理系おじさんの社会学
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好きなことをして生きる!?
仕事、結婚、趣味、その他様々な活動・・・学生から社会人になるときに選択する道は基本的に「好きなこと」を選ぶ。趣味はもちろんのこと、恋愛なんてのも「好きな異性」を考えるのは当然である。仕事だって「お金」、「「やりがい」など色々と理由はあるだろうが、自分の向き、不向きを考えて最終的には「好き、嫌い」で職業選択をすることが多い。実は会社の人事も「好き嫌い」で決定することが多い。そして何処に住むのか?それは「利便性」はもちろんであるが、「好き嫌い」も大きく左右する。・・・それが「自由」、特に婚姻の自由、職業選択の自由、そして移動の自由の基本であろう。

では、一方で老舗のご子息、歌舞伎界のプリンス、はたまた子供の頃からの「いいなずけ」・・・こうした人々は自由がなく不幸だと言えるのだろうか? 歌舞伎界のプリンスは当然ながら様々なご苦労はあるだろう。しかし、その「運命」をまっとうした人々は幸福であるように思える。また過去には多かった「お見合い結婚」も、最初はイヤイヤでも月日が経って気が付けば仲むつまじい夫婦も結構多かった。 つまり「自由」でないことにより、結果的に幸福を掴んだケースである。

私も社会人になったとき、自分が気に入った企業に入社して最初は希望に満ちていた。もちろん「好き嫌い」だけでなく当時として入社できるかどうか?のレベルも考慮していた。そして必死に働いたが、ある時期から「こんな単価も安く、リスクの大きい・・・割に合わない仕事」と思うことも多かった。誰もが子供の頃や学生の頃は、将来に夢をもっている。例えば「プロ野球の選手」になりたいとか色々とあったであろう。そして社会人になると理想と現実の違いに翻弄されることも多い。

またサラリーマンが他人の「自由奔放な生き方」をしている人に憧れることもあるだろう。それでも私は50歳を過ぎて、自分のためというよりも妻や家族のため・・・あるいは勤務先の会社や社会に役にたてればそれが一番嬉しい・・・という一種の自己犠牲の精神によって個人の存在理由を感じ、幸福感を得ていることに気付く。もちろんブラック企業のように「奴隷的」な仕事や生活をすべて肯定するわけではない。誰かのために献身的になる・・・こうしたことも人間社会には必要ということである。

例えば単純な喩えではあるが、私は趣味で家庭菜園をやっている。私個人的にはネギが好きで大量にネギを栽培したとしても、子供たちはあまり食べない。しかしイモ類であれば家族は皆よく食べる。だからイモ中心の畑になる・・・つまり何が言いたいかというと、そこには簡単な「需要と供給」の関係があって、どれだけ自分個人が好きな野菜を栽培しても誰も消費しない「寂しさ」というのが存在することに気付くからである。

これは社会全体としても言える。誰かが自分を必要としていると思えるからこそ一種の「生きがい」は生まれる。一般的な商売はすべてそうである。もちろん「好きなことをして生きる」ことも結構なことであろう。当然ながらイヤなことばかりでは気が滅入るのも十分理解できる。それでも誰にも役に立たないことを継続しても、その先にあるのは「寂しさ」と「虚しさ」である。それは個人でも企業でも国家でも同じである。

そういう意味で世の中には「寂しさ」や「虚しさ」を持つ人が多いような気がする。クリスマスで「くりぼっち」という言葉も流行した。普段忙しい人が孤独を味わうことも良いかもしれない。また普段孤独な人が大勢集まるパーティーに参加するのも良いであろう。それでも心の中に「誰かのために・・・」とか「社会のために・・・」という気持ちがないと心がもたないことも多い。 また普段忙しい人はそんなことすら考える余裕はなく、気が付いたら友人も増えて、財も増えるというケースも多い。

重要なことは、イヤなことであっても頑張った方が良いケースも結構あるということだ。しかし最近ではブラック企業が話題になり、パワハラ防止やコンポライアンス遵守が厳しくなるご時勢である。もちろんブラック企業は大問題であるが、そうしたことで企業や社員が萎縮するのも懸念される。 幸いにも日本社会は基本的に奴隷社会ではない。誰かが何処かで重要な仕事をしているから社会が成り立っている。まあ、そのことに気付くのは時間が掛かることではある。

