理系おじさんの社会学
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仁徳天皇陵を整備せよ
大阪府堺市に世界最大の陵墓「仁徳天皇稜」がある。全長486m、高さ35m とにかく巨大である。この陵墓は、5世紀頃の天皇の墓で一説には仁徳天皇稜ではなく別の天皇の陵墓との説もある。従って、現在では大仙陵古墳というのが正式名称だそうだ。しかし、ここではあえて「仁徳天皇稜」と称して話を進めたい。まあ、色々と謎の多い古墳だが、古事記、日本書紀(以降は記紀と称す)に当時の様子が伺える。

仁徳天皇には、有名なエピソードがある。「庶民の生活が苦しくなり、かまどの炊煙が立たなくなった。その光景を見て心を痛めた天皇は思い切った租税免除を実施した。しかし租税免除したために天皇の宮殿屋根が葺き替えられなかった。そして宮殿は雨漏れするようになった。一方、庶民は租税免除のおかげで生活は良くなった。そして庶民の生活から煙も上がるようになった。生活が良くなった庶民は天皇に感謝し、再び進んで納税し、そして宮殿の修復をした。」

一見、何の変哲もない素朴なエピソードに思えるかもしれない。しかし、ある程度の経済学を理解している人ならわかります。先ず、当時「租税免除や減税すれば景気は回復する」という経済学的にも正しい政策を実施していたことである。まあ、ここまではよく話題になる内容である。私がもっと注目するのは次のところ、・・・そして景気回復してから庶民が天皇に感謝して進んで納税を行い・・・この「進んで」という部分である。「そんなはずはない」と解釈する人が多いだろう。それはこういうことだ。「私だったら、そんな「お人よし」なこと絶対にしない。」という拝金主義の中国人のような発想なのだ。それは、その人の個人的価値観を単純に当てはめているにすぎない。歴史的事実かどうかは別にして、「進んで」というのは、いかにも日本人的の精神をあらわしており事実である可能性が大であると私は考えている。

特に「雨漏れ」という天皇の生活を「犠牲」にしてまで租税免除を行うこと。それに「庶民の心が揺らいだ」と考えることができるからだ。だからこそ、この物語は語り継がれるのだ。いつの世も、くだらない話ではなく、感動ある話の方が語り継がれるというものだ。「仁徳」ということばの由来も仁徳天皇が庶民思いだったからと言われているからである。実際に仁徳天皇は様々な公共事業も行っている。それによって庶民のくらしを良くしたとも言われている。(*ただし、歴代天皇がすべて仁徳天皇のような天皇だったわけではないことを注釈しておく。)私が小学生の頃、旧日本軍兵士であった年配の先生(おそらくすでに他界?)はこの「かまどの水煙」の逸話を何度も話してくれた。そして「民衆がすすんで古墳をつくった」と説明した。ところが、中学になると別の中年くらいの先生が「奴隷を使って権威を誇示した」と説明した。その先生は所謂バリバリの日教組?のような人で天皇そのものを否定する発言が多かった。今思い出すと、当時の学校教諭の過半数は記紀についても、天皇を正当化させる創作であり信頼できない。魏志倭人伝のほうが信頼できる。という論調が主流であった。でも改めて記紀を読めば、天皇の正当性や権威ではなく、人間味溢れる描写が多いことは理解できる。天皇を美化ではなく生々しい描写が多いのだ。おそらくその教諭たちは記紀を真面目に読んでいないか、先入感で話していたといえる。全くこまった教育を受けたものだ。

まあ、それはさておき仁徳天皇稜の話に戻す。確かに過去の学説では、エジプトのピラミッドにしても、この仁徳御陵にしても多くの奴隷をつかって権威の象徴として作られたと考えるのが主流だった。実は私もずっと「奴隷を使って権威を誇示した」という説を長らく信じてきた。しかしどうも腑に落ちない。そんな気持ちも同時に存在した。たしかに外交的(特に古代中国、朝鮮)に対して「権威」の象徴を示す必要もあったかもしれない。つまり当時は古代中国や朝鮮半島との交易が少なからず存在したからだ。堺という港町に存在し、そうした意味をもっていた可能性もある。今も昔も、中国や朝鮮は権威(あるいは面子)を重視するのに外交的に対抗していたと考えられる。実際にはそうした外交と内政とをうまく使い分けて政治をしていたと解釈するほうが説得力がある。何故なら、日本の場合は天皇が自国民に対して権威を象徴するような行為を行えば即ち民衆の信頼を失うのである。その証拠に天皇の宮殿そのものには大きな堀はない。それはその後の平城京、平安京ですらそうなのである。よって、現在の皇居(江戸城跡)が歴史的には珍しいケースなのである。

さて近年の研究でも「奴隷と権威の誇示ではない」との説が有力になりつつある。確かに秦の始皇帝稜はそうした要素はあったように思うが、古代エジプトや日本は違う。私は考古学の専門ではないが、私も「民衆が進んでこの工事を行った」と解釈したい。何故なら、すでに仁徳天皇の頃は様々な公共事業が行われ、民衆自体に大型公共工事をする能力が十分備わっていたからだ。そうでなければあそこまでの偉大なものは作れない。そしてそういった政策(公共工事)の恩恵を受けた庶民も必ずいたからである。それは、ただ単に奴隷に鞭を打ったからできるようなものではない。そこには民衆の技術力、労働力、そして強い「思い」があったと私は考える。私も大人(社会人)になって常に思うことがある。それは、すばらしい製品やサービスは、ただ技術力と労働力だけではなく、人々の強い「思い」が込められている事。日本人はそういう感覚を古来より延々と受け継がれてきたと。ごく単純な大量生産の製品なら別だが、高度かつ緻密に作られた特注品の場合、それは奴隷に鞭打って作れるものでは決してありません。「奴隷に鞭打てば良いモノができる」なんて考えは、モノづくりに全く関わったことのない人の発想だ。私はあえて考古学の見地ではなく理系おじさんであり、エンジニアとしての見地に立って考えた。仁徳天皇稜は「奴隷と権威の誇示」ではなく「民衆が進んでこの工事を行った」が正解であると。

さて現在、仁徳天皇稜はどうなっているかというと。皆さんご存知の通り、現在は宮内庁管轄となっており「立ち入り禁止」になっている。おそらくこの発想は大日本帝国憲法の「天皇ハ神聖ニテ侵スベカラズ」が由来していると私は考えています。実際に、そういう考え方は現在の一般日本人(特に保守系、右翼系)にも根強くある。よって多くの保守系、右翼系も人たちも「陵墓に立ち入るなんてとんでもない」と考えている人も多い。私は、記紀を読む限りと天皇は本来はそうした存在ではなかったと解釈している。そして、ある時期までは陵墓内に人の行き来があり管理されていたのである。しかし現在は、そうした背景もあり調査はもちろんのこと一切「立ち入り禁止」の状態は続いている。考古学者によると、残念ながら内部はほとんど盗掘されているとのことだ。そう、現在は何もなく、堀にはナマズや鯉がすんでおり、陵墓内は鳥や昆虫の天国になっている。江戸時代にも何度か人が出入りした形跡もある。今更、内部に入っても何もないというのが通説だ。石棺はあるとの説もあるが、エジプトのようにミイラとして保存されることは日本ではあり得ない。しかし、トンデモ説の代表として「陵墓に入れない理由を天皇の出自が外国であることが発覚するのを恐れている。だから誰も中に入れない」なんて人もいる。ちなみに私は天皇の出自がどこであろうが、そんなことはあまり重要なことではないと考えている。よく王朝交代説というのもあるが、確かにそれは否定はできない。歴史的にも平安末期には現在のように内部は管理されない荒れた状況になっていたことと何か関連するかもしれないが、これ以上の考察は考古学者に委ねるべきだろう。とにかく現在の陵墓内部は、さながらジャングルにしか見えない状況になっているということだ。

どんな立派な構造物や庭園でも言えることだが、誰かが常に維持管理する、あるいは式年遷宮のように定期的に建て替える。そうしなければ、いずれは朽ち果ててしまいます。実際に陵墓内に関してもすでに原型をとどめていないとのことである。通常、一般人である我々が先祖の墓参りやその準備をするとき「草むしり」「墓石の清掃」・・・・などします。時折、見かける無縁仏には周りに草木が生茂り、墓石もコケに覆われている。他人の墓とはいえ無念に思ってしまいます。もちろん陵墓は仏教形式でない。しかも一般人の感覚と同一視すべきではないかもしれない。しかし朽ち果ててゆく状況をそのまま放置することは本当に正しいのでしょうか?

そこで、わたくし小室沢の提案です。現在の天皇陛下ならびに皇室の方々のご了承の上、全面的に内部を美しく整備する。(宮内庁説得はあとでよい・・・だって天皇の先祖の陵墓です。天皇家の意思を尊重するのは当然だ。それは天皇の政治利用には当たらない)もちろん、石棺等のある神聖な場所はさすがに何もできないかもしれないが、少なくともジャングルのようになった場所を整備しなおすことです。そして皇族の方々、政府関係者、そして一般参拝も堀の内側に入ることを可能して多くの国民の参拝できるようにする。そうすることが本当の意味での天皇の先祖(というより当時の民衆も含めた日本人の先祖)に対する敬意を表せるのではないでしょうか?「いや陵墓全体が魂であるから侵せない」という発想あるのかも?あるいは「いつの日か完全に朽ち果てる」ことこそが陵墓の意味である・・・という発想。だからとにかく誰も入ってはならない。それが本質というのであれば仕方がない。

しかし、私はあえてこういう解釈をしたい。天のおられる仁徳天皇はこう仰るでしょう。「我が陵墓は朽ち果ててもよい、庶民のくらしがよくなることを願っている。税金はいらない」そう、ここでよく考えてみよう。我々の現代日本は間違いなく発展した。そして、くらしも良くなった。税金だって払える。煙突から煙も出ている。だからこそ、あの伝説の結末と同じように、我々庶民はそれに感謝し、「進んで」税金を払って陵墓(宮殿)を再度うつくしく整備する。そのようなことがあってしかるべきではないでしょうか。いやそうすべきではないでしょうか? 今こそ1600年の時を越えて仁徳天皇に対し、というより我々の先祖に対し、日本の精神の基礎を作ってくれたことに感謝するときではないでしょうか?・・・・いや、そんなこと今更意味ないよ・・・・いいように天皇制を肯定している・・・・お上に都合よい解釈させられている・・・・お人よしだ・・・・なんていう人もおられるでしょう。理系おじさんとしてモノ申したい。社会というのは科学、技術力、労働力だけでは成り立たない。そこには人々の強い「思い」が伴わなければ成立しない。少なくとも日本はそうした「思い」とともに社会が発展してきた。唯物論だけでは説明できない。そういう精神的な美しさを失ってはならない。確かに陵墓内部はすでに盗掘にあい、物質的には何もないかもしれない。でも当時の天皇の「思い」そして民衆の「思い」は詰まっている。

もちろん、一般庶民である私が天皇家の陵墓に関して論じるべきではないと反論される方もおられるでしょう。しかし「天皇は国民とともにある」という、昭和陛下のお言葉があった。日本国民として我々にできることをする。それが今も昔も天皇と庶民(国民)のあるべき関係だと思う。以前、当ブログでも同様のことを述べた。「国家が国民を信じて、国民が国家を信じる」これが豊かな国家社会の象徴である。逆に「国家が国民を信用しない、そして国民も国家を信用しない」そうした国は文明国家として成り立たない。(当ブログ「移民問題Ⅰ」を是非参照ください)

そして終戦時、昭和天皇は御前会議にて最後に「国民を信じる」と仰った。この「国民を信じる」これは物凄い深い意味がある。そのことに多くの国民は改めて考えるべきだ。そして、昭和天皇とマッカーサーとの会見では非公式な情報ではあるが、マッカーサーが天皇が命乞いをするだろうと考えていたところは、昭和天皇は「私はどうなってもいい。日本国民を救ってほしい」と語ったという。帝国主義的な天皇と国民の関係ではなく、古代から存在した天皇と庶民の関係を思い起す重要なお言葉だったと私は解釈している。

再度、繰り返します。私は冒頭に述べたように、仁徳天皇稜は大勢の奴隷を使って権威の象徴として作ったのではなく、民衆の技術と労働とそして強い「思い」を込めて作られた。そうであれば、現在の国民の強い「思い」をこめて美しく整備する。そして、このことを後世に伝える・・・「人々の強い思いで整備されたのだ」と・・・。 
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少子化対策
最近、労働力不足のために「外国人の活用」「女性の活用」「高齢者の活用」といった愚策が論じられている。先ず、「活用」というモノ扱いのような表現すること自体が気に入らないとの声が多い。外国人労働者については、当ブログ「移民政策」で論じたので参照してください。今回は女性の活用に絡めて「少子化問題」を取り上げたい。先ず、少子化そのものが本当に社会に悪影響を及ぼすのかということ。私は必ずしも悪影響とは思えない。あらゆる意味での需要と供給のバランスが維持できていれば社会は成り立つものなのだ。ただし、それが急激なものになると必ず歪が生じる。確かに一定の少子化対策は必要だと私は考えている。

そもそも私は少子化問題の最大の原因は3つあると考えている。

①男女とも結婚しなくても生きていけるようになった。

あるいは「結婚しない方が生きやすいと考える人が増えた」と言った方が良いかもしれない。これは豊かな先進国に共通して言えることだ。多様な生き方が可能になったこと。発展途上国やかつての日本では特に女性は好き嫌い関わらず結婚しないと生きていけなかった。いわゆる結婚しないから、子供も当然少ないという考え方だ。

②経済問題により生活設計が困難になった。

昔の自給自足のような原始的な生活なら別だが、一般的な現代生活では住宅の大きさと費用、子供の教育に間違いなく多額の費用が必要である。それを継続的に安定させるためには安定した経済が重要なのである。そして経済力がないから長時間労働する。男女の時間が少なくなる。子供が少なくなるといった悪循環である。特に結婚している夫婦でも3人以上の子供持つ家庭が少ないのがその特徴的な事象だ。

③一夫多妻が禁止された。

つい最近まで、日本だって側室、妾、さらに俗に言う2号、3号と言われる愛人女性はいた。女性の人権?という観点から現在では議論することもタブー?のようになっている。しかし現在のイスラム教の国では第一夫人の許可があれば多妻(4人まで)はみとめられる。実際にはイスラム諸国では王族や高所得者くらいがそれを活用していて、一般庶民はほとんど活用していない。むしろイスラム教徒の出産率が高いのは避妊具を使用しないことにあるようだ。これも歴史を考える上でも正しい見かたであろう。また日本や欧米諸国に見られる「女性の多様な生き方を認めよう」といいながら一夫多妻や多夫一妻は認めないとというのは明らかに矛盾している。わたしは条件付きで認めるべきだと考えている。

