理系おじさんの社会学
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基本的人権の尊重とは?
日本国憲法の三原則として、「国民主権」「平和主義(戦争放棄)」そして「基本的人権の尊重」がある。この崇高?な理念の追求のために様々な憲法条文や各種法令が存在する。これらの思想はアメリカ独立宣言やフランス革命といった啓蒙思想をベースにしており、フリーメーソンの理念でもある「自由」「平等」「博愛」が根底にある。これらの思想はかつて欧州の絶対王政や過度な帝国主義などの歴史的な反作用によるものと考えるべきだろう。

日本国憲法もそうした思想の影響を受けている(受けさせられた)。現代日本において、特に「基本的人権の尊重」という理念を根拠にして、「人権派」は様々な人権擁護活動を行い、特に弁護士にとってそれが事実上の重要な収入源となっている。また個人の自由の尊重として「宗教の自由」、「職業選択の自由」、そして「移動の自由」という原則がある。これも個人主義というか、ワガママとも言える行動までも正当化させるための口実として、こうした憲法解釈を引用されることは非常に多い。

上位規定?と考えられている憲法の内容が保証されるべきという解釈が一般的に強いため、しばし最高裁は社会理念と解離した判決を下すこともある。そして「報道の自由」を声だかに叫んだり、選挙での「一票の格差問題」を大きく取り上げたりするのは、こうした憲法の内容を絶対視する理念が存在するからだ。はっきり言って、報道規制にしても一票の格差問題にしても社会に与える悪影響など皆無である。にもかかわらず、こうしたことを主張するのは悪く言えば憲法解釈の悪用であり、結果的に自己権利の拡大や弁護士報酬の拡大につながるだけである。

人間は一人では生きていけない。広い砂漠の中、あるいは大洋に浮かぶボートの上に一人存在してもすぐに息絶えてしまう。社会インフラはハード面もソフト面も絶対に必要だし、人々の協力も必要だ。基本的に人間は社会性のある生物であり、多少なりとも他人に迷惑をかけたり、貢献したりしながら生活している。そして何だって義務と権利というものが存在する。それを権利ばかり主張するから眉唾モノになってしまう。すでに多くの人々は気付いている。

たしかに人権問題は現代も存在する。それは、例えば子供のイジメ問題、長時間労働、強制ボランティアなど・・・。しかし多くの弁護士は取り上げない。何故なら「カネにならない」からだ。一方で国家を相手にしたり、大企業を相手にするとカネになる可能性が大きい。しかし実際の労働問題は中小企業や破綻しかかった大企業で多いのは明らかだ。また近隣トラブルに伴う嫌がらせのような人権問題はむしろ閉鎖されたムラ社会や防音壁のないアパートだったりする。しかしそういう問題は事件が発生するまで放置される。

つまり相手の「支払い能力」の有無で人権問題がクローズアップするわけだ。公立学校教諭の不祥事や警官や自衛隊員の不祥事を優先して報道するのもマスコミが注目を浴びて、大きな組織へのバッシングをしやすくするため。一方で小さな組織やコミュニティーでの不祥事は全く報じない。要するに「人権活動に公平公正は存在しない」ということだ。現代の売春問題に目を背けて70年前の慰安婦問題をクローズアップするのも、そういう背景がある。弁護士は依頼がなければ活動しない。依頼があるものはカネが動くもののみである。現代の人権活動=カネといっても過言ではない。

基本的人権の尊重、そして法の下の平等・・・この理念は私も正しいと考えている。しかしその活動の目的は何か?そして誰のための活動か?という視点で考えればよーく社会がよく見えてくる。


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憲法と法律の違い
憲法と法律の違いを論じるときによく「憲法:国民の味方で政府を縛るもの」で「法律:憲法の下で政府が国民を縛るもの」と解釈されることが多い。すると現行憲法が本当に国民の味方になっているのか?とか、政府が国民を本当に縛っているのか?という疑問が発生する。よく左翼、護憲派は「憲法」を絶対的な神のような存在と信じ、国家(政府)の横暴は許さないといった基本思想が存在する。それは完全に先の大戦のトラウマである。

しかしよくよく考えると憲法で定める記述が国民の味方になっているとは到底思えない文言が多い。そもそも前文の「・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」 はあ? アメリカに公正と信義があるのか?中国に公正と信義があるのか?答えは小学生でも解る。そんなヤクザ国家のような国々を信頼して・・・悪い冗談を?・・・いやそれが憲法の前文になっている。あの左翼護憲派だってアメリカの横暴を非難しているではないか?しかしこの前文は憲法の理念でもあるので覆すのは大変だ。何しろ絶対的な神のような存在と信じている勢力があまりにも多いからだ。