たしかに「好きなこと」をすることは結構なことである。しかし「イヤなことも経験すべきである」。そのためには若い頃から学問や訓練に勤しみ、そして社会人になっても勉強や訓練を継続することが重要だろう。そして、何時の日か、「イヤなこと」と決め付けていたことが逆に好きになる瞬間が来るかもしれない。 その時に真の「幸福感」を得られるだろう。 「自由」というのは時に残酷である。 「好きなことをして生きる」も時に過酷である。 この意味を十分に理解することが重要なのだと・・・50歳を過ぎた理系オジサンが今更ながらツクヅク感じる次第である。  



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リオ五輪閉幕
リオ五輪が閉幕した。閉会式では次回の東京五輪の様々ショーも公開された。日本国内(特にTV)では色々と批判的な意見は出ているようだが、私は非常に良かったと思っている。そもそもオリンピックに出場する選手は当然ながら若い世代が多く、若い世代が興味ある内容の方が盛り上がる。一方でその国の伝統文化に固執すると周りは結構退屈である。また長々とした誰それのスピーチは、小中学校の「校長先生のお話」に近いものがあり、非常に退屈なものである。

しかし今回、日本のアニメやゲームのキャラクターや最近の日本の高校生やアスリートたちを取り上げたのは非常に良い。スーパーマリオ、ハローキティ、キャプテン翼・・・これらは日本人にとっては決して新しいキャラクターではないが(いずれも30年以上前?)、現在も世界中で愛されている。また「日の丸」や「君が代」そして「富士山」も現役バリバリである。・・・こうした現役バリバリであり、未来に希望がある方が見ている側は楽しいものである。

もちろん過去や歴史を学ぶことは大切だが、現在と未来・・・そして、たとえ古いものであっても現在進行形のものは素晴らしい。現在進行形でない「過去」や「歪んだ歴史感」に固執しても、何も楽しくない。 私も子供の頃、こども雑誌や単行本でマンガをよく読んだ。そしてよく友人と遊んだ。そういう「遊び心」は大人になっても間違いなく活きてくる。 そういう日本に生まれたことに感謝するべきだろう。 一方で「遊び心」の少ない国は全く楽しくない。 この「遊び心」は世界中の人間に潜在的にあるものだが、紛争や貧困、そして歪んだ政治体制によって失われている国々が結構多い。 

そうした状況が東京五輪で少しでも解消できれば、東京五輪は非常に意味のあるものになるだろう。 



日本では神道以外の宗教は深く根付かない!
先般のバングラディッシュのテロ事件は、犯人のISやイスラム過激思想が要因の一つだと報道されている。こういうイスラム過激主義は、異教徒を人間扱いしていないようだ。その証拠に、彼らの言う「十字軍」とは全く関係のない日本人まで平気で殺害している。こういう精神は普通の日本人には理解できない。そういえば、かつての欧州の帝国主義時代にはキリスト教のもとで「異教徒」そして「有色人種」は人間扱いしていなかった。日本人は、異教徒であろうが有色人種であろうがシナ朝鮮人だろうが「人間扱い」している。しかし「犯罪者」は人間扱いしていない。私も「テロリストは人間ではない」という考えを強く抱いている。やはり過激な宗教というのは厄介である。

さて宗教に関して日本はどうだろうか。キリスト教が伝来でして約450年、しかし現在の日本のキリスト教徒は国民の1%程度である。イスラム教に関してもシナ大陸を通じて中世には伝来していたようだが、20世紀初頭まで日本に信者はほとんどいなかった。現在でも日本人のイスラム教徒はごくわずかである。これは何を意味しているのであろう? 日本人の文化に深く根付かないと考えるべきであろう。それはまるでトゲのあるサボテンが日本の土壌で成長しないのと非常によく似ている。

それでは、なぜ日本ではキリスト教やイスラム教は普及しないのだろうか? 日本では仏教は盛んであるとの論調もある。たしかに単純な統計での信者は多いかもしれない。しかし私が知る限り日本の仏教関係者で「熱心な信者」はごく僅かである。実は私も寺の血筋ではあるが仏教に対する信仰心は極めて薄い。たまたま実家が寺であるとか、代々どこそこの門徒である・・・といった理由が殆どである。地方の古い寺では誰も管理する人すらおらず廃墟と化している寺も多い。