基本的に結婚して子供をつくるかどうかは当然女性たち自身が決める問題である。少子化問題はそうした男女の意識の問題とも深く関わっている。ここでは男女の意識とそれに対する有効な政策を考えてみる。あくまでも個人的な主観も多いがそこはご了承願う。

1.女性の意識変化

先ほど「多様な生き方」ということを述べたが、その典型がバブル景気と呼ばれた頃だ。当時、所謂キャリアウーマンはもてはやされた。結婚しなくても高収入で優雅な生活ができた。また結婚してもDouble Income No Kidsとかいって子供なしで夫婦で自由気ままに生きることが良しとされた。当時、あの大橋巨泉までもが「子供なんていらない」と叫んでいた。彼自身がそうした生き方をするのは勝手だが社会にその考えを広めたことは今思うの罪つくりなことのように思える。あれから年月が流れ、そうした生き方をしていた人達の現在の姿を見る。決して幸せとは言えない人生を歩んでいる人々が多い。特に中高年になった独身女性の孤独死、または自殺する人も多い。艶やかだった方々がバブル崩壊とともに落ちぶれたパターンは多い。最近では東京大学卒業を迎えた女性たちに将来の夢を聞いたところ「かわいい奥さんになること」と答える人が増えたという。もちろん一部からは、「高学歴なのにもったいない」という批判の声もあった。しかし彼女たちはそうしたキャリアウーマンと呼ばれた人が決して幸せになっていないことをよく知っているのだ。そして苦労しながらも幸せな家庭を持っている人々。そういう人達への憧れと嫉妬があるのである。そう、最近では結婚して幸せな家庭を持ちたいと考える女性は再び増えたのである。しかし十代後半から二十代前半までに良くみられる、勢いで結婚する人は依然として減っており、そのかわり、男性に対する経済力の条件が厳しくなっている。

2.結婚できない男性が増えている

結婚したい女性が増える一方で、男性は派遣労働、期間契約社員が結婚が困難な状況に陥っている。何故なら女性は、彼女たちが望む幸せな家庭、つまり住宅購入や子育てがそういう男性の場合は難しいと決めつけているのである。たしかに低所得者層が増え、賃金が上昇しない。また将来設計ができない。そうした将来に不安を感じる人が多い。しかし男性も女性同様にいつかは結婚したいと考えている。私の主観ではあるが、独身男性が中高年になると、金はそこそこ持っているのだが偏屈な性格になる気がする。結婚しないから偏屈なのか、偏屈だから結婚できないかはよくわからない。いずれにせよ独身の中高年女性同様に独身の中高年男性は幸せそうには見えない。これは私の妻から聞いた話だが、「独身の中年女性には決して自分の家族のことは話さない」これは鉄則だそうだ。それは男性にも当てはまるかもしれない。つまり、男性も女性も経済的、物質的には結婚しなくても十分生きていけるが、精神的には生きてゆけないケースが多いのだ。多くの人々はそれに気付き始めている。従って、「結婚しなくても生きていける」というのは一種の幻想であると。また2011年3月11日の東北震災以降、家族のきずなが見直されたことも重要な人々の心の変化だ。

ここで、わたくし小室沢の三つの提案です。

提案1(経済政策)

とにかく経済が安定し、賃金上昇する政策を継続して実施する。先ず、私が何度も主張する「低賃金を目的とする外国労働者受入反対」「TPP反対」この二つは重要です。そもそも少子化で人口減少の対策が移民受入とか外国人労働者受入とかは愚論すぎる。その対策としては、公務員を増やし公共事業を増やすこと。特に職業訓練で教育できる人を確保する。おそらく経済対策については様々な経済評論家やブロガーが論じているので、ここではこの程度にしておく。

提言2(一夫多妻を認める)

イスラム文化を見ても、一夫多妻は決して「女性人権侵害ではない」というのが私の解釈だ。ちなみに過去に私はイスラムの国に長期滞在したことある。彼らは清潔であり、道徳感もある。イスラムの考え方は社会学的にも良くできているというのが私の主張だ。(ただし禁酒、豚肉、ノンハラル禁止は私にとってはキツイ)(そしてアメリカが勝手に「女性蔑視の危険なテロ民族」のようなイメージを植え付けているのが許せない。)歴史的にも日本だって一夫多妻の長き時代があったのだから、これを否定したら日本の歴史を否定するようなものだ。おそらく現代において、一夫多妻が日本で認められても、イスラムの人達同様にそれを活用する一般人は少ないであろう。しかし、日本の皇室、皇族、そして一部の富裕者層は可能かもしれない。もっとも一般的に法的に認めると色々面倒なので、一定条件を満たした許可制にすればよいと思う(少なくとも本妻、国や地方自治体等の許可は必要)。ちなみに私は決して活用しませんが・・・。またトンデモ論かもしれないが、人気のある芸能人や著名人と結婚できなくても子供は欲しいと思う女性は多いので、そういうシングルマザーを一定条件をクリアすれば許可する。(これはちょっと反発くらいそうだな)

提言3(教育改革)

教育改革に関しての詳細は是非、当ブログ教育問題の「子供手当」「移民問題Ⅰ」を参照してください。最近では集団婚活や怪しい出会い系サイトもあるが、やはり出会いのチャンスがないのも大きな理由だ。特に、高校、大学で学校と自宅との行き帰りだけでは男女の出会いはない。それは会社と自宅とでも同様だ。若者はひきこもり傾向だと言われるが、たしかに男女が出会うきっかけづくりも重要かもしれない。特に勉強だけでなく、何かを必死で取り組む姿は男女どちらも素敵なことだし、そういうことで恋が芽生えるものだ。面倒くさがらずに様々な活動することも重要だろう。私がまわりを見る限りでは、純粋な恋愛で勢いで結婚した人達はその後は仮に生活が貧しくても結構幸せにやっていることが多い。一方、色々と選り好みしたり、お金の事を考えたりする人は結局幸せな結婚ができていない気がする。あくまでも「気がする」レベルで恐縮だが、こういうことを統計処理するのも難しいだろう。まあ私の考えが正しければ「純粋の恋愛して勢いで結婚」することは人間としても、社会として最もふさわしいことなのかもしれない。多くの若者が、そうした意識になれば社会も変わると思うし、少子化の歯止めにもなるかもしれない。




テーマ:少子化問題 - ジャンル:政治・経済

移民政策Ⅱ
さて、先日に引き続き移民政策について論じる。前回「将来的に日本の人口は減少する。特にこれから20年でそれは加速する。しかしそれは団塊の世代が多いためだ。」と述べた。それは概ね間違っていない。しかし世代別人口推移の予測で50年後は日本の人口が8000万人未満になるとの見方がある。この見方は現在の1人の女性が一生で出産する平均比率をもとに単純計算されたものだ。あくまでも単純計算だ。たとえば将来の国際結婚の数、また移民ではなく在留外国人の日本人として帰化する人数は考慮されていない。したがって将来人口8000万人未満になるという予測について、この数字が正しいかどうか私もわからない。だって50年後がどういう世の中になっているかなんて誰にもわからないからだ。仮に人口減ったからといって豊かさが失われるとは限らない。例えば、国内の食料自給率は大幅に上昇し、輸出大国になっているかもしれない。また労働人口が減少すれば、労働単価も上昇する可能性だってある。メタンハイドレードのような新エネルギーが本格的に活用されるかもしれない。つまり社会としては、それなりに何とかなっている可能性の方が高いのである。逆に危機的状況になる理由が私にはよく解らない。

では何故、1000万人に移民を受け入れなければならないと考えるのか?先に述べたように多くの中国人の富裕層は中国を脱出したがっている。しかしカナダをはじめ多くの受け入れ先で制限されつつある。従って更なる出国先を探している。それに連動するかのように日本には移民受入を推進する勢力がある。つまり日本社会の安定よりも、一部の利益を追求する組織や団体があるからだ。それはどこかの国家ではない。国家ならば社会というものをある程度は考慮する。こういう論評は、三橋貴明氏も頻繁にされている。やはり、それを推進したいのはグローバル企業、あるいはグローバル資本家である。それは概ね正しい見方だ。実は私もそのグローバル企業に勤務している(三橋さんの敵かな)。もちろん、私が勤務する会社の詳細情報をここで公開することはできないが、最近では為替の影響で連結決算において「配当」というものが大きく動いている。社内でも不労所得を是とし、株主への配当を優先する。そのような考えの人は結構多い。またマクロ経済的にもGDPよりGNPが重要という経済学者もいる。やはりどこか狂っている。早い話が、「仕事しないで金儲けしたい」という輩があまりにも多いということ。それは残念ながら日本人でもそういう人は多いのである。また以前、当ブログで「日本人の仕事をすることの美徳」ということを述べた。そしてそれが社会の安定へと貢献したと。残念ながら、グローバリズムはそういう感覚が欠けているのだ。「儲けた奴が勝ちだあ」という考えなのである。それと多くの人にある潜在的なイメージとして「なんとなくグローバルビジネスってカッコいいなあ」である。私は断言します。「全然カッコよくない」あとこんなイメージもある「なんとなく不労所得って現代っぽくてカッコいいなあ」 私は断言します。「そんなの長続きしない」

先ほど、50年後の世界は誰もわからないと述べた。しかしグローバル企業やグローバル投資家については、ある程度予測できます。私のこう予測します。そういうグローバル企業は「決して長続きしない」ということです。例えばグローバル企業の基本方針である「グリーバル人件費抑制」「グローバル部品調達コスト抑制」というのがあります。確かに中期的には大きな利益になるかもしれません。しかし必ずどこかで限界がきます。人件費、調達コスト、その他諸経費の低コストをグローバルで追求しても決して追及先が無限ではありません。特に製造業の場合は基本となる「技術力」がなければ成り立たないからです。従って50年後というスパンで見ればそういう方針はどこかで破綻するのは明らかです。またグローバル投資家についても同様です。もし日本がユーロのような自国通貨発行権がなければ金融政策を失い制御不能になりますが、そうでなければ国家としてしっかり防衛できます。あの国際的投機家であるジョージソロフ氏ですら、いずれはグローバリゼーションは終焉すると語っていた。従って、50年スパン100年スパンで考えても1000万人移民受入するメリットは乏しく(おそらくGDPはせいぜい 5%未満?)、逆にデミリッとは無限大(∞)というわけだ。

一方、1000万人移民受入肯定派は「ヨーロッパの移民政策とは違う」日本では「外国人をしっかり教育すればよい」ともっともらしいことをいう。まあ日本人の教育について何も論ぜず、外国人の教育が重要と発言する時点でまず信頼ならない。日本人と外国人のどっちが大切なのかと先ず彼らに問いたい。私もグローバル企業に勤務しています。海外赴任や海外出張もよく行きます。その目的は現地の教育訓練だったりすることもある。それは会社の命令だ仕方がない。会社側としても、私のように少し専門知識や技術力があり、さらに多少語学力があると、すぐにそういうオファーがくるのだ。まあ仕事させて頂いてるからあまり文句はいえません。ありがたい部分のあるのだが多少複雑な気分だ。しかし、内容によりますが私は本気で現地人に教える気はありません(このブログを上司が見たら怒るだろうな)そもそも会社は人件費の抑制したいだけ。現地人も美味しい技術が欲しいだけです。そういう雰囲気を感じた時点で、私もテキトーにやってます。そんな考えでモノ作りができると思ってる連中に本気で教えないのは当然だ。出張終わって帰国した際には「いやー現地人の教育はやっぱ難しいなあ」なんてそれらしいこと言って、上司も「まあしょうがないなあ」という感じになる。実際に高度な技術や知識はちょっと勉強しただけでできるものではありません。内容によっては10年、あるいはもっと時間がかかる分野もあるのです。それをISO的に「マニュアル化してシステム化すれば出来る」と思っていること自体、技術者をナメている。そういう無能な管理者は依然として多い。しかし会社は我々技術者に海外への教育を要請する。サラリーマン技術者は辛いですよ。まあ上手くいくことより上手くいかないケースの方が多いです。たまたま上手くいった外国人も、その後さっさと別の会社に転職したりする。こういうことで苦労している日系企業は非常に多い。それが外国人を教育するという現実なのです。(私の本音としては、日本人の後輩たちこそ優先して教育したいのです。)要するに、そうした会社の方針、国の方針で翻弄されるのは現場で教育する日本人技術者なのです。はっきり言って「いい迷惑だ」。つい最近でも韓国の「日本人技術者の使い捨て」というネット議事も目にした。おそらくこういう議論は、現場を知らない企業の管理者や国の一部の政治家は理解していないでしょう。もちろん企業の一部の役員、国の一部の政治家は気付いています。しかし、まだまだ世論は見方になっていない。だからこそ、こうしたネットを通じた更なる世論形成、そして政治家を動かすことが必要なのです。

ここで逆説的な論理だが、私はいわゆるG7(主要国首脳会議、および財務省、中央銀行会議)には少し期待している。一般的に「G7はグローバリズムの象徴だあ」というイメージは強い。確かにかつてはそういう側面はあった。しかしアメリカ、欧州、日本ともにグローバリズムの問題点に気付き始めている。そもそも各国首脳は国家(社会)を抱えた代表なのである。それぞれの国家社会や国民が不幸になることは決して許容できないものである。ただし各首脳がそれぞれの国の一定の支援団体から政治献金等も受けとっており、様々な面から支えられているのも事実だ。しかし、それぞれの国民が不幸になっては元も子もないないわけだ。それこそ選挙には勝てない。そういう認識を7カ国首脳で共有すること。そして決して一部のグローバリスト利益ではなく、それぞれの国民に利益になるような共同歩調は可能である。そこで、移民問題についてもG7で十分議論して各国協調路線をとるのである。ここであえてG7といったのはロシアは少し立場が違うからだ。クリミア問題で外れているのも幸いしているかもしれない。ちなみに国連は今のままでは何の期待もできないでしょう。むしろ「移民排斥はゆるせない」とかいって反対するでしょう。もちろん移民する側の言い分もあるでしょう。しかし先ずは自国での問題を解決するよう努力をすること。もちろん一般庶民にとっては酷なことではある。だからこそそれぞれの国家が対策打つべきだ。自国責任の貧困や中国のような社会問題のはけ口を、先進国の社会に求められても「いい迷惑」というものだ。どうしても個人レベルで移民したいなら、その国に受け入れられるよう様々な勉強や訓練すれば良いのである。何故に楽をして利益を得ようとするのか?そもそもそういう思想自体が間違っている。

よく推進派は、日本は「閉鎖的」とか「排外主義」とか言います。安部首相までもが「どこまでもオープンに」とか言います。でも海に住む貝は貝殻を開きっぱなしだったら魚に食われてしまいます。だから閉じているのです。また金属成分に異物や異種混入すると歪が生じて割れてしまいます。だからそれを事前に除去します。それ当然のことです。それとも彼らはすべて崩壊させたいのでしょうか?そうであるならなおさら、徹底的に議論、および別の対策を打って、この方針を壊滅させましょう。