命令されたことに忠実に従うことを好む人間は、自ら思考するという面倒さを拒否する。それは護憲派だって右翼だって同じだ。おそらく人間の動物的本能なのかもしれない。だって楽だもん。そして一見してカッコいいからだ。反政府主義とか反骨精神だって「タダのカッコつけ」の色彩が強い。あの60-70年代の学生紛争も思想哲学というより何やら娯楽と同様の空気の影響だったように思える。もし本当に公平公正を求めるならば科学技術を学ぶことが最も近道だろう。

保守系の勢力が主張するように現行憲法が戦後アメリカからの押しつけ憲法であったことは疑いのない事実だ。「強い日本」を否定して「やさしい日本」を望むのは社民党だけではなく中国であり朝鮮であり、そしてアメリカである。つまり言葉を換えれば「弱い日本、諸外国の言いなりの日本」が諸外国にとっては都合がいいのである。しかしそんな諸外国も「平和を愛する諸国民の公正と信義」扱いなのだから本当にバカバカしい限りだ。

日本の弁護士のほとんどは日弁連に所属しているが、その代表は都知事選でも話題になった共産党の宇都宮氏である。また日弁連として死刑廃止を訴えている。もちろん個別の弁護士は様々な思想哲学を持っているが、個別の弁護士の収入安定、および収入向上のためには人権派活動は欠かせなかった。はっきり言って弁護士も商売だ。どれだけ凶悪犯の被告でも弁護依頼を受ければ弁護するのは法律上認められた権利であり、それが「仕事」だった。これらがなければ彼らは収入を絶たれる。請け負った仕事は最後まで全うする・・・日本人らしいといえば日本人らしい精神も見え隠れする。

しかし今後は朝日新聞への集団訴訟のように1万人以上が賛同して裁判活動ができる(収入が安定する)なら、日弁連は左翼系ではなく保守系にシフトすることもあるかもしれない。要はカネと世論だ。内容は何だってよい。しかし新聞記者も弁護士も社会のバッシングを浴びるのは辛いこと。仕事(収入)のために一線を越えるとどういうことになるか。結局、法律と社会はそういう関係をもたらしたということ。

このように政府が法律によって国民を縛っている側面は少ない。つまり法律は商売(利害関係)に利用される。例えば法律の規制緩和は必ず何らかの商売が必ず関連している。私の解釈では、憲法が国民を縛っている。そして法律は社会を守っている。それが現代日本の基本構造である。もちろん様々な法改正も必要だろう。しかしそれは誰のために?を考えるべきであって憲法だって誰のため?と考える必要がある。


「一票の格差」と「法の下の平等」
衆議院選挙が終わり、恒例の如く?「一票の格差問題」を訴える勢力が出現する。最高裁も「違憲状態」と判断している。また以前、「婚外子の相続が二分の一が違憲」とする判決を最高裁は出している。その理由が「産まれてくる子供に罪はない」とか「産まれてくる子供は平等だ」という考え方がある。いずれも「法の下の平等」と「基本的人権の尊重」がベースにある。

これに関する反発は、いわゆる保守勢力だけではない。多くの一般庶民も疑問に思っている。左よりの私の妻でさえ疑問に感じている。例えば、私がどこかの女と不倫して隠し子がいたとしよう。そして私が早死にしたとしよう(イヤな喩えだが・・・)。そこで、その不倫相手の女と子供が突然現れて「遺産を同額よこせ」なんて言ったら、残された家族は経済的にも精神的にも崩壊する。

もし世の中で産まれて来る子供がすべて平等なら、誰もが産まれてすぐに「寄宿舎」に入れて、毎日のように「同じ食べ物」、「同じ量の食事」、「同じ睡眠時間」・・・。古代ギリシャのスパルタのように同じ教育と同じ訓練を施す。もちろん、個性はすべて否定する。そして、同じ年齢になったら皆殺害する・・・まるで、ブロイラーの鶏のように・・・それが本当の平等というものだ。

日本の最高裁はそのような「平等」を目指しているのだろうか?かつての中国共産党は、国民党の富裕層の財産を奪い、農地で働かせ、大躍進政策と文革を強行した。その根底には「平等意識」と「富裕層に対する妬み」が存在した。そう、実は平等意識というより「嫉妬心」というものが中心にあった。それが事の本質だ。

