理系おじさんの社会学
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共存共栄
フランス大統領の決戦投票、そして昨日は韓国大統領選挙があった。特にフランス大統領選挙では国民が明確に二分された様相を呈している。これは先のアメリカ大統領選挙でもそうである。当然ながら選出された大統領は、選挙後の「国民の一致団結」を訴えるが、そうした声が高くなるほど「対立が根強い」ことの裏返しと感じるのは普通のことであろう。

さて「共存共栄」という言葉がある。生物の世界では、「クマノミとイソギンチャク」とか「アリとアブラムシ」というのも有名である。また私は趣味でメダカを飼っているが、メダカだけでなくミナミヌマエビ、そして巻貝(タニシ)を共存共栄させている。また水槽には水草のマツモや浮き草のホテイアオイを浮かべている。もちろん水中に存在するバクテリアの存在も忘れてはならない。

もちろん個々の生物もカワイイが、この共存共栄させている世界が美しい! 時にはメダカの稚魚を親メダカが食してしまうこともあるが、ある程度の広さがあればそうした問題も発生しにくい。しかし、ここに大きな金魚などを入れたらたちまちエビは食われてしまう。 また急激な水温変化やPH変化があるとこれらの生き物は死滅することがある。 

要するに、「一方的な破壊者の存在」そして「急激な環境変化」が安定した社会を阻害していることは明らかである。エマニュエル・トッドの「グローバル疲れ」というのは、こうした本来存在した「共存共栄の社会」を打ち砕く結果であったと言えよう。一方で「時代の流れ」には逆らえず、変化を受入れることも確かに必要であろう。閉鎖された空間の継続は長期的に社会に弊害を与えることも事実である。いわゆる「腐敗の温床」に対する嫌悪感である。

そういえば「共存共栄」といえば松下幸之助がよく使用した言葉でもある。企業においても様々な役割分担があり、それぞれが共存共栄している・・・と考えることが一般的であった。そして企業は「利益の追求」だけでなく「社会的責任」があることが強調された。
それがいつのころからか、西欧やシナのような「奴隷社会」の文化をベースにした「労働者をこき使う」、あるいはルールや規格を厳格にして「厳しい管理」で会社を運営することが「是」とされてきた。

このルールや規格化というのも悪しきグローバリズムの側面である。統一規格というのは何となく聞こえは良いが、結局は本質的にはEU統合と何ら変わりない。そして共産主義思想とも大して変わらない。それはまるで水槽にメダカとヤゴを共存させて同じエサをやる・・・といった発想と同じである。

そしてやっかいなのは内部対立を煽る外部勢力があること・・・。第二次大戦の戦前戦中にはコミンテルンが世界各地で工作活動をしていたのは有名な話であるし、かつて日本もロシア革命の際に革命派を支援していたのもまた有名な話である。そして現在でもこうした工作活動は続いている。こうした工作活動は最初から彼らがシナリオを書いた「黒幕、陰謀論」とまでは言えないが、自然に発生した内部対立を上手く利用しているというところである。

そもそも欧州人やシナ朝鮮人に「共存共栄」という概念は極めて低い。かつての大日本帝国が「大東亜共栄圏」という構想もそうした文化の違いを無視した暴挙であり、EU統合の思想と大して変わらない。これはビジネス界においても同じである。「共存共栄」が可能なのは長い年月をかけて形成された社会である。・・・それはあるときは伝統として表れ、庶民の文化として花開く。

今グローバル疲れを癒すのは「共存共栄」の文化である。それは仲のよい友人をつくること、よき師を見つけること、よき伴侶を得ること。そして反対に、危険な人物に近づかないこと、危険な誘惑に近づかないこと、嫌な人物と関わらないこと。当然ながらそうした判断や行動には時間が掛かる。 しかし、そうした時間は絶対に必要である。 なぜなら「共存共栄」の社会を構築するには時間が掛かるからである。