テーマ:移民問題 - ジャンル:政治・経済

移民政策Ⅰ
最近、日本のニュース、ネットで話題になっていることがある。それは外国人労働者の受け入れ推進だ。現在、政府与党に1000万人移民受け入れ構想がある。また100万人に留学生受入も計画している。目的は将来の日本の人口減少への対応だ。特に労働力不足の解消が目的という。そして留学生もそのまま日本で就労できるようにするというものだ。また女性の活用とか高齢者の活用とかいう議論もされている。つまり今後、1000万人程度の人口減少するから1000万人をどこかから補おうという発想である。

はっきり言って、私はこういう発想を単なる「数字遊び」だと考えている。単純な引き算と足し算である。私も数字の重要性や統計学の重要性は認識している。しかしそこには社会的背景や技術的考察が伴わなければならない。そういったことが推進者側からほとんど出てこない。だから単なる「数字遊び」なのである。こういう数字遊びに夢中になるのは何も政府だけでない。一般企業の無能な経営陣でもよくあることである。要は現場を見ないで議論しているのである。特に移民という生身の人間については「数字遊び」だけで議論すると必ず失敗する。穿った見方をすると「別の目的がある」とも思えてしまう。

政府与党では、福田康夫氏、中川秀直氏、経済学者の竹中平蔵氏も熱心な推進論者だ。一般的にも、何となく「人口減少だから移民受入やむなし」と思っている人も多いようだ。一方、いわゆる保守系の人たちが猛烈に反対している。理由は「日本が壊れる」とか「外国人に支配される」とかである。ただし、単純に「反対だあ、反対だあ」と叫んでも逆に「既得権益者だあ」とのレッテル貼られ、挙句の果てに悪役イメージを植え付けられる。従って何らかの提案、代替案等を示し、それを推し進めることが重要だ。当ブログでは可能な限り、この「提案型」に拘りたい。そして議論したい。何となく「移民受入やむなし」という人に地道に説明する。そうすれば「1000万人移民計画」は必ず撃破できます。すでに多くのネットユーザがこの危険性を論じています。ですから「移民計画反対」に同調される方はこのブログの拡散にもご是非協力してください。

さて、本件に関して海外に目を向ける。特に1970年代頃からヨーロッパ諸国でも大規模な移民政策はとられた。しかし、その後に様々な社会問題が発生していることは周知の事実だ。しかしフランスの東欧からの移民は比較的成功している。サルコジ前大統領も東欧系だ。おそらくフランス本国と価値観の近い民族であるからだ。やはり、欧州で一番問題になっているのはイスラム系移民だ。イスラム系移民にとっては仕事があり、福祉が充実した「やさしい国」はそれだけでも魅力的なのである。しかし、生活習慣の違いは大きい。やはり宗教、あるいは思想哲学が違う民族を集団で受け入れると問題が発生するのは当然である。ベルギーでは「学校給食から豚肉を無くそう」なんて動きにもなって騒動になっているようだ。一方、北米、南米では中国人、韓国人の移民も増えている。ヨーロッパほどではないが、やはり様々なトラブルが起きているようだ。もちろん中国や韓国にも事情がある。それは彼らの多くが本国を常に脱出したいと願望してるからだ。イスラム系移民は貧困が主要因だが、中国人の場合はむしろ富裕層が本国脱出を考えている。何故なら中国人、韓国人ともに本国を全く信頼していないのである。こうして彼らを新天地を目指すのである。そして脱出した中国人は本国から「裏切り者」扱いされるのである。私は決して中国人自体を否定しているのではない。私がもし中国人だったら同じ行動を取るだろう。そして疑心感が強くなり、拝金主義になる。それが中国の社会の大きな問題なのである。「国民が国家を信頼しない、そして国家は国民を信頼しない」こういうパターンが文明国家として成立していない典型的な例だ。日本はこれを反面教師とすべきだ。やっかいなことに、こうした「国家を信じない人」の多くは何処の国へ行っても「国家を信じない」のである。そして最終的に「国家から信頼されなくなる」のだ。もう一つ大きな問題がある。新天地での移民生活に関して、イスラム系住民、中国系住民、韓国系住民に共通して言えること、それは本国の文化をそのまま持ち込み頑なに守ろうとすることだ。かつて北米や南米の日系人も1世、2世くらいまでは日系人もそうした傾向はあった。同胞同士で片寄せあった生きていた。中には本国より日本の伝統に拘っている人も多かった。しかし、3世4世になると自然と現地に溶け込んでゆく。現在では日系人同士の結婚は減っているという。しかしイスラム系、中国系、韓国系は何代も本国文化を守り続ける。「郷に入りては郷に従え」という感覚が薄い。だから現地人ともめるのだ。特にイスラム教徒にとってイスラム教を放棄することは宗教上の重罪とみなされる。また中国、韓国人にとっても本国に見切りをつけて出国しても、本国文化を簡単に捨てることはできない。むしろ同胞同士で結束し、民族地位向上のための政治活動だって行うのだ。そして現地人との間で意地と意地がぶつかり軋轢を生じる。おそらくこれは簡単には解決しない。長期にわたり延々と続くであろう。こうした内容を聞くと移民たちが悪いように思えるかもしれない。しかしそうではない。最も問題なのは移民受入を決定したその国の方針なのだ。もちろん日本国内においての移民問題に関しても同様である。以前ブログでも述べたが異なった思想哲学を強引に統合すると必ず歪が生じる。既に歴史がそれを証明している。(当ブログ「善悪二元論」「超法規的措置」も参照お願いします。)

さてこの問題について、私はあえて違った視点から移民と労働力について考える。また、私なりの提案をする。先ず、現在の日本の状況を確認してみよう。製造業での製造現場においては、多くの外国人労働者が活躍している。特に日系ブラジル人や日系ペルー人が多い。また畜産業や水産業では多くの中国人研修生が働いている。もちろんトラブルがないわけでもないが、基本的には真面目によく働いている。実際、彼らによって多くの日本の産業が支えられている。もはや現在の日本社会では彼らは欠かせない存在になっている。その現実に目を背けてはならない。中国人の場合、単純労働ビザは禁止されているので研修生として2-3年の契約で本国へ帰る。多くの雇い主は「せっかく教えて覚えたのに」と帰国を嘆いている。そうビザの延長を求めているのは政府ではなく、そうした日本人の雇い主の方なのである。その一方で水商売、零細企業、小売店等で不法滞在と不法就労もあとを絶たない。不法滞在という既成事実をこの期に合法化しようという考えもある。それは全く言語道断である。こうしたことに関しては徹底的に取り締まるべきだ。

マクロ経済の観点から、こうした外国人労働者によって低賃金が当たり前になっているということが大問題である。政府のデフレ脱却に向けた金融政策や財政政策は評価するが、賃金の上昇が伴わなければ経済の好循環にはならない。従って、単なる賃金抑制のための外国人労働者の受入はデフレ脱却へのマイナス効果である。確かに低賃金を目当てに雇用する企業も今だに多いのも事実だが、従業員が日本人であろうがなかろうが景気が上がれば、それに伴い賃金上昇させればよいのである。それができなければ大量移民受け入れはマクロ経済的に失敗する。

確かに将来的に日本の人口は減少する。特にこれから20年でそれは加速する。しかしそれは団塊の世代が多いためだ。その団塊の世代の多くはここ数年で現役をすでに退いている。あるいは実働部隊から離れている。そして世代別人口分布を見ても実質的な労働人口の供給力は然程低下しないのだ。また、多くの日系ブラジル人たちの2世が青年期を迎えようとしている。彼らは日本の小学校で日本人とともに学び、日本語も流暢に話す。そして何よりも日本文化をよく理解している。おそらく彼らはブラジルへ戻ることなく日本に定住するであろう。そして帰化する人も増えるであろう。そうした若者が日本の新たな労働力になるであろう。しかし、それでも景気が好調な場合は労働力不足は発生する可能性はある。だが移民を大量に受け入れなくても。そうした場合に備える方法はある。

実際に最近ではアベノミクスの影響もあり、人手不足のところは多い。求人広告は間違いなく増えている。特に土木建設業は悲鳴を上げている。かといって誰でも人を投入すればいいというものではない。こういうことは普段から人材育成していないと対応できない。長らく続いてきたデフレの影響か?企業の人材確保と教育訓練という最も重要な投資を抑制してきた。それは利潤追求、株式配当を重視する企業としても仕方のない対応なのである。だが、いざというときに供給能力がないのである。実際に震災復興予算が執行できないという問題が多々発生している。一部は次年度に繰り越したそうだが供給能力が不足している以上、事はそう簡単ではない。

ここでわたくし小室沢の提案である。国の義務教育として中学、高校に各種労働訓練を義務つける。もちろん高校も義務教育にする。大学にも一定の職業訓練を義務つける。要は軍隊の予備役みたいなものです。現在の日本には兵役がないのだから、替わりに社会に役に立つ訓練を義務付けてもいいはずだ。これだと景気動向に左右せず教育投資ができる。そして労働訓練を受けた人員が国家として確保できる。まあ中国人研修生が認められるのなら、なぜ日本の学生の研修生制度が活発にできないのかって話だ。また以前、「子供手当」でも論じたが基本的に教育には時間と金が掛かる。そういうことも大きな理由だ。企業側だって得をする。一般的に、企業は新入社員が入社してから様々な教育訓練を実施する。それは時間もコストも掛かる。本当は即戦力が欲しいのである。まあ素朴に考えてみても、6-3-3の12年勉強して更に大学4年勉強して、何故また会社に入社してまた一から勉強なのか?確かに業種によっては企業に入ってからでないと勉強できない内容もある。しかし何らかの職業訓練を義務教育としてシステム化していれば即戦力の新入社員はもっと生まれるのである。

特に公共事業というのは政府の政策事業である。そうした業務に関わる予備役を確保することが重要だ。例えば、高校生以上の男子にパワーショベル、ブルドーザの免許をとらせる。あるいは鉄筋工や生コンの技術を修得させる。女性には医療介護の研修を必須にして補助作業としての認定を行う。まあ、あえて男女分ける必要もないかもしれないが。彼らにいくつかの選択視も与えても良いだろう。もちろん自衛隊での研修もあってもよい。夏休み等を利用するのもいいだろう。そして、いざというとき(東北の震災対応のような)になってもそうした予備役の学生が活躍できるのである。実際、あの3.11震災発生後に多くの若いボランティアが現地を訪問したが、結構「役立たず」が多くいて、挙句の果てに支援物資の食料に手をつけたりした。そりゃそうだ、なにも訓練経験もなく知識のない人が来ても足手まといになるだけだ。「何か協力したい」という気持ちはわかるが、無知、無能では即戦力にならないのだ。かえって邪魔なのだ。私もフォークリフトの免許は持っているがパワーショベルの免許は持っていない。その他関連する能力があれば、現在の勤務先の許可を得て支援に行っていた。しかし結局は何も出来ず「一般的な募金」しかできなかった自分にとてつもない無力感を感じた。

さて、最近の小学生では課外学習としてスーパーのお手伝いがある。また中学生の課外活動として地元旅館でのお手伝いなどがあるそうだ。私が実際に聞いた話だが、中学生の旅館のお手伝いは、一般パートの人より優秀だったという笑い話もある。実は学生も結構楽しんでやっているようだ。そりゃそうだ、学校の教室でずっと座って勉強なんてつまらない。あんなところにこもっているからロクなこと考えないんだ。だが、そうした学生の経験があると学校卒業してからの就職活動に必ず役に立つ。私自身も学生時代に様々なアルバイトをした経験は今なお生きている。また特殊技能を修得すると、社会人になってから「緊急支援」で別の仕事も可能にさせる。それが本当の意味での「労働の流動化」というものだ。私が会社の人事担当だったら、そういう様々な現場で仕事経験があり特殊技能を持っている人の方が、高学歴者よりも魅力的に見える。そう「腹が減っては戦にならぬ」「武器がなければ戦にならぬ」そして「技能や知識がなければ仕事はできない」当たり前の話だ。ただし現在、学校では課外活動として簡単な体験学習に留まっている。それを本格的な教育訓練システムにするのが私の提案だ。今の日本と将来の日本は高学歴者はそれほど要らない。むしろ技術者、専門職などの実践能力のある人間が必要なのである。

その一方で「学生を強制的に低賃金労働させるのは許せない」という反論が特に教育現場から来るかもしれない。わたしはすぐさま反論します「じゃあ、外国人研修生の低賃金労働は許されるのか?」と。そして数年たったら母国へ帰ってしまう。その外国人自身にとっても雇用者側にとっても一時しのぎの対応であり、結果的にどちらも辛い思いをする。またある人は「受験勉強があるのにそんなことしていられない」「とにかく受験があるから」・・・「えっ、そんなこと?」実際に社会や人に役に立つ訓練よりも受験勉強が大事?まったく本末転倒とはこのこと。何のために勉強しているのか?立派な社会人になるためでしょう。いっそ大学受験、あるいは就職試験の際に「訓練経験実績」を必須にすればいいのだ。そして、いっそのこと教育現場にいる世間知らずの先生たちにも世の中をじっくり勉強させるいい機会かもしれない。世の中には様々な需要があり、様々な仕事がある。しかし子供たちに「将来なりたい職業は何」を問うと「サッカー選手」「パイロット」「弁護士」「看護婦」のような回答しかない。それらの仕事以外はよく知らないのである。そして高校、大学生になっても、何となく3K(キツイ、汚い、くさい だったかな?)職場はイヤというイメージを持っている。私はそういう3K職場で実際に仕事したことがあるが結構それはそれで楽しかったりするし、特殊技能も修得しやすい。むしろ誰もが憧れる弁護士さんや看護婦さんはかなり精神的にもかなりハードな仕事だ。要はそういう現実を子供たちは知らないのだ。実際には様々な仕事があって世の中は成り立っている。誰かが何処かで頑張ってるから世の中は成り立っている。従って、どんな仕事も尊敬されるべきである。そういうことをしっかりと教えることこそ子供への教育ってものである。

まあ今回は教育訓練の方に傾いてしまった。しかし、このような対策(教育改革)によって労働者不足は大幅に改善され、新卒の職業選択幅も増え、さらに国家の緊急対応も可能になるということだ。それなのに、わざわざ1000万人も移民させる? 馬鹿じゃないのか?国内的な対策を何も検討せずに。移民受け入れても、経済的に景気の良いときは役に立っても、景気が悪くなれば社会不安になるのは目に見えるではないか?なぜそんな簡単なことから目を背けるのか理解に苦しむ。とにかく1000万人移民受け入れなんて絶対にありえない話だ。皆で協力してこの方針をぶっ潰しましょう。