私の尊敬する福澤諭吉先生の名言、「世の中で一番醜いことは、人の生活を羨むこと」がある。よく考えてみよう。この「一票の格差」で誰かが何か大きな損害を被りましたか?また誰かが悲しい思いをしましたか? どうしても一票の重みを増したければ地方に移住すればよいではないか?日本人には移動の自由はあるし、職業選択の自由はある。

人類の歴史からも、人類学的にも家族は一つの共同体だ。会社だって一つの共同体だ。それぞれの家訓や社訓というものはある。地方だって共同体であり、それぞれで条例を作成することはできる。それぞれの組織の自由は存在するし、その組織の中で完全なる自由はない。しかし、そうした組織が条件となって、自己組織化や自生的秩序が生まれる。

当然ながら家族と別れる、会社に所属しない生き方もあるだろう。だからといって、既存の組織を「平等」と称して攻撃することは適切ではない。そうした組織に何らかの問題があれば、自ら崩壊するものだ。誰かが「嫉妬心」を下に安定した組織を攻撃しても、そこには自己組織化や自生的秩序ではなく、カオスとエントロピー増大しか発生しない。

私は憲法の下で個人重視することを完全に否定するわけではない。しかし社会や組織を無視して、個人の権利を重視することが、必ずしも個人を救済することではないこと。「一票の格差」と「法の下の平等」というのはホントに奥深い議論であるはずだ。少なくとも決して「嫉妬心」で考えてはいけない。一部の弁護士、マスコミは意図的に世間の「嫉妬心」を煽ることがある。全くもって「醜い存在」としか言いようがない。


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憲法改正「国民過半数の要件」を廃止せよ
明日、5月3日は憲法記念日である。何が記念なのかよく分からない。 現在でも憲法改正、または自主憲法制定など様々な議論がある。しかし今のままでは、どちらも不可能である。なぜなら個々の憲法改正案件でいちいち国民の過半数+衆参両議院の2/3なんて不可能だからである。そもそも「憲法改正するな」という憲法なのである。現在のような憲法解釈を永遠に続けることも限界がある。本当に憲法改正したいなら、強引に変えてしまうか、根気強い戦略が必要である。

私は基本的に自主憲法制定論に賛成である。そもそも現行憲法に法的根拠はない。占領下に押し付けられた憲法であることは間違いない。様々なこじつけで正当性を主張してもやはり無理がある。従って、ゼロから見直すことに賛成である。すでに実質的な有効期限?あるいは賞味期限?は過ぎている。もともと自民党は憲法改正を党是としていた。共産党は当初は新憲法に反対していたし特に9条にも反対であった。しかし、いつのまにか護憲政党になり、社民党とともの護憲勢力である。結局は党存続のために世論に迎合したのである。今でも護憲思想は国民にも根強い。それが一番の問題点である。

現在、国会議員の2/3賛成条項を1/2に緩和するというのが自民党案である。しかし私はそれに反対である。何故なら、それは諸刃の剣だからである。ポピュリズムだけ憲法が改正されたら社会が混乱するだけになる。むしろ国会議員2/3条項はそのまま(大日本帝国憲法でも2/3だった)にする。ただし「国民過半数の要件」を廃止する。これが私の主張である。

私は安部首相が述べた「国民が過半数であっても、国会議員2/3で憲法改正できないのは・・・」という考えには反対である。そもそも国民を「御輿」に担ぐものではないと思っている。こういう主張は何も安部首相だけではない。多くの国会議員や憲法専門家までも述べている。私は民主主義について全面否定しないが、国民主権はやりすぎである。憲法のようなものは国民には決定できない。

所詮、民主主義だって「国民のワガママ」である。しかしワガママを聞いてあげる必要はある。だから私は民主主義を全面否定しないと言っている。しかし憲法のような社会の基本となるものを国民のワガママ、あるいは外圧に委ねることはあってはならない。国民主権なんて、ただの幻想である。まあこういう意見を公にしただけで、国民は反発するであろう。だから「ワガママ」なのである。更に国会議員がそんな発言したら簡単に首が飛ぶであろう。安部首相ですら、ああいうコメントしか出せないのは現在の日本の大きな問題点である。

