ。もちろん現政府が表立った行動できない。従って、民間レベルでの活動を活発化することも有効だろう。あとは、日本はスパイ天国なのでこの対策を十分行わなければならない。最近、ようやく特定秘密保護法が制定されたが、それだけではまだまだ甘い。厳しいスパイ防止法を制定すべきだ。

4.大陸と関わらない

これも豊臣秀吉から学べる。秀吉は唐入り(朝鮮出兵と明国征伐)にて国内の結束力が著しく低下した。軍事的には日本(秀吉側)が優位であったと言われるが、諸大名は「大義がない」ということで積極性のない大名も多かったからだ。近代の朝鮮併合や満州国建国も、ロシアの脅威対策以外は大義はない。むしろ多大な予算を投入して後戻りできなくなったのが実態だ。このように、日本が満州や朝鮮半島に拘りすぎたのは大きな失敗だった。当ブログ「私の新脱亜論」でも論じているので是非そちらも参照してください。最近の中国情勢を考えても、政治的汚職として一党独裁、官僚の腐敗、民族紛争対応、そして自然環境汚染としても水質汚染、大気汚染、そして土壌汚染で酷い状況だ。つまり、あらゆる意味で汚れているのである。おそらくこれを元に戻すのは少なくとも半世紀はかかる。あるいは中国の体質そのものが変わらなければ永遠に続く。そんなツケを日本が払う必要は全くない。日本は大陸を見放して、むしろ太平洋を中心とした海洋資源とともに文化を形成する方が日本には向いている。加えて言えば、集団的自衛権に関しては私の本音は否定的だ。何故なら「アメリカの戦争に関わりたくない」ということだ。ただ、現時点で日本の軍備(法的、環境的)も不十分なことが無念であり、集団的自衛権は認めざる得ないというのが私の認識だ。

5.武士道の拘らない

これは現代では全く問題ない。むしろ武士道精神が低いくらいだ。ただし振り子が大きく振れないように既存の大手マスメディアの影響が低下することが望ましい。実際、朝日新聞に代表されるように戦前戦中の新聞は「戦争イケイケドンドン」で世論を煽り、戦後は「反戦だあ、護憲だあ」で自虐史観を押し付けた。まるで絵に描いたような大きな振り子だ。これが大手マスメディアの実態を物語っている。

以上、このような対応すれば、かつてのような日本の悲劇は起こらない。そうでなければ歴史は繰り返す。そう、一般的な戦闘攻撃を受けることを防止するのはもちろんだが、兵糧攻め(経済制裁)のような残酷な状況になることを防止する。それが国家と国民、そして社会の義務であり責任だ。

そうした大前提で考えれば、何をすべきで何をするべきではないかが当然見えてくる。






兵糧攻めと経済制裁Ⅰ
兵糧攻めといえば、戦国時代の羽柴秀吉が有名である。備中高松攻めや鳥取攻めが有名である。一般的には、兵糧攻めは「平和的な攻め方」と思っている方々も多い。しかし実際の兵糧攻めというものは残酷だ。老若男女問わず物資が無くなり「もがき苦しみ」「飢え死」あるいは「病死」する。そう、非戦闘員も無残な死に方をするのである。様々な歴史文献にも記録は残っているが、私ですらその内容をここで表現するのに戸惑うような悲惨な状況である。また、武士にとっても、戦わずして負けるようなことは武士の誇りを相当傷つけるものである。想像してみてください。ジワリジワリと死の恐怖を味わうのだ。本当に残酷きわまりない

そして、秀吉は兵糧攻めに対しての守りの場合も想定している。大阪城築城の際には、巨大な敷地に2重の堀を張り巡らせ、兵糧攻めされたときにも十分耐えるような構造になっているのだ。城内で食料も生産できた。地金も塩も十分確保していた。そして諸大名にも謀反を起こさないよう様々な根回しを行っている。例えば、政略結婚や養子縁組(人質)、更に後継ぎ秀頼に忠誠を誓わせている。今考えても秀吉のそうしたやり方は、巧妙であり、さすがは天下統一しただけある。

さすがの徳川家康も秀吉との全面衝突を避け、関東への国替にも応じ、地盤を固めて、秀吉が先に死ぬのを待つのである。そして秀吉死後、家康は先ず豊臣方の分断工作をする。五大老と五奉行の対立、福島正則と石田三成の対立、更に高台院(北の政所)と淀君との対立。そして関ヶ原合戦での小早川秀秋の裏切りへの謀略。そして東軍の勝利、見事なものだ。だが、それでも豊臣家が滅びたわけではない。江戸幕府がはじまり、家康は関西エリアの神社仏閣を大規模な修繕を指示し、豊臣家の金(財産)減らし作戦に出た。当時は、紙幣より地金や米が経済の主流であった。家康にとって、豊臣方を経済的に疲弊させることが第一段階であった。そして直接攻撃として大阪冬に陣を起こした。それでも徳川方は大阪城を攻めきれなかった。講和の条件に外堀、そして内堀までも埋めて、ようやく夏の陣で豊臣家を滅亡させている。ここまで強固な豊臣家を作り上げた秀吉も凄いがそれを長時間かけて崩壊させた家康も凄い。ただ、ここでは歴史ロマンに浸るだけでなく、現代の日本人も学ぶべき点は多くある。

