理系おじさんの社会学
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アメリカのシリア攻撃
アメリカのオバマ大統領は問題になっている「イスラム国」に対して、「アメリカ人への脅威」という表現をした。すでに報道では22箇所を攻撃したとされる。一方でケリー国務長官はよく「悪」という表現を使用する。かつて共和党ブッシュ政権時に「悪の枢軸:Axis of Evil」という表現が有名になった。アメリカが軍事行動する際にいつも気になるのが「悪」という表現だ。

そもそも私(理系おじさん)の考えでは、「悪」というのは宗教上の概念であり、科学的な意味はない。生物学的に「毒性」や「免疫」、そして「抗体」というものは存在するが、善悪という概念はない。社会では法的に有罪か無罪かはある。しかし「有罪=悪」ではない。しかし、こうした価値観を持つ人たちは一般的なアメリカ政府関係者ですら少ない。

これは何もアメリカだけではない、反日活動を続ける韓国や中国、そして朝日新聞は「日本=悪」という哲学を持っている。その証拠に「A級戦犯=悪」という考えが捨てられない。しかし科学的に「悪」なんて無意味であるのは当然ながら、法的にも全く無意味である。アメリカの場合はまだ「法を遵守」する姿勢があるから、まだマシかもしれない。

おそらくイスラム国側も「アメリカ=悪」という考え方が強いであろう。つまりキリスト教にしても、イスラム教にしても「一神教」では、「善悪」で判断になりがちというわけだ。中国や韓国も儒教思想でも、絶対的な存在への崇拝や陰陽二元論のような思想がある。

こういう国家との付き合いは本当に難しい。ただしアメリカや欧州は「法の支配」と「民主主義」があるから付き合いやすい面もある。しかしアメリカの場合は、上記に述べたように宗教的な「善悪論」を強調するからややこしい。一方で英国のように宗教的には比較的ラフ(英国国教会)で科学技術(特に実学)を尊重する文化の国家とは交流しやすい。

いつの時代もそうだが、貧困な国家ほど絶対的な宗教にすがり、善悪で判断する。そして最悪の場合は紛争になる歴史を繰り返してきた。国民が豊かであり、高度な文化や科学技術を振興することは平和への一つの手段であろう。

アメリカは先進国であり世界最強の国家であるにも関わらず「善悪二元論」に傾く。これは国内的には貧困層が多く、若年層の失業率も高い。そして何よりもアメリカの教会の影響が強いからだろうと推定している。


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超法規的措置とは
前回の記事では「善悪二元論」について深く論じた。今回は、それに関連する「超法規的措置」について論じたい。随分前の話だが、日本でハイジャック事件が発生し、犯人の要求に応じて政府はテロリストを釈放した。というの出来事があった。その時の名言(迷言?)「人の命は地球より重い」・・・・うーんこれにコメントする気はない。この対応は国際社会の非難を浴びた「テロリストを輸出するのか」と、実際に釈放されたテロリストは海外で犯罪を犯している。事前にそんなことも予測できない当時の政府の間抜けさは後世にも伝えられる。しかし、当時の日本社会はこの判断に対し理解を示していた。そう日本人特有の「やさしさ」と「国際感覚の無さ」です。実際に政府というのは世論の影響を受けやすい。当時はそういう空気だったのである。つい最近の総選挙でも「強く国ではなく、やさしい国」というスローガンにした政党があったが、それに同調する国民もいまだに多い。最近では「超法規的措置」という言葉を使うと非難を浴びるので、意図的?に「人道的見地から」というコメントに置き換えらている。それは日本の国内政治にはある程度許せる言葉だが、国際社会では通じない。私はあえて「超法規的措置」という表現を使用し、もっと広い意味で考えてみる。

果たして、超法規的措置はどういった時に可能なのだろうか?かつて小室直樹氏はロッキード事件の際に「総理大臣は賄賂を貰ってもよい、人を殺しても良い。」「それで社会が幸せになるならよい」「一般の小市民と総理大臣は違う」と述べた。当然、周りは彼を変人扱いした。小室直樹氏の意見を尊重すると、政治のトップは司法判断にすべて支配されるわけではない。と解釈することができる。ある意味で三権分立を正しく解釈しているともいえる。