本件に関しては、まだまだ話し足らないことがあるのでそれは次回も継続します。

テーマ:移民問題 - ジャンル:政治・経済

子供手当
もうすぐ桜の咲く季節がやってくる。そして多くの児童や学生は、新学期、入学、入社の時期を迎える。子供たちにとっては明るくワクワクドキドキの季節だ。そこで今回のテーマは子供手当をとりあげよう。

かつて統計学者のロナルドフィッシャー(当ブログ「遺伝学と優生学」参照)は次のような提案を出している。「子供の少ない家庭への補助を撤廃する一方、子沢山の家庭に対して父親の収入に比例した補助金を出すこと。」Wikipediaによると「フィッシャー自身が8人の子供の父親であり、その養育のために彼が負わなければならなかった経済的負担が、彼の遺伝学・進化論的確信を深める原因の一つとなり、この発言もそのことと無関係では無いとする家族や友人達の証言もある。・・・・」この事実関係については私はよくわからないが、少なくとも彼は子沢山なことそのものも優生学の研究に活用していた。またフィッシャーが言うように「文明の衰退と凋落は、上流階級の生殖力の低下に帰することが出来る」これについてWikipediaでは「客観性を欠くもの」としているが、私はフィッシャーの言っていることは正しいと思う。何故なら現代においても裕福な先進国は少子化で貧しい発展途上国の出生率は高い。女性においても豊かな先進国では結婚しなくても生きていけるが、貧しい途上国は結婚しないと生きていけない。そしてフィッシャーがいう「集団数の増大が多様性を生み、それによって生存の機会の数も増大していく」ならば、その数に応じて補助金を出すことは理にかなっている。

さて、そこで日本における子供手当について改めてじっくり考えてみる。基本的に、国としての義務教育制度はある。しかし、その方法については様々な議論があるので別途で論じたい。ある人は「子供手当など不要である。国や地方の義務教育システムに一元すればよい」という考え。しかし私は、子供手当ては絶対に必要だ考える。特に、文化、スポーツ、特殊技能等に関する訓練は幼少からスタートする必要があり、そういう分野は結構多いからである。現在、そうした分野は一部の高所得者かそういう家庭環境にある子供しか教育を受けるチャンスがないのが現実である。そうした子供の教育には時間もお金も掛る。というかお金と時間を掛けるべき。というのが私の考えだ。以前、民主党政権下で子供手当26000円/月の構想があった。当時野党であった自民党は「バラマキだあ」と訴えていた。私は決して単純なバラマキとは思わなかった。何故なら子供はお金が掛るからだ。あるいはお金を掛けるべきだからだ。確かに現金支給だと、本当に子供のために使われるかわからない。そういう指摘はあった。しかし当時は多くの子を持つ親は子供の為に使用した。私もそうでした。結局、当時半額の13000円/月も子供にために使用した。しかし一時的な金額だったので長期計画が立てられなかった。この「長期計画が立てられるか」が重要なポイントだ。経済学者の高橋洋一氏によると、現金支給と公共事業では乗数効果はさほど変わらないと聞いたことがある。もしそれが正しければ民主党が言う「公共事業はバラマキだ」と自民党が言う「子供手当はバラマキだ」は不毛の議論だ。子供手当も、やり方をもう少し工夫すれば経済効果だって得られたと考える。まあ国民側からしたら、とにかく中長期的な展望を持たせることが不可欠だ。何でもそうだが長期的な安定が見込めるからこそ、人は何かに投資できる。個人の住宅ローンだって安定した仕事と安定した収入が不可欠だ。そうでなければ数千万円の物件を20-30年の長期ローンが組めるはずはない。企業の設備投資だって同じだ。将来の製品受注が見込めなければ設備投資はできない。では、どうすれば効果的な子供手当システムができるか? わたくし小室沢なりに考えた。

①一律10000円/月の現金支給 
②最大10000円分/月 個人活動補助 
③中長期での目標達成に応じた個人報奨金制度

①は従来の子供手当と同様の現金支給。②は例えば習い事(スポーツ、文化、職業訓練等)に掛った費用の一部を行政が負担する。当然、活動実績に応じて負担する。活動がなければ負担なし。③は達成度に合わせた報奨金 (地域限定商品券、選べるギフト券でも良し)②③については当然のことながら国や地方自治体の公認を受けた機関でなければならない。こうしたシステムがあれば親や子供は積極的に教育訓練に参加でき中長期の目標を持つことができる。ちなみに私が勤務する会社では様々な教育訓練プランを持っている。例えば、通信教育等で全課程を修了して、何らかの公的試験に合格、あるいは所定のスコアをクリアすれば通信教育での費用60%を会社が負担して公的試験合格すれば更に報奨金がもらえる。これって結構やる気が出ます。特にお金に敏感で向上心があれば前向きになるシステムです。それでもそうしたシステムを活用しない人もいますが、そういう人は仕方がないです。つまりこの考え方を一般の子供に応用するというものです。実際に何らかの成功経験を持った人達は必ず次のようなコメントをする。「日々努力」「日々積み重ね」「そしてそれを許してくれる環境」・・・この中で「それを許してくれる環境」こそ中長期的な周りのサポートであり資金力でもある。全面的な中長期的な資金援助は不可欠だ。1回こっきりの資金援助、1回こっきりの勉強会参加・・・そんなのでプロになる人なんていない。おそらく反対意見として、予算はどうするんだとか、行政の手間が掛りすぎるという意見が出るでしょう。私はそれにはっきりと反論します。行政の手間が掛っても実施すべき。もし役所の人員が少なければ増員すればよい。そもそも、ただ単に公務員の数を減らすというは愚論だ。効率化は効率化で結構だが、必要な業務は実施すべきだ。地方に人件費予算がないなら国が負担すればよい。だってデフレで銀行に行き場を失くした金融資産だってあるではないか。もし足りなければ教育国債(償還は100年でも1000年でもいい)発行すればよい。今の日本で国家破産なんてありえない。金は使ってこそ意味があるし国家の根幹である将来への投資(特に子供へ教育投資)ができなくてどうやって国が発展することができるでしょうか。

そう子供たちのため、将来のために皆でお金を使おう。




遺伝学と優性学Ⅱ
遺伝学と優性学について、今回は日本に目を向ける。特に社会と自然環境との関わりにおける遺伝というものに注目したい。先ず遺伝子学的に日本人は、様々な多様性があると言える。フィッシャーの言うように多様性の影響もあったであろう。人類学的な特徴はまさしく、この遺伝学的な由来によることは間違いない。前回述べた縄文系DNAの影響は大きい。特にY染色体ハプログループの解析では、日本人男性の4割が縄文系D2といわれる遺伝子をもっており最も高い比率だ。大陸系とよばれるO2b1やO3系統はいずれもD2より比率は低い。となると従来は大陸からきた弥生人が縄文人を駆逐したという説に疑問が生じる。文化的にもそうだ。大陸系の影響を受けているのは間違いないが淘汰されてはいない。やはり近現代でいう「侵略や虐殺」は少ないと考えるのが普通だ。どうしても古代は原始的で野蛮であったと考えがち(思い込み)である。例えば古代日本の「出雲の国譲り」に関しても、「そんなことありえない」という考えが主流であった。しかし当時の戦闘痕跡が全くみつからないことより、実話ではないかというのが竹田恒泰さんの説である。そうなると記紀の多くは何らかの事実をもとにしていると考えるべきだ。このように「思い込み」ではなく、科学的根拠、遺跡の解析(DNA)分析、さらには統計的手法等によって論理的に明らかになることは、勝手な歴史認識(思い込み)でそれを政治利用するような勢力に対抗するのに非常に効果的である。そういう意味でも更なる研究に期待したい。

さて、日本人は古来からどのように進化し、また遺伝してきたのであろうか?古代には巨石文化も存在したようだが、やはり木製、土器を中心としていたようだ。日本は酸性土壌であるため人骨、木製製品はほとんどは土に還っているから実態はよくわからない。わずかに残る人骨から体格や生活様式が伺える。基本的には現代と比べると小柄でがっしりとした体形だったようだ。しかし大柄な遺骨の発見もあり、実際には統計処理しなければその全体像はわからないであろう。また日本列島は弓なりに南北に長いために地域性というものは大きく関わっていると考えられる。

時は流れ、仏教の伝来とともに肉食を禁じたため、今でいう草食系が増えたとも言われる。それでも一部の庶民は肉食を続けていた。いかに仏教の影響が大きくとも古来からある肉食を続けるあたりは日本人らしい。文化には多様性があり、仏教が広がろうとも神道的な精神が根強く残っており、それが完全に廃れることは決してなかった。江戸時代にも肉食は表向き禁止されたが、ボタン(猪)サクラ(馬肉)モミジ(鹿)という隠語を使った食していたとのこと。水戸の徳川光圀も近江牛を好んだと言われる。しかし、全国的には草食系が主流だったことは間違いない。現代になって、生活スタイルの変化、とりわけ食文化の変化が原因と考えられる日本人の高身長化。また柔らかい食事の影響か「あごのライン」等も変化も指摘されており、今なお変化を続けていると言われている。

では思想、哲学はどうであろうか?日本は東アジアに位置し、人類学的には朝鮮や中国とも近いが、思想、哲学は明らかに違う。福沢諭吉は「脱亜論」の中で「人種の由来によるものか・・・」と当時から中国、韓国と思想哲学がことなることを指摘していた。当ブログ「超法規的措置」や「私の新脱亜論」でも述べたが、昔の日本と現代日本では生活スタイルも大きく変わり思想的にも多少変化したかもしれないが、本質的に日本人の思想哲学は変わっていない。それは中国人や韓国人の100年前の思想哲学と現在のとであまり変わらないのと同様に。「人種の由来によるものか・・・」という福沢諭吉の言葉について、思想哲学が血統的に遺伝するというメカニズムを解明するのも困難であるし、仮に将来解明されても、「だからどうすればいいのか?」という議論になる。再び人種差別への曲解される恐れもあるだろう。

従って、ここでは外的要因、環境や社会についての遺伝を考えてみたい。例えば、式年遷宮のような定期的な神社の建て替えは、社(やしろ)の老朽化への対応だけではなく、技術の伝承、そして思想哲学の伝承に繋がっている。血統だけでない伝承のやり方だ。日本の中世以降、一般庶民でも寄合を通じて技術交流したり、教育指導をしてきた。江戸時代からは商人に丁稚奉公というものが存在し、そこで教育訓練が行われた。そこで思想哲学も伝承される。

現代社会においても思想哲学は伝授される。特に職場での教育訓練やOJTによって自然と思想哲学は伝授される。そもそも日本の思想哲学は宗教色が少ないので伝承されやすいのかもしれない。例えば、日本の職人たちは職場において宗教的なものは一応存在する。しかしその多くは神道的な形式が多い。神棚に向かって簡単な祈りを捧げ精神を統一する。こうしたやり方は現代も確実に受け継がれている。以前、とある会社の工場では仏教思想を持ち込み、社員に仏壇への長々と念仏を強要されたことがあった。その後、社員たちは組織を結成して反対行動に出る。これが後に国内での労働組合の原点となったことは有名な話だ。つまり、このようなやり方は日本人には受け入れられないのだ。やはり簡素で神道的なやり方によって精神を統一させる。こうしたやりかたが今でも日本人と日本企業には向いているのである。そしてそうした日本人の思想哲学こそが高度な技術力の源となっているのである。それがわたくし「理系おじさん」としての強い主張である。

はたして日本人のそうした思想哲学はどうやって育まれたか?私がとても好きな日本の書物や文化人をざっと思い浮かべ想像してみた。古事記-日本書紀- 聖徳太子-紫式部- 空海- 狩野派-平賀源内-葛飾北斎- 萩生徂徠- 本居宣長  確かに仏教の影響は大きいし、儒学の影響も大きい。私も論語は好きで自慢じゃないがいくつかは暗唱できる。もともと古代中国の影響は大きかった。しかし894年の遣唐使廃止より、日本の独自の文化が発展する。しかし、それ以前から日本独自の文化は存在した。記紀には天照大神は、岩戸の中で絹を縫っていたとされる。通常、どこの国でも神様はこまめな労働などしない。日本には、働くことを美徳とする考え方は昔からあった。逆に「働いたら負けだー」という思想は一切なかった。そして、泣いたり怒ったり、歌って踊って、暴れん坊だったり、女癖が悪かったり・・・人間臭さを感じさせるのが古代の日本の神々であり、古代歴代の天皇もそうした記述が多い。もっとも最初のイザナギ、イザナミの話からいきなり卑猥な表現が出てくるのだから。そう、決して神や天皇は絶対的な存在ではなかったのだ。唯一、明治憲法下の天皇は神聖で絶対的な存在のように祀り上げられたのである。

さて、今も昔もどういうわけか、朱子学的な思想、キリスト教、イスラム教は決して日本では多数派にはならなかった。それは何を意味するのか?多くの日本人は、一神教や絶対的なものに対する拒否感があったのではないかと私は想像している。それこそ善悪二元論への反発かもしれない。しかし、もっと素朴な表現をすると、庶民にとってみれば「でやんでい」「そんなこたあ、めんどうでい」「さっさと仕事しろ」(何故かべらんめい調だが)という感覚の方が強かったのだ。そして面白いのが、特に関西で仏教に対する庶民の行動だ。表向きは丁重な態度でお布施もしっかり納める。しかし、心の中で「坊主丸儲け」とか「クソ坊主のお説教」とか「坊主めくり」という、小馬鹿にした感覚を持っている人が多い。(仏教関係者の方、怒らないでくださいね)そう、そもそも多くの日本人はそういう宗教に対してそれほど真剣ではないのだ。そんなことするぐらいなら仕事しろっと考えている。それだけ仕事があり、働く事に美徳があり、おちゃらけながらも懸命に生きる姿を思い浮かべる。野暮ったいがどこか美しい。そして最後の決め台詞がこれです。「お天道様が見てるから悪いことなんてできねえ」これが日本人の倫理観なのだ。

もちろん、そうした庶民の野暮ったい感覚だけではない。文化的な情緒というものもしっかりある。やはり日本独自の文化思想として、江戸時代の本居宣長の考えが有名である。本居宣長は「もののあわれみ」が日本の特徴的な文化であり、その最たるものが紫式部の源氏物語であり、それこそが国風文化であると。古くは古事記や日本書紀にも、そうした文化が垣間見える。私は、その原点は間違いなく日本の自然とそれに関わる人々であると考えている。桜がつぼみをもって、花開いて、いっきに散ってゆく。まさしく時間の流れと「もののあわれみ」を象徴している。日本全体としても、海に囲まれ、四季があり、山々があり、河川がある。豊かな恵みがある。時には台風や地震という厳しい自然がある。しかし、また再び美しくよみがえる。そうしたことを幾年も繰り返し、日本人の心を育んできた。これは一般的な遺伝学だけでは説明できない。そして時代は変わってもこの自然は現在も存在する。そして人々とともに万物に神が宿り、すべてのものを大切にする。そんなことは当たり前のことであると多くの日本人は口にする。しかしそのような感覚をもっている国は世界中探しても極めて少ない。特に四季の無い国に長期滞在すると時間がとまっているように感じることが多い。現在の遺伝学では説明できない日本人特有のDNAがそこに存在する。私にとって遺伝学と優性学というものは血統だけを示すものではなく文化、思想と人々の暮らしという観点を含めて考える方が社会学としても学べるし有意義だと考えています。