さて、現代の国際社会においても、経済制裁という一種の兵糧攻めがある。最近では、ロシアが西欧向けガスのパイプラインを止めたり、大幅な値上げをしたりする。アメリカも対抗策として、ロシア政府の関連金融口座の凍結を行ったりする。ある程度、大国と呼ばれる国(特にGDP規模が100兆円超)で内需の比率が高い国はある程度持ちこたえる。しかしGDP1兆円未満で外需依存の国は、経済制裁されたら即終わりである。例えば、金融、貿易の優等生といわれるシンガポール、香港、そして台湾あたりは外国から兵糧攻めを受ければ1年は持たない。こうした国々が経済制裁を受ければ、北朝鮮のような国になるか、大国の属国となるかである。残念ながら、香港、台湾はこのままでは中国に飲み込まれる。ここで重要なポイントは経済制裁とは、一般の戦闘員ではなく、一般庶民の生活が脅かされるという現実だ。そして金持ちや政治家はそれほど痛くもないわけだ。結局、やれ自由貿易だ、TPPだといって外需依存することが、結果的にどういうことになるのか理解が必要だ。

先の大戦においても、アメリカは英国、中華民国、オランダと協力して石油禁輸政策という日本に対して兵糧攻めを行った。いわゆるABCD包囲網だ。当時、日本は中東ではなくアメリカからの石油輸入が多く、石油産出する東南アジア(ブルネイ、マレーシア等)もイギリスに押さえられていた。イギリスは本来は日本と敵対する気はなかったが、ナチスドイツとの関係から何とかアメリカを大戦に巻き込みたいという意図があった。英国連邦諸国の意向を無視して、アメリカと日本を戦争に向かわせたのはイギリス本国でもあった。アメリカの経済制裁の理由も凄い。「満州の利権をよこせ」それだけである。アメリカの自衛でも何でもない。国際連盟でもロビー活動に活発化し、国際連盟から日本を脱退させた。これは松岡外相をはじめ日本の外務省の力不足でもある。今から考えれば、日本にとって満州なんてそれほど重要だったのだろうか?満州も朝鮮もロシアの南下政策を阻止するだけの意味しかない。満州にアメリカ利権とアメリカ軍を一部置けば、それだけでもロシア南下政策の防波堤となったはずだ。実際に日本の関東軍だけでは不十分であったのも事実だ。これは日本の外交戦略の最大の失敗だったと私は考える。そして満州の関東軍の面子の高さも日本政府が制御できなかったことにある。当時、桂首相はアメリカの満州への参入(特に鉄道王といわれたハリマン)には前向きであり、桂・ハリマン覚書も存在した。しかし、それを潰したのは、あの小村寿太郎だった。小村寿太郎の他の功績についてはここでは触れないが、これは最大の失敗外交だ。また、アメリカ、イギリスの石油メジャーも自社利益のためには日本への輸出を続けたかった。本来、日本はそうした勢力も取り込むべきだったのだ。もっともシンガポールや香港の英国軍は日本とまともに戦って勝ち目はなかった。まさにアメリカ頼みの戦争であった。それを本当に良しと考えるアジアの英国軍はいなかった。日英同盟の栄光を覚えている英国将校もまだ多かったのである。

当時の日本政府(特に外務省)の外交戦略は本当にレベルが低い。もっと戦国時代の秀吉や家康に学ぶべきだった。結局、いずれの国からも石油禁輸は実施された。日本の石油備蓄はわずか2年、2年も経てば日本の戦闘機も戦艦も燃料なしの無用の長物になる。日本の武士道精神からも、こうした負け方は許容しがたい内容である。戦争をしてもしなくても負けるのだから・・・。そして兵糧攻めで国民が飢え死ぬ。当時、日本の多くの知識人はそれを危惧した。またマスメディアは現在と違って、庶民の生活苦の不満を外へ向けさせ、さらに戦争を庶民に煽りたてていた。すべての歯車が狂い始めた。そして日本は最悪の結末を迎えることは皆さんご存知の通り。結局は、外交交渉で負け、兵糧攻めにあい、それに耐えきれないと判断し戦争へと向かっていった。それが先に大戦の実態だった。

では今後日本はどうあるべきなのか? 次回も引き続き「兵糧攻めと経済制裁」について論じます。
人権派とは
人権派という言葉がある。主に弁護士や新聞記者にも当てはめることが多い。新聞記者に関しては、ネット社会の影響もあり一部の優秀な記者以外は今後は衰退の一途を辿るだろう。かつては「ブン屋にたれこむぞ」なんて脅し文句もその筋ではよく使用された。要は人の極秘情報や弱みに付け込み「マスコミにリークするぞ」という脅し文句だ。特に人権を利用にしたり、正論もどきの社説を利用して世間に煽るのだ。そして時には政治家までも陥れることもある。困ったことに、それを「人権や正義のため」と称するのである。もっともバカバカしいのが政治家の女性スキャンダルだ。「女性の敵」なんていって政治家を貶めるのだ。また政敵のスキャンダルを必死で探す政治家ほど醜いものはない。私は、女癖が悪かろうが、ホモであろうが、ゲイであろうが、日本のために真面目に仕事をしてくれればそれでいい。現在では、さすがの大手マスメディアも従来のように簡単な世論操作はできない。まあそれもネット社会の強い影響だろう。

