理系おじさんの社会学
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男女平等をクオータ制で実現するのは不可能だ
最近、女性の社会進出を推進しようとする動きが加速している。先般、安部首相も国連でのスピーチやクリントン長官との対談でも「女性の社会進出」をテーマにした議論をしていた。様々な対策が検討されているが、「クオータ制」もその一つだ。

この「クオータ制」は、割り当てという解釈がもっとも良いだろう。個人の能力に関わらず女性なら一定の割合の国会議員や公務員といった人数を割り当てるというもの。たしかに男女平等といえるかもしれないが、個人の不平等とも言える。

マレーシアではブミブトラ政策という一種のクオータ制がある。マレーシアはアメリカ同様に他民族国家である。ざっくりマレー系(ブミブトラ)が60%、中華系が20%、インド系が5%・・・といった割合だ。この人口割合に応じた公務員の数、従業員(上場企業)の割合が決められている。

そもそもこのブミブトラ政策とは、民族平等という理念ではなく「社会の安定化」と「各民族にチャンスを与える」という意味が強かった。当時のマハティール首相は、「この政策を永遠に続ける気はない・・・」との発言をしていた。しかし、このマレーシアですら男女のクオータ制を導入するような動きは全くなかった。イスラム国家なので当然かもしれない。そもそも根本的に考え方が違う。

またスポーツの世界でも、サッカーワールドカップはアジア枠とかアフリカ枠といったものがある。世界大会にするためには、そうしなければ成立しないからだ。日本の高校野球(甲子園大会)だって各県や地域に枠がある。それを無視すりゃ「おもしろさ」は半減するだろう。まあ、これはスポーツの世界だ「盛り上げるため」という目的は十分理解できる。

しかし政治的なクオータ制というのは、個人平等が無視されていることは間違いない。選挙の「一票の格差問題」も個人の不平等とも言える。ここで重要なのは「社会の安定」をどこまで考えるかである。例えば「地方は抑圧されているのか?」、「女性は抑圧されているのか?」・・・だからゲタを履かせる⇒ それではそれ以外に人々は不平等となる。重要なポイントは「単純な権利主張」なのか「社会の安定」を目的としているのか? それをじっくる見極める必要がある。

ちなみに私が勤務する企業(一応、大企業です)では、女性社員の幹部社員も数名いるが、多くの女性社員は昇進を望んでいない。家庭を大切にする、あるいは自分の自由な時間を大切にする・・・といった人の方が圧倒的に多い。それよりも何よりも、最近の管理職や幹部社員は責任も重大だし、過酷な労働も多いので進んでやりたいという社員は男性ですら減少している。

あと女性の場合は、「時間帯」というのが重要である。朝方や夕方ではどこの業界も女性労働者が不足している。そりゃそうだ。家族を持つ女性は朝方と夕方は忙しい。・・・だから外国人メイドさん自由化? それも何か違う。もし、余計なものを減らすとしたら学校のPTA、町内の婦人会・・・そういったものが無くなれば女性は多少は自由になれるだろう。

いずれにせよ男女平等を「クオータ制」で実現するという考え方は、むしろ「経済が衰退する」原因にもなる。そりゃそうだ。やりたくもないのに「割り当て」されるなんて、「ゴミ当番」がまわってくるのと同じだからだ。・・・仕方がないからやりましょう・・・この思想心理と行動は必ず経済を衰退させる。従って「やる気のある人」を支援する・・・それで十分だ。


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サビーナ・アルシンベコバさんの美しさ
東京・有明コロシアムで行われている女子バレーボールのワールドグランプリで日本チームが活躍している。かつて東京オリンピックでは日本女子バレーチームは東洋の魔女といわれて一世風靡した。当時のメンバー(誰だったか忘れた)は試合終了後に勝利の喜びではなく「過酷な練習から解放されることの喜び」が大きかったという。まあ、それほど厳しい練習なのだろう。にも関わらず、一般の観客や視聴者は女子の場合だと「美しい女性を探す」という不謹慎な行動をする。

実は私だってそうだ。悲しい男性の性(サガ)である。特に女子ビーチバレーの場合はスポーツ観戦というより、美女観戦のようになっている。有名な浅尾美和さんも、「そういう理由でもビーチバレーが盛り上がれば良い」という発言をしている。しかし然程人気のない女子選手にとっては内心「ハラワタ煮えくりかえる思い」かもしれない。しかし「美人かどうか」だけでなく実際に多くの人たちは「頑張って動いている姿」が美しく見えると私は思っている。あの「ももいろクローバーZ」も美人かどうかということより、頑張って歌って踊っている姿が共感を呼び、美しくみえる・・・そういうことではないだろうか?