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夢と妄想
新年度が始まり学校では新入生、企業では新入社員の新たな生活がスタートする。そこでよく言われることで「夢を持つこと」。もちろん「夢を持つこと」そのものを否定することはできない。しかし「それってあまりにも妄想だろー!」ということも結構あるのだが、なかなかそうであっても表向きは否定はできない。小さな幼児に「サンタクロースさんが来る」といって信じさせて、実はサンタの正体はパパだったなんて・・・素敵な話ではある。

しかし私の経験から夢を持つことは危険であることを強調したい。先ずその代表的な例が「海外に対する憧れ」である。よく島国の日本人は海外に夢を抱き、無限に可能性が広がるような「夢」ではなく「妄想」を描いていることが多い。特に地方出身者にそうした傾向があるように思える。それは「グローバル化」が叫ばれる時代に比例して拡散した傾向がある。しかし最近では、エマニュエルトッドの「グローバル疲れ」のような現象は経済、社会、政治・・・それぞれの分野で少しずつ広がっている。

インターネット社会は、グローバル化を推し進めるどころか皮肉にも「グローバル化の危険性」が拡散される結果ともなった。そしてそお根底には過った「夢」、実際には「妄想」というものがベースにある。例えばスローガンとしての「理想の共産主義世界」は妄想であった。フランクリンルーズベルトのシナに対する妄想と憧れ、日本の大東亜共栄圏という妄想、夢の楽園北朝鮮・・・そしてEU統合という妄想が結果的に世界中を大混乱にさせた。

「愚かな夢」は世界中を混乱させ、そして個人を破壊する。しかし人間の妄想というものは多かれ少なかれ存在する。特に子供は妄想の塊である。大人でも社会経験の少ないヒトは勝手な妄想を抱きやすい。そしていわゆる高学歴者は妄想に陥りやすい。ある意味で「マジメな人物」は崇高な妄想によって最終決断することが多い。 そういう意味では子供のような純心さやマジメさというのは結果的に災いを呼び寄せることになるわけだ。

よく大人になると「心が穢れる」という表現されることもある。若年者には「大人はズルい」見られることもあるだろう。しかし理想を掲げてカッコつけるだけで何の結果が生まれない。やはり、社会人というのは結果を出さなければ評価されない。「夢」もつことは結構なこと・・・それは思想信条や宗教だってそうだろう・・・しかしそれらが暴走する人物や社会が存在する。我々はそうした危険から身を守るためにも、むしろそれらの「夢」から距離をもつことも重要な生き方であろう。 


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天皇陛下の譲位と有識者会議
天皇陛下の譲位に関する「有識者会議」の状況が報告されている。そもそも「有識者」って何だろう? 有識者以外の人々は「無識者」ということだろうか? 昨日の私のブログでは「専門家」の重要性についてコメントした。しかし「有識者」というのは私がイメージする「専門家」とは全く異なる。このような人たちが譲位に関することを議論するのに強い違和感を感じる国民も多いであろう。そもそもマスコミや有識者までもが「譲位」を「退位」と表現することに本当に「有識?」を疑ってしまう。

昨日のブログでは「トップの責任追及」について記事にした。しかし今回は違った側面で考えてみたい。政治家や企業経営者というのは、時に判断に困るときには専門家や有識者の判断にすべて委ねようとすることがある。「餅は餅屋」といった理屈を振りかざして、悪くいえば「丸投げ」することがある。特にトラブルを抱えた企業が弁護士を過度に頼りにしたにも関わらず、結局は弁護士費用だけが計上されることはよくあるようだ。つまり政治のトップや企業のトップは「専門家」や「有識者」がすべてやってくれるとでも思っているフシがある。

つまり、判断したくない案件については誰かに委ねる。そして問題が発生すれば、すべて責任を彼らに擦り付ける・・・という思惑がある。しかし専門家だってバカではない。意見やコメントはするが、最終判断は決してしないものである。では誰が最終判断をするのか? それは国家であれば国会であり、企業であれば取締役会や株主総会である。もし国会の多数決で同数だった場合には議長の一票で決定する。 かつて御前会議でも多数決で決定され、同数だった場合は議長である内閣総理大臣の一票で決定する。御前会議といえども天皇陛下はその決定従うのが通常であった。 終戦時の鈴木首相が御前会議議長の一票を放棄して昭和天皇の御聖断を仰いだことはあまりにも有名である。