一方、人権派弁護士に関しては今後も様々な検討が必要だ。基本的に、弁護士になるためには難しい司法試験に合格しなければならない。そのためには相当の勉強が必要とのこと。とにかく覚えることが多いらしい。その反面、俗世間を知らないなどと揶揄されることも多い。私も、そうした世間知らずで「法律を武器に権力を振るうタイプ」がどうしても好きになれない。

ここで司法の歴史ついて振り返る。日本では明治時代から近代的な司法が導入された。明治初期には江藤新平という政治家がいた。肥前藩(佐賀県)出身であり、明治の新政府樹立には大いに貢献した人物である。当時から、司法の整備に尽力し、司法の独立も訴えていた。ところが大久保利通らのとの政争に敗れあえなく故郷へ戻る。その後、世に言う「佐賀の乱」にて敗北。そして処刑される。その処刑方法が「さらし首」という何とも古典的なものであった。明治という近代国家への入口でこのような処刑はいただけない。しかし大久保利通は江藤のそうした処刑を非常に喜んだと伝えられている。何故、大久保が江藤をそこまで嫌っていた理由はよくわからない。もしかしたら私と同様に「法律を武器に権力を振るうタイプ」が許せなかったのかもしれない。

余談だが、以前NHKの「歴史の瞬間」という番組があり、江藤新平の特集があった。その際に、NHKのコメンテータは「江藤新平は司法の独立といった現代では当然である三権分立をいち早く提唱し、民主的な考えも持つすばらしい人物であった」とし、大久保を冷酷非道の人物ように表現された。まあNHKらしいといえばNHKらしい。確かに江藤新平は相当な切れ者であり、民主的な人であったことは間違いない。しかし、その反面「カッコつけ」のように見えるところもある。そして何か越えてはならない一線を越えたのでは・・・と私は勝手な解釈しています。

さて現代に戻り、弁護士について考える。現代も、そうした何か一線を越えた弁護士が多いように思える。最近の例でいえば、一票の格差を訴えている弁護士たち。フィリピン人女子中学生の特別在留許可を要求した弁護士たち。従軍慰安婦問題で政府の責任を追及する弁護士たち。そして古くはロッキード事件のときに「巨悪を許さない」といった検察官たち。それらに共通する何かがあるからだ。こういう人たちに共通するのは表向きは弁護士としての強い「正義感」である。そうした正義感とヒーロー意識としての「カッコつけ」精神がそこにある。しかし、それはあくまでも「きっかけ」である。多くの人権派は、その後に闇の世界に引きずり込まれる。そして二度と後戻りできない罠にかかるのである。つまり、例えば社会的地位向上を目的とする団体、あるいは日本政府に対して徹底したプロパガンダをする団体に、うまく利用されるのである。とくに従軍慰安婦問題のきっかけともなった吉田清治が典型的だ。彼の小説である「私の戦争犯罪」について、彼自身の創作であることを認めたとき、「人権屋に利用された」と述べたという。おそらく多くの人権派弁護士も当初は純粋な正義感からスタートしたことは間違いない。しかし最後はカネと圧力である。何らかの団体から巨額の報酬を約束され圧力かけられたら断ることは難しい。いわゆる、その筋の人間も結構多いからだ。おそらく私だってそういう立場になったら同じようになるだろう。特に何か弱みを握られたら逃げ場はない。彼らだって生きるのに必死なのだ。真面目に仕事している人権派も多数いる。きっと彼らはこう思っているでしょう「こんなはずじゃなかった」って。それが人間らしさというものだ。しかし、そう思わない頑固の人権派も多い。

一方、そこそこ収入が安定している弁護士は、そういう案件はきっぱり断っている。ところが問題なのは、収入の安定しない若い弁護士がそういうオファーに簡単に応じてしまうことである。また女性弁護士も女性人権や各種人権問題として利用されやすい。そして彼らは最初はどうしていいか分からず、時に彼らは日弁連のサポートを必要とするのである。だが、その日弁連のトップが典型的な人権派である。そして一度そのような案件に首を突っ込めば簡単には逃れられない。この背景として、ここ10年の間に政府の方針もあり弁護士の数を増やしたことも大きな要因だ。残念なことに弁護士の半数近くが収入が安定していないのである。人一倍勉強して、困難な司法試験に合格した挙句に収入が安定しないなんて、考えもしなかったであろう。また、良かれ思って始めた人権活動に逆に別の誰かの人権を侵害することになり、猛烈に非難を浴びるのである。ある意味、彼らも被害者かもしれない。確かに一昔前なら様々な人権問題は多く存在した。しかし現代では、かなり解消されている。私の周りにも外国人、高齢者、障害者、同和出身者がいますが、社会から人権侵害されているとは聞いたことがない。また会社でも、パワハラ、セクハラしたら大問題になるので幹部社員はむしろ委縮しているほどだ。そう、人権、人権と言うほど現代社会では然程大きな問題は発生していないのである。にもかかわらず人権を誇張して何らかの特定の団体や個人に有利になるように活動しているケースが多いのだ。