次回からその日本人とその生き方や教育についてじっくり論じたい。




遺伝学と優生学Ⅰ
当ブログでは、善悪二元論から超法規的措置、そして今回の遺伝学と優性学まで進んだ。わたくし小室沢直樹にとって重要なテーマです。今回は2回に分けて掲載します。

さて最近の科学技術の進歩は凄まじい。遺伝学や染色体研究も急激に進歩している。ミトコンドリアDNA、Y染色体ハプログループ、ヒトゲノム解析等。人類のルーツも少しずつ解明されつつある。日本人の場合、ミトコンドリアDNAは様々な種類があり、日本人特有のM7a、アジアに多いD、西アジア起源とおもわれるBやF。またY染色体ハプログループでは、日本人は縄文系DNAでもありYap遺伝子ともよばれるD2染色体、弥生系のO2b1、大陸系のO3 などに分類できるという。インターネット上でも様々な情報があるので興味ある方は検索されるとよい。私自身のDNAを調査したことないので、どの分類になるか判らないが、ヒゲも濃いから縄文D2かなあ・・・なんて勝手に想像したりする。だから、それがどうしたのと言われると。どうもしない・・・って回答するしかないのだが。それらの分類がどのように民族性と関連しているかは不明。しかしアスリートに多い遺伝子とか一部は関連性が指摘されている。まあ、すごい時代になったなあと思う。

私は子供のころから進化論や人類の起源に興味があった。特に理由はない。子供だったからただ純粋に興味があったということ。小学校のとき理科室に「猿から人へ」をテーマにした歩く姿の絵があった。原人から現人になるほど真っ直ぐ立って歩いている姿だ。「アウストラロピテクス- 北京原人-ジャワ原人-ネアンデルタール人-クロマニヨン人」誰もが一度は見たことがあると思う。最近の小学校にあるのかよく知りませんが。とにかく私はその絵を見てわくわくしたものだった。でも中学生の頃だったか。学校の教諭がダーウィンの進化論の説明をしたあと、ふと不思議に思った。進化というより、色んなパターンの生命が生まれては淘汰され、また様々なパターンが生まれては淘汰される・・・じゃないのかな。生命が自然に適応して進化したのではなく、適応したタイプの生命が生き残った。それが結果的に進化ではないか?そう何度も環境変化があっても都度突然変異が起こるとも思えないし、陽に当たって日焼けするのは変異ではなく適応だし・・・・まあそんな感覚だけで考えていた自分を思い出す。今思うと驚くべき正論を言っていたわけだが。

あれから10年以上の歳月が流れ、私はとある大手企業(製造業)に就職した。社会人になってからも様々な勉強した。元々は統計学を学ぶためにフィッシャーの理論を勉強した。そのときフィッシャーが統計学だけでなく生物学、優性学の専門でもあることを知った。そして私はあの有名は「実験計画法」を必死になって勉強した。そう20世紀初頭にイギリスのロナルドフィッシャーは優生学として統計学を応用しながら遺伝的な研究も行っていた。フィッシャーの論文『自然選択の遺伝学的理論』では「生物に自然に対する適性を与える突然変異の確率は、今後突然変異の数が増大していくにつれて逆に減少していく」とし、そして「集団数の増大が多様性を生み、それによって生存の機会の数も増大していく」と述べている。その内容は、私にとって大きな衝撃だった。この文献は1930年に発表されていた。何故、私が中学高校のときに教諭は教えてくれなかったのか?その教諭は何も知らなかったのか?あるいは難しい論理だから中高生には無理だと思ったのか真相は不明だ。

ここで歴史的経緯を確認してみよう。18世紀から19世紀にかけてイギリスでは、産業革命とともに様々な学問が盛んだった。特に生物学では、食物連鎖や弱肉強食についてはよく議論されていた。私が中学高校の頃は、この弱肉強食の思想こそがヨーロッパの植民地政策を正当化したと教わった。たしかにそうした側面はあったであろう。しかし弱肉強食は自然界のバランスを図るもので、根本的に植民地政策や奴隷制度とは理論が異なる。

では何を根拠に植民地政策や奴隷制度を正当化したか?それが人種差別主義と優性学だ。ただ人種差別主義だけでは人々の理解は得られない。そこで優性学が利用されたわけである。そもそも、ヨーロッパでは血友病をはじめ様々な遺伝病が知られていた。その後イギリスのチャールズダーウィンの進化論があり、それに触発されたフランシスゴルトンはこの優性学を提唱した。要するに彼らの主張はこうだ「人間の優劣はすべて遺伝が由来している。」「劣性な遺伝子は優性な遺伝子に淘汰されなければならない」「従って社会正義のため劣性な遺伝子を持つ人種は根絶しなければならない」まさしくこれも善悪二元論そのものである。これを根拠に欧州では長らく人種差別が肯定される。もともと無教養なヨーロッパの庶民も、潜在的に心にある遺伝病への偏見、さらには異民族に対する偏見がこれを助長させることになった。欧米諸国は競って植民地政策と奴隷制を推進した。南米では、現地の女性が欧州人に強姦され、男は腕を切り落とされるということが当たり前になった。現在でも南米の人達のY染色体のほとんどが欧州系である。困ったことに野蛮な行為をしていた欧州人は現地人こそ野蛮人だと考えていた。欧州人、そして中国、韓国人にも言えることだが、自分たちの過去の残虐性に目を背け「日本人はもっと残虐で野蛮人のはずだ」という意味不明の解釈をすることが多い。まあこれもただの願望主義(思い込み)と善悪二元論の典型なのかもしれない。

その後、1905年に日露戦争で日本が勝利し、多くの非白人国家、あるいは帝国主義に翻弄される人々も歓びと困惑があったされる。それから、ようやく人種差別や民族差別が解消される動きもはじまった。特に第一次大戦後に大日本帝国が国際連盟で人種差別撤廃法を提唱した。当初イギリス本国はこれに前向きであった。しかし英国連邦諸国の反対、そしてアメリカから強硬な反対で却下された。2回目の提唱時にフランス、イタリア等の賛同を得て過半数を得たがアメリカのウィルソンが全会一致に拘り再び却下されたことは有名なエピソードである。やはり当時としては、まだ人種差別思想はなかなか解消できなかった。それどころかイギリスで始まったこの優性学と人種差別思想が、その後のナチスドイツ、そしてアメリカで更に曲解されることになる。その当時、人種差別の最先端だったのが、イギリスではなくナチスドイツとアメリカだったのである。終戦時に日本がポツダム宣言を受諾する際の最大の条件は「日本人を奴隷にしない」というものだった。(ちなみに無条件降伏は帝国陸海軍が対象。)そりゃ、二つの原爆落とされ、東京や大阪を大空襲した極悪非道なアメリカの奴隷にされることを恐れたのは当然だ。そして完全に植民地主義と奴隷制が解消されたのは第二次世界大戦後であり、ごく最近のことである。

さてインターネットが普及して、私は改めてインターネットWikipedia 「優生学」の記事を熟読した。あまりの衝撃的な内容で私は暫く考え込んでしまった。今回の私のブログ内容もそこから多くを引用している。是非、このブログを読んで頂いている皆さんにも、Wikipedia 「優生学」をじっくり目を通して頂けると良いでしょう。Wikipediaにしては長文ですがすぐに読み終わります。各文献を一つずつ読むより、これを読むほうが概要が掴めます。

私にとって優性学とは社会学を考える上で切っても切れない学問領域になってしまった。かつて優生学はずっとタブー視されていた。学校でも教えない。しかし歴史、社会で学ぶ上で重要なキーワードとなる。そう、今まで理解できなかった歴史的事実も優性学の歴史とともに理解することができるからだ。例えば、何故ヒトラーはホロコーストを実施したのか? 何故アメリカは黒人奴隷制が肯定できたのか?何故そこまでヨーロッパ人は南米、アジア、アフリカ人に残虐だったのか?そして、何故キリスト教徒なのにそうした行為が許されたのか?そもそも優生学の一つの目的は「白人至上主義の根拠」を探すような学問でもあった。例えば、現在も良く知られるノーベル賞や近代オリンピックもそうである。特に第一回ノーベル賞の最有力候補が日本の北里柴三郎であったが「東洋人にはまだ早い」という理由で落選したのは有名なエピソードだ。これらは当初は、白人が優秀であることを証明するための「実験」だったと言われている。白人は有色人種より優秀なはずだという願望主義(思い込み)の表れなのだ。同じくイギリスの統計学者であり優性学者のカールピアソンまでもが「劣等民族との戦い・・・」ということを口にしていたという。

しかしロナルドフィッシャーは逸早く、それが間違っているということに気付いていたと私は考えている。彼は非常に気難しい人であったといわれる。しかし統計データに対して常に偏見のない結論を見出そうとしている。そうでなければあのような論文、そしてあの実験計画法は生まれない。私がロナルドフィッシャーを尊敬する最大の理由はそこだ。彼の理論は現代社会に大きく貢献している。現在の私の仕事にもだ。彼が人種差別主義であったかどうかは解らない。がしかし統計データに対しては偏見のない解釈をしていた。(但し、カールピアソンとは不必要な対立をしていたが・・・)本来の統計学は、データに対して偏見や先入観を持たず客観的な見方をすることが重要である。そして、ただ数字のお遊びをするのではなく、必ず技術的考察を加えること、その背景を考察することが統計学の鉄則である。それをフィッシャーは教えてくれる。いや、どんな自然科学や歴史学だって同じことが言える。それができなければ、真の学問の発展にはならない。ただ単純な趣味の世界、あるいはファンタジーの世界になるだけである。そのファンタジーの典型が優性学を利用した白人至上主義であったという訳だ。

むろん私は優性学に関して、何らかの遺伝的要因は否定していない。例えば、色盲、色弱、糖尿病などは遺伝的要素があると言われている。おそらくこれらは間違っていない。また学問が優秀な家系があるのも事実だし、スポーツにたけた家系があるのも事実だ。それらは家庭環境の影響も大きいがそれだけで説明できない。遺伝的要素、つまり優性学の見地もある程度必要だ。確かに欧州人に優れた才能を持つ人が多いのは私も認めている。学問、芸術もすばらしい。先に述べた英国ケンブリッジ系の学者たちはもちろん、フランスのルノアールの絵画やオーストリアのモーツアルトの音楽は私個人的にも愛好しており、その才能には敬服するばかりである。(ただし何をもって優秀であり、何をもって劣性なのかという議論は価値観の問題なので注意が必要である。)もちろん、こうした欧州人の才能は遺伝的要素も存在するかもしれない。ただしそれは遺伝的要素だけでなくヨーロッパ社会と自然環境がそれを生んだと私は考える。それは日本も同様の事が言えると私は考える。

さて次回は「遺伝学と優性学Ⅱ」として日本について考えてみる。

  


超法規的措置とは
前回の記事では「善悪二元論」について深く論じた。今回は、それに関連する「超法規的措置」について論じたい。随分前の話だが、日本でハイジャック事件が発生し、犯人の要求に応じて政府はテロリストを釈放した。というの出来事があった。その時の名言(迷言?)「人の命は地球より重い」・・・・うーんこれにコメントする気はない。この対応は国際社会の非難を浴びた「テロリストを輸出するのか」と、実際に釈放されたテロリストは海外で犯罪を犯している。事前にそんなことも予測できない当時の政府の間抜けさは後世にも伝えられる。しかし、当時の日本社会はこの判断に対し理解を示していた。そう日本人特有の「やさしさ」と「国際感覚の無さ」です。実際に政府というのは世論の影響を受けやすい。当時はそういう空気だったのである。つい最近の総選挙でも「強く国ではなく、やさしい国」というスローガンにした政党があったが、それに同調する国民もいまだに多い。最近では「超法規的措置」という言葉を使うと非難を浴びるので、意図的?に「人道的見地から」というコメントに置き換えらている。それは日本の国内政治にはある程度許せる言葉だが、国際社会では通じない。私はあえて「超法規的措置」という表現を使用し、もっと広い意味で考えてみる。

果たして、超法規的措置はどういった時に可能なのだろうか?かつて小室直樹氏はロッキード事件の際に「総理大臣は賄賂を貰ってもよい、人を殺しても良い。」「それで社会が幸せになるならよい」「一般の小市民と総理大臣は違う」と述べた。当然、周りは彼を変人扱いした。小室直樹氏の意見を尊重すると、政治のトップは司法判断にすべて支配されるわけではない。と解釈することができる。ある意味で三権分立を正しく解釈しているともいえる。

例えば一票の格差の問題は「法の下の平等」ではなく「国家、または社会の安定」が優先されるという判断。このような政治判断をするのは大いにアリであろう。それと自衛隊を持つこと。これも違憲かもしれないが政治判断として正しい。しかし、そうした政治的判断が乱用されることを司法によって制限されるのも当然のこと。本来、政治判断としての超法規的措置とはその程度にすべきところであろう。

さて、近現代史において最大の超法規的措置とは何だろうか?私は躊躇せずこう答えます。1945年8月のアメリカによる広島・長崎の原爆投下だ。これはいまだに国家犯罪とし認定されていない。つまり超法規的措置だったということだ。当時、非戦闘員(一般市民)への無差別殺傷は国際法違反であった。逆に一般的な兵士は敵兵を殺す、あるいは敵から殺されるというのが兵士としての任務であり、それは許されるものであった。そこでアメリカとしても、どうしても原爆投下について超法規的措置として正当化させる必要があった。そのいくつかを挙げる。

①日本がハワイ真珠湾を打ち騙し打ちした(1941年12月8日)

これは説得力は弱い。確かにイメージは悪いが、先制攻撃というのはよくある事であった。また日本軍は真珠湾の米軍の軍艦や軍施設を攻撃対象としており、ハワイの一般人は攻撃していない。また宣戦布告の通知が遅れたのは日本の外務省(駐米職員)の手続きミスが原因であり、日本政府としてはそれを意図していなかった。加えて言えばアメリカも事前にこの攻撃情報について把握していたという。つまり真珠湾の太平洋艦隊を見殺しにしたのである。これをもって原爆投下は肯定できない。