今回の譲位に関しては、「有識者?で自由に議論させる」⇒「世間にその内容を広める」⇒「国会で議論する」⇒「国会で決定する」という内容であろう。 ここで懸念されるのは「世論操作」である。国会での法改正は世論の動向に左右されがちである。その世論操作の元凶がこうした「有識者」にならないように気をつけるべきだ。政府としては一応は広く意見を収集したという形式にしたいのであろう。そもそも「有識者会議」とか「第三者委員会」なんてのは国会議員の「言い訳材料」にしている感が非常に強い。特に一部の「社会学者」とか「歴史学者」、一部の「経済学者」なんてのは「物理学者」と違って、身勝手な思想哲学をベースにしていることがあるのは周知の事実である。

通常、国会で成立した内容については、内閣総理大臣から天皇陛下に直接報告される(本件だけでなく、あらゆる国政の状況を首相は定期的に陛下に報告している)。 おそらく今回の案件については、法改正の前に陛下に報告されると私は考えている。ていうか絶対にそうすべきと考えている。 こういう内容は、陛下のご了承がなければ出来るものではない。もし私が首相だったら国会での採決前に陛下に報告し、了承を得てから採決する。もし陛下から異論があれば、再度審議をする。 現在の天皇陛下は非常に真面目で実直な方なので「無茶苦茶、あるいは無理難題な異論」と唱えるなどはそもそも考えられない。

もちろん日本は天皇主権の国家ではないし、天皇の権威や権力をむやみに振り回すべきではない。将来に渡って、どのような天皇であっても国家が機能する制度であるべきである。しかし今回の譲位に関しては、現陛下のご意志を十分に反映できるような国会での決議であってほしい。私は陛下が「上皇」になるご意思があればそれで良いと思う。もちろん平安時代の院政のようなことを現陛下がすることはありえないし、また二重権威になることもありえない。そこには人間天皇である現陛下への信頼と信用を国民はもっと持つべきである。


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人はみかけによる?
最近何かと話題の森友学園の問題であるが、私は一連の報道に全く興味がない。ただ籠池理事長のあのカオを見たとき、「このヒト何だか怪しいなあ」と思うことだった。よく「人はみかけによらず」という言葉があるが、結構「みかけによる!」ということを感じることが多い。それは何故だろう? もしかしたら人間には本能的にカオやオーラなどで危険を察知するような能力があるような気がしてならない。あるいは本能的ではなく、長年の「カン」のようなものが育まれたのかもしれない。

一方で「素敵なカオ」というのがある。ヒトが何か努力の結果報われた時、特に今のこの時期には厳しい受験勉強を乗り越えて晴れて合格したときもそうであろう。あるいは子供の病気が治ったとき、単純に楽しいことがあったとき・・・商売やっているひとは顧客が満足したカオを見るのが何よりの幸せを感じる。しかし満足にも色々あって、相対的に誰かが不幸になると喜び、誰かが幸福だと嫉妬する。 カネを得た人は憎らしい、しかし落ちぶれたかつての勇者を見て笑いものにする・・・こうした喜びの人々の眼は死んでいる。

おそらく、こうしたことがカオや眼に現れて「人は見かけによる」ということに結びついているのかもしれない。人気のあるヒトは眼に輝きがある。 子供の素直な笑顔は大人を和ませる。しかし大人のイヤミな笑顔は憎悪につながる。 これは企業だってそうだ。あの東芝やシャープ、かつての社員の活力は失っている。もちろん世間体があるのでヘラヘラ笑っていられないのも事実だろう。政治家だって意味も無くヘラヘラしていたらバカにされる。 ホントの笑顔を分かち合えることができる社会が理想である。

今後、森友学園がどうなるか判らない。しかし、そんなことより子供たちがホントの笑顔を共有できる学校になれば私は何も文句言う気はない。 安倍首相夫人は講演費100万円貰って、それを返した・・・それを寄付したと表現していれば何だか辻褄がある。でも、そんなことはどーでもいい。 100万円程度のカネ(私個人としては大きなカネだが)で社会を混乱させようとする連中は保守であろうが、パヨクであろうが怪しい連中であり、それらはよーくカオを見れば判る。・・・そう、ヒトはみかけによる!