歴史的には仏教に関して、かつての日本の戦乱期の影響もあるのだろう。しかし平和な社会になり、経済的な安定が得られると日本人の宗教心は薄れるものである。世界でも戦乱や貧困が多い地域や民族で宗教に熱心になる傾向が強い。しかし、その日本の戦乱期ですら仏門の人々は決してすべての庶民から尊敬される存在とはいえなかった。かつてシナや朝鮮では仏教というのは「腐敗」の温床というイメージも強かった。日本でも一般庶民は陰で坊主の悪口を言うのが常識である。

しかし日本の神道は、ごく普通に日本文化に根付いている。神社へ行く、神棚に向かう、清める・・・シンプルが故に根付いているとも言えるかもしれない。こういう神道の文化があるからこそ、面倒?な他の宗教には興味が無く、はっきりいって「面倒くさい」というのが本音であろう。そんなことに時間を費やすなら、さっさと仕事しろ!・・・という感覚である。もちろん仕事と言っても決してカネに執着しているわけではない。仕事をすることで精神を安定させている。そしてシンプルに神に祈る・・・そういう日本の文化が日本の平和を形成しているのは間違いない。

もちろん私はキリスト教、イスラム教、そして仏教そのものを否定するつもりはない。しかし結果論として、日本では宗教による大きな紛争が発生しなかったことは紛れもない事実である。こうした歴史的事実を直視して、日本で守るべきものは何かを再認識する必要があるだろう。





日本の太陽信仰について
2015年のいわゆる「正月三が日」も終わり、一般企業や各種学校などもスタートする。今年は例年の正月と比べて暖かい。そして強い日差しもある。元旦にはテレビで富士山の初日の出が撮影されていた。それが非常に綺麗な映像だった。テレビ嫌いの私だが、最近の映像技術の高さを改めて痛感した。そして、我が家としては珍しく初詣にも出かけた。初詣といっても真夜中0時ではなく午前10時くらい、非常に天気もよく晴れ晴れとした感じだった。

さて「元旦」とは、太陽が水平線から現れることを意味している。特に「旦」の文字は太陽が水平線の上である象形文字が起源とのこと。そもそも日本という国名は、「太陽のもと」を意味し、ヤマトも「ヤ」は太陽、「モト」はそのまま本を意味している。日本には古くから太陽信仰があり、天照大神の神話がその象徴的な存在といえる。当然ながら太陽信仰は農業との関連を思い浮かべる。しかし農業以外の生活習慣についても太陽を意識した文化が日本には多く存在している。

例えば平安時代に書かれた「枕草子」では、「春はあけぼの」、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」、「冬はつとめて(早朝)」とあり、太陽を常に意識していることがよく解る。もちろん平安時代はまだ旧暦(京都の平安暦)であり、寒暖の差も大きかった。正月とは現在の2月半ばくらいの気候だったと考えられる。当時は初詣の習慣は無かったが、「春のあけぼの」を物語で表現することは当時の文化が背景となっていることがよく解る。そう考えると今年の日本の正月はかつての春を祝う雰囲気に近いのかもしれない。

この太陽を意識するというのは、現代でも家は「南向き」という思想にも反映されている。一部の人たち(不動産業?)はこの定説を否定していることもあるが、私は「南向き」が良いの当然だと考えている。古い小民家では座敷(客間)が必ず南向きであるのは常識である。それは冬は室内に日差しが入り、夏は室内に日差しが入りにくい。寒暖の差をできるだけ小さくする工夫がそこにある。そういえばエジプトピラミッドの内部や伊勢神宮の内部には冬至の頃に太陽がまっすぐ差し込むという。これらは単なる偶然ではなく、太陽神を意識していたことは間違いない。

さて、今回はそうした文化や歴史だけでなく科学的、あるいは医学的にこの意味を考える。最近では、太陽の紫外線は皮膚がんの原因として嫌われる傾向がある。しかし、それは夏場のことであり、日照時間の少ない冬場はむしろ太陽を浴びる方が良いとされている。一般的に「冬場の鬱(うつ)」の原因は、日照不足が一因ともいわれている。特に皮膚は太陽光からビタミンDを生成することが知られており、ビタミンD不足になるとカルシウムの吸収が阻害される。しかし一般的に冬場は寒いので家に閉じこもっていることも多くなる。当然ながら肌の色も白くなる。その状態で夏を迎え突然水着になって海へでると肌が危ない・・・というパターンが繰り返す。