②戦争を終わらせるために仕方がなかった。

これも全く説得力ない。これではすべての戦争で終結間際に原爆使用か認められるということになる。もっとも1945年5月ナチスドイツが降伏した時点で日本の敗戦は決定的だった。その後、3ヶ月間もずるずる引き延ばした日本政府にも大いに問題があるが。「本土決戦」なんてのを本気で考える軍の中枢はいなかった。当時、米内海相はもちろんであるが、阿南陸相ですら無理であることはよくわかっていた。

③南京大虐殺があったから

これが最も無茶苦茶な話だ。極東軍事裁判でアメリカは自国の正当性をアピールするために捏造されたものだ。特に20万人という数字が重要なポイントで広島・長崎の計19万人の犠牲者より多くなければならなかった。当時、南京に滞在した日本人、中国人、その他外国人はこの話が虚構であることを皆知っている。名古屋の河村市長の父親もその一人である。その他の多くの知識人も虚構であることを知っている。何故なら、当時の南京の人口、証言者の話、物証、日本軍の装備、どれをとっても根拠が薄いからだ。南京の記念館にある写真も、実は関連性のない写真であることが研究によって明らかにされつつある。特に残忍な写真については、通州事件や共産ゲリラに関する資料が転用されているという。STAP細胞の文献流用どころの話ではない。この件について疑われる方は、ネット上でも色々出ているのでそれを参照してください。いずれにしても南京大虐殺が捏造と全世界に知られることは中国というよりアメリカが困るのである。あの河村市長の発言を非難した名古屋市議の共産党員はアメリカのコミンテルンの手先か?なんて思ってしまう。

④アメリカは冷戦を見据えてソ連に対し有利になりたかった。

そんなこと日本や諸外国は知ったこっちゃない。アメリカの政治的都合だけで原爆投下が正当化されるわけない。確かにアメリカとしてはそのような理由は多少あったかもしれないが、でもそんな理由が超法規的措置につなげるのはあまりにも無理がある。最も残念なのは、現在もこの説が一般化していること。私も中学高校の教諭から教わった内容もこれであった。そんなアメリカの政治的立場のみ学校で説明するとは?あのときの教諭は国際法を何だとおもっているのだろうか?また超法規的措置とは何だと思っているのか?どこまで日本の教育は腐っているのだろうと今更ながらに呆れてしまう。

最近では、当時の福岡で作製された「ふうせん爆弾」がアメリカの原爆投下を決意させたとの日本のTV番組(NHKだったか?)を見たことがあった。アメリカは現在でも何とか原爆投下を正当化させようと必死だ。いずれにせよアメリカの原爆投下は全く正当性がなく、超法規的措置としても説得力は皆無である。最近でもアメリカの報道官はこの話が議論になると、いきなり歯切れが悪くなる。そう、この原爆投下という超法規的措置がアメリカに認められるのであれば、日本も含め世界中の国がアメリカに対して核攻撃しても正当化されるということになる。はたしてアメリカは反論できるのか?攻撃した国は「超法規的措置」といえばよい。あとは「どこかでアメリカのせいで一般市民が大勢死んでいる」と事実と虚構を織り合わせて物語を作り上げればいいまで。アメリカにとってみれば、おもいっきりブーメランです。もちろん日本が今更「復讐だ」「十倍返しだあ」なんてことでアメリカを核攻撃することは決してありえない。しかし、イランや北朝鮮はわからない。特に反米テロ組織は何するかわからない。そう、だからアメリカは、イラン、北朝鮮、そして反米テロリストの核武装を最も恐れているのだ。

ではどうすればいいか?わたくし小室沢の案だが、とりあえずアメリカは原爆投下について日本に正式に謝罪することだ。もちろん、日本側から今さら謝罪や賠償を求めることは意味がないし、サンフランシスコ講和条約で請求権も放棄している。従軍慰安婦問題のような低レベルの話ではない。それは超法規的措置というものがどれだけ国際的に影響を及ぼすか?それを明確にするためだ。そして核攻撃による一般市民の虐殺は絶対に許されないということを国際的にも共有すべきだからだ。

さて本題に戻り、ここで大きな疑問と問題点がある。何故そこまでしてアメリカは超法規的措置に踏み切った本質とは何なのかということ。普通に考えれば、先ほど述べたように正当化させる理由は全くない。

ここで歴史を考えてみよう。歴史上、この「非戦闘員を虐殺しない」という考えは国際法が成立する以前から存在した。日本でも戦国時代は武士たちは領民を守るためであり、決して領民を虐殺するものではなかった。仮にそのような行為に出た場合、民の信頼は得られない。上杉謙信をはじめ多くの武将は常に「義」を重んじた。欧州でも同様の思想があった。いわゆる騎士道というものだ。そして欧州でも日本でも、領民にとって領主がころころ変わる存在であった。しかし、中国やロシアは違った。特に敵方市民を虐殺することも兵士としては名誉とされた。特に中国では一族、領民を皆殺し、あるいは追放するといったことが多かったという。このあたりが民族の社会感の違いであろう。

ここで欧州と白人についてもっと考えてみる。先の述べたように欧州では騎士道がある。領民をむやみに虐殺することは少なかった。もちろんキリスト教の影響も大きかった。しかし例外がある。それは中世では「魔女狩り」そして近世では「植民地における有色人種に対する行為」だ。魔女狩りでは「魔女は人間ではない」という考えである。だから殺しても良い。そして、植民地時代も白人たちは有色人種を「人間」とは見ていなかった。要するに「非戦闘員は虐殺しない」という論理は人間が対象であり人間とみなさない魔女や有色人種は対象外ということだ。以降、魔女狩りについてはここでは詳しく述べないが、有色人種への差別について焦点をあてる。

まず、それらを正当化させるために大義名分が必要なのである。一応キリスト教の国だから理由なき殺害を許されない。この「一応キリスト教だから」が重要なポイントです。とにかく何か正当化する理由が絶対に必要になるのです。そこで人種差別を正当化するために利用したのが「遺伝学」と「優性学」である。

ナチスドイツはアーリア人を最も優秀な民族としその純血を守ることを是とした。有色人の国である日本との軍事同盟の際には、「アイヌはコーカソイド(白人)であり日本人はその子孫。だから日本人は有色人でも対象外だ」今から考えれば目茶苦茶な論理であった。とにかく何でもこじつけてなければ、正当性を失うのだ。そして、実はアメリカもこの「優性学」を根拠にした人種差別の考え方が根強く存在した。ナチスドイツの日本に対する考えと異なり、アメリカは敵対する日本に対して間違いなく人種偏見を持っていたということだ。日系アメリカ人の強制収容が何よりの代表的な事例である。(後にアメリカ政府はこのことを公式に謝罪している)つまりだ、現アメリカ政権は絶対に否定するだろうが、「原爆投下は人種偏見をもとに実施された」そう考えれば、すべて辻褄が合う。結局、ナチスもアメリカも同じだってわけだ。

それでは、その超法規的処置を正当化するために利用された遺伝学と優性学について次回で深く論じましょう。





善悪二元論
善悪二元論というものがある。最近よくネット上でも議論される機会が増えた。簡単な例でいえば「仮面ライダーは正義の味方、ショッカーは地獄の軍団」(ちょっと古い)「アンパンマンは正義の味方、バイキンマンは悪い奴」といった感じ。でもバイキンマンってちょっと可哀そう。・・・子供でもそうした矛盾に気づくものである。

よく非難されるのが、悪と判断されたものが「何の法的根拠もなく、関連するすべて否定してしまえ・・」という議論。ここであえて「法的根拠」という前提を付けた。例えば「飲酒は二十歳から」これはれっきとした法律だ。国民の健康を考えての規制だが、実際は19歳でもアルコールに健康上対応できる人はいるだろうし、逆に21歳で全くアルコールを受け付けない人もいるだろう。しかしどこかで線引きしなければならない。19歳の飲酒は違法、21歳の飲酒は合法。それが法律というものであり、一般的には正当性がある。従って、一般的な法的対応と善悪二元論とは別次元の問題とするべきだ。

実際に法的根拠なく善悪二元論で議論されることは多い。テレビを見ていると一部の政治家やマスコミも単純な善悪二元論にしたがる。おそらく「解りやすいことが一番重要だ」と思っているのでしょう。小泉元総理の「郵政民営化 賛成か反対か」・・・これも典型的な例です。おそらく「解りやすく」という一種の「やさしさ」を持ちながら結果的に庶民を愚弄する・・・・しかも無意識のうちに。実は「解りやすい」なんてのは本質的な問題ではない。難しい問題はやはり難しいものだ。解りやすく説明したつもりのマスコミは逆に大いなる誤解を発生させ、挙句の果てに「マスゴミは悪である」というネット上での善悪論に陥ってしまう。

ただこの問題はそのような単純な問題だけでなく、もっと根深い問題があるように思えてならない。私はこの問題に関して、少し違ったアプローチで論じたい。

では、いくつかの具体的な例(エピソード)を挙げて考えます。皆さん一緒に考えてみてください。あくまでたとえ話ですので・・・・エピソード自体に突っ込み入れないでくださいね。

エピソード1.鋼材の熱処理品質に対応する品質管理者がいる。

彼は工場で大量生産される鉄製の熱処理されたボルトの品質責任者である。あるとき生産ロット100000個の中に1個重大な不具合品が混入していることが判明した。しかし内部硬度の問題で、外観では解らない。また非破壊試験は不可能。つまり全数検査での選別が不可能である。従って、彼は不具合品流出防止として対象ロット100000個を全数廃棄処分することを決定した。このボルトは非常に重要な構造物に使用されており、この対応によって構造物の事故を未然に防ぎ人命を守った。この判断は重要部品を製造する会社の品質担当としては当然のことである。

エピソード2.大病院に勤務する新人の若い医師がいた。

彼は胃がんの手術を初めて担当することになった。がん細胞はわずかに1mm2未満の面積であった。通常、経験があり技術がある医師であれば、その部分のみ(あるいは胃の1/4以下)を切除することで完治させるのは可能であった。しかし、未だ彼にはそれだけの技量がなく、がん細胞の転移するのをおそれて胃の全摘することとなった。そうした理由は決して患者に伝えることはなかった。ただ手術に対するリスク説明文にサインをさせることに懸命になった。その結果、彼は患者とその家族からクレームを受けることもなく、がん再発(転移)しない手術であったため院長からも高い評価を得た。しかし、その後10年たっても20年たっても彼は本当の意味での名医になることはなかった。

エピソード3.ある国で原子力発電所から放射性物質が広範囲に広がった。

政府の責任者は、安全のために対象区域の住民を全員避難させた。しかし安全基準の科学的根拠は明確ではない。実際には過剰な安全基準の可能性もあるわけだが、ルールはルールなので政府も従うしかなかった。科学者たちも正式に異を唱える者は少ない。科学者としても明確な根拠を持っていないのだから仕方がない。そして避難は長期におよび仮設住宅にてストレスで3000人以上がなくなったとされた。しかし、すべてが関連死かどうかは確定できない。政府としては関連死が今後10000人を超える可能性があるとの一部の専門家の意見をとりいれ現行の安全基準を見直して避難勧告をすべて解除した。あとは個人の判断に委ねられた。当然、世論からは「政府は無責任、個人の判断だなんて」との意見で沸きかえった。その後、50年経過しこの区域で生活する住民に何ら放射能に関する健康被害は確認されず、他の地域と比べてむしろ長寿な地域となった。その後、科学者たちは研究を重ね、重要な科学的事実を発見し、それが後の科学技術、および医療に大きく貢献することとなった。

エピソード4.ある紛争地域に外国の優秀な将校がいた。

紛争地帯は非常に混沌としており、常に軍の居留地とその家族は危険にさらされていた。国際法上、非武装の一般市民を軍が攻撃することは許されない。しかし一般人にまぎれた義勇兵(ゲリラ)が多く潜んでいた。それらを簡単に見分けることはできなかった。あるとき、軍の居留地住民がゲリラに虐殺されたりレイプされることが多発した。将校は躊躇せず、ゲリラを含む住民を皆殺しにした。その対応により軍の居留地の残った家族を危険から守った。しかし、その後に作成された歴史書では将校は極悪非道の人物として描かれることになる。

エピソード5.ある国に極悪非道と呼ばれた王がいた。

その国では呪いの文化を持つ宗教、そして敵対する相手を1000年恨み続ける民族であった。血で血を洗う内紛が続いて国は大いに荒れた。困った王は考えた。先ず、自分に敵対する相手の九族皆殺し、ならびに影響受けた関係者を皆殺しにした。そして国を安定させるため、この宗教を信じる者も皆殺しにした。根こそぎ絶滅すれば悲劇は繰り返さない。そうした王なりの正義感があり、それを実行するのは王しかできないと考えた。その後、国は一時的には安定した。しかしその後、クーデターがあり王とその一族が九族皆殺しの犠牲となった。そして1000年にわたり同じことが繰り返され、他国から呪われた国と呼ばれた。

エピソード6.ある国に救世主(メシア)が現れた。

とある宗教団体の教祖が声を上げた。我こそは救世主である。世界の宗教は統一されなければならない。そうでなければ永遠に争いはなくならない。我らこそ選ばれし民である。悪は完全に滅亡させなければならない。悪を滅亡させるためにはどんな手段でも許される。そう「悪の心と財を支配すれば、われらの夢が必ず叶う」 最後にこの言葉で締めくくろう。「信じるものは救われる。信じないものはすべて地獄へ堕ちる。」

ここで解説

全数廃棄、全摘、全員避難、皆殺し、九族皆殺し、完全滅亡、すべて地獄へ・・・・これらに共通するのが「すべて・・・・する」という発想である。たとえ話(私のフィクション)にしてはリアリティありすぎたか・・・何らかの事実を思い浮かべる方もおられるでしょう。ハーバード大学のサンデル教授ですら、そこまで「究極な選択」の議論はしないでしょう。それがネット議論のいいところです。正義とは何か?ここから重要な解説です。

上記6つのエピソードの論点は以下のポイントである。
1.製品の全数保証はどうあるべきか?(製品品質確保と良品廃棄の善悪)
2.専門家(医者も含む)の能力向上させるには?(確実な医療行為と技能向上の善悪) 
3.人間に役に立つ科学技術進歩はどうあるべきか?(科学技術発展と住民犠牲の善悪)
4.紛争地での安全保障とは何か?(生命を守る行為と危険集団への粛清の善悪) 
5.争いを完全に無くす方法とその犠牲は払うか? (将来の安定と現在の犠牲の善悪)
6.宗教とどう向き合うか?(一神教の維持と悪の抹殺の善悪)