例えば一票の格差の問題は「法の下の平等」ではなく「国家、または社会の安定」が優先されるという判断。このような政治判断をするのは大いにアリであろう。それと自衛隊を持つこと。これも違憲かもしれないが政治判断として正しい。しかし、そうした政治的判断が乱用されることを司法によって制限されるのも当然のこと。本来、政治判断としての超法規的措置とはその程度にすべきところであろう。

さて、近現代史において最大の超法規的措置とは何だろうか?私は躊躇せずこう答えます。1945年8月のアメリカによる広島・長崎の原爆投下だ。これはいまだに国家犯罪とし認定されていない。つまり超法規的措置だったということだ。当時、非戦闘員(一般市民)への無差別殺傷は国際法違反であった。逆に一般的な兵士は敵兵を殺す、あるいは敵から殺されるというのが兵士としての任務であり、それは許されるものであった。そこでアメリカとしても、どうしても原爆投下について超法規的措置として正当化させる必要があった。そのいくつかを挙げる。

①日本がハワイ真珠湾を打ち騙し打ちした(1941年12月8日)

これは説得力は弱い。確かにイメージは悪いが、先制攻撃というのはよくある事であった。また日本軍は真珠湾の米軍の軍艦や軍施設を攻撃対象としており、ハワイの一般人は攻撃していない。また宣戦布告の通知が遅れたのは日本の外務省(駐米職員)の手続きミスが原因であり、日本政府としてはそれを意図していなかった。加えて言えばアメリカも事前にこの攻撃情報について把握していたという。つまり真珠湾の太平洋艦隊を見殺しにしたのである。これをもって原爆投下は肯定できない。

②戦争を終わらせるために仕方がなかった。

これも全く説得力ない。これではすべての戦争で終結間際に原爆使用か認められるということになる。もっとも1945年5月ナチスドイツが降伏した時点で日本の敗戦は決定的だった。その後、3ヶ月間もずるずる引き延ばした日本政府にも大いに問題があるが。「本土決戦」なんてのを本気で考える軍の中枢はいなかった。当時、米内海相はもちろんであるが、阿南陸相ですら無理であることはよくわかっていた。

③南京大虐殺があったから

これが最も無茶苦茶な話だ。極東軍事裁判でアメリカは自国の正当性をアピールするために捏造されたものだ。特に20万人という数字が重要なポイントで広島・長崎の計19万人の犠牲者より多くなければならなかった。当時、南京に滞在した日本人、中国人、その他外国人はこの話が虚構であることを皆知っている。名古屋の河村市長の父親もその一人である。その他の多くの知識人も虚構であることを知っている。何故なら、当時の南京の人口、証言者の話、物証、日本軍の装備、どれをとっても根拠が薄いからだ。南京の記念館にある写真も、実は関連性のない写真であることが研究によって明らかにされつつある。特に残忍な写真については、通州事件や共産ゲリラに関する資料が転用されているという。STAP細胞の文献流用どころの話ではない。この件について疑われる方は、ネット上でも色々出ているのでそれを参照してください。いずれにしても南京大虐殺が捏造と全世界に知られることは中国というよりアメリカが困るのである。あの河村市長の発言を非難した名古屋市議の共産党員はアメリカのコミンテルンの手先か?なんて思ってしまう。

④アメリカは冷戦を見据えてソ連に対し有利になりたかった。

そんなこと日本や諸外国は知ったこっちゃない。アメリカの政治的都合だけで原爆投下が正当化されるわけない。確かにアメリカとしてはそのような理由は多少あったかもしれないが、でもそんな理由が超法規的措置につなげるのはあまりにも無理がある。最も残念なのは、現在もこの説が一般化していること。私も中学高校の教諭から教わった内容もこれであった。そんなアメリカの政治的立場のみ学校で説明するとは?あのときの教諭は国際法を何だとおもっているのだろうか?また超法規的措置とは何だと思っているのか?どこまで日本の教育は腐っているのだろうと今更ながらに呆れてしまう。