結局、誰もが国民様が怖いのである。だから国民主権なんて言って、国民を祀り上げるから問題なのである。今の国民様には全ての責任を背負う覚悟なんてない。やはり重要なことは「お上」に決めてもらった方が良いと早く気付くべきである。やっかいなことに戦後の国民様は、「お上」は悪いことをするから国民に権利をよこせという欧米的な市民革命思想が染みついている。かといって国民は大きな権利がありながら大きな責任を取ることはない。

つまり国会議員は責任をとって辞職することは可能である。しかし、国民に責任があった場合に国民を辞めますかって話だ。そんな覚悟は今の国民にはない。私も国民の一人だ。そうまでして国民主権を要求する気はない。要するに「責任取れない者に権限を与えるな」ということである。国民の義務と権利について、以下の内容を改めて明確にすべきである。

1.国民の義務: 教育、労働、納税、そして法令順守

2.国民の権利: 議員の選挙権、基本的人権、行政サービス

これだけで十分である。憲法改正の権利は国民にあってはならない。首相公選の権利だって許されない。つまり民主主義とは言っても、国民主権ではないということ。間接民主主義でなければ、国民がすべての責任を負うことになってしまう。

もっと極端な例えをすると「国民に御英断はできない」あるいは「国民が英断すべきではない」ということである。想像してみよう。大東亜戦争時は国民主権だったする。終戦すべしか否かの枢密院会議で結論が出ずに鈴木貫太郎首相が、国民に「ご決断を」と問いかけたとしよう。すると当時の日本国民の多くは、「一億総玉砕を覚悟」を選んだ可能性が非常に高い。そういう教育を受けていた影響も当然あるが、「国民の責任」というものを意識していたからだ。それで本当に良いのだろうか?阿南陸相は御前会議で「国体を守り」「一億総玉砕を覚悟」することを主張した。それは「国民の責任」を貫き通すことであり、ある意味で正しい論調である。もちろん戦争を続けるなんて不可能だった。しかし阿南陸相の思いは当時の日本国民の思いも代弁していたのだ。昭和天皇もそれを十分理解されていた。だからこそ御聖断されたのである。そして阿南陸相が涙を流した。彼は軍人として、国民として責任を全うしようとした。そういう意味で私は阿南陸相の考えは十分理解できる。

一方、現代の日本国民がこのような状況に置かれて「ご決断を」と時の首相が問いかけたらどうなるであろうか。おそらく現代の国民は「ワー、ギャー、ウー」と言いながら騒ぐだけで結論を出さない。国民投票? そんな余裕はない。第三者機関と名乗る怪しいボランティアが現れて終戦を決断する・・・? そんなやり方に誰が納得するのか?おそらく日本は内戦状態になるであろう。やはり天皇陛下が御聖断されたからこそ、当時のすべての国民は納得したのである。そのとき昭和天皇は自らの身分や御命も覚悟されていた。さあ、果たして現代の国民様はそんなことができるでしょうか?私は断言します。絶対にできないし、するべきではない。

憲法改正にしても、国民の過半数で正しく判断することなんて不可能である。もちろん適切な責任だってとれない。だから「国民過半数の要件を廃止する」べきなのである。この提案について、先に述べた通り、今のままでは国会議員からの提案すらできないであろう。著名な評論家もできないであろう。なにせ皆が国民様を敵にまわしたくないからである。

では誰が提案するのか? それは当然ながら一般の国民しかいない。こう問い詰めれば良いのだ。ねえ国民様、あなた「責任とれますか」「覚悟できますか」そして「御英断できますか」そして、国家の失政があった場合には「日本国民を辞めてもらいますか」と通告する。国民主権というものはそれぐらいの覚悟が必要なのである。

仮にこの要件が無くなっても、国民世論を全否定することにはならない。戦前だって世論で政治が動いていたのは間違いない事実だ。従って、今こそ「国民過半数の要件を廃止せよ」という国民運動を起こすべきである。私が知る限り、こういう主張は誰もしていない。国民運動が大きくなり、そういう強い後押しがあってこそ、ようやく国会議員からも提案できるというものである。そういう世論形成することが第一段階である。

私はすべてゼロにしてから自主憲法制定するのが良いと述べた。たしかに、どうしても現行憲法下での改定が必要との考えも根強いであろう。ならば先ず「国民過半数要件の廃止案」を国民投票にかける。そして国民投票で過半数の同意を得る。そうなれば、国会議員の投票にも必ず影響する。中道左派も賛成投じて2/3を確保する可能性も高い。そこまでいったら、ようやく自主憲法の草案が国会審議スタートすることが可能になる。