やはり人権においても「法律を武器に権力を振るタイプ」の人間は社会が認めない。何故なら、必ず反対側に人権を傷付けられる人がいるからである。結局、人権の奪い奪われの世界である。別の言い方すれば、カネと名誉だけが、右から左に移る。また左から右へと移る。つまり、何の生産性のないことにパワーを費やしていることになるのだ。そんなことなら最初から真面目に普通に働いてカネと名誉を掴めばいいのだ。くだらない内容で法廷闘争する時間と金があれば、真面目に働いた方が幸福が得られるってものだ。そう、よく考えてみよう、例えば「一票の格差訴訟」「ロッキード事件訴訟」「従軍慰安婦訴訟」・・・これらの訴訟で誰が得しましたか?って話だ。国家も国民もそして社会も何の得もしていない。「一票に格差」にしたってすべて格差を無くしたら、間違いなく地方切捨てになります。それが日本社会として本当に良いのか?ということ。国家、国民は幸せになりますか?もっといえば「人間の平等」なんて言い出したら、裕福な家庭と貧しい家庭があるから、子供の不平等解消のために生まれたら寄宿舎に全員預けろって言っているようなものだ。従軍慰安婦訴訟だって、敗訴するとわかっているのに訴訟する(実際に最高裁で敗訴確定済み)。要は最初からプロパガンダが目的なのは明らかだ。そして、そういうことを一切報じないマスメディア(最近ではサンケイは報じている)。結局、グルじゃないかとおもってしまう。

結局、こんな訴訟で誰が得したのか?それは視聴率稼いだTV局、売り上げ伸ばした新聞社、プロパガンダを目的とした団体、報酬を得た弁護士・・・そして薄っぺらい彼らの面子だけだ。そして、国家、国民、社会は何の得もしていない。むしろ無駄な時間とカネを費やされたということだ。それが本質なのだ。そういうことに国民がもっと気付かなければならない。確かに、面白おかしく報道したTVを見て喜んだ人々も大勢いたかもしれない。実は私も中学高校のときはそうであった。でも、よく考えて欲しい。それで我々は何を得たのか?ただ、一時的な興味のかきたて、世間話のネタが増えただけ。それしかないではないか。

誤解されないように補足するが、私は決して「法治国家」を否定しているのではない。ただ、こういう訴訟が社会として、どういう意味があるのか?ということだ。例えば、凶悪犯罪者は社会の安定や社会不安を払拭するために刑罰は絶対に必要だ。また子供のイジメのような陰湿な事件は徹底的に法の裁きを受けるべきだ。そして、交通法を無視して飲酒暴走運転手は厳しい法の裁きを受けるべきだ。しかし、人権派弁護士のやっていることって何か違うでしょう。と私は言いたいわけだ。人権派は凶悪犯に対しても「犯罪者の人権」なんて言い出すから本当にタチが悪い。一体、誰のために何のための弁護士やっているのかということだ。社会の安定なんてどうでもよいのか。もし、弁護士が、国家、国民、そして社会のために働けば、皆から信頼されるであろう。しかし、そうでなければ信頼されないということなのだ。そもそも人権派弁護士は基本的に国家や社会を信頼していないのだ。多大なる現代社会の恩恵を受けているにも関わらずだ。むしろ「国家が悪いことしないか監視している」と思っているのだ。ホント何様のつもりだろうか?当ブログでは何度も訴えているが「国家や社会を信じないのなら、国家、社会は彼らを決して信頼しない」ということを全く理解していないのだ。そう、すでに彼らの信頼は急降下している。完全に失墜する日も近いであろう。

こういう状況では国としても何か手を打つべきだ。ここで私の提案だが、先ずは起訴というものの基準を見直しべきだ。起訴と不起訴の基準がよくわからない。そして、当面は一般の弁護士の数を抑制すべきだ。そのかわり専門分野の弁護士(例えば特許関連、科学技術関連)を増やす。その方が社会にニーズに応えられるであろう。そして国家として、国定弁護士を増やし、国際弁護士として国際的に日本が不利になるような案件について国家がサポートして弁護士の仕事をしてもらうというものだ。また同時に弁護士も国家にために政府に助言や提案をするのだ。どちらかというと私はそちらの方を期待する。こういう状況になると民間だけに委ねることはできない。それがグローバル社会で身を守る方法であり、優秀な弁護士の能力を如何なく発揮できる環境なのだ。

本来、弁護士が強い正義感を持っているのであれば、そういった方面で活躍してもらうことこそ重要な使命だと私は考える。


必要は発明を生む
「必要は発明を生む」という諺がある。なるほど確かにイギリスの産業革命より様々な発明が生まれた背景には、「より便利に」「より快適に」という人々の需要(必要)があり、それに応える形で様々な発明が生まれた。電話、ラジオ、自動車、飛行機等々。もちろん武器の開発も良い悪いは別にして、当時は必要で新兵器が生まれたわけだ。