最近では、当時の福岡で作製された「ふうせん爆弾」がアメリカの原爆投下を決意させたとの日本のTV番組(NHKだったか?)を見たことがあった。アメリカは現在でも何とか原爆投下を正当化させようと必死だ。いずれにせよアメリカの原爆投下は全く正当性がなく、超法規的措置としても説得力は皆無である。最近でもアメリカの報道官はこの話が議論になると、いきなり歯切れが悪くなる。そう、この原爆投下という超法規的措置がアメリカに認められるのであれば、日本も含め世界中の国がアメリカに対して核攻撃しても正当化されるということになる。はたしてアメリカは反論できるのか?攻撃した国は「超法規的措置」といえばよい。あとは「どこかでアメリカのせいで一般市民が大勢死んでいる」と事実と虚構を織り合わせて物語を作り上げればいいまで。アメリカにとってみれば、おもいっきりブーメランです。もちろん日本が今更「復讐だ」「十倍返しだあ」なんてことでアメリカを核攻撃することは決してありえない。しかし、イランや北朝鮮はわからない。特に反米テロ組織は何するかわからない。そう、だからアメリカは、イラン、北朝鮮、そして反米テロリストの核武装を最も恐れているのだ。

ではどうすればいいか?わたくし小室沢の案だが、とりあえずアメリカは原爆投下について日本に正式に謝罪することだ。もちろん、日本側から今さら謝罪や賠償を求めることは意味がないし、サンフランシスコ講和条約で請求権も放棄している。従軍慰安婦問題のような低レベルの話ではない。それは超法規的措置というものがどれだけ国際的に影響を及ぼすか?それを明確にするためだ。そして核攻撃による一般市民の虐殺は絶対に許されないということを国際的にも共有すべきだからだ。

さて本題に戻り、ここで大きな疑問と問題点がある。何故そこまでしてアメリカは超法規的措置に踏み切った本質とは何なのかということ。普通に考えれば、先ほど述べたように正当化させる理由は全くない。

ここで歴史を考えてみよう。歴史上、この「非戦闘員を虐殺しない」という考えは国際法が成立する以前から存在した。日本でも戦国時代は武士たちは領民を守るためであり、決して領民を虐殺するものではなかった。仮にそのような行為に出た場合、民の信頼は得られない。上杉謙信をはじめ多くの武将は常に「義」を重んじた。欧州でも同様の思想があった。いわゆる騎士道というものだ。そして欧州でも日本でも、領民にとって領主がころころ変わる存在であった。しかし、中国やロシアは違った。特に敵方市民を虐殺することも兵士としては名誉とされた。特に中国では一族、領民を皆殺し、あるいは追放するといったことが多かったという。このあたりが民族の社会感の違いであろう。

ここで欧州と白人についてもっと考えてみる。先の述べたように欧州では騎士道がある。領民をむやみに虐殺することは少なかった。もちろんキリスト教の影響も大きかった。しかし例外がある。それは中世では「魔女狩り」そして近世では「植民地における有色人種に対する行為」だ。魔女狩りでは「魔女は人間ではない」という考えである。だから殺しても良い。そして、植民地時代も白人たちは有色人種を「人間」とは見ていなかった。要するに「非戦闘員は虐殺しない」という論理は人間が対象であり人間とみなさない魔女や有色人種は対象外ということだ。以降、魔女狩りについてはここでは詳しく述べないが、有色人種への差別について焦点をあてる。

まず、それらを正当化させるために大義名分が必要なのである。一応キリスト教の国だから理由なき殺害を許されない。この「一応キリスト教だから」が重要なポイントです。とにかく何か正当化する理由が絶対に必要になるのです。そこで人種差別を正当化するために利用したのが「遺伝学」と「優性学」である。

ナチスドイツはアーリア人を最も優秀な民族としその純血を守ることを是とした。有色人の国である日本との軍事同盟の際には、「アイヌはコーカソイド(白人)であり日本人はその子孫。だから日本人は有色人でも対象外だ」今から考えれば目茶苦茶な論理であった。とにかく何でもこじつけてなければ、正当性を失うのだ。そして、実はアメリカもこの「優性学」を根拠にした人種差別の考え方が根強く存在した。ナチスドイツの日本に対する考えと異なり、アメリカは敵対する日本に対して間違いなく人種偏見を持っていたということだ。日系アメリカ人の強制収容が何よりの代表的な事例である。(後にアメリカ政府はこのことを公式に謝罪している)つまりだ、現アメリカ政権は絶対に否定するだろうが、「原爆投下は人種偏見をもとに実施された」そう考えれば、すべて辻褄が合う。結局、ナチスもアメリカも同じだってわけだ。