テーマ:国家論・憲法総論 - ジャンル:政治・経済

民主主義だけ本当に良いのか
最近、ネット上で様々な誹謗中傷合戦がある。どうしてこうなるのかなあと思う。私の場合、もともと何の利害関係もない一国民なので、仮に間違えたり、失敗すれば「ごめんなさい」って言って簡単に訂正、修正できる。本来は科学技術なんてものはそうあるべきだ。しかし昨今話題になっている理化学研究所のように権威のある立場だと簡単に「ごめんなさい」なんて言えないようだ。私の場合は、主義主張が一貫していないなんて非難されることもない。例えば、今までブログに書いて記事も間違いもあったかもしれない。でも、それを誰かが指摘して直すきっかけになれば結構有難い話である。そう誰だって失敗する。誰だって間違える。それは医者だって弁護士だって・・・えっ医者の失敗・・・それは困るっていうかもしれないが、同じ人間だから仕方がないじゃないですか。失敗を少なくする努力を継続することこそが重要なこと。

しかし、間違っているとか間違っていないとかは、政治や社会においては立場によっても随分異なるものである。それでも国家感や社会通念として違うでしょということはよくある。通常、政治家や各種団体、さらには評論家の方々はそう簡単に持論を撤回することはない(というより立場があるから簡単に撤回出来ない)。心の中で間違っていると思っても立場というものがある。特に政治家が言葉をコロコロ変えると主義主張が一貫してないと非難されて支持されなくなる。特に多くの支援団体や政治献金等が多ければ、もう後戻りできなくなる。それは弁護士だってそうだ。責任ある立場になればなるほど、言葉を選ばなければならない。それは大企業の幹部だってそうだ。

でも政治家や弁護士が、発言が制限されるということは大きな問題だと思う。また国内外問わず機密事項があれば更に発言が制限される。そして、政敵から言論攻撃されたときに相手の言っていることが正論であると分かりながらも抵抗しなければならないことだってある。よく雄弁だった新人議員が当選後に時間が経過するとともに言葉数が減っていく事もよくある。

結局、民主主義とは必ず国民同士あるいは団体同士の利害関係が衝突するものなのである。例えば、農業団体と工業団体の対立がその典型的だ。どちらが絶対に悪いなんてない。そして、どんな事案であれ、声の大きい者、カネのある者、そして数の力に従うようになる。そう数の力である。かつての共産主義が衰退してから、「民主主義こそ唯一の政治手法だ」ということが有識者の声から多く聞かれる。私も長らくそう思っていた。果たして本当にそうであろうか?

先ず第一に民主主義とはなんぞやという話になる。多くの国民は必ず何らかの組織に所属している、労働組合、医師会、弁護士会、経団連、商工会議所、農協・・・等。こうした団体の意見を聞くのも民主主義である。そういう組織は当然のことながら、それぞれの団体の利益を考える。また主婦は主婦の立場で、高齢者は高齢者の立場で利益を考える。そして子を持つ親は子供のための政策を支持する、なんとなく深く考えずに空気で投票する無党派層も多いであろう。しかし立場をかけて候補者を支援し投票した人にとっては時に死活問題になることもある。既得権益であろうが何であろうが、誰もがこの国で生活しているのだ。当然ながら立場によって利害が対立すれることは当然ある。そして最悪の場合は誹謗中傷合戦になる。マスコミを利用してスキャンダル探しもする。そして国会議員たちは、そうした支援者、支援団体、そして何となく投票した国民に支えられて当選して政治活動を行う。

では、果たして社会全体の利益、または国益とは誰が考えるべきであろうか?もちろん国家や社会のことを考えて投票する人もいるだろう。しかし個人の仕事や家庭を犠牲にしてまで、国家や社会の安定を望む人はどれだけいるのか?実際には投票行為や政治活動には反映しにくい。私だって、グローバル企業に勤務しながらも日本社会の安定や国益を考えるなんて限界がある。まあ、このようなブログで訴えているくらいだ。それは国会議員だけではない。例えば、政府直轄の産業競争力会議では民間議員と称して、各種利益団体の代表が集まっている。所詮、民間議員とか第三者委員会とかだって、何らかの特定の利益団体の代表の集まりである。従って社会的な公平さなんて全く期待できない。まだ国会議員グループの方が選挙に当選している分は10倍以上マシだ。そうなると基本的に、誰も社会全体の利益や国益を考える人はいないということになる。たしかに国家感をもった国会議員も存在する。しかし決して強い支援団体の代表でない。従って資金力にしても、後援会にしても政治的パワーが極めて弱いのだ。各種団体を支持母体に持っている政治家とは明らかにパワーが違うのである。