美人アスリートといえば最近では、カザフスタンの女子バレーボール選手のサビーナ・アルシンベコバ(17歳)が美人とのことで話題になっている。正直いって私はスポーツとアスリートについてはあまり詳しくない。従って、その方面に関しては詳しいコメントできない。しかし私は、何故こうした女性が人気があるのかが興味がある。私も早速、サビーナ・アルシンベコバさんの画像や動画を観たが、たしかに私が見ても美しいと思った。他の選手には本当に申し訳ないが私もそう思ってしまった。

しかし何故そう思うのだろう。そもそも「美人とな何か」、まずは「若さ」という要素はあるだろう。かつて日本の平安時代ではふっくらとした女性が美人といわれた。現在のアフリカの一部の地域でも太った女性が人気がある。おそらく、一般庶民は瘠せていて、ふっくらとした女性のほうが身分も高く安定した生活、および子孫繁栄がしやすいという本能が働いたのかもしれない。しかし現代社会では太った女性はあまり人気がない。むしろ貧しい地域の人ほど肥満が多いようにも見受けられる。(アメリカ社会がその典型)

最近の研究では、「平均美人説」というものがある。この説によると、美人像の変遷は、そのコミュニティの構成員の変化を背景としているものと考えられる(鼻が高い人が多くなれば、鼻が高いことが美人の要素となる)。このように平均的な女性が美しいと感じられる理由としては、平均的であるということが、当該コミュニティで失敗のない生殖を行う可能性が高いことを示している(繁殖実績が多い)と考えられるためと説明されている。 (「Wikipedia 美人」より抜粋) 私は、この説はかなり説得力があると考えている。

たしかに、サビーナ・アルシンベコバさんの容姿はアジア系にも見えるし、欧州系にも見える。グローバルとして平均的なのかもしれない。しかしアスリートなので身体能力は決して平均的ではない。私が考えるには「健康的」であり「セクシー」であること、そして顔つきが仔ウサギや仔ネコのような「愛らしさ」があることも要因だと思う。そして不思議なことに美しい女性の多くは美しい髪を持っている。また写真だけでは解らない、動作や仕草にも美しさが現れる。仮に攻撃的な目をしたり、仕草が下品な女性だと、どうしても男性は引いてしまう。サビーナ・アルシンベコバさんの場合は、そうした全体的なバランスも取れている。つまり全体的な平均回帰していることへの美しさというものがあるのかもしれない。

しかし平均回帰は統計学上の論点であり、遺伝や優生学とは一般的に異なる普遍性であると言われている。しかし、突然変異の美人というのが存在するのかどうか? 「平均美人説」が正しいとすれば、突然変異から美人は生まれない。しかし、その突然変異が多数派になれば美人になれるということなのか? 優生学的に天才は突然変異が多いという説と天才を多く輩出する家系というのも存在する。

ここで統計学者で優生学者であったフランシス・ゴルトンは平均回帰の法則を人間にも当てはめて研究した。また同じく統計学者で優生学者であったロナルド・フィッシャーは多様性が進化を発生させると論じた。

しかし、ここに大きな疑問が生まれる。それは「美人の数は少ない」という現実だ。例えば中学のクラス40人学級で女子が20人の場合、美人だともてはやされるのは2-3人くらいしかいない。街歩いていても美人ばかりなんてことはない。仮に「平均美人説」が正しいとして、「平均回帰」するとなれば、正規分布の法則からしても「美人は一番多く」なければならない。しかし一般的には美人は少なく、その前後?が最も多いように思える。つまり正規分布ではなく、平均値の度数が少ない。(まあ、こんな研究したらフェミニストからボコボコに攻撃されるだろうが・・・)

つまり、正規分布になっていないということは、これは何らかの別の要素が含まれていると判断できる。統計学的にはフィッシャーがいうように多様性と進化に関連する可能性があると私は考える。それは時代が変わって、新たな美人の価値観を多様性によって準備しているという考え方である。

もうひとつは、何度か述べているように単なる顔つきだけでなく「動き」「仕草」「態度」という要素が大きいように思える。サビーナ・アルシンベコバさんも普通に街を歩いていたら背が高いので目立つかもしれないが、そうでなければ「誰もが振り返る絶世の美女」と思われることはないだろう。やはり彼女はバレーボールをプレイするから美しく見えるのだろう。