もちろん科学技術の分野だけではない。自然環境によって必要となるものがある。夏と冬がある国では当然のことながら冬服、夏服が生まれる。そして、雨が降るから傘がある。日差しが強いから帽子がある・・・挙げればきりが無い。日本には、海があり、複雑な地形があり、四季だけでなく台風や地震も多いため様々な需要(必要)がある。それとともに様々な工夫や発明を生んだ。特に古来より衣・食・住を中心にこの風土に合った創意、工夫を積み重ねた。それが結果的に、技術の進歩と社会の繁栄に繋がったことは間違いない。

現代社会においても、企業がビジネスを開始する際に、市場調査というものを行う。つまり、その地域に潜在的な需要(必要)がどれくらいあるか調査するものだ。企業での営業担当の重要な任務でもある。一方、需要がないのに需要を勝手に作ろうとする悪い動きも想定できる。悪い例としては、蚊がいない地域に研究用に養殖した蚊を地域にバラマキ、蚊取線香を販売するというやり方だ。また、パソコンのウイルス駆除ソフトを販売する会社が、意図的に新種ウイルスをネット上で拡散させ、そして新しい駆除ツールを販売する。実際に、こういう事例が発生したかどうか詳細知らないが、よく噂された話ではある。

また「より便利に」「より快適に」をエスカレートさせる場合もある。例えば完全バリアフリーの家だ。そもそも障害者や重病患者の為に開発された設備を一般庶民へも展開すること。本来は必要でないはずの設備導入で結果的に人間の能力が低下してしまうという現象も発生する。食品でも「骨抜き魚」のように病人向けの食材が一般にも展開され、子供には好評だが親からは反発されることもある。

また、あのスティーブジョブスは、iPhoneを開発する際は全く市場調査をしなかったとのことは有名なエピソードだ。彼の論理は、「人間は本当に何が欲しいものなのか実はよく知らないものだ」と述べている。なるほど確かにiphoneなんて無ければ無いで大きな問題はない。しかしあれば便利で楽しいことに気付き、やがては必需品になってしまう。たしかに人々に新たなツールの楽しみを紹介することは、需要の有無とは無関係に発明されることは多いにアリだろう。またジョブスは「様々なコンテンツと人々を結ぶ間に存在したい」とも述べていた。つまり、情報、音楽、アカデミック等、人々が必要とするものを繋げるという需要(必要)に彼が応じたとも言える。従って、便利な道具という意味だけでなく、ひとつの社会インフラとして貢献していると私は考える。

では現代社会において、もっとも必要なことって何だろう。衣・食・住はもちろんだが、そんな単純なものではない。個人レベルで言えば、仕事に追われる人は休暇を求めるだろう。暇な人は何とか楽しいことはないかと探すだろう。金が無い人は働いて稼ぐだろう。病気の人は病院行って治療するだろう。そういった何らかのバランスをとるべき行動が必要になる。個人というミクロの世界ではそれぞれの必要に向かってベクトルが働くということだ。

さて、では社会というマクロの世界では、何を必要とされるべきだろうか。ミクロレベルでは、「バランスをとるべき行動」と述べたが、そのバランスをとるべき方向がなければならない。つまりは仕事がしたいなら仕事がなければ成立しない。遊びたければ遊ぶ場所やツールが必要だ。病気になったら病院が必要だ。つまり、欲しいモノやサービスが欲しいタイミングで得られることが重要だ。

先ず大前提として絶対に必要なのは、社会の平和、安全、安心だ。それがなければ何も進展しない。更に各種インフラが整備されていること。ハード面では道路、橋、水道、電気、ガス等々。ソフト面では法整備、教育、通信等々。これらがなければ現代生活も経済活動もできない。砂漠の中、大洋の上、紛争地域では人間は通常の生活は不可能だ。その平和、安心、安全の上に各種インフラがあり、更に様々なミクロの需要(必要)というものが発生して、様々な発明が生まれてくる。そう、社会として最も必要なものは、平和、安全、安心であり社会生活を支える各種インフラ整備なのだ。それが崩れれば、すべては成り立たない。逆にこれらを犠牲にして「必要」とされるものは「存在してはいけない」のである。先ほど述べた「蚊の養殖と蚊取線香」のように社会の安心を犠牲にして「必要」や「発明」を作ってはいけない。基本的にそうしたマクロの必要性に対しては国家が責任持って対応すべきであり、ミクロの必要性については民間で対応すべきである。そして豊かな思想哲学もそうした社会生活の中で必要なものとして活躍する。思想哲学と社会生活はどちらが先とか後ではなく交互関係があると私は考えている。

一方、すべて民間に委ねるべきという、いわゆる新自由主義的な考えの人も多い。しかし考えてみよう。もし民営化された刑務所があったとしよう。そこはとても稼働率が低いために、あえて所長は犯罪集団に金を提供して犯罪を起こさせる。そして逮捕し刑務所の稼働率を上げる。従って新設備の導入に関する予算(補助金)も承認される。このように蚊の養殖どころの話では済まない。それが外資系で利益のみを追求し、社会の安定を無視する団体であれば、ありえる話なのだ。