しかし本当の意味で個人や団体の利益だけを考えずに国家や社会を考える最強な存在が一つだけある。それは「天皇」である。天皇そのものの身分や生活が完全に保障されていることもあるが、元来の日本の天皇とはそういう存在なのだ。天皇は、諸外国の国王や皇帝とは異なり、暴君だったことや、専制君主をしたことは一度もない。もちろん天皇も人間である。自由が欲しいという気持ちもあるかもしれない。今上天皇自身も「天皇は孤独」とも発言されている。しかし孤独であっても常に日本の社会や国家を考える立場なのだ。本当にそれは壮絶な孤独との戦いだろう。先般の記者会見では、「天皇は孤独なものであるが、皇后が支えてくれた」と感謝に意を表されている。ただし天皇が直接政治を動かすことはできない。それは、国会が完全に二分したとき、あるいは国会が機能を停止したとき(クーデター等)。時に、開戦や終戦、領土の変更等の国家の一大事で政府だけでは決定できないときのみ御聖断を仰ぐ。かつての大日本帝国のこの解釈は極めて正しい考え方だ。

私はあえて多くの非難(もしかしたら誹謗中傷)も覚悟で提案します。それは国会に「貴族院」を復活させることである。旧皇族の宮家をすべて復活させる。また一部の旧華族も復活させる。そう、天皇の壮絶な孤独を守る強い組織が必要なのである。そして国家や社会全体のことを考える存在が必要なのである。当然ながら皇族宮家は全額公費を支給する。また旧華族も一定額の公費を支給する。皇族宮家は常任貴族院議員とする。皇族宮家からの議員は、男女合わせて50名を天皇の助言を得て宮内庁が調整する。旧華族は男女合わせて50名は皇族宮家が選出する。皇族議員、旧華族議員、おおよそ約100名ほどにする。100名分の国家予算なんて生保(ナマポ)に比べたら安いものだ。それで国家の為になるなら、そのほうが断然良い。

彼らの使命は唯一つ「国家のために働く」です。もちろん、皇族、華族だけでは人数も少ないため、一般文化人および各都道府県の代表も1名ずつ選出する。一般文化人は50名程度で候補者は、文化功労賞(文化勲章受章者)受賞者、三権の長の経験者、国立大学学長経験者、そして皇族、華族が推薦する者より選出される。(これは元々参議院の目指すところだったが、現在では崩壊している)候補者は70-80名程度で常任貴族院議員、および旧華族で推薦して、全国比例代表選挙で選出する。さらに46都道府県代表は、東京が東西で2名、北海道が南北2名で計48名代表を選出する。(国連は一国一票制である)これも重要である。それぞれの都道府県の意見を平等に聞き入れることも日本社会として重要だからである。従って計198名の貴族院を構成される。もちろん彼らに対する政治献金は一切禁止する。(基本的に貴族院での一票の格差は問わない。その代わり衆議院では一票格差を確実に2.0倍以内にする。)こういうメリハリは重要である。

たしかに現在の参議院は衆議院のカーボンコピーといわれても仕方がない。また、特定の支援団体や政治献金を全く持たない議員組織を作るために、貴族院の復活は絶対に必要だ。本当の意味での「良識の府」を作らなければならない。民主主義のために運営する衆議院、そして国家と社会のために運営する貴族院、これでようやく日本国の真の意味での再生が可能になる。まあ、ここまでなるにはあと100年以上はかかるであろう。そもそも国民思想そのものが変わらなければ当面は無理であろう。

そこで思い出したが、Wikipedia 米内光政(元首相、元海軍大臣)の記事の引用である。戦後の米内光政と武見太郎との会話で武見が「科学技術を振興して行けば、日本は立ち直って新しい国に生まれ変わることが出来ると思いますがね」と言ったのに対して、米内は「国民思想は科学技術より大事だよ」と大声をだしたという。そして米内の予想では「日本が本当に復興するまで二百年かかる」と述べた。近現代史学者の間では、米内光政の評価は賛否両論様々あるが、たしかに米内光政の述べたことは、その通りであると私は思う。






プロフィール

小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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