一般的に少数派というのは美人であっても、学校でイジメの対象となることが多い。社会的な平均回帰への意識が強いのか? 少数派を迫害する精神が子供のイジメという形で顕在化することが考えられる。しかし、一旦そこから解放されると、美人は美人同士で、そうでない人はそうでない人同士が友人になりやすい。つまり「類は友を呼ぶ」という現象である。そして愚かな男どもは美人を求めて行動する。それを見た他の女性は嫉妬する・・・こういう社会構造がある。

しかし「美」というものは、それほど単純なものではない。男女ともに「強さ」が「美しさ」になることある。そして「強く、美しい者同士」が「理解しあえる大人の仲間」になる。私は、誰だって「美しくなるチャンスを持っている」と思っている。子供のころはそれほど注目されなかった子供が大人になって「強く」「美しく」なっている人は大勢いる。そういう人たちは必ず何らかの訓練をした経験をもっている。それは、スポーツ、文化活動、勉強、技能・・・人によって様々だ。

まあ私は「努力」という言葉はあまり好きではないが、たしかにトップアスリートや音楽演奏家には「血のにじむような訓練」をしている人は多い。しかし、そこまでしなくても日々の簡単な「訓練の継続」だけでも10年、20年後には立派な大人になることはできる。そういう人は「強く」そして「美しく」なれる。女性だって、それほど美人でなくても素敵な女性は大勢いる。しかし、それを最初から諦めた女性は「嫉妬心」と「恨み」だけが残り、いつまでも美しくなれない? そんな気がするのは私だけだろうか? 


恋愛とお見合い・・・どっちが残酷か?
一般的にフェミニストは「女性の人権向上」とか言いながら、実は男女の恋愛や結婚そのものを否定している。フェミニストは常に「女性は奴隷扱いだった」と主張しているが。しかし本音は別のところにある。

特にフェミニストにとって「お見合い結婚」は、女性の人権侵害だと主張する。たしかに血縁選択性を重視する中国や朝鮮、そしてかつての日本の農村部のように、夫婦、家族よりも一族、親戚を重視し「よそ者」である「嫁」は奴隷扱いされたことはあった。嫁は子供を産む機械であり、ムラ社会(一族、親族)の為の労働に従事なければならなかった。そして避妊具等が無い時代には子供も多産、そして死亡(間引き含む)も多かった。

しかし確実にムラ社会は維持できた。それが唯一の生き残る道だった。現在でも中国や韓国ではその名残は根強く、個人や国家よりも、ムラ(一族)いわゆる生物学的な血縁選択性を重視する社会であった。その生活が困難になると「他部族の富を奪う」という「利己的行動」をとったのが中国、朝鮮の歴史である。その文化的は背景は今なお色濃く残っている。たしかにそういう社会の女性は苦労したであろう。しかし男たちもハードな仕事をしていたわけで、時には他民族と戦うこともあった。つまり「一族としては利己的」であるが女性を含め個人は「自己犠牲を強制」された社会ともいえる。そういう意味では女性は「奴隷」とはいえないにしても過酷な状況だったことは事実だ。

さて一方で自由恋愛、そして恋愛結婚はどうだろう。これは男女ともに「愛する人とともに一緒になれる」という美しいドラマのような世界であるが、それは個人主義でもある。しかし生物学的に遺伝的多様性という合理性を持っている。フェミニストは「お見合い結婚」は否定するから、当然ながら「恋愛結婚」は肯定するのかとおもいきや、そこはどっこい一番の憎悪は「男女の純愛」である。そう「嫉妬心」である。結婚を全否定する・・・それがフェミニストの本音である。

たしかに恋愛結婚が主流になると必ず「チャンスを逃す存在」が生まれる。当然、子孫は残せない。一夫一妻で自由恋愛、そして夫婦の子供の数は3人以上にならないと必ず人口は減少する。ある意味で自由な恋愛というのは社会にとって残酷なものである。

現代の日本社会や欧米社会では個人が重視され、ムラ社会ではなく「国民国家」という単位で各々が様々な仕事をしている。当然、個人の国内移動の自由、職業選択の自由、宗教の自由がある。そして自由恋愛がある。何度か私が述べているように現代日本は基本的に「個人主権」と「国家主権」の二つしか存在しない。地方主権とかムラ社会重視という考え方は、反国家主義、そして反個人主義であると断定できる。

私は、「恋愛とお見合い」・・・どちらも残酷だと思っている。生活して子孫を残すということは必ず苦労を伴うし、何かの犠牲も生まれる。しかしそれって「すばらしいこと」ではないだろうか。少なくともフェミニストのように恋愛、お見合い関係なく結婚そのものを否定して、「皆の不幸を陰で喜ぶ」ような人々に社会を形成すること不可能である。