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「地主神」はどこでも存在する。
日本には古来より「地主神」という土地の神様が存在している。一説によると、その場所を誰かが征服したときには「鎮守神」を置き「地主神」の怒りをなだめたと云われている。現在でも、ある土地に新築する際には「地鎮祭」が行われるのはそうした思想が背景にあるようだ。また大和政権が安定すると地方の豪族による独自の行政から、国司(中央から派遣)による行政が行われた。鎌倉時代には「守護」が置かれる。「守護」はその名の通り、表面的であったにせよその土地や民衆を守るという立場であった。その後、「○○の守(かみ)」といっても称号だけでその土地とは関係が無くなることもあった。 また戦国大名の多くは国替えをさせられ、一族を守るためにその土地を離れることが多かった。一方で一般庶民は移動の自由が制限され、好き嫌いに関わらずその土地にしがみつくしかなかった。とはいえ一般庶民の土地信仰も根強く「鎮守祭」を大切にしてきた。それはその土地に生きることを民衆の「運命:さだめ」として受入れ、土地とともに生きる道を選んだとも言える。 従って、日本各地の村々では常に土地が綺麗に整理整頓され、地主神や鎮守神の怒りを買わないよう、そして土地を大切にすることで自分たちの生活を安定させたと言えるだろう。

一方でユーラシア遊牧民、最大の移民国家アメリカ、そして何度も土地の侵略が繰り返されたシナ朝鮮・・・こうした国々に「地主神」という思想はない。一般的に云われる「一神教」に発展するケースが多い。そして土地に必要以上に執着することはない。現代のグローバリストも「国境のない世界」を是とし、様々な有益な土地を都度探し続ける。その人々の中には、紛争や貧困から逃れるための人々、あるいは常に富を求めて移動する人々も存在する。現代では、前者の代表がシリア難民であり、後者の代表がシナの富裕層といえよう。そういう人々はそもそも様々な理由で「土地への愛着」が薄い人々なので、移住先の土地でも既に住む人々、そしてその環境や文化配慮する余裕が少ないのも事実である。「郷に入っては郷に従え」といってもインフラ整備された現代社会ではそれなりの生活することは可能である。そして、その土地への文化的配慮、経済的な失業率、各種環境配慮などの意識は低下するものである。

諸外国では、当然ながら日本のように「地主神」をなだめるために「鎮守神」なども存在しない。・・・ここが日本と諸外国との大きな文化の違いである。さすがに現代日本では、土地に執着するより「移動の自由」を謳歌すべきと考えている日本人も多い。それは精神的には過去の「閉鎖性」からの開放されることへの憧れに由来している。また経済的により良い職業、または高賃金を求めて移動することが一般的である。しかし移動すれば必ずしも良い生活になるとは限らない。先にも述べたように各種インフラ整備された現代社会では、地域のコミニティーの関係が希薄であっても、それなりに生活はできるかもしれない。それでも、地域のモラルの低下、治安の悪化、そして失業率が上昇すれば地域の住民からは脅威になることは間違いない。