それでは、その超法規的処置を正当化するために利用された遺伝学と優性学について次回で深く論じましょう。





善悪二元論
善悪二元論というものがある。最近よくネット上でも議論される機会が増えた。簡単な例でいえば「仮面ライダーは正義の味方、ショッカーは地獄の軍団」(ちょっと古い)「アンパンマンは正義の味方、バイキンマンは悪い奴」といった感じ。でもバイキンマンってちょっと可哀そう。・・・子供でもそうした矛盾に気づくものである。

よく非難されるのが、悪と判断されたものが「何の法的根拠もなく、関連するすべて否定してしまえ・・」という議論。ここであえて「法的根拠」という前提を付けた。例えば「飲酒は二十歳から」これはれっきとした法律だ。国民の健康を考えての規制だが、実際は19歳でもアルコールに健康上対応できる人はいるだろうし、逆に21歳で全くアルコールを受け付けない人もいるだろう。しかしどこかで線引きしなければならない。19歳の飲酒は違法、21歳の飲酒は合法。それが法律というものであり、一般的には正当性がある。従って、一般的な法的対応と善悪二元論とは別次元の問題とするべきだ。

実際に法的根拠なく善悪二元論で議論されることは多い。テレビを見ていると一部の政治家やマスコミも単純な善悪二元論にしたがる。おそらく「解りやすいことが一番重要だ」と思っているのでしょう。小泉元総理の「郵政民営化 賛成か反対か」・・・これも典型的な例です。おそらく「解りやすく」という一種の「やさしさ」を持ちながら結果的に庶民を愚弄する・・・・しかも無意識のうちに。実は「解りやすい」なんてのは本質的な問題ではない。難しい問題はやはり難しいものだ。解りやすく説明したつもりのマスコミは逆に大いなる誤解を発生させ、挙句の果てに「マスゴミは悪である」というネット上での善悪論に陥ってしまう。

ただこの問題はそのような単純な問題だけでなく、もっと根深い問題があるように思えてならない。私はこの問題に関して、少し違ったアプローチで論じたい。

では、いくつかの具体的な例(エピソード)を挙げて考えます。皆さん一緒に考えてみてください。あくまでたとえ話ですので・・・・エピソード自体に突っ込み入れないでくださいね。

エピソード1.鋼材の熱処理品質に対応する品質管理者がいる。

彼は工場で大量生産される鉄製の熱処理されたボルトの品質責任者である。あるとき生産ロット100000個の中に1個重大な不具合品が混入していることが判明した。しかし内部硬度の問題で、外観では解らない。また非破壊試験は不可能。つまり全数検査での選別が不可能である。従って、彼は不具合品流出防止として対象ロット100000個を全数廃棄処分することを決定した。このボルトは非常に重要な構造物に使用されており、この対応によって構造物の事故を未然に防ぎ人命を守った。この判断は重要部品を製造する会社の品質担当としては当然のことである。

エピソード2.大病院に勤務する新人の若い医師がいた。

彼は胃がんの手術を初めて担当することになった。がん細胞はわずかに1mm2未満の面積であった。通常、経験があり技術がある医師であれば、その部分のみ(あるいは胃の1/4以下)を切除することで完治させるのは可能であった。しかし、未だ彼にはそれだけの技量がなく、がん細胞の転移するのをおそれて胃の全摘することとなった。そうした理由は決して患者に伝えることはなかった。ただ手術に対するリスク説明文にサインをさせることに懸命になった。その結果、彼は患者とその家族からクレームを受けることもなく、がん再発(転移)しない手術であったため院長からも高い評価を得た。しかし、その後10年たっても20年たっても彼は本当の意味での名医になることはなかった。