エピソード1以外はすべて人間に関わることである。その本当の意味での善悪判定は難しいであろう。また個人というミクロの次元と社会というマクロの次元では都度対応が大きく異なる。特にマクロ社会の観点では、何らかの犠牲の上に成り立っていることが多い、それは歴史からも学べる。社会学の観点から法律とは別の善悪二元論が使用されるケースもある。代表的なのが宗教である。フランスの思想家トクビルはあの有名な「多数派の専制」というのがあるが、以下の名言に注目する。「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」これは社会学として考えさせれる名言だ。

ここでトクビルの言葉を思い出して、もう少し純粋な視点で考えてみよう。よく考えたら、私だって自分の哲学や道徳心で善悪を考えることはある。いや私だけでない、誰だってそうだ。例えば、大人が子供に教えること「人に迷惑掛けてはいけません」「嘘をついてはいけません」「ちゃんと列を乱さず並びましょう」・・・これって法律でも何でもない、トクビルがいうように「道徳」による善悪の判断だ。そうした「道徳」や「信仰心」によって人間の行動が支配され安定した社会が実現する場合が数多くある。

ところが、やっかいなことにこの「道徳」や「信仰心」というものは国や民族によって異なるのだ。だから国際関係で揉めたときは泣こうが喚こうが国際法に従うしかない。つまり「お前の道徳は間違えている」「いや俺の道徳は正しい」なんて国際的に議論したら収拾つかない。国際的に人権問題を議論することがあるが、正しい答えなんて出るはずがない。国によって「道徳」や「信仰心」が違うのだから。例えば、捕鯨が残酷か残酷じゃないかなんて国際的な共通な道徳にすべきではない。結局は法的規制はできず、ただの声明、あるいはスローガンに終わる。仮に、国際的に「道徳」や「信仰心」をグローバル統一しようとすれば、まさしく上記エピソード6の内容になってしまいます。

日本国内ではある程度は「道徳」や「信仰心」を日本人同士で共有することは可能である。まあ時折、「宗教の自由」を持ち出して揉める事例もある。例えば、政治家が神社に公式参拝するのは・・・・とか。町内会の神社仏閣祭りに参加しない人が増えるとか。それでも多くの日本人は基本的な道徳は失っていない。ただ、生活スタイルがこの60年で随分変わったから、特に村の長老は戸惑っているにすぎない。確かに一昔前の日本だと、地域共同しなければ生きていけなかった。井戸も共有したり、薪を分け合ったり。しかし現在では、ほぼ全世帯にガス、水道、電気が普及しており、スーパーや24時間コンビニもある。地域共同体をわざわざ作らなくても十分生きて行ける。また結婚しなくても独身でも生きていける(これが少子化の一つの大きな要因)。むしろ煩わしい町内会活動がなくて喜んでいる若い世帯も多い。すでに今の日本社会では社会安定のためと言って、町内会活動を推進(統制)することはあまり意味がない。もちろん、こういう状況を危惧している高齢者は依然として多い。しかし東日本大震災の被災者を見ても日本人の助け合いの精神は決して失われていない。やはり、大多数の日本国民は基本的な規律やモラルを持っている。災害時の犯罪率の低さ、ゴミの分別、さらに屋外の自動販売機の設置が可能なこと・・・きりがない。そういう意味でも日本は大量移民を受入れることには慎重になるべき。しかしすべて拒否したら、それこそ善悪二元論になってします。

しかし、そういう強力な共同体が必要な国はまだまだある。例えば、貧困に悩む国、犯罪の多い国、自然環境の厳しい国・・・・やはり何かを拠り所にして共同体を作らなければ生きていけない。おそらくそうした国が、強力な宗教国家や共産国家となって統制国家となり社会を強引に安定にさせる・・・と考えるほうが適切だろう。そうなってくると、一般論として何が善で何が悪なんて誰も解らなくなる。日本や欧米諸国の価値観だけで、中国を含め発展途上国の人権なり非民主性を論じることは限界がある。

つまり「善悪二元論」とは、その「社会の安定」という最終目的のための一つの手段だということだ。そして、ここで大きな問題点が浮かび上がる。その「社会の安定」のために許される「超法規的措置」とはどうあるべきか?この議論については次回にじっくり論じます。

従軍慰安婦問題と現代社会
従軍慰安婦問題について、いつまでも議論が続いている。正直言って「もううんざりだ」。70年も前のことです。はっきりいって異常だ。私の認識はこうだ。日韓基本条約にて「相互に請求権放棄」「完全かつ最終的に解決」その通りである。韓国側、および日本の人権派弁護士が主張する慰安婦問題は条約の「対象外」との認識だが、その後の日本、韓国、アメリカ、フィリピンでの司法判断で原告側すべて敗訴確定している。何故かこの各国の司法判断に関してあまり報じられていないが不思議だ。ちなみにアメリカ立法府の非難決議は法的拘束力はなく連邦司法確定判決が優先される。

当時、個別案件として確かに不幸な出来事はあったかもしれない。しかし最も重要なことは、そうした経験が現代に生かされているか?ということだ。現在も同様の問題があるなら議論の余地はある。しかし、どう考えても現代社会は当時と比べて格段に改善されている。

子曰、過而不改、是謂過矣。(子曰く、過ちて改めざる、是を過ちと謂う。)

<要約>人はだれでも過ちを犯すが、過ちを犯したことに気づきながらも、それを改めようとしない、これこそが本当の過ちである。

さて現代社会を見てみよう。日本は戦後より一貫として平和を維持し、経済発展した。1945年以降、一切武力行動をおこしていない。そして女性の人権も格段に向上した。例えば強姦事件は、韓国、アメリカと比べても日本は極めて低い。また風俗に従事する女性も日本は諸外国と比べて極めて低い。これらのデータはネット等でも簡単に検索できるので確認すればわかること。それらは日本人の努力、そして政府の努力があってこそだ。もちろん国際貢献もしている。日韓基本条約に基づき経済支援も行われた。他の国に対しても同様だ。現代日本は大いに評価に値する。現代社会に結果を出すことが何より重要だ。もちろん問題が全くないわけではない。それでも問題解決へ向けて改善努力する姿勢を持っている。過去の反省とはそういうものだ。

私もエンジニアとして製品品質管理をしていた頃、問題が発生したら早急に改善する。顧客は問題が発生したとしても、その後の対応が良く、再発しないのであれば評価いただける。そう失敗しても改める。それが何より重要だ。私の顧客で遠い過去の問題で現在とは関係のない案件で追求されることは一切ない。だって今現在、我々は生きているし、最も重要なのは今と未来だ。逆に何度も何度も同じ問題を繰り返すことは、終には顧客の信頼を失い以降は取引中止になってしまいます。それが大人の社会というものです。

それなのに70年も前の戦時中の事、しかも20万人? とか軍の強制連行? とか全く根拠に乏しい内容を理由に現代の日本と現代の日本人が追求されるのは理解できない。
もし国際条約や司法判断に準じることができないというのであれば。今後、一切国際的な付き合いはできない・・・そういう世論になって一番困るのは一体誰なのか?私は以前「私の新脱亜論」でも論じた。もっと現代社会に目を向けることが何より重要だ。



テーマ:歴史捏造「従軍慰安婦」 - ジャンル:政治・経済

嫌韓デモとヘイトスピーチ
ここ2年くらいの間に嫌韓、ヘイトスピーチというのが話題になっている。有名なところでは在特会(在日特権を許さない市民の会)の活動が挙げられる。実際には在特会以外の団体も行動しているが在特会の活動が目立っているようである。在日朝鮮人、韓国人が多く住む東京の新大久保や大阪の鶴橋でデモを行うことがあり、それに対してカウンターする団体もある。私は直接目にしたことはない。まあ田舎に住んでいるから当然かもしれない。しかしニコニコ動画やYou Tubeで何度か見たことがある。当初は大手マスコミやテレビでは取り上げられなかったが、最近では「ヘイトスピーチは許せない」という主張を中心にテレビでも伝えられることが多い。実際にニコニコ動画等で状況を見ると、確かに品のない表現はある。しかしカウンター側もそれに負けない品の無さを感じる。まあ在特会は確かに品のない表現かもしれない。しかし色々確認すると在特会は事前にしっかり許可をとってデモをしており、合法的に活動をしている。カウンター団体との小競り合いで逮捕された会員もいるが、その逮捕理由もデモ自体の問題ではない。デモの内容も、個人を誹謗中傷する内容なら侮辱罪に値するそうだが「韓国が・・・」とか「朝鮮人があ・・・」という漠然とした内容だと侮辱罪には値しないとのこと。しかも彼らは民間団体であり政府とはなんら関係がない。日本政府の支援など受けていない。日本政府自体も彼らに否定的なコメントを出している。また中国の反日デモのように破壊活動はしていない。また韓国反日デモのよう首相や国家元首の写真に侮辱するような行為を在特会は一切していない。国家をあげて嫌韓しているわけではない。しかし反対側は人種差別だと主張する。そして日本政府へも非難している。
最近のインターネットのブログでも嫌韓をテーマにする記事のアクセス数は多い。また週刊誌等も嫌韓をテーマにすると良く売れているとのこと。あの三橋貴明氏の「愚韓論」もとても売れているという。要するに嫌韓に興味を示す人々、またはそれに同調する日本人が増えていることを示している。一部の評論家は「低所得者層の憂さ晴らしだ」という意見があった。しかし在特会のメンバーは自営業者が多く、決して低所得者層でもなさそうだ。また私は大手グローバル企業に勤務しているが、本音として嫌韓である社員は結構多い。なぜならビジネス上で多かれ少なかれ嫌な思いをした経験を持つ社員が多いからだ。それは韓国人だからという理由ではなく韓国関係でトラブルが絶えないという理由だ。一方、日本の高齢者を中心のテレビしか見ない人達は「とにかくヘイトスピーチは良くない」と思っている人が多いようだ。逆に若い世代は(特に男性)のテレビ離れは著しく、心の中では在特会に同調する人も多いという。こういう嫌韓が日本の多数派になることは時間の問題だ。ではどうすれば解決するか。ヘイトスピーチを規制する法律を作る??もし嫌韓デモが規制されれば左翼勢力行う反米デモも規制されることになる。言論の自由の観点からも現在の日本でこれを規制する法律を制定するのは極めて困難であろう。著述家の古谷経衡さんによると、そもそもカウンター側はヘイトスピーチが問題ではなく嫌韓自体が気に入らない・・・という意見である。それは何となく理解できる。そうであるなら仮にヘイトスピーチを規制できたとしても対立はおさまらない。ではどうすればよいか。
私はこう考えます。在日問題自体を改善する。また日韓関係を大幅に見直す。そうでなければこのようなデモは無くならない。それが私の見解だ。日韓関係については以前私が述べたブログ「私の新脱亜論」を参照頂きたい。在日問題に関しては、先ず日本国内での在日の犯罪率の高さを改めない限り日本人の信頼は得られない。それは当然のことだ。もちろんすべての在日が犯罪者だとは言わない。しかし犯罪率が高いということは事実であり、何らかの非難の対象になる。あるいは規制の対象になる。それはどこの国でも同じだ。例えば、日本人の査証(ビザ)は簡単。しかし中国人の査証(ビザ)は難しい。そういうことはよくある。また日本の自動車保険は20歳代は高くて35歳以上は安い。それも事実だ。はたしてそれは差別だろうか?ある統計データを元に規制をかける、または法律を作る。それはその国の安全と安心を守る上で重要なことだ。どこかで法的に線引きしなければならないのは残念だと思うが、法律とはそういうものだ。そして、これは当然の主権国家としての権利である。したがって犯罪率や様々な問題が多い特定の民族に対して規制を設けるのは主権国家として当然の権利であり、それが十分に規制されていないから在特会をはじめ多くの団体が韓国に対しても、日本政府に対しても抗議しているというの本質だと思っている。そうした犯罪率の高さに目を背け、ただ差別だあ・・・差別だあ・・・と繰り返し訴える。そして益々日本人の反発は増幅するという悪循環だ。もしこの問題が本当の人種差別(肌の色、目の色、髪の色、あるいは宗教の違い)であれば問題は複雑であり解決は難しい。しかし私は断言する。これは人種差別ではない。在日問題と日韓の外交問題が解決すれば解決できる問題である。そうすればあのような嫌韓デモは発生しない。

ウクライナ情勢と北方領土問題
ウクライナ情勢が活発だ。クリミア自治共和国は住民投票の末に独立を宣言。ロシアは承認し、アメリカは経済制裁を発令。アメリカをはじめ、日本の多くのマスメディアは住民投票は国際法違反で容認できないという。でも、よく考えたらウクライナ政府クーデターが事の発端であり、ウクライナの暫定政権も国際法上の正当性はない。つまり国際法上で正当性のないもの同士の論争であり、アメリカとロシアそれぞれの思惑で情勢が動いているのが実態だ。日本としてはアメリカに全面的に同調するのではなく「静観」するのが得策だ。別に私はロシアの肩を持つわけではないが、ロシアにとってクリミア半島は軍事上、絶対に譲れない一線である。

さて、北方領土問題に目を向けよう。どの国にも譲れない一線というものがある。ロシアにとって北方領土は絶対に譲れない一線だろうか。少なくとも北方領土はクリミア半島とは違う。樺太とも違い大した資源もとれない。軍事的な重要な拠点でもない。私は、今こそ北方領土問題を解決させるチャンスと見ている。
日本は従来より国後、択捉、歯舞、色丹の4島は日本に帰属する。これはずっと変わらない主張である。ただ日本共産党だけはサンフランシスコ講和条約を全否定し千島列島すべてが日本領と主張する。この日本共産党の意見は個人的に「わからないでもない」が、現実的にこれで解決することは不可能だ。またロシアは、歯舞、色丹に関しては返還する意思をすでに示しているが4島返還には反対の姿勢は変わらない。
もちろん日本は日本の主張を貫き通すというのも一つの考え方かもしれないが、実は日本の主張には少し無理がある。歯舞、色丹は明らかに日本に帰属するが、国後、択捉は難しい。サンフランシスコ講和条約で千島列島を完全放棄としており、原文のフランス語(条約の正規版と言われる)でも国後、択捉は千島列島と解釈することができるという。従って日本の主権は本州、九州、四国、北海道、そしてそれらに付随する諸小島であるされる。ここでも国後、択捉が小島とは解釈しずらい。日本は、ロシアとの千島樺太交換条約を根拠に国後、択捉は千島列島に含まれず・・・として4島が日本の領土としている。これも少し無理がある。地政学的にも国後、択捉は千島列島である。
もちろんロシア側にも国後、択捉がロシア領である明確な根拠はない。戦争が終わったのは8月15日であることは間違いなく、仮にロシアが主張する終戦時期がその後だったとしても軍事的に占領したことには変わりない。領有権の正当性はない。ヤルタ会談での密約は国際法上は無効である。但し、最も大きな懸案は1945年終戦直後から2014年現在まで69年間もロシア国民が居住する既成事実が出来上がってしまった。これはロシア側の正当性を有利にする大きな要素になってしまっている。この69年の既成事実を元にもどすことは極めて困難だ。