もちろん日本民族も古代に遡ればアフリカ中東あたりから長い年月を掛けて日本列島に移住した。また南米の先住民も何万年の年月を掛けて移動して現在の定住の場所に行き着いた。しかし、そういう人々は土地に対する「思い」はむしろ強いように思われる。それは何を意味するのであろう。これはきっと長期的な人類の歴史物語だけに限らない。 例えば、私は18歳のころから大学進学、就職、転勤、海外勤務、また転勤、そして転職・・・このように学業や仕事に関連して10回以上の引越しを経験した。そして現在では、とある場所に定住している。それまでの「引越し疲れ」、あるいはエマニエル・トッド風にいえば「グローバル疲れ」のような感触を抱いたことは間違いない。 これは私だけでなく多くの中高年のサラリーマンが抱く感覚のようだ。中には高学歴でエリートコースから離れ、あえて「田舎暮らし」を追求する人々も増えている。もちろん田舎暮らしが馴染めずに都市部へ逆戻りする人も存在する。いずれにせよ自分たちの「居場所となる土地」を求めていることには変わりはない。

田舎であろうが都市部であろうが、たどり着いた場所で終の棲家(終の土地)を大切にする。今までのような賃貸住宅に対する感覚(壊したら家主に怒られる)のもとで土地や家を管理するのではなく、本当に素直な気持ちで自分と自分の家族、そしてその土地や家を大事にする・・・そういう感覚が生まれるものである。しかし、それは大きな前提がある。そのたどり着いた「場所」を大切にする人々の社会がある、あるいはそうした社会成熟が可能な土壌であるかどうかである。たどり着いた場所が最悪のケースだってあるだろう。それはその地域のせいなのか?移住した人々のせいなのか?いずれにせよ成熟した社会を構築するには時間が掛かるものである。

それは国家でも同じことが言える。いずれの国家も過去を遡れば移民国家である。それでも長い年月を掛けてその国土を愛し、その国民のためを考えて働く・・・そして攻撃的な侵略者が出現すればに立ち向かう。一方でその土地やその土地の人々を疎かにするような人々はその土地の「地主神」から怒りを買う。もちろんアメリカには「地主神」の思想は存在しない。しかし世界中のあらゆる土地に「地主神」が存在しているように私には思えてならない。 そして、その「地主神」の怒りを買っているのが人々が多く存在するということ。土地をないがしろにする人々は必ずその土地からしっぺ返しを受ける。 一方でその土地やその人々を大切にすれば土地は必ず人々に応えてくれる。これは真面目な農業従事者が普段から常に感じていることでもある。

今、世界が「グローバル疲れ」の現象になっている。そして国家や国土を守るという思想に移行しつつある。これを保護主義とか排他主義と批判する人々も多いの事実である。たしかにすでに安住の地を得た人々は良いかもしれないが、今だに安住の地を求める人々にとっては「行き場」を失ってしまうと考えるだろう。しかし、これは考え方の問題である。その土地やその土地の人々を大切にし、尊重するなら必ず受入れられる。あのフランス大統領候補のルペン氏もフランスの文化を尊重する移民は尊重すると明言している。しかし、そうでなければ受入れられない。特に大量移民の場合は「集団」なので、それまでの文化を維持するパワーもあり、受け入れ側もそれを認めれば文化的、経済的な対立が生まれる・・・。それが欧州統合の結果である。

「移民は少数からだからこそ成立する」。そして「朱に交われば紅くなる」というものである。実は古代日本もそうであった。古代日本にも移民は存在した。しかし島国であるが故にその数が限定され、そういう人々は自然と日本社会に溶け込んでいった。しかし大量移民、あるいは異民族による徹底支配では決してそうはならない。もし彼ら移民が「地主神」や「鎮守神」を少しでも理解できるなら、どこでも移住して成功する可能性はある。それはまるで多くの日系ブラジル人が成功したように・・・。しかし、頑なに「一文化」や「一神教」に拘り、集団での移民を試みる勢力は必ず混乱を招く。それは、どれだけ制度的に「宗教の自由」や「異文化共有」が認められているとしてもである。・・・それはその社会や文化が許さない。 社会の構成を築く為にはムラであれ国家であれ、その土地、その国土がベースになっている。それはどのような社会も普遍である。 つまり「地主神」はどこでも存在しているということである。   


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Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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