エピソード3.ある国で原子力発電所から放射性物質が広範囲に広がった。

政府の責任者は、安全のために対象区域の住民を全員避難させた。しかし安全基準の科学的根拠は明確ではない。実際には過剰な安全基準の可能性もあるわけだが、ルールはルールなので政府も従うしかなかった。科学者たちも正式に異を唱える者は少ない。科学者としても明確な根拠を持っていないのだから仕方がない。そして避難は長期におよび仮設住宅にてストレスで3000人以上がなくなったとされた。しかし、すべてが関連死かどうかは確定できない。政府としては関連死が今後10000人を超える可能性があるとの一部の専門家の意見をとりいれ現行の安全基準を見直して避難勧告をすべて解除した。あとは個人の判断に委ねられた。当然、世論からは「政府は無責任、個人の判断だなんて」との意見で沸きかえった。その後、50年経過しこの区域で生活する住民に何ら放射能に関する健康被害は確認されず、他の地域と比べてむしろ長寿な地域となった。その後、科学者たちは研究を重ね、重要な科学的事実を発見し、それが後の科学技術、および医療に大きく貢献することとなった。

エピソード4.ある紛争地域に外国の優秀な将校がいた。

紛争地帯は非常に混沌としており、常に軍の居留地とその家族は危険にさらされていた。国際法上、非武装の一般市民を軍が攻撃することは許されない。しかし一般人にまぎれた義勇兵(ゲリラ)が多く潜んでいた。それらを簡単に見分けることはできなかった。あるとき、軍の居留地住民がゲリラに虐殺されたりレイプされることが多発した。将校は躊躇せず、ゲリラを含む住民を皆殺しにした。その対応により軍の居留地の残った家族を危険から守った。しかし、その後に作成された歴史書では将校は極悪非道の人物として描かれることになる。

エピソード5.ある国に極悪非道と呼ばれた王がいた。

その国では呪いの文化を持つ宗教、そして敵対する相手を1000年恨み続ける民族であった。血で血を洗う内紛が続いて国は大いに荒れた。困った王は考えた。先ず、自分に敵対する相手の九族皆殺し、ならびに影響受けた関係者を皆殺しにした。そして国を安定させるため、この宗教を信じる者も皆殺しにした。根こそぎ絶滅すれば悲劇は繰り返さない。そうした王なりの正義感があり、それを実行するのは王しかできないと考えた。その後、国は一時的には安定した。しかしその後、クーデターがあり王とその一族が九族皆殺しの犠牲となった。そして1000年にわたり同じことが繰り返され、他国から呪われた国と呼ばれた。

エピソード6.ある国に救世主(メシア)が現れた。

とある宗教団体の教祖が声を上げた。我こそは救世主である。世界の宗教は統一されなければならない。そうでなければ永遠に争いはなくならない。我らこそ選ばれし民である。悪は完全に滅亡させなければならない。悪を滅亡させるためにはどんな手段でも許される。そう「悪の心と財を支配すれば、われらの夢が必ず叶う」 最後にこの言葉で締めくくろう。「信じるものは救われる。信じないものはすべて地獄へ堕ちる。」

ここで解説

全数廃棄、全摘、全員避難、皆殺し、九族皆殺し、完全滅亡、すべて地獄へ・・・・これらに共通するのが「すべて・・・・する」という発想である。たとえ話(私のフィクション)にしてはリアリティありすぎたか・・・何らかの事実を思い浮かべる方もおられるでしょう。ハーバード大学のサンデル教授ですら、そこまで「究極な選択」の議論はしないでしょう。それがネット議論のいいところです。正義とは何か?ここから重要な解説です。

上記6つのエピソードの論点は以下のポイントである。
1.製品の全数保証はどうあるべきか?(製品品質確保と良品廃棄の善悪)
2.専門家(医者も含む)の能力向上させるには?(確実な医療行為と技能向上の善悪) 
3.人間に役に立つ科学技術進歩はどうあるべきか?(科学技術発展と住民犠牲の善悪)
4.紛争地での安全保障とは何か?(生命を守る行為と危険集団への粛清の善悪) 
5.争いを完全に無くす方法とその犠牲は払うか? (将来の安定と現在の犠牲の善悪)
6.宗教とどう向き合うか?(一神教の維持と悪の抹殺の善悪)

エピソード1以外はすべて人間に関わることである。その本当の意味での善悪判定は難しいであろう。また個人というミクロの次元と社会というマクロの次元では都度対応が大きく異なる。特にマクロ社会の観点では、何らかの犠牲の上に成り立っていることが多い、それは歴史からも学べる。社会学の観点から法律とは別の善悪二元論が使用されるケースもある。代表的なのが宗教である。フランスの思想家トクビルはあの有名な「多数派の専制」というのがあるが、以下の名言に注目する。「道徳の支配なくして自由の支配を打ち立てることは出来ない。信仰なくして道徳に根を張らすことは出来ない」これは社会学として考えさせれる名言だ。