従って、冬場の日差しのあるこの時期に十分な日光を得ることが必要といえる。正月のご来光、春はあけぼの、夏は夜・・・それらはすべて医学的に考えても理にかなっていることになる。もちろん冬場は天候も悪く、雪の多い地域もあるだろう。しかし雪の多い地域では肌が「雪焼け」することもある。冬場、そして春先に日光を浴びて肌を色づけ、夏はできるだけ夜に活動する。そういう生活パターンも健康的といえるだろう。

このように日本の太陽信仰とは農業だけでなく、人々の健康も意識していたのではないか?と私は勝手に想像している。もちろん健康というのは、個々の体質、様々な環境要因、そして様々な栄養源なども複雑に関係しているので単純に論じることは難しい。それでも太陽を考えて生活することは、日本人にとっては重要なことであると断言できる。

そして重要なことは、健康と景気は相関するということ。国民が健康であれば生活活動は活発になる。そして景気はよくなる。特に日本の場合は、その根源が太陽にあると考えることができる。冬の「太陽の恩恵」を受けて仕事をスタートさせると考えると、今年の仕事や生活が一段と向上するような気がする。いや「気がする」というより、「間違いない」とここでは断言しよう。


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文化遺産って何だろう?
最近のニュースでは、ユネスコ文化遺産だとか世界遺産だとか話題になっている。何らかの遺産として国際的に登録されても、実際にどこまでビジネスに利用してよいのか?も話題になっている。しかし、登録されれば観光ビジネスとしても盛り上がるのは間違いない。今年のゴールデンウィークもそうした地域が盛り上がったとのこと。一方で何だかよく解らない理由で国際登録は反対する隣国もあるようだ。また、どこかの古い聖徳太子像が壊されるとか、観光地で黒い油をかけられる・・・とか、文化を破壊したり、汚したりするニュースが多い。そういうことをするフトドキモノはそもそも文化という概念がないと判断できる。

海外ではイスラム過激派?が宗教上の理由から「偶像」として文化財を壊すことも多い。そもそも美術や音楽は人間を堕落させるという考え方(これも文化?)も存在する。一方で韓国では、いわゆる従軍慰安婦の資料を「世界記憶遺産?」に登録するよう活動を続けているとの事。まあ、何が文化で何が文化でないのか、何だかよく解らなくなる。そうなると日本の吉原や川崎のソープ街だって世界遺産に申請検討することだってできるかも・・・。そもそも日本の歌舞伎も江戸の「浮世」を反映したものだったし、色恋モノのネタも多かった。それがいつのまにか文化遺産になっている。

まあ、文化なんてものは国際的に決められるものではない・・・というのが私の基本的な考え方だ。国連やユネスコだった「文化の優劣」を付けることを目的としていない。様々な「文化の紹介」という位置づけでよいだろう。私個人的には日本国内で「国宝」とか「重要文化財」とかで十分だ。国宝や重文であれば国の維持管理予算もある(少ないが・・・)。しかしユネスコの認定なんて、それぞれの「保護義務」はあっても「維持管理予算」なんて全くない。実は国際的な遺産登録とは権利よりも義務の方が大きい。

たしかに何かの文化を知るきっかけとしては国際登録は意味があるかもしれない。また、本来なら解体処分にするところを再活用することにも多少は意味がある。実際に日本の地方では60-70年代に高度成長の近代化に乗り遅れて、古い建物の取り壊しが進まなかった地域がある。しかし逆に最近ではそれを「再活」して「地域活性化」に成功している地域もある。このように上手くいけば地域の活性化には貢献するだろう。しかし、これからが問題だ。どんな観光地でもそうだが、リピーターをどれだけ確保することができるか? そこにはヒトが世代を越えて心に残る「文化」が存在しなければならないだろう。

歴史的に文化が発展した地域は必ず経済も発展している。「ムダこそ文化を生む」とまで言わないが、文化が盛んになればカネもまわる、そして更に文化が発展する。たしかに文化が人間の堕落を生むとか、贅沢三昧で民衆の怒りを買ったとか・・・そういう歴史も多かったのも事実。しかし、ベルサイユ宮殿がフランス革命を起こしたわけではない。江戸時代に歌舞伎を禁止してから、更に景気は悪くなった・・・とか、実は文化が社会を停滞させたという直接的な因果関係は存在しない。あるとしたら文化や贅沢などへの一部の人たちの「嫉妬心」だけだ。

嫉妬心なんてなく、純粋に文化を楽しめる・・・そんな日本になれば、それこそが「文化遺産」の礎になるだろう。

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小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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