私はあえて多くの非難を受けることを覚悟で主張します。「国後、歯舞、色丹の3島返還で解決させる」 これしかないと考えます。少なくとも森元首相はそのように考えているし、プーチン大統領も何らかの形で解決すべきと考えている。ロシアとしても3島返還であれば、面積等分にも近い。「引き分け」という説明は可能だ。そしてロシアの経済発展のためにはどうしても日本の協力が必要だということもプーチンは理解している。ちなみにアメリカと欧州の経済援助は期待できないし、そもそもアメリカと欧州はロシアへ経済援助する気はない。むしろウクライナ問題で経済制裁を強める傾向だ。アメリカとしては冷戦時代より、北方領土問題が解決されることを良しとしなかった。それは、ヤルタ会談でソ連と密約したのはアメリカが張本人であったこと。 そして、日本とロシアが接近することはアメリカの国益に反する。田中角栄と周恩来がアメリカの意に反して日中共同宣言したこともアメリカに国益に沿わなかったことは間違いない。しかし時代は流れ古い冷戦構造は終わった。ロシアと日本が関係改善するチャンスと思われる。またプーチン大統領と安部首相も改善に前向きだ。がしかし事はそう簡単ではない。

①アメリカは日露が接近することは「アメリカの国益に反する」ことは変わらない
②3島返還に関して、ロシア政府がロシア国民と保守勢力を簡単に説得できない。
③3島返還に関して、日本政府も日本国民と保守勢力を簡単に説得できない。

ここで私の解決策、「安部首相とプーチン大統領で3島返還で解決することを事前密約とする」そしてアメリカ以外の関係各国(欧州の一部、オセアニア、アフリカ、東南アジア)に根回しする。そして国際司法裁判所へロシアと共同提訴する。もちろん日本は表向きは従来どおり4島返還を主張、ロシアも従来通り歯舞、色丹のみ返還を主張する。そして国際司法裁判所は「3島返還」を決定する(そうさせる)。ただし国後のロシア住民に特別永住権(一代限り)を与える。いかに安部-プーチンの密約がスタートとはいえ国際司法裁判所の「お墨付き」があれば国際社会を敵にすることはない。その後、この裁判結果を受け入れて日露平和条約を締結する。その他過去の相互請求権はすべて放棄し軍事的にも協定を結ぶ。経済的には、ロシアは日本に天然ガスパイプラインを供給。日本は資本、技術を提供する。

ここでアメリカ(韓国も)の妨害が必ず入る。アメリカは激怒して安部首相を追及する。しかし逆にこれはアメリカに対するカードになる。水面下でアメリカ知られないようにロシアと交渉する。まさしく国家機密保護法も活躍すべき時だ。その他、とにかく経済的にアメリカが得する提案を振りかざし(振りかざすが安易な妥協はしない)ながら官民問わず根回しする。そして、アメリカとの最終交渉の際は「日本がアメリカの軍艦、空母を破格値購入する」。そうすれば日本の国防力の強化、またアメリカは米ドルの回収ができる。日本人は根回しやロビー活動が苦手かも知れないが、ここは国家の命運を懸けて活動すること・・・これは重要だ。すでに昔と違い、ロッキード事件後の田中角栄のような運命にはならない。ロッキード事件は完全にアメリカにはめられた事件だと私は認識している。ロシア国内でも最初はプーチン大統領に非難が集中するかもしれないが、莫大な日本の資金援助により中国、韓国が発展した以上の経済発展する(中国、韓国も日本の資金援助があったから発展した)そうなるとプーチンのロシアでの評価は上がる。やはり経済である。もともと反日感情も少ない国だから中国、韓国よりは上手くいく。日本の資金面は問題ない。今まで中国、韓国へ拠出していた援助をほぼゼロにして、ロシアへ拠出すればよいこと。もちろん中国も影で妨害する可能性があるが、そもそも北方領土は日本側の意見を中国は受け入れていた立場である。また日露で軍事的な協定があれば、まず中国は何も手出しはできない。中国は強い相手とは絶対に戦わない。軍事的に北はロシア、南はアメリカで固めて、日本の自衛隊が西の壁をしっかり強化すれば良いまで。日本海から東シナ海にかけて強力な海上自衛隊を編成する。ちなみに韓国については深く考える必要はない。別途「私の新脱亜論」でも詳細は述べた。従来は朝鮮半島こそが日本の安全保障上の重要な緩衝地帯と言われたが、しかしその戦略は間違っていた。すでに歴史が証明している。今こそ南北をアメリカとロシアで固めて、西の壁は日本海と東シナ海で日本の自衛隊自身でしっかり守る。改めて日本の歴史を考えると、日本という国は日本海と東シナ海という天然の国境によって堅く守られ発展と繁栄してきた。その歴史的な事実を更に強化させればよい。決して大陸に上陸する必要は全くないし、韓国はアメリカと国連に任せればよい。それぐらいの強かさがなければ国際社会での外交交渉で勝利できない。もし安部首相がそこまで考えていたら凄いことですが・・・。とにかく北方領土問題を解決し、ロシアとの平和条約を結べば様々な意味で日本の国益になる。
日本の森とルネッサンス計画
花粉症の季節だ。私も花粉症でいつも何とかならないかと考えています。花粉症の最も大きな要因はスギ花粉(ヒノキ花粉も影響大)とのこと。そもそも50年程前、高度成長期に伴い日本国内の森林の多くは伐採され、そして新たに植林したスギが大量にある。それが現在のような伐採時期を迎えても、あまり伐採されず現在にいたっている。理由は海外からの安い材木の輸入、そして材木の需要低下だ。そもそも将来日本の財産となるはずだったスギ植林も今では花粉症の主要因となっている。最近では、スギを伐採した後に花粉の出ないスギを植林しているとのこと。それでもまだまだペースは遅い。スギ花粉による花粉症はまだ数十年かかるようだ。一方、日本の森としても様々な問題を抱えているという。大きな要因は、森全体を守るために間伐(間引き)してそれが放置されているとのこと。また、ある森では出入りする人が極端に少ないため廃棄物の不法投棄もあとを絶たないとのこと。またある森では腐葉土は堆積に堆積を重ね、土の保水性が向上しダムがなくても洪水が発生する可能性も低下したとのこと。しかし、その代わり森の地盤が軟弱化して土砂崩れの危険性も増している。滋賀の森林では鹿が増えているという。原因は天敵であった狼がいないこと。食料となる木の実等が大量にある。増えすぎた鹿によって山郷の田畑を荒らすこともあり、それが多大な被害になっている。地域の猟師が中心となって捕獲しているが追いつかない。従来は捕獲しても、何も活用できなかった(剥製にするくらい?)。しかし最近では鹿食を推進しようとする動きもある。某カレー屋さんは特別に鹿カレーというのがある。私もこれを食したことがあるが、臭みもなく脂身少なくとてもおいしい。中年おじさんにはぴったりのヘルシーさも感じる。まあ、とにかく50年前に比べたら日本の森は奇妙な状況になっている。とにかく森林資源をもっと活用しないからこういうことになる。一部民間企業の活動として、某ハウスメーカでは積極的に日本の森林資材を活用している。しかし民間企業の対応では限界がある。ここでは小室沢の提案です。「日本の城郭や歴史的な建造物にを木造で復元すること。」過去に名古屋の河村市長は「名古屋城を木造で立て直す」計画を提案したが、あまり周りの賛同は得られなかった。もちろん地方財政は苦しいので困難・・・・それはよくわかる。河村市長って結構いいこと言ってるけど・・・なかなか周りの理解が得られない人だ。現在、江戸城復元プロジェクト構想もあります。大阪城だって木造にしてもいいでしょう(現在はコンクリート製)。歴史ファンでもある私としては安土城再建を望みますが、設計図はもちろん詳細どうやって作ったか不明なので不可能とのこと・・・。そういうことこそ規制緩和して推進すべきだ。いずれにせよ再建する場合、100%完全再現なんてのは不可能なわけだから現代のエッセンスを多少を加えてもいいと思う。誤解を生じさせないために、そうした解説をどこかに示せばいいだけ。まあ7割以上が再現されていれば上出来だと思う。確かに今のままでは予算、法律、様々な壁はあるでしょう。だからこそ、国家プロジェクトとして推進すればよいのです。日銀総裁による異次元金融緩和しても銀行には資金が貯まるばかりじゃ意味がない。こういうプロジェクトは一地方や民間では決してできない。国家プジェクトとしは大きなスローガンを持って実施する。例えば、政府の藤井内閣官房参与が提唱する「国土強靭化計画」には個人的には大賛成です。そういう大きなスローガンが必要です。「国土ルネッサンス計画(仮名)」として「国土強靭化計画」と並び国家プロジェクトとする。ちょっと考えただけでも以下のメリットがある。

①歴史的建造物の復活による地域、国家の活性化
②技術の伝承と先人たちの知恵を学ぶ(教育)
③雇用の安定化と経済発展
④森林の保護と活用による安定化
⑤スギ花粉症による国民負担の軽減
⑥森林伐採に伴う副産物(バイオマス等)のエネルギー活用
⑦観光産業の発展
⑧小中学校の校外研修の必修として大いなる教育になる。

いやーざっと考えただけでもこれだけある。逆に否定される理由があればそれを知りたい。「近代国家日本という側面」と「伝統文化を兼ね備える日本」・・・そうした両輪が日本の将来を発展させる方向性だ。
私の新脱亜論
終戦から今年で69年。本当の意味でもそろそろ戦後を終わらさなければならない。しかし「まだまだ終わっていない・・・・」と言いたがる人達がいる。すでに当時から孫や曾孫の世代になっている。なぜずるずると引きずらなければならないか?我々日本人の子供たちの将来にまでこの問題を及ぼしては決してならない。サンフランシスコ講和条約、日中共同声明、日韓基本条約を結び、その内容を日本は着実に遂行してきた。その他の戦後処理に関する各国の裁判等もほぼ終了している。残っているとしたらロシアとの関係くらいだ。ロシアとの関係については別途コメントすることにする。ちなみに北朝鮮は国家として日本は認めておらず朝鮮半島の唯一の国家は韓国という立場である。これは朝鮮半島が統一すれば解決する問題であり、そしてそれは朝鮮半島の人達が決めるべきことである。アメリカ、ロシア、中国も介入すべき問題ではない。もちろん日本も介入すべきではない。そう日本は二度と朝鮮半島に介入すべきではない。歴史、そして現代社会がそれを教えてくれることは言うまでもない。日中共同声明、日韓基本条約に関しては「経済協力」という名の戦後賠償の意味合いが強かった。中国への巨額のODA、韓国への経済協力や技術支援・・・・そして両国のめざましい発展。すでに十分条約としての責任を日本は果たしたと言っても決して過言ではない。これ以上、中国や韓国を特別扱いする必要はない。他の国家と同じよう対処にすればよい。ここで改めて1885年に書かれた福沢諭吉の「脱亜論」を読み返した。そもそも中国、韓国の持つ社会感というものは、あまりにも日本の社会感と異なり、それは福沢先生の時代から100年経っても変わらない。もちろん個人レベルでは様々な人がいるし友人になることも可能であるし、優秀な人はいくらでもいる。当たり前だが、基本的には同じ人間同士である。私も多くの中国人や韓国人との付き合いはある。しかし社会感が違う。これはおそらく歴史的背景や社会土壌の違いによるもので、どちらが良い悪いということ論じるのはナンセンスである。彼らには彼らの生き方がある。もちろん、日本には日本の社会感や文化思想がある。基本的に科学技術やテクノロジーの分野で共有することはできる。しかし、現代社会というのは科学技術やテクノロジーだけで成り立つものでははい。そこには思想哲学と社会感が絶対に不可欠だ。思想哲学や社会感を無理をして融合させる必要はない。融合させようとすれば必ず歪が生まれる。よくネット上で中国、韓国の反日教育が諸悪の根源のような主張もある。たしかにそういう側面もあるでしょう。しかし福沢諭吉の頃は、そもそも反日教育なんてなかった。というより教育システムそのものがなかった。人々は「漠然とした中華思想」「騙し、騙されの社会」「恨み、恨まれの社会」に生きていたのだ。それがこうした社会感を生み現在も根強く残っている。現在の中国や韓国の状況を見ても「とにかく生きるために・・・豊かになるため」に手段を選ばない人々も多い。そうした悲しい社会的背景を感じざる得ない。仮に中国、韓国が現在の反日教育を改めて親日教育をしたとしても、この歪はそう簡単には解決されないでしょう。しかし、だからといって日本や諸外国が介入すべきではない。過去の歴史を考えても日本が大陸と関わってロクなことはなかった。悪い歴史を繰り返してはならない。仮に人権の問題があるとしても、それは国連に委ねるべきだ。従って、日本の国益を考えても、この二国との関係は最低限にとどめ、先ずは日本の国力再向上に重点を置くべきだ。そして外交的にはアメリカとロシアとの関係を重視することでバランスを保つべきだ。
STAP細胞の論文
STAP論文が話題になっている。当初のニュースでは画期的な発見として話題になり、「理系おじさん」ではなく「理系ジョ」が一躍脚光を浴びた。同じ理系の人間として非常に嬉しく思ったことは事実だ。しかし最近では「流用認定」なんてことに・・・

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140315-00000084-san-soci

通常、理系に限らず論文や技術報告書を作成する際には論文の末尾に「参考文献」という欄、あるいは頁を設けて、細かくデータや資料の出所を記載するのが鉄則だ。私もそう先輩から教わったし、現在でも技術報告書を書く際には必ずそうしている。あのネット上のWikipediaでも末尾は「関連文献」を記入されている。これって結構重要なことです。それらの引用文献の内容が事実かどうかは別にして出所を明確にしなければ「疑わしい論文」と言われても仕方がない。もちろんその引用文献自体が間違っていることだってある。間違った文献を引用して「出鱈目な文献」と言われた場合でも引用文献が間違っているのだから、その論文自体の作成者だけを追求することはできない。だからこそ技術者は「参考文献の引用」という言い方をして逃げ場を作っているとも言える。それをわざわざ確認されたらすぐに解るような文献流用したのか?正直言って理系おじさんの私でも理解に苦しむ。もちろんこの研究そのものを否定する気は更々ない(むしろ応援したい)が野衣教授のお怒りも解らんでもないが・・・そもそもそういう論文作成する上での教育されていたのかなあ・・なんて思ってしまう。


理系おじさんの社会学
以前から個人のブログを作成しようと思っていた。色々と普段から思うことを誰かに伝えたい気持ちはあった。タイトル通りの私は理系出身のおじさんであり、一般的なサラリーマンです。そして一般的な幸せな家族をもっている。これから理系おじさんの目から見た現代社会について色々と語りたい。


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小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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