以前、私は自分の娘に「是非恋をしてほしい」といったことがあった。大正時代のうた「ゴンドラの歌」では、「命短し 恋せよ 乙女・・・」なんてしゃれた歌があった。しかし私が一番気に入っているのはジャズのスタンダードナンバー 「But Beautiful」である。これも古い曲だが、最近になって本当の意味が理解できたような気がした。

Love is funny or it’s sad
Or it’s quiet or it’s mad
It’s a good thing or it’s bad
But beautiful

これって本質だと思う。結婚した後だって子育て、家のローン・・・色々な事がある。そして様々な困難を男女が乗り越えて生活していく。恋愛もお見合いも残酷だ・・・でもやはり美しい。そう想う心がなければ社会は形成できない。


フェミニストの運命
フェミニストというのは不思議な存在だ。特に目立つ(割合が多い)のが「独身オバサン」と「レズビアン」である。中には純粋に「女性の地位向上」を訴える女性もいるが、それは既婚女性が多く極めて少数派である。まあ「独身オバサン」と言っただけで「差別、差別」と叫ぶだろう。しかし、よくよく観察していると彼女たちは「男女の純愛」や「男女の性的行為」そのものも許せないのである。

多くのフェミニストは専業主婦や子育て行為を憎悪し、影の少子化推進派なのである。こういう人種を少子化対策チームに加えても全く無意味であり逆効果である。それを反日勢力(中国、朝鮮)が上手く利用している・・・というか上手く波長が合ってしまったのが本質である。東京都議会のセクハラやじの被害者?である塩村議員自身はフェミニストには見えない。結局は自民党議員が非難を浴び、維新の会である塩村議員もネット上で誹謗中傷され、喜んだのは共産党系議員だけかも?

フェミニストの敵である専業主婦は一見して「楽」そうに見えたり、「三食昼寝付き」と揶揄されることがある。しかし精神的な苦痛も多い。私の妻も子供が小さい頃は「家に居るばかりは嫌」のようなことを言っていたが、いざ外で働いて仕事が忙しくなると「やっぱり家がいいなあ」なんていう。結局それは長い女性の人生の中での一場面に過ぎない。

女性だって、長い人生の中で様々なことがある。結局は、家族を持ち幸せな気持ちになる瞬間は多くある。苦労しながらも達成感や家族の安らぎがある。とくに夫婦で安定した収入があれば尚更だ。そりゃ夫婦でケンカすることもあれば子供の問題が発生することもある。長い人生の中でそうしたことを経験を経て様々な哲学を感じるようになる。しかし、フェミニストはそれをすべて否定しようとする。

とにかくフェミニストは「嫉妬心」の塊であり、それをパワーの源としている。結局は「女性の人権」という主張は「正義の味方」のふりをして男性への逆差別を生んでいる。そのことに解っていながらも運動を推進する。フェミニストの根本思想はこうだ。「結婚を否定しろ」、「出産を否定しろ」・・・・。

つまり嫉妬心が強すぎるあまりに、「男女の幸福が許せない」というのが根底に存在する。多くの女性は他の女性の幸せは許せないのである。他の女性の不幸は楽しい。自分より綺麗な女性は許せない・・・。これが女性の悲しい性(さが)である。

一方で既婚女性や子供を持つ女性は、独身女性に対して「気楽でいいわよね」といいながら、心の中でバカにしている。そして何よりも独身女性に対する「嫉妬心」は全く持っていない。女性の世界は本当に残酷だ(コワイ、コワイ)。しかし社会学を学ぶにあたってこの議論は避けて通れない。

さてフェミニストは、従軍慰安婦問題で「強制連行とか」「性奴隷」ということが、そもそもの嫌悪感のベースになっていない。これらの主張はあくまでも社会の同情を得るための道具である。本当の嫌悪感は「男女が楽しくセックスする」ことに嫌悪感を持っているのである。

従って、「30万人強制連行は事実じゃないですよ」といっても、そもそもの嫌悪感の焦点がそこではないから話にならない。論点をすりかえて、だれでも馴染みやすい「人権問題」であると主張する。その代表格が東海大の金慶珠である。また、すべての反論を聞く耳持たないのがタレントの田嶋陽子であり、その典型的な存在である。(田嶋陽子はテレビ的には面白かもしれないが、社会悪だから公共電波に乗せない方がよい)