そうなると誰もが疑心暗鬼になり、社会不安が発生し、豊かな思想哲学も崩壊する。そう、社会に最も必要とされるのは「平和、安心、安全」そして「各種インフラ整備」である。そうした分野こそ優先され、更なる発明が生まれたら社会の繁栄への期待ができる。「必要は発明を生む」この諺を考えるときに留意しなければならない重要なポイントだ。
数字に強くなれ
この春から晴れて社会人になる方も多いでしょう。そこで社会人の先輩として(ちょっと偉そうですが)わたくし小室沢直樹がアドバイスします。特に技術、経営、管理に関わる方々向けです。それはタイトル通り「数字に強くなれ」です。もしかしたら新入社員にはちょっと難しいかなあ。おそらく私だって、新入社員の頃にそんなこと言われても何も判らなかったでしょう。ならば20代~30代の若手の社会人向けかもしれない。あるいは「そんなこと判っているよ」なんて若者もいるかもしれない。少し難しいと思われた方は、今は解らなくても大丈夫です。少しずつ解っていただければ結構です。そう、今回のテーマは「数字に強くなれ」そしてサブテーマは「そのイメージを掴め」です。

私は大学で物理学を選考していました。そして企業に入社して更に様々な学問に触れることになった。企業では学生時代以上に勉強した。そして今も勉強を続けている。専門である材料力学のみならず、経済学、経営学、品質管理、統計学・・・・多くは数字に強くなければ理解しにくい分野だ。現代社会では数字は重要だ。数字に弱い人はエンジニアや経営者には向いていない。ただし数字に強いというのは、例えば何十桁の暗算で一瞬の解くとか、難解な微分方程式をあっさり解くということではない。数字の持つ意味、そしてそのイメージを持つことが重要だ。それが数字に強いという意味だ。

私が学生の頃、物理学の教授からよく言われたことがあった。「君、そんなに頑張ってこの微分方程式をノートに書いても何の意味もないよ」「あくまで数式は状態を簡略化したもので、頭の中でイメージを浮かべることがもっと重要だ・・・」当時、まだ20歳前後の私には教授のいうことがよくわからなかった。一部を紹介するとこんな感じ。例えば、ハイゼンベルグの不確定性理論は、「井戸がずっと深く続いているイメージ・・・・」シュレディンガーの波動論は「電場と磁場が直角に交差して、渦がうねりを起こしているような・・・」固体物理学の転位論は、「満員電車の中の僅かなスペースの位置が変わるような・・・」ボルツマンのエントロピーは「物質が拡散して広がっていく・・・そうした全体の方向性を持って・・・」もっとイメージ方法はあります。物理学をあまり知らない人から「何のこっちゃ・・・」となるでしょう。でも心配御無用、それが普通です。学生当時、私も何となくボーとした感じで、半ばお情けで単位をもらって大学を卒業した。それが当時の私だった。

なんとか大学を卒業し、企業に入って様々な業務を対応した。そこで業務を実践する中で様々なことが解るようになった。品質管理を担当していた頃は、QC7つ道具の「ヒストグラム」「パレート図」「特性要因図」・・・なんてのを学び、そこから更に、分散分析、実験計画法、多変量解析、そして品質工学へと繋がった。そうこの時にフィッシャーの理論を学んだ。また、工場管理をしていた頃、経理手法も学んだ。「原価計算書」「在庫管理表」「損益計算書」「貸借対称表(バランスシート)」いずれも最初はよくわからなかったが、その後はそれらのデータやグラフを見ると、その持つ意味をイメージすることができるようになった。

必ずデータやグラフにはそれぞれの意味がある。もっといえば一つの製品(商品)にはそこに行き着くまで長い物語がある。もちろん一般的な食品(野菜、肉、魚)だってそうだ。例えば、

例1.鉄ネジ(工業製品):鉄鉱石⇒溶解⇒圧延⇒切断⇒ねじ切り⇒熱処理⇒メッキ⇒検査する⇒出荷

例2.大根(農産物) :土地を耕す⇒肥料を撒く⇒種を植える⇒芽が生える⇒虫に葉を食われる⇒大きくなる⇒出荷

そして、そこには必ず様々なデータが生まれる。それぞれの工程で必ずバラツキや傾向があり、それによって最終的な生産量、価格(原価)が決定する。

例1.鉄ネジ(工業製品):鋼の成分、温度バラツキ、加工性バラツキ、強度、不良率、単価、生産量等々

例2.大根(農産物): 種グレード、発芽率、虫の被害率、大根の形状、生産高、単価、輸送費等々

それぞれの工程では様々な人が関わっている。また機械設備も活躍する。またその設備を作っている会社でも人は働いている。路地野菜の場合は、太陽や雨風と虫や鳥といった自然環境の中でゆっくり育っていく。もちろん人や農具、機械も関わる。そう、ある日突然生まれる工業製品や農業製品は存在しない。そうした全体のイメージと物語を考えることは、売上の向上、生産性の向上、品質の向上を考える上で効果的だ。