ここでトクビルの言葉を思い出して、もう少し純粋な視点で考えてみよう。よく考えたら、私だって自分の哲学や道徳心で善悪を考えることはある。いや私だけでない、誰だってそうだ。例えば、大人が子供に教えること「人に迷惑掛けてはいけません」「嘘をついてはいけません」「ちゃんと列を乱さず並びましょう」・・・これって法律でも何でもない、トクビルがいうように「道徳」による善悪の判断だ。そうした「道徳」や「信仰心」によって人間の行動が支配され安定した社会が実現する場合が数多くある。

ところが、やっかいなことにこの「道徳」や「信仰心」というものは国や民族によって異なるのだ。だから国際関係で揉めたときは泣こうが喚こうが国際法に従うしかない。つまり「お前の道徳は間違えている」「いや俺の道徳は正しい」なんて国際的に議論したら収拾つかない。国際的に人権問題を議論することがあるが、正しい答えなんて出るはずがない。国によって「道徳」や「信仰心」が違うのだから。例えば、捕鯨が残酷か残酷じゃないかなんて国際的な共通な道徳にすべきではない。結局は法的規制はできず、ただの声明、あるいはスローガンに終わる。仮に、国際的に「道徳」や「信仰心」をグローバル統一しようとすれば、まさしく上記エピソード6の内容になってしまいます。

日本国内ではある程度は「道徳」や「信仰心」を日本人同士で共有することは可能である。まあ時折、「宗教の自由」を持ち出して揉める事例もある。例えば、政治家が神社に公式参拝するのは・・・・とか。町内会の神社仏閣祭りに参加しない人が増えるとか。それでも多くの日本人は基本的な道徳は失っていない。ただ、生活スタイルがこの60年で随分変わったから、特に村の長老は戸惑っているにすぎない。確かに一昔前の日本だと、地域共同しなければ生きていけなかった。井戸も共有したり、薪を分け合ったり。しかし現在では、ほぼ全世帯にガス、水道、電気が普及しており、スーパーや24時間コンビニもある。地域共同体をわざわざ作らなくても十分生きて行ける。また結婚しなくても独身でも生きていける(これが少子化の一つの大きな要因)。むしろ煩わしい町内会活動がなくて喜んでいる若い世帯も多い。すでに今の日本社会では社会安定のためと言って、町内会活動を推進(統制)することはあまり意味がない。もちろん、こういう状況を危惧している高齢者は依然として多い。しかし東日本大震災の被災者を見ても日本人の助け合いの精神は決して失われていない。やはり、大多数の日本国民は基本的な規律やモラルを持っている。災害時の犯罪率の低さ、ゴミの分別、さらに屋外の自動販売機の設置が可能なこと・・・きりがない。そういう意味でも日本は大量移民を受入れることには慎重になるべき。しかしすべて拒否したら、それこそ善悪二元論になってします。

しかし、そういう強力な共同体が必要な国はまだまだある。例えば、貧困に悩む国、犯罪の多い国、自然環境の厳しい国・・・・やはり何かを拠り所にして共同体を作らなければ生きていけない。おそらくそうした国が、強力な宗教国家や共産国家となって統制国家となり社会を強引に安定にさせる・・・と考えるほうが適切だろう。そうなってくると、一般論として何が善で何が悪なんて誰も解らなくなる。日本や欧米諸国の価値観だけで、中国を含め発展途上国の人権なり非民主性を論じることは限界がある。

つまり「善悪二元論」とは、その「社会の安定」という最終目的のための一つの手段だということだ。そして、ここで大きな問題点が浮かび上がる。その「社会の安定」のために許される「超法規的措置」とはどうあるべきか?この議論については次回にじっくり論じます。



プロフィール

小室沢直樹

Author:小室沢直樹
「常に勉強」それがモットーの理系おじさんのブログです。理系おじさんの目から見た現代社会を鋭く論じたい。またこのブログに関する意見があれば賛否両論問わず受け付けます。基本的には現代社会を勉強して共有するのが目的です。

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