そもそもフェミニズムは何も日本だけの話ではない。起源は様々な説があるが、やはりフランス革命が大きなきっかけになっている。やはりフランス革命は色んな意味で考えさせられる出来事だ。私は「フェミニズム=嫉妬心」と断定してもいいと思っている。これは個人だけでなく、例えば韓国という国家も日本への嫉妬心の強さのあまりにフェミニズムのような反日活動をしていると言える。それが本質でなのである。本当は韓国は日本への反日ではなく「強烈な嫉妬心」なのである。

かつて日本では女性は皆が結婚できた。それは結婚しないと生きていけないことも理由であった。そして身分の高い家柄の女性は嫁ぎ先が最初から決まっており、女性としても魅力があろうが、なかろうが結婚できた。男性側も女性側も初対面で結婚して、どっちが得したかなんてのは誰にも判定できない。

しかし現代社会は自由恋愛が基本である。どうしても婚期を逃す女性や男性が生まれる。独身男性はアダルトビデオを見たり、風俗行けばある程度の性欲解消は可能である。男の性欲は単純であることは生物学的に否定しようがない。しかし女性の場合は40歳過ぎると、どうしようもなくなる。

そういう危機感と幸せな女性に対する憎悪・・・そして「皆が不幸になればいいのよ」という反社会的な行動に出る。そして喚きながら子孫を残せずに死んでゆく運命が待っている。まあ可哀そうと言えば可哀そうかもしれないが、社会にとっては「悪」のような存在であることは間違いない。かといって古典的な「いいなづけ」や「お見合い制度」は認めない。

また、やっかいなのはフェミニストは結構おカネを持っていること。にもかかわらず社会貢献度も低く、モノやサービスを購入するのを控える(ケチである)。そしてプロパガンダ活動でうっぷん晴らしをする。

なかなかこの問題の解決策は難しい。私の奇抜な案だが、フェミニスト特区(あるいは独立国家)をつくって彼女たちだけで生活させる。自治権、経営権、自衛権 (彼女たちは自衛隊否定しているから自警団かなあ)・・・すべての権利を与える。望み通りすべての権利を与える。そして自分たちの力だけで生活させる。ただし出入国管理は厳正にする。日本本土への入国を制限する。・・・うーん、これしかないな。場所は・・・尖閣諸島がいいかなあ。

私は維新の会が推奨する「経済特区」に反対の立場だが、「フェミニスト自治共和国」として「特区」を作るなら大賛成である。さあフェミニストの皆さん、権利を主張するなら私の案に同意できますよね!


テーマ:従軍慰安婦性奴隷制問題 - ジャンル:政治・経済

セクハラやじの解決策
東京都議会のセクハラやじで、鈴木章浩都議が名乗り出て塩村文夏都議の目の前で謝罪する光景がテレビで放映されていた。また鈴木章浩都議の事務所に生卵が投げつけられる事件も発生している。そもそもくだらないニュースだが、ここまで波紋を呼んでしまうのはプロパガンダの匂いがプンプンする。

あの橋下大阪市長ですら「自民党はけしからん」という状況になっている。「結婚したほうがいいんじゃないか」って解釈によっては何とでもなる。そもそも「結婚」や「出産」はめでたいものである。「離婚したほうが・・・」とか「死んだ方が・・・」というのは問題あるだろう。しかし女性が30歳代後半になると「結婚」「出産」は禁句になる。

それは何故か? ずばり女性の「嫉妬心」に火を着けてしまうからである。セクハラのプロパガンダ集団はこの「嫉妬心」の塊のような存在である。一方でインターネット上では塩村議員への誹謗中傷も多い。これも結構本人にとってはキツイと思うが・・・ そもそも誰かに唆されているように見える。

大抵の恋愛や結婚は性的なことは伴うし、男性は第三者からみたらセクハラのような言葉も使う。しかし女性はそれを受け入れて結婚するのである。しかし「嫉妬心」の強い女性はそのこと自体が気に入らないのである。

ここで、いっそのこと塩村議員と鈴木議員がこれをきっかけに結婚したらおもしろいだろうなあ。セクハラのプロパガンダ集団は発狂するだろう。塩村議員はインタビューでこう応えれば良い。「私はあのヤジで目覚めました」「彼の正直さに惹かれました」。

YOU TUBEで問題のシーンが流されたが、ヤジのあとに塩村議員は笑っていた・・・そしてセクハラのプロパガンダに利用された。そして大手マスメディアは「セクハラは良くない」と言うしかない。完全に罠にはまっている。


テーマ:少子化問題 - ジャンル:政治・経済



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小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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