一方、品質管理で壁にぶち当たる人が多いのを見かける。彼らの多くに共通するのは次の手法を取り入れていることだ。それが、最近の品質管理がよく活用する「なぜなぜ分析(あるいはFTA、FMEA)」 だ。この分析は個別の専門知識や統計学に精通していなくても解析できる簡単な方法であるため多くの企業の品質管理担当者が活用している。しかし大きな弱点と限界がある。なぜならこれらの解析は「平面上で点と線を結ぶ解析」だからだ。実際にモノというのは縦、横、高さ、そしてそれに時間軸が加わる。そしてそれらには必ずバラツキがあり傾向がある。イメージを理解しないで、点と線にこだわると、無限ループのように目的が達成しないまま時間だけが過ぎてゆく。私がいつも強調するのはミクロ的な専門知識と技術、さらにマクロ的な統計処理と各工程の交互関係は把握すること。それを頭の中でイメージを持つこと。それこそが「数字に強くなる」ということだ。そうでなければ膨大なデータを処理することはできない。膨大のデータがその頭の中にあるイメージと融合したときに、何をどうすればいいかというベクトルが見えてくる。もちろんそれにはトレーニングが必要だ。まあ偉そうに言っているこの私も最近になって何となく解ってきたことだ。そういう時間が掛かるのは当然だ。しかしそれが面倒だからといって安易な解析方法で無限ループに陥るのは結局ムダになるというもの。

私は大学卒業して20年以上になるが正直いって、ようやく当時の物理学の教授(もうすでに他界?)の言っていたことが少しずつ理解できるようになった。物理学は難しい。でもこんなにすばらしい学問はない。 この考えは経済学や経営学、そして社会学にも応用できる。最近そのことをつくづく思う。私の尊敬する統計学者のロナルドフィッシャーと経済学者のジョンメイナードケインズが同時期にケンブリッジ大学で優性学を学んでいた。ちょっと大袈裟かもしれないが、色んな意味でそれは現代社会学としても、歴史の必然だったようにさえ感じる。

私も一生掛ってもいい。物理学をもっと学び、それを社会学へと繋げたい。もちろん、このブログを読まれている方々は物理専攻ではないかもしれない。従って、どこまで私の意見が当てはまるか判らない。それでも、社会人になった方々、あるいは20代-30代の若手に伝えたい。「数字に強くなれ」そして「そのイメージを掴め」。そうすれば、あらゆる仕事が楽しくなる。そして成功への道が見えてくる。 




竹島問題の秘策
今日は4月1日エイプリルフールだ。今回は不謹慎ながらもジョークを交えて「竹島問題の秘策」について述べたい。最近ネット上では、領土問題について様々なユニークな議論がある。例えば尖閣諸島に「核廃棄物最終処分場を造ろう」という意見が出ている。そうすれば誰も立ち寄らないし日本の管理が強化されるというもの。なるほどと思えるトンデモ論は多い。まあ改めて色々考えると領土問題というのは実に奥が深い問題だ。最近のニュースでも自然現象として島が出現したことが話題になっている。3/26の日経新聞ニュースによると、「噴火で出現した小笠原諸島、西之島(東京)の新しい陸地面積が、東京ドームの約15倍に当たる約70ヘクタールに拡大したことが、26日までに分かった。「新島」と合体する前の面積約20ヘクタールを合わせると、西之島は約4.5倍になった。」これで日本のEEZ拡大も確実となった。たしかに長い地球の歴史を考えると小さな島は出現したり消えたりする。地球の奥深さを感じさせる出来事だ。

そこで、思い出したが以前、竹島問題で議論になった朴正煕の「竹島を爆破して公海してしまえ」は面白い案だと思った。最近、北朝鮮がノドンが日本海に向けて発射された。どこに落下したか詳しく知らないが、それが竹島だったらどういうことになるのかと思った。それで竹島が無くなれば日韓に領土問題は無くなる。しかも竹島が無くなれば実質的な日本の領海は広がる。そもそも竹島自体に大した価値はない。そのまわりにある、水産資源、そしてメタンハイドレートが重要なのである。国際法では、島を人為的に拡大して領海を広げることはできない。しかし爆破して無くすことは国際法違反ではないようだ。基本的に北朝鮮にとっては、日本と韓国が常に対立することを望んでおり竹島問題が無くなっては困るのである。従って、北朝鮮がノドンを使って竹島爆破することはありえない。もっとも北朝鮮は、竹島だけではなく、あらゆる意味で韓国と日本が協調することは北朝鮮の国益に反するのだ。実際に韓国には北朝鮮の工作員が大量に入り込んでおり、様々な工作活動をしていると言われている。アメリカが急遽、オランダハーグでの核サミットとG7のあと米国大使館で行われた日米韓の会談でも北朝鮮に関する核の問題がテーマであった。ハーグなので国際司法裁判所の話題でもすれば面白かったが、そういうことをを言う余裕は日本にはなかった。特にアメリカは北朝鮮の核についてしか興味がない。一方、韓国の異常な歴史認識は、韓国人特有のキャラだけでなく北朝鮮の後押しがある。まあとにかく最近の日本のネット世論では北朝鮮の方が韓国よりマシとの意見もでている。が私に断言する「どちらも同じだ」です。まあ結果的には、竹島が爆破されようが残ろうが北朝鮮にとってみれば、日韓の喧嘩は楽しくてしょうがないだろう。

ここで日本としても秘策を考えるべきだ。あえてトンデモ論、あるいはユニークなアイディアで考えてみよう。もちろん、日本がミサイル撃って竹島を沈めるなんてことはできない。日本海自、米海軍、韓国軍と海上軍事演習をして、アメリカが誤って竹島破壊してもいい。しかし竹島は、そもそも日本の領土であるから、ミサイル撃っても国際法上は何ら問題はない。本来ならありうる手段だ。しかしそれでは面白くない。面白さのある案としては、竹島周辺で大規模なメタンハイドレードとレアメタルを採取する。残土は海域の日本側へ寄せる。その後に採掘場所に発破をかけ、時間をかけて竹島をゆっくりと水没させるのだ(満潮時に完全に沈むまで。ある程度沈めば、あとは風雨と海水侵食が助けてくれる)そして、竹島の南方の日本領海(もちろん竹島近海も日本領海だが)に海流を利用した新たな島を誕生させる。そして自然に島ができるように海底を整備するのだ。その場合は国際法違反にはならない。また、メタハイのガス爆発の事故を装って、海底地形を変えるのだ。そして少しずつ領海を広げ、また竹島を発破で浮上させて日本の領土に編入するというわけだ。それくらいのことをやってもバチは当たらないだろう。

ちなみに、昔「田んぼのあぜ道ずらし」というものがあった。実際に日本でもよくあった実話だが。本来は田んぼを四世帯で四等分であった。しかし、四世帯ともに仲が悪く、ある世帯の男が夜中にこっそりあぜ道を少しずつずらし、それを何度も繰り返して自分の田んぼ面積を拡大させた。もともと4等分のはずの田んぼが10年後にいつのまにか、いびつな区割りになっているというものだ。これこそ「たわけモノ」のやり方だ。現在でも土地所有の境界が明確でない場合、古い公図がもとになる。しかしその公図は作成した時点での既成事実を基にしている。もともと古文書の四等分という記録があっても、今となっては公図が優先されてしまうという非情な取り扱いだ。そして、その既成事実がその後には合法的になってしまっている。結局、領土問題とはそういうレベルの問題からスタートしていることが実に多い。

そもそも李承晩ラインとは、そうした「田んぼのあぜ道ずらし」よりタチが悪く「双方合意もなく人を殺傷して強盗のごとく奪ったのだ」ほとんどギャングや海賊と同レベルの世界である。そしてそれを既成事実化しようとするのだから悪役スターそのものだ。しかしそこはどっこい韓国だ。根拠のないことを大声あげて正当性を訴える。それって、まるで優性学を利用して人種差別した白人の手法と何ら変わりない(当ブログ「遺伝学と優生学」参照)。そう敗戦した日本相手なら何しても許されるという発想だ。それが彼らの文化なのだ。まあそういう怒りの韓国ネタは他のブログでも多いのでここではそれくらいにする。

竹島問題に関して、一番良いのは国際司法裁判所で白黒付ける事だが、韓国にまず勝ち目はない。だから韓国は逃げ続けるしかない。逃げる韓国を国際社会に訴えようとする姿勢は日本としては有効カードだ。そして、韓国のような国を相手にする場合は、日本は「田んぼのあぜ道ずらし」作戦が効果的だ。いつか気付いたら日本の領土になっているってわけだ。もちろん、こういう発想を日本の国内政治に持ち込むべきではないが、国際政治の場合はそうした発想も時には必要であることは明言したい。なにせ相手は韓国である。韓国は日本を信頼していないし、日本も韓国をもはや信頼していない。信頼していない国同士はそういう関係にしかならない。これこそ「やむなし」というものだ。「譲歩した方が負け」の世界でなのである。もちろん日本は韓国のような強盗のようなことはしない。しかし「田んぼのあぜ道ずらし」作戦なら可能だ。もちろん今の技術では不十分で困難だ。しかし、これから100年かけて、様々の技術を駆使して、この「あぜ道」、いや「境界線ずらし」作戦を実施するのだ。地道ではあるがこれが一番確実な方法かもしれない。具体化するための秘密プロジェクトを結成し、研究開発を重ね、それが沖の鳥島をも守る技術にもなる。表向きそういう目的にして、実は竹島を水没させ、さらに別の場所に島を浮かべ、結果的に境界を少しずつずらし日本の領海を広けるというものだ。失敗しても構わない。日本として、そういう研究は積極的に行うべきだ。

まあ、しかし国家戦略なんてのは時にはそんな発想があってよいのです。そういう発想はバカバカしいと思うでしょう(私もそう思いますが)でも、そういうバカバカしい発想も織り交ぜるの国家戦略です。正攻法だけでは勝てない。いつもいつも真面目でやさしい外交戦略を立てるばかりじゃ能が無い。実際にそういう発想している各国の首脳は実に多い。内政と外交を分ける。これは重要なことです。もっと、日本はこのような議論をするのは大いにアリだと私は考える。そう、そうすれば100年後には竹島が名実ともに日本の領土となるのも夢ではない。


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小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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